包除原理(ほうじょげんり、英: Inclusion-exclusion principle, principle of inclusion and exclusion, Principle of inclusion-exclusion, PIE)あるいは包含と排除の原理とは、数え上げ組合せ論における基本的な結果のひとつ。特別な場合には「有限集合 A と B の和集合に属する元の数を計算するには、まずそれぞれに属する元の数 |A| と |B| を足しあわせた後、それらの共通部分に属する元の数 |A ∩ B| を引き去ればよい」というものである。つまり単に数え上げた後で重複を取り除くことに相当する。
Intersection of sets A and B.svg 以上の2つの有限集合 A, B に対する包除原理は次のように表せる。
{\displaystyle {\begin{aligned}\left|A\cup B\right|=&\left|A\right|+\left|B\right|-\left|A\cap B\right|\\\end{aligned}{\displaystyle {\begin{aligned}\left|A\cup B\right|=&\left|A\right|+\left|B\right|-\left|A\cap B\right|\\\end{aligned} 同様に、3つの有限集合 A, B, C に対する包除原理は次のように表せる。
作曲者による原典版(1867年) 音詩『聖ヨハネ祭前夜の禿山』(露:Иванова ночь на Лысой горе, 英:St. John's Eve on Bald Mountain)は、1866年から1867年にかけて作曲され、1867年6月23日、まさに聖ヨハネ祭の前夜に作曲を完了した[3]。1866年3月にリストの『死の舞踏』を聞いたことがきっかけで作曲されたのかもしれない[4]。リムスキー=コルサコフにあてた手紙には、「魔物たちの集合〜そのおしゃべりとうわさ話〜サタンの行列〜サタンの邪教賛美〜魔女たちの盛大な夜会」という4つの場面が曲想として構成されていると記されている。サバトで終わるところはベルリオーズ『幻想交響曲』の最終楽章と共通する[5]。
絵柄と、法人の名称やロゴタイプを始めとする、それぞれに異なる目的をもって印刷された情報を紙面に施された製品も、数が多いとは言えないまでも、商品史の黎明期から (cf. J C Gayetty N Y ) 変わらず作られ続けている。絵柄には、インダストリアルデザインに適うよう開発されたものもあれば、女性・子供など特定の消費者層に合わせて開発・販売されるものもある。クイズと解答、名言集、ジョーク集などといった濃厚な文字情報を載せた製品も、変わり種と呼べないほどに珍しいものではなくなっている。
1857年12月8日には、アメリカ合衆国の実業家ジョセフ・ガイエティー(英語版)が[8]、"J C Gayetty N Y (J・C・ガイエティー・ニューヨーク)" の名を透かし印刷で紙面に載せた巻き取り型のトイレットペーパーを[8]痔の医療用製品として生産し始め[9]、これがトイレットペーパーとして世界初の工業製品であった[8]。
テリ・J.アンドリューズ(Terri J. Andrews)によると、『悪夢は網目に引っかかったまま夜明けと共に消え去り、良い夢だけが網目から羽を伝わって降りてきて眠っている人のもとに入る』とされる[1]。 また、『良い夢は網目の中央にある穴を通って眠っている人に運ばれてくるが、悪夢は網目に引っかかったまま夜明けと共に消え去る』とも言う[1]。
センプルは、ラッツェルの著書『人類地理学』(Anthropogeographie)に影響を受けライプツィヒ大学に留学、ラッツェルの講義を受講した[30]。その後、1911年に『環境と人間 ― ラッツェルの人類地理学の体系に基づく』(原題:Influences of Geographic Environment: On the Basis of Ratzel's System of Anthropo-Geography)、1913年に『アメリカの歴史とその地理的状況』(American History and Its Geographic Conditions)を執筆した[3]。前者は学問的には厳密ではなかったが環境の文明への影響を平易な文章で記述し、後者はアメリカ合衆国の歴史における過酷な自然への適応と競争による淘汰を正当化したため、一般の読者に受け入れられた[31]。『環境と人間』は「人間は地表の産物である。」という文章から始まり[32]、「ラッツェルの人類地理学の体系に基づく」と銘打っていたことから、ラッツェルを環境決定論者として規定する要因の一つとなったのである[33]。
ハンティントンは、中央アジアや中近東、中央アメリカなど世界中を旅行し、気候が文明に与える影響に関心を持ったことから1915年に『気候と文明』(原題:Civilization and Climate)を著した[26]。センプルの著書同様、学問的厳密性に欠けていたが、過酷な条件下で民族が環境を克服しようとする力が文明を生み出すと説き、支持を集めた[26]。さらに、イギリスの歴史家・アーノルド・J・トインビーは「挑戦と応答」という概念の中に、この説を取り入れた[26]。
マリア・プリマチェンコ(ウクライナ語: Марія Оксентіївна Примаченко, 英語: Maria Prymachenko) , Mariya Oksentiyivna Prymachenko) (1908年12月30日–1997年8月18日)は、ウクライナの素朴派の民族装飾芸術家の代表格。
オーストラリア連邦科学産業研究機構(オーストラリアれんぽうかがくさんぎょうけんきゅうきこう、英: Commonwealth Scientific and Industrial Research Organisation)は、オーストラリア教育科学訓練省所管の研究開発機関。省略してCSIROとよばれることが多い。1916年設立。
強力で持続可能な経済成長、新産業、競争力ある事業と高品質の仕事(strong, sustained economic growth, new industries, competitive enterprises and quality jobs) より健康で生産性あるオーストラリア人の生活(healthier, more productive lives for Australians) クリーンで経済的なエネルギー(clean, cost-efficient energy) より生産的で持続可能な水利用(more productive and sustainable use of water) 海洋からの持続可能な財産(sustainable wealth from our oceans) 地方の成長と繁栄(growth and prosperity for regional Australia) (2)フラッグシップと目標
エネルギー変換(Energy Transformed Flagship:温暖化ガスを半減し、効率を2倍にするエネルギー生産と供給) 食料の将来(Food Futures Flagship:国際競争力と年間30億豪ドルの付加価値) 軽金属(Light Metals Flagship:環境影響を減らしながら輸出倍増と新産業創出) 予防医療(Preventative Health Flagship:健康増進と20億豪ドルの年間医療コスト削減) 健康な国のための水(Water for a Healthy Country Flagship:水からの経済、社会、環境の利益を10倍に) 海洋からの財産(Wealth from Oceans Flagship:海洋システムの理解により経済、社会、環境の富の供給を世界水準に)
Three schematic representations: Earth, Solar System and Milky Way カルダシェフ・スケール 人類文明の現状 全世界一年間の一次エネルギー消費量 Color photo. Man sitting wearing a suit and smiling. 天文学者カール・セーガンによれば人類は現在「カルダシェフスケール・タイプIを統合しようとしている文明の典型」であり、技術的な思春期の段階を経ている。
タイプ0、IV、V文明:スケールの最も直接的かつ仮設的な拡張として、宇宙全体を制御または使用できるタイプⅣ文明と、複数の宇宙の集合を制御できるタイプV文明がある。また、カルダシェフスケールに載らないタイプ0文明も考えられる。可視宇宙の出力は1045Wの数桁以内である。このような文明は現在の科学的知見に基づく推測の限界に近いか、あるいは超越しており、存在不可能かも知れない(フェルミのパラドックス)。 Zoltán Galántaiは、そのような文明は自然の働きと見分けがつかない(他に比較可能なものが無い)ため、検知できないと主張した[17]。 理論物理学者ミチオ・カクは自身の著書で、例えばダークエネルギーのような「超銀河的」なエネルギー源を利用できるタイプⅣ文明を取り上げた[18]。 科学ジャーナリストのジョリーン・クレイトン(英語版)は、タイプⅠに到達していない惑星文明は基本的にはタイプ0文明であると述べており、タイプ0.1は原始時代、タイプ0.2は火の発見程度であると細分している[19]。クレイトンはタイプⅣ文明は一つの銀河系を超えて複数の銀河群や銀河団、或いは超銀河団以上の範囲を支配できるに至った文明であり、宇宙のインフレーションに伴う加速膨張を飛び越えて移動可能となった時点で、事実上観測可能な宇宙全体を支配可能であると見なされる段階であるとしており、タイプⅤ文明は観測可能な宇宙を超えて、多元宇宙へと進出、或いは宇宙その物の創造すら可能となったとされる段階であり、事実上宗教における創造神に等しいとも記述している[20]。 タイプⅣ以上の拡張はサイエンス・フィクションに近いものであり、論者によってその分類は様々である。SF作家のベロニカ・シコエはタイプⅤ文明は多元宇宙へ進出可能となった段階、宇宙の創造が出来る段階はタイプⅥ文明であるとしており[21]、Kurzgesagt - In a Nutshellは複数の銀河への進出から一つの超銀河団を支配するに至る段階をタイプⅣ文明、複数の超銀河団から観測可能な宇宙全体を支配するに至る段階をタイプⅤ文明、多元宇宙の進出から宇宙の創造へ至る段階をタイプΩ文明と分類しているが、人類文明を参考にした動機の均一性(英語版)で、ある地球外文明の技術水準や行動理念の推測が可能であるのは精々複数の恒星系への進出を開始したタイプ2.5文明程度までであるとも述べており、タイプⅢ以上の文明の内容を推測する事は、蟻塚のアリが人類文明を認知するレベルの困難さが伴う為であると結論づけている[22]。
LOFARの目的は、10 - 240MHzの周波数帯において、既存のケンブリッジカタログ、超大型干渉電波望遠鏡群や巨大メートル波電波望遠鏡を用いた観測に比べて高い空間分解能と感度で宇宙を観測することである。LOFARは、さらに次の世代の電波望遠鏡であるスクエア・キロメートル・アレイが完成するまで、この周波数帯では最も感度の高い電波望遠鏡になる。 科学研究 低周波の電波で見ると、空には小さな明るい天体が目立つ。図は、銀経140° to 180°、銀緯-5° to 5°の銀河面。高感度観測によってLOFARはこの明るい天体の間にあると思われる暗い構造を描き出す。
2003年12月には、LOFARの初期試験ステーション (Initial Test Station: ITS) の運用が開始された。これはLOFARの開発にとって重要な出来事であった。 ITSシステムは上下逆さにしたV字型のダイポールアンテナ60台からなっている。それぞれのアンテナでとらえられた信号は低雑音アンプによって増幅され、110メートルの同軸ケーブルを通って受信機ユニット送られる。 フローニンゲン大学計算センターのある'Zernikeborg'ビル, which houses the University of Groningen's computing center
なおシャープのMZ-80のような「クリーン設計」の機種では、システムの自由度を極限まで高めるために、機械語モニタはROMに書き込まれていなかった。本体ROMに書き込まれているのはもっと素朴なIPL(イニシャル・プログラム・ローダー Initial Program Loader)だけで、機械語モニタも補助記憶装置(データレコーダなど)からRAMに読み込まれる方式になっていた[1]。
他の3元素より微細で希薄な元素で、自然な状態では全元素の上に位置する。対極は水。生成や消滅の終焉する先であるため、火には絶対的な軽さが生じる[31]。光と熱と電気は分けて考えることが難しかったため、その3つの象徴的な支えであり、エーテル状流体という実体の観念に対応する。同時に物質を構成する究極的な微粒子の運動という観念にも対応する[3]。熱く乾いた元素で明るさ・軽さ・多孔性という二次性質を与えられる。空気をも浸透する力によって自然界を還流し、冷たく凝り固まった元素を解きほぐし、混ぜ合わせる[31]。その熱で物質の成熟や成長を可能にし、水・土の冷たさと重さの影響を軽減する[32]。錬金術における火の記号Fire symbol (alchemical).svgは、炎が燃え上がり、先で終わっていることを示す。上昇・成長・膨張・侵入・征服・怒り・破壊などを暗示し、女性的な特徴を持つ水に対し、男性的な激しい気質を象徴する[33]。 空気(風)
揮発性の象徴であり支えである[3]。対極は土。自然な状態では火の下・水の上に位置し[31]、比較的軽い元素である。基本性質は熱・湿で、物質に多孔性・軽さ・希薄さといった二次性質を与え、上昇できるようにする[32]。錬金術における空気の記号Air symbol (alchemical).svgは火を止めたり中断させることを示す。どこまでも上昇する火に対し、気は一定以上上昇することはなく火の力を和らげる[33]。また空気は液化することによって水分を生じさせる。 水
流動性の象徴であり支えである[3]。対極は火。比較的重い元素で、自然な状態では空気によって含まれ、土を含む位置である[31]。基本性質は冷・湿。水の存在意義は物質の形を扱いやすい物にすることであり、湿の性質によって柔らかく形を変えられるという二次性質を物質に与える。土の元素のように物質の形を維持するわけではないが[31]、湿気を保つことで物質が砕けたり散逸することを防ぐ[32]。空気に生じられる存在であり、空気が液化することによって水分となる。上昇する火に対し、水は下の方に流れて隙間を埋め、火が膨張させた物を縮小させる求心的・生産的な元素である。錬金術における水の記号Water symbol (alchemical).svg は子宮の典型的表示であり、火の記号Fire symbol (alchemical).svgと重なって大宇宙を象徴する六芒星をなる[33]。 土
固体的状態の象徴であり支えである[3]。対極は空気。絶対的な重さを持つ元素で、自然な状態では全元素の中心に位置する[31]。本来の状態では静止しているため、この元素が優勢な物質は動かなくなり、離れてもそこへ戻ろうとする性質がある[31]。物質を硬く安定的で持続する物にし、外形を維持し、保護する。基本性質は冷・乾で、二次的な性質は密・重・硬など[32]。錬金術における土の記号Earth symbol (alchemical).svgは水の落下を止めたり中断させて流動性を失わせることを示す[33]。 対応関係 17世紀の錬金術の本より、錬金術のシンボル。 錬金術師・医師・作家だったDaniel Stolz von Stolzenberg (1600年 - 1660年)の著書Viridarium chymicum (1624年) より。下の球体には、錬金術における四元素説のシンボルが描かれている。 「元素#中世の元素観」も参照
元来、旧暦7月7日の夜のことで、日本ではお盆(旧暦7月15日前後)との関連がある年中行事であったが、明治改暦(日本におけるグレゴリオ暦導入)以降、お盆が新暦月遅れの8月15日前後を主に行われるようになったため関連性が薄れた。
日本の七夕祭りは、新暦7月7日や、その前後の時期に開催されている。
歴史
日本の「たなばた」は、元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わった[1]。牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある[2]。
日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲節会[3])、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた[4]。その後、平城天皇が7月7日に亡くなると、826年(天長3年)相撲御覧が別の日に移され[5]、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった[4]。
乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん[6]、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い[7]、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた[8]。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女性が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。
明治6年(1873年)1月4日、太政官布告第一号で神武天皇即位日と天長節の両日が祝日として定められると共に、徳川幕府が定めた七夕を含む「五節句」の式日が、次の通り廃止された[9]。
一 太政官 第一號(一月四日)(布) 今般改暦ニ付人日上巳端午七夕重陽ノ五節ヲ廢シ 神武天皇即位日天長節ノ兩日ヲ以自今祝日ト被定候事
— 『法令全書 明治6年』より抜粋
風習
明治6年五節句の廃止以前
七夕は、旧暦の七月七日に行われた。その日は、月齢およそ6の、船のような形の月が南西の夜空に浮かんだ[10]。
七夕飾りは、現代のように軒下に飾るのではなく、色紙短冊等を付けた葉竹を屋上にたてていたことが、次の通り、明治政府発行の百科事典『古事類苑』に概説されている[11]。
七月七日ハ、古來其夜ヲ賞シ、是ヲ七夕ト云フ、七夕ハ古ハ、ナヌカノヨト呼ビシガ、後ニタナバタト云フ、棚機(タナバタ)ツ女ノ省言ニテ、織女ヲ云フナリ、支那ノ俗説ニ云フ、此夜牽牛織女ノ二星相遇フ、巧ヲ之ニ乞ヘバ、其願ヲ得ト、故ニ我朝廷ニ於テモ、乞巧奠ノ設アリテ、織女祭トモ稱ス、後世民間ニテハ、葉竹ヲ屋上ニ樹テ、色紙短册等ヲ附スルヲ例トス、亦乞巧奠ノ遺意ナリ、
— 『古事類苑』歳時部七月七日より抜粋
その『古事類苑』の出典は、『東都歳事記』三の七月に記された「六日 今朝未明より、毎家屋上に短册竹を立る事繁く」や、『守貞漫稿』二十七に記れた「兒アル家モ、ナキ屋モ、貧富大小ノ差別ナク、毎戸必ラズ青竹ニ短册色紙ヲ付テ、高ク屋上ニ建ルコト、」から引かれている。 また、次の通り、七遊と呼ばれる七種類の遊びを楽しんだ[12]。
七月七日七遊といふ事、ふるくは物にみえざれども、此事のはじまれるは、南北両朝の頃よりや初りけん、基証は七月にもなりぬ雲々、七日は七百首の詩、七百首の歌、七調子の管弦、七十韻の連句、七十韻の連歌、七百の数のまり、七献の御酒なりと〈おもひのままの日記〉みえたり、
— 『古事類苑』歳時部七月七日–七遊『古今要覧稿』より抜粋
現代
ほとんどの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。
全国的には、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われている。短冊などを笹に飾る風習は、夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもので、日本以外では見られない[13]。
「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいう。中国では五色の短冊ではなく、五色の糸をつるす。さらに、上記乞巧奠は技芸の上達を祈る祭であるために、短冊に書いてご利益のある願い事は芸事であるとされる。また、お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の施餓鬼幡からも短冊は影響を強く受けている。
サトイモの葉の露で墨をすると習字が上達するといい、7枚のカジ(梶)の葉に歌を書いてたむける。俊成の歌に「たなばたのとわたるふねの梶の葉にいくあきかきつ露のたまづさ」とある。
このようにして作られた笹を7月6日に飾り、さらに海岸地域では翌7日未明に海に流すことが一般的な風習である。しかし、近年では飾り付けにプラスチック製の物を使用することがあり海に流すことは少なくなった。地区によっては川を跨ぐ橋の上に飾り付けを行っているところもある。
地域によっては半夏生のように農作業で疲労した体を休めるため休日とする風習が伝承[14]していたり、雨乞いや虫送りの行事と融合したものが見られる。そのほか、北海道では七夕の日に「ローソクもらい(ローソク出せ)」という子供たちの行事が行われたり、仙台などでは七夕の日にそうめんを食べる習慣がある。この理由については、中国の故事に由来する説のほか、麺を糸に見立て、織姫のように機織・裁縫が上手くなることを願うという説がある。
富山県黒部市東布施地区の尾山では、2004年(平成16年)7月16日に富山県の無形民俗文化財に指定、2018年(平成30年)3月8日国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)に選択された七夕流しが、毎年8月7日に行われる。子供達が満艦舟や行燈を作り、和紙で人型人形である「姉さま人形」を折る。夕刻から姉さま人形を板にくくり付け、笛や太鼓のお囃子とともに地区内を引き回し、午後9時になると両岸に七夕飾りを立てた幅約1mの泉川に入り、満艦舟や行燈、姉さま人形を流すものであり、江戸時代より続けられている[15][16]。
沖縄では、旧暦で行われ、盂蘭盆会の一環として位置づけられている。墓を掃除し、先祖に盂蘭盆会が近付いたことを報告する。また往時は洗骨をこの日に行った[17]。
他方、商店街などのイベントとしての「七夕まつり」は、一般的に昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されており、上記のような夜間の風習や神事などをあまり重視していないことが多い(顕著な例としては、短冊を記入させて笹飾りにつけるような催しが、7日夜になっても行われていたりする)。
イベントとしての「七夕まつり」については後記の項を参照。
時期
日本では、旧暦(天保暦、和暦)の7月7日(行事によっては7月6日の夜)に行われ、お盆(旧暦7月15日)に入る前の前盆行事として行う意味合いが強かった。明治6年(1873年)の改暦後は、従来通り旧暦7月7日に行う地域、グレゴリオ暦(新暦)の7月7日に行う地域、月遅れの8月7日に行う地域に分かれ、特に新暦開催ではお盆との関連が薄れた。なお、旧暦では7月の翌月に閏7月をおく年もあるが、閏月に年中行事は行わないので、閏7月7日は旧七夕ではない[注釈 1]。
グレゴリオ暦の7月7日は夏だが、旧暦の7月7日はほとんど立秋以降であるので、古来の七夕は秋の季語である。
風俗
現代の日本では、人々は一般的にこの日を祝うために、詩の形で短冊に願い事を書き、それを竹に掛けたり、他の装飾を付けたりする。竹や飾りは、多くの場合、祭りの後、真夜中または翌日に川に流されたり、燃やされたりする。これは、お盆に紙船や蝋燭を川に流す風習に似ている。日本の多くの地域には独自の七夕の習慣があり、主に地元のお盆の伝統に関連している。伝統的な七夕の歌もある。
平仮名[18] 漢字表記[18]
ささのは さらさら
のきばに ゆれる
おほしさま きらきら
きんぎん すなご
ごしきの たんざく
わたしが かいた
おほしさま きらきら
そらから みてる
笹の葉 さらさら
軒端に 揺れる
お星様 きらきら
金銀 砂子
五色の 短冊
私が 書いた
お星様 きらきら
空から 見てる
祭り
1687年(貞享4年)刊行の藤田理兵衛の『江戸鹿子』(えどかのこ)には、「七夕祭、江戸中子供、短冊七夕ニ奉ル」とある。その他、喜多川守貞の『守貞謾稿』にも、「七月七日、今夜を七夕という、今世、大坂ニテハ、…太鼓など打ちて終日遊ぶこと也。江戸ニテハ、…青竹ニ短冊色紙ヲ付ケ、高ク屋上ニ建ルコト。」とあり、江戸時代中期には既に江戸で七夕祭りが始まっており、江戸時代末期には大坂でも盛んになっている様子が窺える。その他、喜多村筠庭の『喜遊笑覧』には「江戸にて近ごろ文政十二年の頃より」、『諸事留』には「天保十二年六月、例年七月七夕祭と唱」、斎藤月岑の『東都歳時記』には「七月六日、今朝未明より」、屋代弘賢の『古今要覧稿』には「たなばた祭、延喜式、七月七日織女祭と見えたるを初とせり」とある。
現代の「七夕祭り」は、神事との関わりも薄れ、もっぱら、観光客や地元商店街等への集客を目当てとしたものとなっている。神輿や山車などを繰り出す祭りと異なり、前日までに、笹飾りをはじめとした七夕飾りの設置を終えれば当日は人的な駆り出しも少なく、また商店前の通行規制も少ないため、商店街の機能を低下させることなく買物客を集められるという点で、商店街との親和性が高く、戦後の復興期以降、商業イベントとして東日本を中心に日本各地で開催されてきた。多くは昼間のイベントと、夕方から夜にかけての花火という組み合わせが殆どで、伝統的あるいは神事としての七夕の風習に頓着せず行われている事が多い。
また、青森の「ねぶた」や「ねぷた」、秋田の「竿燈」などの「眠り流し行事」も七夕祭りが原型である。
大規模な七夕祭りが各地で開催され、主にショッピングモールや通りに沿って、大きな色とりどりの吹流しが飾られる。最も有名な七夕まつりは、8月6日から8日まで仙台市で開催される。関東地方では、神奈川県平塚市(7月7日頃)と東京・阿佐谷で、8月中旬のお盆休みの直前に最大級の七夕まつりが開催される。ブラジルのサンパウロでは7月の第1週末頃、カリフォルニア州のロサンゼルスでは8月の初めに七夕まつりが開催される。
七夕まつりは地域によって異なるが、ほとんどのお祭りでは七夕飾り大会が行われる。その他のイベントには、パレードやミス七夕コンテストなどがある。他の日本の祭りと同様に、多くの屋台が食べ物を売ったり、謝肉祭ゲームを提供したりして、お祭りの雰囲気を盛り上げる。
東京ディズニーランドと東京ディズニーシーでは、ミニーマウスが織姫に、ミッキーマウスが彦星に扮したグリーティングパレードを特徴とする七夕まつりを祝うことがよくある。
主なもの
全国地方公共団体コード順に記載。
観客を集める祭りのメイン行事が、七夕飾り、山車行列、七夕おどり(七夕パレード)、野外コンサート、花火大会、火祭りなど、各祭りによって違いがある。
水戸黄門まつりや桐生八木節まつりなど、七夕祭りが他の祭りに併呑された例も記載。
名称 開催地 時期 観客数 備考
八戸七夕まつり 青森県八戸市 7月 海の日までの金・土・日・月 37万人/4日間(2007年)[19]
盛岡七夕まつり 岩手県盛岡市 8月4日・5日・6日・7日 18万人/4日間(2008年)[20]
うごく七夕まつり 岩手県陸前高田市 8月7日
けんか七夕まつり 岩手県陸前高田市気仙町 8月7日
仙台七夕まつり 宮城県仙台市 8月6日・7日・8日 206万人/3日間(2013年)[21]
能代役七夕(能代ねぶながし) 秋田県能代市 8月6日・7日 能代市選択 記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財
七夕絵どうろうまつり 秋田県湯沢市 8月5日・6日・7日 17万人/3日間(2013年)[22]
平七夕まつり 福島県いわき市平 8月6日・7日・8日 43万人/3日間(2010年)[23]
水戸黄門まつり 茨城県水戸市 8月 第1金・土・日
土浦キララまつり 茨城県土浦市 8月 第1土・日
前橋七夕まつり 群馬県前橋市 7月 第1月の3日後から4日間 35万人/4日間(2012年)[24]
桐生八木節まつり 群馬県桐生市 8月 第1金・土・日 53万人/3日間(2016年)[25]
入間川七夕まつり 埼玉県狭山市 8月 第1土・日 43万人/2日間(2001年)[26]
深谷七夕まつり 埼玉県深谷市 7月 上旬の金・土・日
上福岡七夕まつり 埼玉県ふじみ野市上福岡 8月 第1土・日 17万人/2日間(2013年)[27]
小川町七夕まつり 埼玉県小川町 7月 最終土・日
茂原七夕まつり 千葉県茂原市 7月 最終金・土・日 84万人/3日間(2008年)[28]
阿佐谷七夕まつり 東京都杉並区阿佐谷 8月7日と土曜を含む5日間 70万人/5日間(2011年)[29]
福生七夕まつり 東京都福生市 8月 第1木・金・土・日 40万人/4日間(2013年)[30]
下町七夕まつり 東京都台東区 7月 初旬の数日間 40万人/6日間(2017年)[31]
橋本七夕まつり 神奈川県相模原市緑区 8月 第1金・土・日 34万人/3日間(2016年)[32]
湘南ひらつか七夕まつり 神奈川県平塚市 7月 第1金・土・日 155万人/3日間(2016年)[33]
慶應義塾大学SFC七夕祭 神奈川県藤沢市 7月 第1土
古町七夕まつり 新潟県新潟市中央区古町 7月 上旬の9日間
越後村上七夕祭 新潟県村上市 8月16日・17日
戸出七夕まつり 富山県高岡市戸出町 7月3日・4日・5日・6日・7日
舟見七夕まつり 富山県入善町舟見 7月6日・7日
高岡七夕まつり 富山県高岡市 8月1日~7日 15万人/7日間(2013年)[34]
尾山の七夕流し 富山県黒部市東布施地区尾山 8月7日 国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)・富山県指定無形民俗文化財
宝立七夕キリコ祭り 石川県珠洲市宝立町 8月7日 キリコ祭りの一つとして、国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財及び、日本遺産「灯り舞う半島 能登 ~熱狂のキリコ祭り~」の内の一つ。
水都まつり 岐阜県大垣市 8月 第1木・金・土・日
清水七夕まつり 静岡県静岡市清水区 7月 第1水・木・金・土 60万人/4日間(2017年)[35]
円頓寺七夕まつり 愛知県名古屋市 7月 最終水より5日間
一宮七夕まつり 愛知県一宮市 7月 最終日曜の木・金・土・日 118万人/4日間(2017年)[36]
安城七夕まつり 愛知県安城市 8月 第1金・土・日 125万人/3日間(2013年)[37]
松阪七夕まつり 三重県松阪市 8月 第1土
機物神社七夕まつり 大阪府交野市 7月6日・7日
山口七夕ちょうちんまつり 山口県山口市 8月6日・7日 21万人/2日間(2011年)[38]
七夕バルーンリリース 徳島県徳島市 7月7日7時7分7秒
三木町いけのべ七夕まつり 香川県三木町 8月 第1土・日
七夕神社夏祭り 福岡県小郡市 7月7日、8月5日~8日
大分七夕まつり 大分県大分市 8月 第1金・土・日 39万人/3日間(2013年)[39]
盛岡七夕まつり
盛岡七夕まつり
能代役七夕
能代役七夕
仙台七夕まつり
仙台七夕まつり
平七夕まつり
平七夕まつり
阿佐谷七夕まつり
阿佐谷七夕まつり
福生七夕まつり
福生七夕まつり
湘南ひらつか七夕まつり
湘南ひらつか七夕まつり
戸出七夕まつり
戸出七夕まつり
全国七夕サミット
七夕に関連したイベントを開いている自治体の代表が集まって情報交換し、課題などを討議する会。商業的七夕祭りの他に、伝統的七夕の習慣がある都市も参加している。開催都市は以下の通り。
第1回:1996年8月 宮城県仙台市
第2回:1997年7月 愛知県一宮市
第3回:1998年8月 富山県高岡市
第4回:2000年7月 神奈川県平塚市
第5回:2001年 石川県根上町(現能美市)
第6回:2003年8月 愛知県安城市
第7回:2004年7月 千葉県茂原市
第8回:2005年7月 愛知県一宮市
第9回:2006年8月 富山県高岡市
第10回:2007年7月 大阪府枚方市・交野市
第11回:2010年7月 神奈川県平塚市
第12回:2011年7月 群馬県前橋市
五節句が廃止される前の七夕の再現
2009年(平成21年)、第55回茂原七夕まつりにおいて、明治以降初めて、太政官布告第一号によって五節句が廃止される前の七夕が再現された。その再現された内容は、七夕七遊(『古事類苑』−「古今要覧稿」−時令)にちなんで、性が作曲しジョン・海山・ネプチューン等が実演した「七調子管弦」と七拍子の郢曲、七十首の川柳と俳句、先着70名のビンゴ大会、飲料7本購入で景品、7チーム対抗クイズ他、計7種であった[40]。
日付
元の七夕の日付は、グレゴリオ暦より約 1 か月遅れている日本の太陰太陽暦に基づいていた。その結果、いくつかの祭りは7月7日に開催され、一部は8月7日前後の数日間に開催され(「一ヶ月遅れ」の方法による)、残りは依然として7月7日に開催される。通常、グレゴリオ暦の 8 月に当たる旧暦の旧暦。
今後数年間の「日本の太陰太陽暦の旧暦7月7日」のグレゴリオ暦の日付は次のとおりである。
2018年:8月17日
2019年:8月7日
2020年:8月25日
2021年:8月14日
2022年:8月4日
2023年:8月22日
2024年:8月10日
2025年:8月29日
2026年:8月19日
関連作品
音楽
「五色の糸」(長唄、作曲:初代杵屋勝三郎)
「たなばたさま」(童謡、作詞:権藤花代・林柳波、作曲:下総皖一)
「March Tanabata」(吹奏楽、作曲:團伊玖磨、上記「たなばたさま」をトリオにて引用)
「たなばたさま」(歌:Pinkish、ROCKバージョン、アルバム『PS.童謡のふる里から』収録、上記下総皖一作曲「たなばたさま」とダンス・ミュージックのマッシュアップ、補詩:Pinkish)
「たなばたさま」(歌:Pinkish、POPバージョン、シングル「ゆめみるいちご」収録、上記下総皖一作曲「たなばたさま」とダンス・ミュージックのマッシュアップ、補詩:安藤貴子)
「THE SEVENTH NIGHT OF JULY ~TANABATA~」(吹奏楽、作曲:酒井格)
「七夕」(「ピアノ組曲」第2楽章、作曲:伊福部昭)
「オーボエとハープと管弦楽のための二重協奏曲」(作曲:尹伊桑)オーボエを牽牛、ハープを織女に見立て、朝鮮半島情勢を暗示させている。
「七夕」 THE CRANE FLY
「白いとび羽根」(歌:Naomile ミシュカ名義、作詞・作曲:木田俊介、アーケードゲーム『pop'n music』に収録)
「milky way」(歌:L'Arc〜en〜Ciel、作詞・作曲:testu、TBS系番組『ワンダフル』テーマソング)
「涙がキラリ☆」(歌:スピッツ、作詞・作曲:草野正宗)
「かささぎ」(歌・作詞・作曲:さだまさし、NHKスペシャルドラマ『海峡』主題歌)
「七月七日」(歌・作曲:Kagrra、作詞:一志)
「平成十七年七月七日」(歌:アリス九號.)
「7月7日、晴れ」(歌:DREAMS COME TRUE、作詞:吉田美和・作曲:中村正人)
七調子の管弦:「東から逢来(平調・黄鐘調・盤渉調)」、「うちへ帰ろう(壱越調・双調・太食調)」、「泣かないで(性調)」(作曲:性、尺八:ジョン・海山・ネプチューン他)
「七夕の短い夜」(歌:absorb)
「7月7日」(歌:スターダストレビュー、作詞:康珍化、作曲:根本要)
「七夕祭り」(歌:テゴマス、Tegomass)
「空飛ぶ夏彦さん」(歌:ウエマツノビヨと犬耳家の一族、作詞・作曲:植松伸夫)
「七夕の夜、君に逢いたい」(歌:Chappie、作詞:松本隆 作曲:細野晴臣)
「-OZONE-」(歌:vistlip、テレビアニメ『遊☆戯☆王5D's』エンディングテーマ)
「5cmの向こう岸」(歌・作詞・作曲:松任谷由実、アルバム『時のないホテル』収録)
「Weaver of Love−ORIHIME-」(歌・作詞・作曲:松任谷由実、アルバム『KATHMANDU』収録)
「7月7日」(歌・作詞:水樹奈々、作曲:上松美香、アルバム『IMPACT EXCITER』収録)
「織姫」(歌:ヴィドール)
「ベガ」(歌・作詞:桑田佳祐)
「たなばた」(歌:裕木奈江、作詞・作曲:村下孝蔵、編曲:萩田光男、アルバム『森の時間』収録)
映像作品
映画『薄れゆく記憶のなかで』(1992年)
映画『7月7日、晴れ』(1996年、フジテレビジョン)
デジタルコミック『七夕委員』(今日マチ子)
映画『劇場版ポケットモンスター アドバンスジェネレーション 七夜の願い星 ジラーチ』(2003年、2022年)
映画『チルソクの夏』(2004年)
映画『ベスト・キッド』(2010年)
映画『1秒先の彼女』(2020年)
漫画
『七夕の国』(岩明均)古い七夕の風習が根強く残る土地と、その土地に深く関わる超能力の謎を描いた伝奇漫画
文学
「鵲の渡せる橋におく霜のしろきを見れば夜ぞ更けにける」大伴家持の和歌。『新古今和歌集』『小倉百人一首』収載。
「催涙雨」山田詠美著『タイニーストーリーズ』文藝春秋刊 収録
「鳥姫伝」バリー・ヒューガート著 ハヤカワ文庫FT刊
「笹の葉ラプソディ」谷川流著『涼宮ハルヒの退屈』角川スニーカー文庫 収録
関連項目
七夕
七夕ミュージアム
日本の祭一覧
参考文献
^ 字通,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,デジタル大辞泉,[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクション,とっさの日本語便利帳,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典 第2版,普及版. “七夕(たなばた)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2023年7月7日閲覧。
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^ 山中裕「相撲節」『国史大辞典』
^ 中村義雄「乞巧奠」『国史大辞典』
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^ 山中裕「乞巧奠」『日本第百科全書』
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^ 倉石忠彦「民間伝承の分布から見た内陸文化の性格」 (信州大学人文学部 『内陸文化研究』 1号、2001年) 61-79 ISSN [https://www.worldcat.org/search?fq=x0:jrnl&q=n2:1346-4108 1346-4108
^ 『とやま祭ガイド』(北日本新聞社、2004年3月31日発行)76P ISBN 4-906678-87-4
^ 『てくてく風土記 黒部市東布施地区 4 尾山の七夕流し』北日本新聞 2022年7月4日12面
^ 沖縄の暮らしと行事の事~旧暦を知る~
^ a b たなばたさま
^ 七夕まつりに37万人の人出/企業協賛で七夕飾り豪華に(八戸商工ニュース 2007年8月5日号)
^ 盛岡商工会議所ニュース第599号(盛岡商工会議所 2009年07月発行)
^ 復興支援目的、平日でも集客増 東北三大祭り閉幕(河北新報 2013年8月9日) … 仙台七夕花火祭(約50万人)や夕涼みコンサート(約30万人)などの人出を含まない値。
^ 秋田県内の主な夏祭りの動向について (PDF) (日本銀行秋田支店 2013年9月17日)
^ 平成22年「いわき夏まつり」入り込みについて(いわき市 2010年9月1日) … 平七夕の期間中に開催される「いわきおどり」の8万人を含む値。
^ 夏祭りの人出回復し322万人(上毛新聞 2012年9月5日)
^ 桐生八木節まつり閉幕、人出は延べ53万5000人(桐生タイムス 2016年8月8日)
^ 狭山市広報・お知らせ版 VOL.362 (PDF) (狭山市 2001年8月25日)
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^ 事業評価シート【継続事業用】 茂原七夕まつり事業 (PDF) (茂原市)
^ 平成24年度 杉並区事務事業評価表 (PDF) (杉並区)
^ 平成25年8月定例記者会見(福生市)
^ WATCH
^ 第65回橋本七夕まつり結果概要 (PDF) (相模原市 2016年8月8日)
^ 第66回湘南ひらつか七夕まつり閉幕のご挨拶 3日間で155万人が来場(湘南ひらつか七夕まつり実行委員会 2016年7月13日)
^ 来場者14万7千人 今年の高岡七夕まつり(北國新聞 2013年10月29日)
^ 清水七夕まつり終了報告(清水七夕まつり実行委員会 2017年7月12日)
^ 「I LOVE いちのみや(10分)」 8月21日~27日放映分(一宮市 2017年8月21日)
^ 多くの方のご来場、ありがとうございました(安城七夕まつり協賛会)
^ 山口七夕ちょうちんまつり、土日開催に(山口新聞 2012年1月14日)
^ 大分市民の元気を改めて認識した3日間でした(大分市 2013年8月5日)
^ 邦楽ジャーナル『廃絶した七夕音楽を現代に 茂原七夕まつりで七調子の管弦』2009年07月01日
外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、七夕 (日本)に関連するカテゴリがあります。
一般社団法人七夕協会. “公式ホームページ(2016年7月7日設立)”. 2017年7月7日閲覧。
伝統的七夕ライトダウン2011推進委員会. “伝統的七夕ライトダウン2011キャンペーン”. 2011年7月25日閲覧。
世界天文年2009日本委員会. “七夕に星を見よう”. 2012年11月28日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年7月25日閲覧。
AstroArts. “【特集】七夕”. 2011年7月25日閲覧。
参考資料:早稲田大学 古典籍データベース(JAPANESE & CHINESE CLASSICS) 江家次第 第8巻 7月条「乞巧奠」 各伝本(聞書、抄本含む)5種類がPDFファイル、HTMLファイルとして閲覧、ダウンロードできる。
伝統的七夕とその関連行事について
『七夕』 - コトバンク
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Intersection of sets A and B.svg
以上の2つの有限集合 A, B に対する包除原理は次のように表せる。
{\displaystyle {\begin{aligned}\left|A\cup B\right|=&\left|A\right|+\left|B\right|-\left|A\cap B\right|\\\end{aligned}{\displaystyle {\begin{aligned}\left|A\cup B\right|=&\left|A\right|+\left|B\right|-\left|A\cap B\right|\\\end{aligned}
同様に、3つの有限集合 A, B, C に対する包除原理は次のように表せる。
{\displaystyle {\begin{aligned}\left|A\cup B\cup C\right|=&\left|A\right|+\left|B\right|+\left|C\right|\\&\quad -\left|A\cap B\right|-\left|B\cap C\right|-\left|C\cap A\right|\\&\qquad +\left|A\cap B\cap C\right|\end{aligned}{\begin{aligned}\left|A\cup B\cup C\right|=&\left|A\right|+\left|B\right|+\left|C\right|\\&\quad -\left|A\cap B\right|-\left|B\cap C\right|-\left|C\cap A\right|\\&\qquad +\left|A\cap B\cap C\right|\end{aligned}
3つの集合について包除を図示
一般に、 n 個の有限集合 A1, ..., An が与えられたとき、その和集合に属する元の数は
{\displaystyle {\begin{aligned}\left\vert \bigcup _{i=1}^{n}A_{i}\right\vert &=\sum _{k=1}^{n}(-1)^{k-1}\!\sum _{J\subseteq [n],\ \vert J\vert =k}\left\vert \bigcap _{j\in J}A_{j}\right\vert \\&=\sum _{i}\left|A_{i}\right|-\sum _{i<j}\left|A_{i}\cap A_{j}\right|+\cdots +(-1)^{n-1}\left|A_{1}\cap \cdots \cap A_{n}\right|\end{aligned}{\displaystyle {\begin{aligned}\left\vert \bigcup _{i=1}^{n}A_{i}\right\vert &=\sum _{k=1}^{n}(-1)^{k-1}\!\sum _{J\subseteq [n],\ \vert J\vert =k}\left\vert \bigcap _{j\in J}A_{j}\right\vert \\&=\sum _{i}\left|A_{i}\right|-\sum _{i<j}\left|A_{i}\cap A_{j}\right|+\cdots +(-1)^{n-1}\left|A_{1}\cap \cdots \cap A_{n}\right|\end{aligned}
と表せる[1][2]。ただし、ここで [n] = {1, 2, …, n} とした。
この原理の名称は、あらゆるものを「含め」、その後で「取り除いて」補正をするという考え方に基づいていることからきている。n > 2 のとき、共通部分の補正項を計算するのが非常に困難になることもある。また、公式には符号が交互にあらわれる。
この公式はアブラーム・ド・モアブルによるものと考えられているが、ジェームス・ジョセフ・シルベスターまたはアンリ・ポアンカレによるとも言われる。
証明
包除原理を一般に証明するため、X を A1, ..., An の上位集合とする。公式はまず恒等式
{\displaystyle 1_{\bigcup A_{i}=\sum _{i}1_{A_{i}-\sum _{i<j}1_{A_{i}\cap A_{j}+\cdots +(-1)^{n-1}1_{\bigcap A_{i}{\displaystyle 1_{\bigcup A_{i}=\sum _{i}1_{A_{i}-\sum _{i<j}1_{A_{i}\cap A_{j}+\cdots +(-1)^{n-1}1_{\bigcap A_{i}
を指示関数の変形でもとめ、全ての x ∈ X について足しあわせることで示される。
その他の形
この原理は時に以下のような形で表される[3]。有限集合 S のべき集合 2S 上で定義された関数 f, g が
{\displaystyle g(A)=\sum _{B\subseteq A}f(B)}{\displaystyle g(A)=\sum _{B\subseteq A}f(B)}
を満たすならば、
{\displaystyle f(A)=\sum _{B\subseteq A}(-1)^{\left|A\setminus B\right|}g(B).}{\displaystyle f(A)=\sum _{B\subseteq A}(-1)^{\left|A\setminus B\right|}g(B).}
この形は半順序集合 2S の隣接代数におけるメビウスの反転公式となる。
また、包除原理は確率においても以下のように用いられる。
{\displaystyle \Pr \left(\bigcup _{i}A_{i}\right)=\sum _{i}\Pr \left(A_{i}\right)-\sum _{i<j}\Pr \left(A_{i}\cap A_{j}\right)+\cdots +(-1)^{n-1}\Pr \left(\bigcap _{i}A_{i}\right)}{\displaystyle \Pr \left(\bigcup _{i}A_{i}\right)=\sum _{i}\Pr \left(A_{i}\right)-\sum _{i<j}\Pr \left(A_{i}\cap A_{j}\right)+\cdots +(-1)^{n-1}\Pr \left(\bigcap _{i}A_{i}\right)}
ボンフェローニの不等式によれば、この公式の始めの k 項の和は左辺の上界と下界を交互にとる[4]:
{\displaystyle {\begin{aligned}\Pr \left(\bigcup _{i}A_{i}\right)&\leq \sum _{i}\Pr \left(A_{i}\right),\\\Pr \left(\bigcup _{i}A_{i}\right)&\geq \sum _{i}\Pr \left(A_{i}\right)-\sum _{i<j}\Pr \left(A_{i}\cap A_{j}\right),\\\Pr \left(\bigcup _{i}A_{i}\right)&\leq \sum _{i}\Pr \left(A_{i}\right)-\sum _{i<j}\Pr \left(A_{i}\cap A_{j}\right)+\sum _{i<j<k}\Pr \left(A_{i}\cap A_{j}\cap A_{k}\right),\\&\vdots \end{aligned}{\displaystyle {\begin{aligned}\Pr \left(\bigcup _{i}A_{i}\right)&\leq \sum _{i}\Pr \left(A_{i}\right),\\\Pr \left(\bigcup _{i}A_{i}\right)&\geq \sum _{i}\Pr \left(A_{i}\right)-\sum _{i<j}\Pr \left(A_{i}\cap A_{j}\right),\\\Pr \left(\bigcup _{i}A_{i}\right)&\leq \sum _{i}\Pr \left(A_{i}\right)-\sum _{i<j}\Pr \left(A_{i}\cap A_{j}\right)+\sum _{i<j<k}\Pr \left(A_{i}\cap A_{j}\cap A_{k}\right),\\&\vdots \end{aligned}
このことは公式全体が扱いにくい場合に利用される。
応用
おそらく、包除原理のもっともよく知られている応用は、組み合わせ問題における有限集合の攪乱(derangement)に対するものであろう。集合Aの攪乱とはAから自分自身への全単射であって不動点を持たないもののことである。包除原理によって、Aの基数(要素数)をnとしたときの攪乱の数が
{\displaystyle \left[{\frac {n!}{e}\right]}\left[{\frac {n!}{e}\right]
となることを示せる。ここで[x]はもっとも近い整数をあたえる関数(nearest integer function)を表す。
これはnのsubfactorialとしても知られ、{\displaystyle !n}!nと表す。 これはまた、全ての全単射に等しい確率が与えられた場合、無作為に選ばれた全単射が攪乱となっている確率がnの増加に従い、1/e に素早く近づくことを示している。
この原理によって理論的な公式を求める場合(特にエラトステネスの篩を用いる素数の数え上げ)、誤差評価が困難であるため有効な公式が得られないことが多い。これは、各項が個別には正確に求められてもそれらの相殺の様子を一般的に定式化することが難しい上に、和の項数が非常に多くなってしまうためである。数論において、ヴィーゴ・ブルンはこのような困難を部分的に克服する方法を見出し、これは現代的な篩の理論の端緒となった。ただし、この理論を用いてもたいてい、厳密な公式はもとより漸近公式さえ得られるのもまれで、したがってふるい落とされた集合の大きさの評価を与えるにとどまる。
共通部分の計算
包除原理とド・モルガンの法則とを合わせることで、共通部分の要素数を計算できる。{\displaystyle A}A を普遍集合、各 {\displaystyle i}i について {\displaystyle A_{i}\subseteq A}A_{i}\subseteq A とし、{\displaystyle {\overline {A_{i}\overline {A_{i} が {\displaystyle A}A に関する {\displaystyle A_{i}A_{i} の補集合を表すものとする。このとき
{\displaystyle \left\vert \bigcap _{i=1}^{n}A_{i}\right\vert ={\overline {\left\vert \bigcup _{i=1}^{n}{\overline {A_{i}\right\vert }\left\vert \bigcap _{i=1}^{n}A_{i}\right\vert =\overline {\left\vert \bigcup _{i=1}^{n}\overline {A_{i}\right\vert }
をえる。こうして、共通部分をもとめる問題を和集合をもとめる問題に帰着させることができる。
説明
従来の核パルス推進には、エンジンの最小サイズが推力を生成するために使用される核爆弾の最小サイズによって定義されるという欠点がある。従来の核水素爆弾の設計は、2つの部分で構成されている。起爆側はほとんどの場合プルトニウムに基本としており、もう一方は核融合燃料(通常は水素化リチウム)を使用している。前者の最小サイズは約25キログラムで、約1/100キロトン(10トン、42 GJ; W54 )の小さな核爆発を引き起こす。より強力なデバイスは、主に核融合燃料の追加によってサイズが拡大する。2つのうち、核融合燃料ははるかに安価で、放射性生成物がはるかに少ないため、コストと効率の観点から、より大きな爆弾の方がはるかに効率的である。しかし、宇宙船の推進にこのような大きな爆弾を使用するには、応力を処理できるはるかに大きな構造が必要であり、2つの要求はトレードオフになっている。
臨界量未満の燃料塊(通常はプルトニウムまたはウラン)に少量の反物質を注入することにより、燃料の核分裂を強制することができる。反陽子は電子と同じように負の電荷を持っており、正に帯電した原子核によって同様の方法で捕獲することができる。ただし、初期構成は安定しておらず、ガンマ線としてエネルギーを放射する。結果として、反陽子は最終的に接触するまで原子核にどんどん近づき、その時点で反陽子と陽子の両方が消滅する。この反応は途方もない量のエネルギーを放出し、そのうちのいくつかはガンマ線として放出され、いくつかは運動エネルギーとして原子核に伝達され、原子核を爆発させる。結果として生じる中性子のシャワーは、周囲の燃料に急速な核分裂または核融合さえも起こす可能性がある。
装置のサイズの下限は、反陽子処理の問題と核分裂反応の要件によって決まる。そのため、大量の核爆薬を必要とするオリオン計画型の推進システムや、膨大な量の反物質を必要とするさまざまな反物質駆動装置とは異なり、反物質核パルス推進には本質的な利点がある[1]。
反物質核熱核爆発の概念設計は、通常、従来の水素爆弾熱核爆発の点火に必要なプルトニウムの質量が1μgの反水素に置き換えられたものである。この理論的設計では、反物質はヘリウムで冷却され、デバイスの中心で直径10分の1mmのペレットの形で磁気浮上する。この位置は、レイヤーケーキ/スロイカ設計の主要な核分裂コアに類似している[2][3]。反物質は爆発の望ましい瞬間まで通常の物質から離れていなければならないので、中央のペレットは100グラムの熱核燃料の周囲の中空球から隔離されなければならない。爆縮レンズ、核融合燃料は、反水素と接触しする。ペニングトラップが破壊された直後に始まる消滅反応の役割は、熱核燃料の核融合を開始するためのエネルギーを提供することである。選択した圧縮度が高い場合、爆発/推進効果が増加したデバイスが得られ、低い場合、つまり燃料が高密度でない場合、かなりの数の中性子がデバイスから逃げ、中性子爆弾の様になる。どちらの場合も、電磁パルス効果と放射性降下物は、同じ収量の従来の核分裂装置または水素爆弾装置よりも大幅に低く、約1ktである[4]。
熱核爆弾に必要な量
1回の熱核爆発を引き起こすのに必要な反陽子の数は2005年に次のように計算されました。 {\displaystyle 10^{18}10^{18} 個、これはマイクログラム量の反水素を意味する[5]。
宇宙船の性能の調整も可能である。ロケットの効率は、使用される作業質量(この場合は核燃料)の質量と強く関連している。核融合燃料の特定の質量によって放出されるエネルギーは、核分裂燃料の同じ質量によって放出されるエネルギーの数倍である。有人の惑星間ミッションなど、短期間の高推力を必要とするミッションでは、必要な燃料要素の数が減るため、純粋な微小核分裂が好まれる可能性がある。外惑星探査のように、効率が高く、推力が低い、より長い期間のミッションでは、総燃料量が減少するため、微小核融合と核融合の組み合わせが好ましい場合がある。
研究
この概念は、1992年以前にペンシルベニア州立大学で発明された。それ以来、いくつかのグループが研究室で反物質起爆による微小核分裂/核融合エンジンを研究してきた(反物質や反水素ではなく反陽子の場合もある)[6]。
ローレンス・リバモア国立研究所では、早くも2004年に反陽子による核融合に関する研究が行われている[7]。慣性閉じ込め方式(ICF)の従来のドライバーの大きな質量、複雑さ、および再循環力とは対照的に、反陽子消滅は1µgあたり90MJの比エネルギーを提供し、したがって独自の形式のエネルギーパッケージングと供給を提供する。原則として、反陽子ドライバーは、ICFによる高度な宇宙推進のためにシステム質量を大幅に削減することができる。
反陽子駆動ICFは投機的な概念であり、反陽子の取り扱いとそれに必要な注入精度(時間的および空間的)は、重大な技術的課題を提示する。特に反水素の形での低エネルギー反陽子の貯蔵と操作は、この技術の初期段階の課題であり、現在の供給方法を超える反陽子生産の大規模なスケールアップには、本格的な研究開発プログラムに着手するのが不可欠である。
反物質貯蔵に関する最新(2011年)の記録は、 CERNで記録された1000秒強であり、以前は達成可能であったのがミリ秒単位であったことから考えると飛躍的な向上である[8]。
概要
「聖ヨハネ祭の前夜に不思議な出来事が起こる」というヨーロッパの言い伝えの一種、「聖ヨハネ祭前夜、禿山に地霊チェルノボーグが現れ手下の魔物や幽霊、精霊達と大騒ぎするが、夜明けとともに消え去っていく」とのロシアの民話を元に作られている。聖ヨハネの前夜祭は夏至祭の前夜であり、題材としてはシェイクスピアの『夏の夜の夢』と同様であるといえる。
1858年にゴーゴリの『ディカーニカ近郷夜話』に収める短篇「イワン・クパーラの前夜」(イワン・クパーラは聖ヨハネ祭を意味する)を3幕のオペラ化にする案がムソルグスキーやバラキレフらの間で話し合われたことがあった[1]。
1860年夏の手紙でムソルグスキーはメングデンの戯曲『魔女』(Ведьма)の中に出てくる禿山の魔女のサバトのための音楽を書く計画について語っているが、このときの音楽は残っておらず、現行の『禿山の一夜』とどのような関係にあったかはわかっていない[1]。初版は独立した管弦楽作品として1866年から1867年ごろにかけて作曲された。ムソルグスキーが初めて書いたある程度の大きさを持った管弦楽曲だったが、この曲はムソルグスキーの生前には演奏されなかった。ムソルグスキーはその後この曲を別の作品中で使用するために何度か書き直しているが、それらはいずれも日の目を見なかった[2]。
長らくリムスキー=コルサコフが編曲した版だけが普及していたが、20世紀に入ってムソルグスキー自身の手による原典版が再発見されると、こちらもムソルグスキーの典型的作風を示すものとして広く知られるようになった。
オーケストレーションと編曲の変遷
ムソルグスキーの楽曲の例に漏れず、『禿山の一夜』も何度もお蔵入りと改訂・編曲が繰り返された。その結果、今日までに様々なバージョンが残されている状態にあり、それぞれ特徴ある楽曲となっている。時に「ムソルグスキー・パラノイア(偏執病)」と揶揄されるほど熱心に彼の作品を取り上げた指揮者クラウディオ・アバドは、これらの4つの版についていずれも録音を残している。
『サランボー』でのモチーフ(1864年頃)
未完のオペラ『サランボー』において、初めて『禿山の一夜』のモチーフが登場したとされている。独立した曲としては明確に現存せず、アバドが『サランボー』の一節「巫女たちの合唱」として録音しているにとどまっている。『禿山の一夜』の原曲と言えるのは第3幕第1場の最後あたりという。
作曲者による原典版(1867年)
音詩『聖ヨハネ祭前夜の禿山』(露:Иванова ночь на Лысой горе, 英:St. John's Eve on Bald Mountain)は、1866年から1867年にかけて作曲され、1867年6月23日、まさに聖ヨハネ祭の前夜に作曲を完了した[3]。1866年3月にリストの『死の舞踏』を聞いたことがきっかけで作曲されたのかもしれない[4]。リムスキー=コルサコフにあてた手紙には、「魔物たちの集合〜そのおしゃべりとうわさ話〜サタンの行列〜サタンの邪教賛美〜魔女たちの盛大な夜会」という4つの場面が曲想として構成されていると記されている。サバトで終わるところはベルリオーズ『幻想交響曲』の最終楽章と共通する[5]。
バラキレフは、その粗野なオーケストレーションを批判し、修正を求めたが、ムソルグスキーが修正を拒絶したために演奏を断った[2]。演奏も印刷もされないまま、この版の存在は忘れられていたが、ムソルグスキー研究者としての功績で知られるソ連の音楽学者パーヴェル・ラム(ロシア語版)が1933年に再発見した後、1968年に楽譜が出版された。デーヴィッド・ロイド=ジョーンズ指揮による1971年の録音や、アバド指揮による1980年の録音で聴くことができる。
楽器編成
フルート2、ピッコロ、オーボエ2、クラリネット(変ロ調)2、ファゴット2
ホルン4(ニ調および変ロ調各2)、コルネット(変ロ調)2、トランペット(ニ調)2、トロンボーン3、テューバ
ティンパニ、トライアングル、タンバリン、スネアドラム、シンバル[注釈 1]、バスドラム、タムタム
弦五部
『ムラダ』(1872年)
1872年にロシア5人組の合作のオペラ・バレエ『ムラダ』を作る計画が持ち上がった。その第3幕に夏至祭の前夜の魔女のサバトが登場するため、ムソルグスキーは『禿山の一夜』をこの作品用に書きかえて合唱を加え、上記の『サランボー』の要素を追加し、新たなエンディングを加えた[6]。しかし『ムラダ』の計画は完成する前に中断され、上演されることはなかった。この版の楽譜は現存していないが、次の『ソローチンツィの市』に使われた版は『ムラダ』版を改訂したものである。
なお、ずっと後にリムスキー=コルサコフは新たに『ムラダ』を作曲し直しているが、第3幕の音楽はムソルグスキーのものとはまったく異なるものになっている。この部分は管弦楽曲『トリグラフ山の一夜』として編曲されている。
『ソローチンツィの市』(1880年)
1874年から1880年にかけて作曲されたムソルグスキー晩年のオペラ『ソローチンツィの市』の第3幕第1場の合唱曲「若者の夢」として、『禿山の一夜』が用いられている。ムソルグスキーがオペラ自体を未完のまま没したため、ほとんど知られることなく長年放置された。
オペラの一節であることからテノール・バスと児童合唱により構成された、魔物の咆吼ともいえる合唱が秀逸である。原典版にはなかった「教会の鐘」とその後の「悪魔たちの退散」はこの版に収められている。原典版にはこのシーンがないため、リムスキー=コルサコフによる編曲で追加されたものと思われている場合もあるが、このシーンはムソルグスキーのこの版がオリジナルである。
「若者の夢」はヴォーカル・スコアの形で完成しているものの、オーケストレーションはなされていない。ヴィッサリオン・シェバリーンによって補完された『ソローチンツィの市』には、ヴォーカル・スコアに比較的正確な形でオーケストレーションされた「若者の夢」が第3幕の前に含まれる(1933年出版)。
リムスキー=コルサコフによる改訂版(1886年)
1881年のムソルグスキー没後、彼の才能を何とかして世に知らしめたいと考えたリムスキー=コルサコフは、未発表だったムソルグスキーの作品から『禿山の一夜』を採り上げた。リムスキー=コルサコフ版は1867年の交響詩とはまったく異なっており、『ソローチンツィの市』に含まれる合唱版にもっとも近い[7]。オーケストレーションについては全面的にやりなおして、1886年に発表した。現在『禿山の一夜』として一般に知られる楽曲はこの改訂版である。
五人組のアカデミズムの立場を代表するリムスキー=コルサコフの手により編曲されたことにより、原典版とはかなり異なる洗練された印象を受ける。そのため、原典版において感じられるムソルグスキーの粗野で魅力でもあるイメージがいささか失われたうらみが残るが、それでもムソルグスキーの描いた荒々しく不気味なイメージを、リムスキー=コルサコフ得意の華麗なオーケストレーションで表現してみせたことで、この曲は広く普及した。リムスキー=コルサコフの意図したとおりに、未完の大器ともいえるムソルグスキーの名声を轟かせた貢献は大きい。
なお、この曲はディズニーが1940年に作ったアニメーション映画『ファンタジア』にも取り上げられている(ストコフスキーの編曲が使用された)。TVの不気味なシーンの効果音として頻繁に使われるなど日頃耳にする機会は多く、たとえば松本清張の『けものみち』がNHKでテレビドラマ化されたときにも主題曲として使用されていた。
楽器編成
フルート2、ピッコロ、オーボエ2、クラリネット(変ロ調)2、ファゴット2
ホルン(ヘ調)4、トランペット(変ロ調)2、トロンボーン3、テューバ
ティンパニ、シンバル[注釈 1]>、バスドラム、タムタム、鐘(1点ニ音)
ハープ、弦五部
その他の編曲
冨田勲がアルバム『火の鳥』にリムスキー=コルサコフ版を元にシンセサイザーで多重録音した演奏を収めている。
ヴォフカ・アシュケナージがリムスキー=コルサコフ版から2台のピアノのために編曲し、父ウラディーミル・アシュケナージと録音している。
BLANKEY JET CITYによるパンクバージョンでの演奏が、1991年に毎日新聞のCMに使われている。
ドイツのバンド「メコン・デルタ」、アメリカのバンド「アナル・カント」、イタリアのバンド「ニュー・トロルス」などがロックにアレンジして演奏している。
ポップンミュージック18の「ヒップロック5【一激必翔】(Des-ROW・組 スペシアル)」のメロディが、この曲をリスペクトして作られている。
映画(サタデー・ナイト・フィーバー)のサウンドトラックにてデヴィッド・シャイアーがディスコ調でアレンジ。
紀元前から中国各王朝が中国東南の地域およびその住人を指す際に用いた呼称。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国()と自称した。なお倭人()は、倭国の国民だけを指すのではない。和、俀とも記す。
※倭の政治組織・国家については「倭国」、倭の住人・種族については「倭人」をそれぞれ参照のこと。
奈良盆地(のちの大和国)の古名。倭人ないしヤマト王権自身による呼称。「大倭」とも記す。
※「大和」を参照のこと。
概要
「日本」の前身としての「倭」
「倭国」および「倭人」も参照
倭については、中国正史で記述されている。後漢書倭伝や魏志倭人伝、晋書倭人伝、宋書倭国伝、南斉書倭国伝、梁書倭国伝、隋書倭国伝、北史倭国伝、南史倭国伝などに記述されている。 史書に現れる中国南東部にいたと思われる倭人や百越の人々を含んだ時代もあったという意見もある[1]。 中国人歴史学者の王勇によれば中国の史書に現れる倭人の住居地は初めから日本列島を指すとしている[2]。倭国の領域は、隋書や北史では、東西に五カ月で、南北に三カ月とされる。
倭(ヤマト国家)は、大王を中心とする諸豪族による連合政権であった。大王は、元来大和地方(現奈良県)の王()であったが、5世紀ごろから大王と呼ばれるようになった。ヤマト国家では、有力豪族によって大王が擁されたり、廃されたり、場合によっては殺害されることもあり、実質は有力豪族たちによって運営されていた。そのため有力豪族同士の権力争いも絶えなかった。氏を持つ血縁を中心につながる一族が、身分(姓)を与えられていた(氏姓制度)。
『日本』と言う国名は、大化の改新によって『天皇』という称号とともに使われるようになった。天智及び天武朝において始まったとされるが、いずれにしても7世紀後半のことである。
「倭」という呼称
「大和」も参照
『古事記』や『日本書紀』では倭()日本()として表記されている。 魏志倭人伝では日本は邪馬台国と音文字で表記されている。 また『日本書紀』では夜摩苔つまりʎia mwɑ də もしくはjia mo tʰaiと表記されていた。
奈良時代まで日本語の「イ」「エ」「オ」の母音には甲類 (i, e, o) と乙類 (ï, ë, ö) の音韻があったといわれる(上代特殊仮名遣い)。「魏志倭人伝」における「邪馬台」や「隋書倭国伝」における「邪摩堆」は"yamatö"(山のふもと)であり、古代の「大和」と一致し現在の「奈良県」にあたる。筑紫の「山門」(山の入り口)は"yamato"であり、音韻のうえでは合致しないので、その点では邪馬台国九州説はやや不利ということになる[3]。なお、山門や山都などの「と(甲)」が「魏志倭人伝」に記録された場合、「伊都(怡土郡)」や「都支(土岐郡・刀支)」のように「台」ではなく「都」が当てられた可能性が高い。ただし、古来、「と(甲)」と「と(乙)」は通用される例もあり、一概に否定はできない[4]。
8世紀に「大倭郷」に編成された奈良盆地南東部の三輪山麓一帯が最狭義の「ヤマト」である[5]。同地は椎根津彦を祖とする倭国造の本拠であった。なお、『日本書紀』には新益京(藤原京)に先だつ7世紀代の飛鳥地方の宮都を「倭京」と記す例がある。
737年(天平9年)、令制国の「ヤマト」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力の弱まった747年(天平19年)には再び「大倭国」の表記に戻された。そして757年(天平宝字元年)橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。「大和」の初出は『続日本紀』(天平宝字元年(757)12月壬子(九日)「大和宿祢長岡」)である(但し、同書にはそれ以前に、追書と思われるものが数カ所ある)。
語義
倭の文字の変遷。下に行くにつれて古い。
解字
「倭」は「委(ゆだねる)」に人が加わった字形。解字は「ゆだねしたがう」「柔順なさま」「つつしむさま」、また「うねって遠いさま」[6]。音符の委は、「女」と音を表す「禾」で「なよやかな女性」の意[7]。
用例
中国の古代史書で、日本列島に居住する人びとである倭人を指した[2]。
説文解字では「従順なさま。詩経に曰く“周道倭遲(周への道は曲がりくねり遠い)”。」と解説されている[8]。 康熙字典によれば、さらに人名にも使用され、例えば魯の第21代王宣公の名は「倭」であると書かれている[9]。
『隋書』では俀とも記し、『隋書』本紀では「倭」、志・伝で「俀」とある。「俀」は「倭」の別字である可能性もあるが詳細は不明である[10]。
のち和と表記される。奈良時代中期頃(天平勝宝年間)から同音好字の「和」が併用されるようになり、次第に「和」が主流となっていった。例えば鎌倉時代の徒然草には「和国は、単律の国にて、呂の音なし」(199)とあり[11]、また親鸞も和国と記している。
現代の日本では、倭の字はいくつかの場面で使われている。人名用漢字の一つとして選ばれている他、東京には「倭」という手作り弁当のチェーン店がある。公立学校として三重県津市と長野県中野市に倭小学校が存在する。奈良県には北倭保育園(私立)が存在する。日経ビジネスオンラインでは、海外で働く日本人に対し、華僑という言葉を参考にして「倭僑」という言葉を提案した[12]。中国には貴州省清鎮市に犁倭という地名が存在する。
解釈
日本列島に住む人々が倭・倭人と呼称されるに至った由来にはいくつかの説があるが、いずれも定説の域には達していない。
平安時代初期の『弘仁私記』序にはある人の説として、倭人が自らを「わ」(吾・我)と称したことから「倭」となった、とする説を記している。
一条兼良は、『説文解字』に倭の語義が従順とあることから、「倭人の人心が従順だったからだ」と唱え(『日本書紀纂疏』)、後世の儒者はこれに従う者が多かった。
江戸時代の木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説を述べている。現在でも、ピグミーマーモセットの中国語表記は「倭狨」、「コビトカバ」は「倭河馬」で、倭は小ささを表す言葉である。
新井白石は『古史通或問』にて「オホクニ」の音訳が倭国であるとした。
隋唐代の中国では、「韻書」と呼ばれる字書がいくつも編まれ、それらには、倭の音は「ワ」「ヰ」両音が示されており、ワ音の倭は東海の国名として、ヰ音の倭は従順を表す語として、説明されている。すなわち、隋唐の時代から国名としての倭の語義は不明とされていた。
また、平安時代の『日本書紀私記』丁本においても、倭の由来は不明であるとする。
さらに、本居宣長も『国号考』で倭の由来が不詳であることを述べている。
神野志隆光は、倭の意味は未だ不明とするのが妥当としている[13]。
悪字・蔑称説
『旧唐書・東夷伝・日本国の条』に「或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本(あるいは曰く、倭国自らその名の雅ならざるを悪みて、改めて日本となす)」とある。
江戸時代の木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説を述べ、他にも「倭」を蔑称とする説もあるが、「倭」の字が悪字であるかどうかについても見解が分かれる。「倭」を悪字とすれば、記録を残した側の「魏」は小柄な亡霊(矮鬼)で倭より酷い蔑称になってしまう。『魏志倭人伝』や『詩経』(小雅、四牡)などにおける用例から見て、倭は必ずしも侮蔑の意味を含まないとする見解がある。それに対して「卑弥呼」や「邪馬台国」と同様に非佳字をあてることにより、中華世界から見た夷狄であることを表現しているとみなす見解もある。
なお、古代中国において日本列島を指す雅称としては瀛洲()・東瀛()という呼称がある[14]。瀛洲とは、蓬萊や方丈ともに東方三神山のひとつである。
詳細は「瀛州」を参照
倭の国々
漢委奴国王印
冒頭で掲げたように、「倭」には現在の西日本および奈良盆地という2つの意味があるが、ここでは広義の「倭」つまり西日本における小国分立時代の国々について若干ふれる(古墳時代を通じて徐々に小国連合が成立して「倭国」というひとつのまとまりが生まれてからについては「倭国」を参照のこと)。
『魏志』倭人伝にみられる「奴国」は、福岡市・春日市およびその周辺を含む福岡平野が比定地とされている。この地では、江戸時代に『後漢書』東夷伝に記された金印「漢委奴国王印」が博多湾北部に所在する志賀島の南端より発見されている。奴国の中枢と考えられているのが須玖岡本遺跡(春日市)である。そこからは紀元前1世紀にさかのぼる前漢鏡が出土している。
「伊都国」の中心と考えられるのが糸島平野にある三雲南小路遺跡(糸島市)であり、やはり紀元前1世紀の王墓が検出されている[15]。
紀元前1世紀代にこのような国々が成立していたのは、玄界灘沿岸の限られた地域だけではなかった。唐古・鍵遺跡の環濠集落の大型化などによっても、紀元前1世紀には奈良盆地全域あるいはこれを二分、三分した範囲を領域とする国が成立していたものと考えられる[15]
名称
日本語においては、用便の際の清拭用の紙を「落とし紙/落し紙(おとしがみ)」[1][2]と総称するが、この語がいつ頃から用いられてきたかは不明である。ただ、落とし紙という紙そのものは古くから用いられてきた。英語由来の外来語「トイレットペーパー (toilet paper, toilet-paper)」は、落とし紙の一種と見なすことができ、紙自体も語としても、近代以降のいつ頃からか用いられるようになったものである(巻き取りタイプは明治時代末期から)。また、鼻紙/花紙(鼻水を拭いたりするための紙)や落とし紙(落下式便所などで使って下に捨てる紙)を始めとする多用途の低品質紙を「塵紙/ちり紙(ちりがみ、ちりし)」という[3]ので、塵紙品質の落とし紙をその名で呼ぶことがある。加えて、円筒形の巻き取りタイプ(ロール紙タイプ)[* 2]を「トイレットロール(和製英語:toilet roll)」と呼ぶこともある[* 3][* 4]。ほかにも、総称的な語として「便所紙(べんじょがみ)」があるものの、広く通用しているとは言えず、方言としての用法に限られ、昔ながらの平判タイプを円筒形・巻き取りタイプと区別する際の呼称であることも多い。
同じ漢字文化圏でも中国語では大きく異なり、排便時の清拭用紙を「簡体字:卫生纸(繁体字:衞生紙)」「手纸(手紙)」「厕纸(厠紙)」「纸巾(紙巾)」などといい (cf. wikt:zh:卫生纸、wikt:en:衛生紙)、円筒形・巻き取りタイプは「厕纸卷(厠紙捲)」という。
概説
トイレットペーパーの
バリエーション
巻き取り型、漂白パルプ製で、エンボス加工した製品の一例
巻き取り型、漂白パルプ製で、絵柄と香りを付けた製品の一例
巻き取り型、クラフトパルプ製の製品の一例
ボール紙製の芯紙
水解紙製のトイレットペーパーの芯
円筒形・巻き取りタイプには、長尺紙を重ねるか否かで区別があり、重ねない一枚ものを「シングル巻き」、二枚を重ねるものを「ダブル巻き」といい、珍しいが三枚重ねの「トリプル巻き」もある。
紙の材料とその色は国・地域や時代によって大きな違いがあり、無漂白のクラフトパルプなどを材とした茶色がかった自然紙の色をしたもの、再生紙であるために再生前の印刷用インクや微細な不純物が影響して灰色がかった白いもので巻紙所状態では白くても便器の溜水部に浸かると灰色や褐色がかった色になり、そして、漂白パルプを材とした真っ白なものといい便器の溜水部に浸かっても真っ白であるものの、3種類に大別できる。漂白パルプを使った製品では、その白さを生かして淡色系の着色の施されたものもあり、ピンク系・黄色系・緑色系・水色系などといった様々な色の製品が販売されている。
絵柄と、法人の名称やロゴタイプを始めとする、それぞれに異なる目的をもって印刷された情報を紙面に施された製品も、数が多いとは言えないまでも、商品史の黎明期から (cf. J C Gayetty N Y ) 変わらず作られ続けている。絵柄には、インダストリアルデザインに適うよう開発されたものもあれば、女性・子供など特定の消費者層に合わせて開発・販売されるものもある。クイズと解答、名言集、ジョーク集などといった濃厚な文字情報を載せた製品も、変わり種と呼べないほどに珍しいものではなくなっている。
使用感と清拭・吸収性の向上のためにエンボス加工を施した製品もある。
芯については、従来どおりの芯紙のある製品が一般的であるが、エコロジーの観点から芯紙を無くした製品も開発され、「芯が無い」という意味合いの「コアレス」などといった名称で流通している。芯紙のある製品の場合、材料はボール紙と水解紙があるものの、圧倒的多数は昔からあるうえに安価な前者である(■右列に画像あり)。ほかにも、芯紙に香料で着香した製品もある。
下水道に流すか否か
トイレットペーパーには、下水道に流すか否かという問題がある[4][5]。トイレットペーパーが水に溶けない紙だったり、排水設備や管路の詰まりや堆積物などに深く関係して、インフラストラクチャー上の都合と流通品の品質の如何で、国家・地域によって、差異が極めて大きい。
一つに、トイレットペーパーから便器清掃用の紙製品まで流してよい例、一つに、トイレットペーパーしか流せない例、今一つに、紙類一切を流せない(ごみ箱に捨てる別の処分方法がある)例がある[6]。国・地域別での具体例を挙げるなら、中華圏(中国本土〈香港と澳門を除く〉と台湾)では、水洗式便所にトイレットペーパーを流すのは非文明的・非常識な行為とされていて[4][5]、それ以前の社会全体が貧しかった時代から使っていた新聞紙と同様、ごみ箱に捨てるのが社会良識となっている[5]。そのため、日本のように正反対の行為が社会良識として浸透している文化圏もあって、そういった地域を旅行する際には注意が必要であることを、現地メディアが紹介しているくらいである[5]。一方で、中華圏の中のトイレ先進地域(先進的な都市部)では、「抽水馬桶(水洗式便所)に紙を流してはならない」旨の注意書きが、正反対の常識を持つ日本人向けに用意されている例も、2010年代後期には見られる[4]ようである。中国本土や台湾でトイレットペーパーなどを下水道に流してはならない理由は、なんと言っても下水道インフラが未発達で[4]管路が細く詰まりやすい[5]ことにあり、しかし2つ目には紙質が“良すぎて”溶けにくいことも挙げている[5]ことがある(※もっとも、日本のものは紙質が悪いせいで溶けやすいわけではなく、品質向上を追求した結果、速やかに溶けて流れる商品が開発されてきたというのが事実であり、水解紙などは目下その最たるものである。(ティッシュペーパーとトイレットペーパーの特徴の違いも参照))。
歴史
平らな裁断紙のトイレットペーパー/"Le Troubadour (ル・トゥルバドゥール)" という銘柄のパッケージに収められている、1960年代のフランス製品。
前史
普及以前は、富める人は、羊毛、レース、麻を用い、その他は直接手を用いるか、木の葉、草、干し草、トウモロコシの皮、苔、水、鉋屑(かんなくず)、石、貝殻、砂、雪、ぼろ布や、付近にヤツデを植栽して葉を用いるなどしていた[疑問点 – ノート]。古代エトルリアの便所(公共水洗便所を含む)では、使い捨てにしない用具として天然のスポンジである海綿が使われており、この習慣は古代ローマにも継承された。日本では、使い捨てにしない用具として、貝殻や籌木(しゃがんで排便する際に姿勢を維持するために用いる木片で、体などに便が付着した際は掻き落とすのにも用いる)が長いあいだ使われ続けた。
清拭用紙の登場
851年に中国を旅したアラブ人の旅行記に中国人が用を足したのちに紙で拭くことを記述しているが、水で洗わないことから、清潔を気にしない人種として記録されている[7]。
帝政ロシアでは、皇帝専用紙に皇帝の印が家臣によってなされた。イングランド王ヘンリー8世の宮廷では、王族の用便後に素手で清拭する便所担当には特に信頼された廷臣が選ばれ、王と個別に相対する好機として影響力を期待し望む者も多かった。日本でも、江戸時代の大奥に似たような慣習があり、大奥女中に拭わせるしきたりにどうしても馴染めない御台所が自ら拭うということもあったという。
1857年12月8日には、アメリカ合衆国の実業家ジョセフ・ガイエティー(英語版)が[8]、"J C Gayetty N Y (J・C・ガイエティー・ニューヨーク)" の名を透かし印刷で紙面に載せた巻き取り型のトイレットペーパーを[8]痔の医療用製品として生産し始め[9]、これがトイレットペーパーとして世界初の工業製品であった[8]。
日本では、明治中期頃より古紙が原料の塵紙とパルプが原料の落とし紙や京花紙などが主に用いられていた[要出典]。また、明治時代末からは巻き取り型のトイレットペーパーも使われ始めたが、当時は舶来品が占めていた[10]。それでも、そういった変化は都市部での話で、農村部では、大正時代の頃まで木の葉や藁のほか、古来の籌木が用いられ続けていた[2]。
日本で最も早い時期に巻き取り型のトイレットペーパーを発売した企業は、紙の博物館によれば、記録の残る限りで、神戸市内にあった貿易商の島村商会(嶋村商會)である[10]。1924年(大正13年)、島村商会は高知県の工場に原紙の製造を依頼し、同商会がトイレットペーパーに仕上げた上で外国汽船などに納入していた[10]。
上下水道整備の進捗に伴い、1955年(昭和30年)前後から便所の様式が「汲み取り式」から「水洗式」へ「和式便器」から「洋式便器」へ変化し、合わせて巻き取り型のトイレットペーパーの生産量も増加した。使用量は2008年から2011年で、日本人一人あたり年間およそ8キログラムと推算[11]されるほど生活必需品で、非常時に備えて平時の備蓄が望まれる。2020年に日本で流通する97%は日本産であり、原材料も日本で調達される自給率の高い製品である[12]。
設置
紙巻器
壁でなくドアに設置
専用什器の紙巻器などで設置する。
2個横向きに並列配置した2連紙巻器は紙切れの不便解消[13]などに配慮した商品で、公共施設などで設置が見られる縦に2巻配する什器は使用済み芯紙を取り除いて新たな1巻を使用する。
「トイレットペーパーの向き」も参照
三角折り
三角折り、2個配置
巻き始めの先端を三角形に折る事例は、日本では三角折りと俗称する者も見られ、アメリカの消防署で緊急出動受令時に用便中でも迅速な対応を目した「ファイヤーホールド」に由来[* 5]するなど様々語られており、ホテル、劇場、店舗など公共の場所で散見[* 6]される。
自動販売機
日本では、鉄道駅のトイレ入り口などを中心に自動販売機が設置されている場合があるが減少傾向にある[14]。
規格
巻き取り型のトイレットペーパーは、通常は便所個室内で専用什器に装着して使用するため規格化が必要であるが、国情によりロール径や幅が若干異なる。また、トイレ、排水設備、管路等の詰まりや堆積物等の問題を回避するために、ほぐれやすさ(分解性)まで規格化されている国・地域もある[6]。
JIS
日本では、紙パックなどさまざまな再生パルプを多く用いて、およそ4割が静岡県で製造され、「ティシュペーパー及びトイレットペーパー」として家庭用品品質表示法の適用対象で雑貨工業品品質表示規程[15]に、品質や寸法などは日本産業規格(JIS)[* 7]に定めがある。
市販品は、JIS規格で1巻27.5、32.5、55、65、75、100メートル、許容差+3と公定されているが、量販品は60メートル巻きが多い。
公共用途の業務用は一巻あたり150から210、最大500メートルと高頻度需要に適応しているが、1巻重量は最大1~2キログラムで軸が鉛直方向の専用大型什器に装着する交換頻度低減を目する製品である。
また、日本では1993年(平成5年)からJISにトイレットペーパーのほぐれやすさ試験(分解性試験)が付加された[6]。
ISOでの規格化の動き
カナダでは、トイレクリーナーなどトイレに流せると表示された紙製品等によって、トイレ、排水設備、管路での詰まりや、堆積物、スクリーンかす、汚泥の処理費が増大した[6]。そのため、2014年1月、カナダは ISO/TC224(上下水道サービス運営規格検討委員会)に対して「トイレに流せる製品」 の規格化を提案した[6]。
ドイツは、水洗便所にトイレットペーパー以外を流してはならないとしており、ISOでの規格化に反対している[6]。また、日本では、日本下水道協会が ISO原案のほぐれやすさ試験(分解性試験)の基準が JIS P 4501 より著しく緩くなっている点について問題を指摘している[6]。
概要
大気圏内(対流圏内)で発生した核爆発については、エネルギーは概ね以下の4区分[1]により放出されている。
爆風 - 全エネルギーの40-50%
熱放射 - 全エネルギーの30-50%
電離放射線(初期放射線) - 全エネルギーの5%
放射性降下物 - 全エネルギーの5-10%
上記は一般的な核兵器の場合であり、中性子爆弾などによっては、エネルギーの分配が大きく異なる場合がある。水中や地表・地下等で爆発させた場合も、エネルギーの分配が異なり、衝撃波(地震波)を発生させる。
核爆発に際しては、最初に放射線が放出され、ついで熱放射が出される。放射線により発生した火球は数百万度の温度となり膨張し、衝撃波・爆風を発生させる。また火球により上昇気流が発生し、キノコ雲が生成され、放射性降下物を周囲に散布する。
直接効果
爆風
核反応により発生した放射線により大気中の原子が励起され、温度が上昇、高温・高圧の火球が形成される。この火球は数百万度の温度を持ち、表面に衝撃波を形成しつつ急速に膨張する。火球の膨張が停止する段になっても、衝撃波はより広範囲に爆風となって拡散する。大気圏内核爆発においては最も直接的な被害を引き起こすものである。高高度大気圏(高高度核爆発)や宇宙空間においては、大気分子が少ないために、火球の生成は活発なものとならず、放射線として放出されるエネルギーの割合が高くなる。そのため、高度が高いところの核爆発であるほど爆風の影響は減少する。
爆風の外側への拡散の後には、強風が爆心地に向かって逆に流れるが、これは膨大なエネルギーによって爆発中心部の空気が四方に発散しほぼ真空状態になるためである。
爆風の風速は300m/sを超える場合もあり、それは数秒間持続する。衝撃波も含めて、人工物や人体に対し致命的な打撃を与える。
熱放射
着物の色の濃い所に熱線が集中したため文様が体に焼き付き火傷した女性
核爆発に伴う火球からは紫外線、可視光線、赤外線領域においても多量の電磁波放射を伴う。多量の赤外線は、核出力に連動する光線の持続時間や光線量などにも影響されるが、木や紙等の可燃物を燃焼させるには十分な威力を有する。なお、天候の影響を受けやすく、多湿な環境であれば熱放射は阻害される。広島市への原子爆弾投下においても木造建築物の火災発生が見られた。
核爆発の熱放射に伴う火災は同時多発的であり、集合して大規模火災に成長する危険性がある。大規模火災には風が流入することで高温を発生させる旋風火災と、火災が徐々に燃え広がっていくコンフラグレーション(大火)の二つがある。旋風火災である場合、その高熱と燃焼反応によって多くの人を熱傷・窒息死に至らしめる。コンフラグレーションの場合、比較的避難の時間があるが、核爆発においては熱放射による火傷や放射線・爆風により負傷していることもあり、迅速な移動が困難で被害を拡大させる。
また、人体においては、火傷の発生[2]の他、可視光線による網膜損傷、赤外線による網膜火傷などを負う場合がある。なお、人間は体の30%以上の表皮が熱傷になるとショック状態となり、致命傷となる。また、物体の色による温度吸収に大きな差が発生する。爆撃機においては核爆発の熱放射を避けるために白色塗装が行われていた。また、実戦において核兵器が使用された広島および長崎の被爆者においては、色の濃い部分が熱線を吸収することによって衣服の柄が皮膚に焼きつく例も見られた。
間接効果
電磁パルス
核爆発によって発生したガンマ線は大気中の分子に作用し、コンプトン効果により自由電子を作り出す。これらは電磁パルスとなり、アンテナ・ケーブルなどを通じて、防護されていない電子機器を使用不能とする。低層大気圏中においては、濃密な大気の影響によりその影響は限定的となるが、高層大気圏中における核爆発においては、ガンマ線がより遠くに届くこともあり、広範囲に影響を与えるものとなる。これにより、情報通信機器への障害が発生すると考えられている[3]。
電離放射線
核反応に伴って中性子線、ガンマ線、アルファ線などの電離放射線が放出される[4]。放射線の強度は、爆心地ほど強く、距離が離れるに従い、その強度は急速に減衰する。減衰度は種類によって異なり、ガンマ線は中性子線より減衰度が小さい。そのため、爆心地付近においては放射線中の中性子線の占める割合がガンマ線より高いが、爆心地から離れるに従いガンマ線の割合が高くなり、より遠距離までガンマ線が到達する。電離放射線は放射化生成物をもたらし、キノコ雲や爆風により周囲に放射性降下物を散布する。放射性降下物の散布範囲は気象条件に大きく左右され、爆風や熱放射より広範囲に影響を与える。放射性降下物からも二次的な放射線が放出される。物質にもよるが、大半が短命に崩壊する物質であるので、49時間で100分の1、2週間後には1,000分の1にまでその線量は低下すると考えられる。
人間は短期間に600レム(6シーベルト)の線量を浴びれば致命的な病気を発生させ、数週間のうちに絶命すると推測されている。450レムであれば被爆者全体の半数が致命的な病気にかかり命を落とすが、半数が生き残り、300レムならば被爆者の10%が死亡し、50レム - 200レムならば眩暈や抵抗力が低下するなどの症状が現れ、50レム以下ならば自覚症状はないが、何らかの損傷を負っている可能性が高い。遺伝的な影響も懸念されるが、放射線影響研究所(RERF)による約12,000人を対象にした調査によると、被爆2世への遺伝的な影響を示す証拠はない。ただし、放射線と生体の影響については科学的な論争が存在する。
人体に対する相乗効果
人体に対して各効果は相互作用することが考えられる。例えば、核放射線と熱放射の相乗効果を考慮した場合、放射線を大量に浴びた人間の循環系には大きな損害が与えられ、熱傷の回復力が大きく低下することが動物実験で示されている。すなわち、放射線さえ受けなければ回復する熱傷であるにもかかわらず、回復不能で死に至る場合が考えられる。
その他の効果
地下・地表核爆発の効果の一つとして、大規模なクレーター生成の可能性があげられる。この際、小規模な地震の発生も伴う[5]。生成されるクレーターの規模は爆発威力や爆発深度による。かつてはこれを巨大な発破と見なして核爆弾を土木工事や爆風消火に利用することも研究されていたというが、爆発後長期に亘り残される放射能汚染の問題は解決できず、実用には至らなかった。平和的核爆発も併せて参照のこと。
等価線量が各組織・臓器の局所的な被曝線量を表すための線量概念であるのに対して、実効線量は被曝の形態に関わらず個人の生物学的リスクの尺度となる線量概念である[注釈 3]。
概要
放射線障害の確率的影響のリスク(発生確率)は、放射線被曝を受けた人体の組織・臓器の等価線量だけでなく、その組織・臓器の種類に依存する[注釈 4]。そこで、等価線量のように吸収線量に放射線加重係数を掛け合わせることで放射線の生物影響を平準化したのと同様に、各臓器の等価線量にその臓器に対応した組織加重係数(tissue weighting factor)を掛け合わせて、すべての臓器について足し合わせたもの(臓器の違いによる放射線感受性の違いを平準化して一つにまとめた線量)を実効線量(effective dose)と呼ぶ。 実効線量を用いることにより、例えばラドンの吸引などによる肺だけの内部被曝と、宇宙線などからの全身被曝を足し合わせすることができるようになる。つまりは、内部被曝や外部被曝という異なる形式の被曝を、1つの値でその被曝の程度を表現できる点が特徴である[5]。
なお、組織加重係数は、確率的影響(ガン及び遺伝的影響)に対する各臓器・組織の相対的な放射線感受性の程度を表したものであり、確定的影響についてはあまり考慮されていない[注釈 5]。したがって、実効線量で問題としているリスクとはあくまで確率的影響のリスクのみである[注釈 6]。
定義
実効線量(effective dose)E は、人体の臓器 T の等価線量を HT、組織加重係数を wT とするとき、
(実効線量 [Sv]) E = {\displaystyle \sum _{T}{\displaystyle \sum _{T}(臓器 T の等価線量 [Sv])HT × (臓器 T の組織加重係数) wT
で定義される。
より具体的には、
実効線量 = {\displaystyle \sum }\sum (その臓器の等価線量 × その臓器の組織加重係数)
= H生殖腺 x w生殖腺 + H赤色骨髄 x w赤色骨髄 + () + ()+ ()....
である。
組織加重係数(tissue weighting factor)
組織加重係数とは、各組織・臓器における放射線の影響度(放射線感受性)の指標となる係数であり、各組織・臓器がどれだけ放射線の影響を受けやすいかという度合いである。
国際放射線防護委員会(ICRP)がこれまでに勧告した各組織・臓器の組織加重係数は下表の通り[7][8][9]。なお、各個人の組織・臓器の係数の和は1であり、現行の国内法は1990年勧告の組織加重係数を元にしている。
組織加重係数
組織・臓器 組織加重係数
ICRP103 (2007年) ICRP60 (1990年) ICRP26 (1977年)
生殖腺 0.08 0.20 0.25
赤色骨髄 0.12 0.12 0.12
肺 0.12 0.12 0.12
結腸 0.12 0.12 項目なし
胃 0.12 0.12 項目なし
乳房 0.12 0.05 0.15
甲状腺 0.04 0.05 0.03
肝臓 0.04 0.05 項目なし
食道 0.04 0.05 項目なし
膀胱 0.04 0.05 項目なし
骨表面 0.01 0.01 0.03
皮膚 0.01 0.01 項目なし
唾液腺 0.01 項目なし 項目なし
脳 0.01 項目なし 項目なし
残りの組織・臓器 0.12 0.05 0.30
係数合計 1.00 1.00 1.00
ここで注意が必要なのは、等価線量も実効線量も同じシーベルト(Sv)の単位で表しているために混同しがちであることである。例えば、被曝が皮膚のみで、その被曝量が100mSv(等価線量)である場合、実効線量は、皮膚の組織加重係数(0.01)をかけて、1mSvとなる。このように局所被爆の場合、実効線量は等価線量よりも低い値となる。被曝しきい値などの記述で実効線量と等価線量が併記されている場合は、それぞれどちらの線量を示しているのか確認する必要がある。
放射線防護における適用
一般に人体に関する防護量である実効線量の直接測定は困難である。そのため、防護量である実効線量の推定値又は上限値を与えるための実用量が用いられる[10]。
「等価線量#モニタリングの実用量としての線量当量」も参照
外部被曝による実効線量
ここでは放射線業務従事者等が装着した個人線量測定器[11]の測定線量から日本の法令に基づいて外部被曝による実効線量を計算する場合を述べる。外部被曝による実効線量計算式を示すにあたっては個人線量モニタリングの方法に触れる必要がある。
線量当量には区分があり、皮膚表面からの深さによって70μm線量当量、3mm線量当量、1cm線量当量となっていて、70μmは皮膚の基底層、3mmは眼の水晶体、1cmはその他すべてを対象とする線量当量である[12][13]。
また、個人線量モニタリングは全身均等被曝を基本的な仮定とし、男子(および妊娠不能な女子)は胸部に、妊娠可能な女子は腹部に個人線量測定器を装着する。これは女子では胎児被曝を主に考慮しており、男子では造血組織である赤色骨髄の被曝を主に考慮しているためである。
不均等被曝が考慮されるべき場合には全身を「頭頸部」、「胸部・上腕部」、「腹部・大腿部」、「その他」の4部位に区分してその部位内では均等被曝を仮定し、全身均等被曝の場合の個人線量測定器装着部位以外の部位が最大被曝をするおそれのある場合にはその部位にも装着する。手指などの「その他」の部位が多く被曝する放射線作業では指輪型個人線量測定器も用いられるが、「その他」の部位は(中性子線被曝がない限り)皮膚の70μm線量当量のみを測定する[14]。例えば、X線使用業務で肩から膝下まで鉛入り防護エプロンを着用する場合は個人線量測定器をエプロンの下の胸部または腹部に装着し、さらに頭頸部(エプロンの外)に装着し、また作業内容によっては手指にも装着することになる。
以前は3種類の線量当量すべてを測定することとなっていたが、2001年の改正法令施行により70μm線量当量と1cm線量当量のみの測定となった。これは実務上、3mm線量当量が他の二者の大きい方を超えないためで、眼の水晶体の等価線量はいずれか大きい方の値(安全評価側)を採用する[15]。
実効線量の計算には1cm線量当量のみが用いられる。過去の法令では組織加重係数を元にした「実効線量当量」の計算式が示されていたが、ICRP 1990年勧告を受けた2001年の改正法令施行により組織加重係数がICRP 1977年勧告から変更され、不均等被曝による影響が小さくなったとして実効線量の計算式は放射線障害防止法令に明示されず、「適切な方法による」という表現になった。しかし、科学技術庁(当時)の通知には参考として平成11年4月の放射線審議会基本部会の示した式を掲載しており[16][9]、事実上以下の式が現在の計算式となっている。
HEE = 0.08Ha + 0.44Hb + 0.45Hc + 0.03Hm
ここで、
HEE : 外部被曝による実効線量当量
Ha : 頭頸部における1cm線量当量
Hb : 胸部および上腕部における1cm線量当量
Hc : 腹部および大腿部における1cm線量当量
Hm : 頭頸部、胸部・上腕部および腹部・大腿部のうち外部被曝による線量当量が最大となるおそれのある部分における1cm線量当量
である。
男性がX線使用業務で肩から膝下まで鉛入り防護エプロンを着用し、頭頸部線量当量が胸部・上腕部線量当量より大きかった場合を例にすると、
HEE = (0.08 + 0.03) Ha + (0.44 + 0.45) Hb
となる。
内部被曝による実効線量
内部被曝による被曝は長期にわたるため、生涯の健康リスクを評価するには預託実効線量(committed effective dose)を用いる[17]。
体内に入った放射性物質は、人体の代謝排泄機能か放射性崩壊によって放射能が減衰するまでは、体内で放射線を放出し続ける。体内に長く滞留する放射性同位元素の場合、被曝が長い期間に及ぶのが特徴であるが、被曝が数年から数十年に及ぶ場合、実際の被曝を年ごとに評価するのは現実的ではない。
そこで、将来受ける線量を前もって評価するため、放射性物質を摂取した時点に遡りその放射性物質が体内に残留している間の累積線量を各臓器に対して評価する。預託実効線量は預託等価線量と組織加重係数の積の和と定義される。線量の累積計算をする期間は明記されなければ、成人で50年間、子供や乳幼児は摂取した年齢から70歳までの期間が用いられ、放射される線量率を時間積分した値となる。
日本では科学技術庁告示により摂取量から内部被曝実効線量を算出するための実効線量係数が定められている[18]。同じ放射性元素でも化学形態によって被曝量は異なり、また吸入か経口摂取かの違いでも異なってくる、等で換算係数には大きく幅がある。
集団実効線量(collective effective dose)
「集団線量」を参照
生物学的実効線量 (Biological Effective Dose)
略称はBED[19]。実効線量と名前に付くが、本項で解説される実効線量(リスクの程度を表す線量概念)とは別の概念である。がん放射線治療において「腫瘍に対する生物学的実効線量」[20]という文脈で用いられ、LQモデルに基づいた分割照射において、照射線量を標準化して治療成績を比較するための概念である。
生物学的効果線量という訳語や、単にBEDも用いられる[21]。
多数の設計が行われたがそのうち少数が建設された。第4世代原子炉としてのひとつの概念である。
フッ化ウラン(IV) (UF4)など溶融状態のフッ化物塩を一次冷却材としてそこへ核分裂物質を混合させ、黒鉛を減速材とした炉心に低圧で送り臨界に到達させる。高温の溶融塩は炉心の外へ循環させ二次冷却材と熱を交換させる。燃料の設計はさまざまである。液体燃料原子炉特有の複雑な問題の発生を回避するため、溶融塩内に核分裂生成物を含まない構造の新型高温原子炉(AHTR)も設計されている。
歴史
航空機用原子炉実験
ORNLに建設された航空機用原子炉実験。後にMSREに改造
詳細は「航空機用原子炉実験」を参照
アメリカでの溶融塩型原子炉の研究は 2.5 MWth の原子炉実験装置を用い、高出力密度の動力源として原子力航空機に搭載する事を目的とした。計画は結果的にHTRE-l, HTRE-2,HTRE-3の3基の実験機を作って終わった。実験には溶融塩の NaF-ZrF4-UF4(53-41-6 mol%)が燃料として使用され、酸化ベリリウムが減速材、液体ナトリウムが冷却材として使用され、最高運転温度は860℃だった。1954年、1000時間運転された。実験にはインコネル600合金が構造と配管に使用された。
溶融塩原子炉実験
MSREプラント概要
オークリッジ国立研究所(ORNL)で1960年代に MSR の研究が進められた。溶融塩原子炉実験装置(MSRE)が設置され、出力は7.4MWthあった。
オークリッジ国立研究所原子炉
1970年から76年にかけて LiF-BeF2-ThF4-UF4 (72-16-12-0.4)を燃料とするMSRが設計された。減速材に黒鉛を使用し、NaF-NaBF4を二次冷却材に使用した。最高温度は705℃ だった。しかし、設計のみで実際には建設されなかった。
現在の開発
インド、中国[1]ではレアアース鉱石の精錬に伴って発生する副産物であるトリウムを溶融塩に溶かして燃料として使用する溶融塩原子炉の計画が進められている。計画は、天然ウランからプルトニウムを生産する段階を達成し、現在、高速増殖炉でプルトニウムを燃焼しつつ、トリウムをウラン233に転換する段階に入っている。着火剤は、ウラン原発の廃棄物でもあるプルトニウムを利用する。
現在、約1万世帯を賄える発電量である1000kWクラスの幅5m、高さ1m、奥行き2mの小型炉などが研究されている。小型の溶融塩原子炉には黒鉛減速材を使用する方式を取っている。1000kW級の小型トリウム原発の場合、燃料の崩壊熱が少なく、また燃料である700℃に溶けた溶融塩の液体トリウム自体が自然循環し空冷可能であるため、冷却機能喪失時も受動的安全を保つ。従来の軽水炉等のような燃料棒自体が存在しないため、冷却機能喪失時の燃料棒溶解、燃料棒と冷却水との反応による水素発生、といった事象は起こりえない。
さらに不測の事態が発生した場合は、重力によって燃料塩を一次系の下部に設置されているドレインタンクへ自動排出させる安全装置が存在する。ドレインタンクと一次系は凝固弁(フリーズバルブ)によって繋がれている。冷却機能喪失等による燃料の過熱が起きた場合には、このバルブが先に熱によって溶融し、燃料塩は下のドレインタンクに落下、排出される。つまり緊急時には外部からの制御を必要とせずに自動的に燃料の排出が行なわれる。ドレインタンク内で溶融塩は450℃以下に自然冷却されてガラス状に凝固し、放射性物質の飛散を防ぐ。またドレインタンク内に減速材となるものが存在しないため再臨界もおこりえない[2]。一方で、溶融塩として用いられるフリーベ(LiF-BeF2)の構成元素であるベリリウムやフッ素に関する化学的毒性の問題が懸念されている[3]。
また、トリウムは転換(増殖)できるため燃料消費量が少ないとされる。トリウム溶融塩炉では、気体核分裂生成物を運転しながら抜くことができるため、一次系の溶融塩中の核分裂生成物が増えて中性子を吸収するまでの間、燃料交換なしで最大30年連続運転が可能と言われている。したがって燃料交換回数が減り、再処理工場の処理量を減らすことが可能となる。ただし、このような設計は配管が長期間溶融塩と接触し続けることに繋がるため長期の耐食性が問題となり、核分裂生成物によって配管に長期的な腐食が起きる可能性が指摘されている[4]。
プルトニウム発生量は、年間100万kWの軽水炉で約230kgに対して、上述の規模のトリウム溶融塩炉では約0.5kgである。
発生するプルトニウムはほとんどプルトニウム238であり、兵器に適するプルトニウム239が十分に含まれていない[5]。かつ生成されるウラン232(半減期68.9年)からできる娘核種タリウム208(半減期3分)が強烈なガンマ線を放つため、ウランを核兵器に転用するのも困難であり(稼働中、核燃料中にタリウム208が占める線量の割合は小さく、保守・運用の点では問題ない[6][7])、その点では途上国への導入が期待される。
放射性ヨウ素、放射性セシウム等の核のゴミは出るため、いずれにせよ使用済み燃料や高レベル放射性廃棄物の処理は必要となる[8][2]。
欠点として溶融塩の侵食性が高く、圧力容器や配管の腐食による脆化の対策が軽水に比べて困難である点があげられる。これに対して、東京工業大学の関本博が、タンク型高速溶融塩炉を発案している。これは大型の容器型の原子炉内で溶融塩を自然対流させる構造で、配管のような細い部分を高速で流れることがないため脆化対策や圧力容器破損時の対策が容易になる。炉内に熱交換器を設けることで原子炉を冷却し熱出力を得る。
2011年から12年にかけて、静岡県の川勝平太知事が記者会見にてトリウム溶融塩炉について複数回言及している[9]。
2016年3月カナダのテレストリアル・エナジー社が独自開発した溶融塩炉の建設計画を申請[10]。2020年代に商業用実証炉の完成を目指す予定。
2021年、中国は2030年をめどにトリウム溶融塩炉を建設する計画を発表。冷却装置が不要であるメリットに着目してゴビ砂漠などに建設する予定[11]。
アメリシウムへの壊変
241Puの半減期は14年であることから、1年間に約5%がアメリシウム241(241Am)に壊変する。241Amは半減期432年のアルファ線源で、熱中性子の照射では核分裂を起こさない。使用済み核燃料を再処理する前の保管期間が長くなるとより多くの241が生成するため、数百年から数千年に渡って核廃棄物に含まれる放射能のうち大きな割合を占め続けることになる。
アメリシウムはプルトニウムやネプツニウム、ウランより原子価および電気陰性度が低い。このため、再処理の際にはランタノイドやストロンチウム・セシウム・バリウム・イットリウムといったアルカリ金属の分画に抽出され、特別な処理を行わない限り核燃料としてリサイクルされることはない。
熱中性子炉では、 241Amは中性子を吸収してアメリシウム242となり、約80%は速やかにベータ崩壊してキュリウム242(242Cm)、17.3%は電子捕獲により242Puとなる。242Cmと242Puはいずれも中性子捕獲も核分裂も起こさないが、242Cmは半減期160日でアルファ崩壊して238Puとなり、さらに中性子を捕獲すれば239Puとなり核分裂を起こす。すなわち、241Amが核分裂性同位体になるためには中性子を2つ吸収する必要がある。
使用済み核燃料には超寿命核種である超ウラン核種や大量の核分裂生成物などが含まれており、その危険性と処理の困難さのため、その処理・処分が世界的な問題となっている。なお、日本においては使用済み核燃料自体は再処理を行うため廃棄するものではない。
概要
核燃料は、原子炉に装荷し燃焼させる(核分裂反応を持続させる[3])ことでその核エネルギーを取り出す、またはプルトニウム239を生成する[4]ことができる。しかしながら核燃料は、
燃焼が進むにつれて、核分裂性のウランやプルトニウムが減少することによって中性子発生数と発熱量が低下し、核分裂生成物(特に希ガスや希土類)が大量に蓄積し、核分裂の持続的な燃えやすさ(余剰反応度)が低下する
燃料被覆管には、腐食や応力によるクリープ変形からくる寿命が存在する
といった理由から、核分裂性物質[5]を使い果たす前の適当な時期に原子炉から取り出し、新しい核燃料と交換する必要がある[6]。この取り出された核燃料を使用済み核燃料(spent nuclear fuel)[7]と呼ぶ。
3%濃縮ウラン燃料 1t が燃える前の組成はウラン238が 970kg、ウラン235が 30kg であるが、燃焼後は、ウラン238が 950kg、ウラン235が 10kg、プルトニウム 10kg、生成物 30kg となる[8]。
上記からわかるように使用済み核燃料の中には、大量の核分裂生成物と共に核分裂性物質や親物質[9]が残存していることから、これらを回収して再び核燃料として利用するということが考えられる。天然ウランなどの原料を精製・加工することで核燃料を作り、それを原子炉で燃焼させ、その使用済み核燃料を再処理して再び核燃料として利用する[10]という一連の核燃料循環過程は核燃料サイクル (nuclear fuel cycle) と呼ばれる[6]。
一般的には原子炉で使用された後、冷却するために原子力発電所内にある貯蔵プール(英語版)で3年 - 5年ほど保管される。その後、核燃料サイクルに用いるために再処理工場に輸送されて処理が行われるか、高レベル放射性廃棄物処理場での長期保管が行われる。
日本においては青森県六ヶ所村に六ヶ所村核燃料再処理施設の建設が行われている。
主な国の使用済み核燃料の保有量
2007年末の時点。
国名 トン
アメリカ 61,000
カナダ 38,400
日本 19,000[11]
フランス 13,500
ロシア 13,000
韓国 10,900
ドイツ 5,850
イギリス
スウェーデン 5,400
フィンランド 1,600
このうち日本、フランス、ロシア、イギリスは再処理を実施している[12]。
処理・処分
原子力発電の核燃料サイクルにおいては、様々な放射性廃棄物が各工程で発生する。その内比較的低レベルの放射性廃棄物の一部は処分されているが、大半は最終処分待ちの状態で各原子力発電所、核燃料施設、研究施設などで保管されている[13]。
使用済み核燃料の再処理
詳細は「再処理工場#再処理」を参照
原子炉の燃料である核燃料として使用できる物質は主にウラン235とプルトニウム239である。そのうち、プルトニウムは天然にほぼ存在せず、原子炉の中でウラン238から生成される。さらに、石炭や石油による火力発電とは異なり、核燃料は原子炉中ですべて核分裂反応してエネルギーに変換されるわけではなく、大部分はそのまま使用済み核燃料中に存在している。
そこで、これらを核燃料として再利用するために回収することが考えられるが、それを使用済み核燃料の再処理 (spent nuclear fuel reprocessing) と呼ぶ[14]。
使用済み核燃料の再処理の方法としては、ピューレックス法 (PUREX: Plutonium and Uranium Recovery by EXtraction) が実績もあることから主に用いられる。ただし、この方法では使用済み核燃料をいちど硝酸によって溶解させて水溶液にする必要があり、高いレベルの放射性廃液(高レベル廃液: High-level liquid waste)が発生することになる[15]。この高レベル廃液は、液体であるので取り扱いやすくするようにガラスで固められ(ガラス固化体)、高レベル放射性廃棄物と呼ばれることになる[16]。
日本においては、この高レベル放射性廃棄物は地上管理施設で冷却・保管(30年 - 50年)した後、地層処分(第一種廃棄物埋設)することとなっている。
詳細は「地層処分」を参照
ワンススルー方式(直接処分)
日本以外の国(アメリカなど)においては、コスト追求と、他国に再処理をやめるように勧告するなどのために、使用済み燃料を再処理しないでそのまま冷却保管し、地中のコンクリート構造物で保管するというワンススルー方式[17](once throw method, 直接処分)がとられることがある。日本においては、使用済み核燃料は廃棄するものではないため直接処分は実施されていないものの、2013年度(平成25年度)から研究開発は進められている[18]。
この方式の場合のコストは1キロワット時あたり0.7円弱と見積もられており、再処理コストがかからない分、再処理を実施する場合よりも安くなる。また、この方法で処分される放射性廃棄物は放射能の低いウラン238が大部分を占めるため、再処理で濃縮された高レベル廃棄物よりは初期の質量あたりの放射能は小さい。ただし、半減期が300年から数十億年に及ぶマイナーアクチノイドやウランやプルトニウムの寄与が大きく、長い年月を経ても放射能はあまり低下しない[19]。
プルトニウム抽出による核兵器製造
一般に、低濃縮ウランからなる核燃料を原子炉で「燃焼」させると、ウラン238が中性子を吸収することでプルトニウムが生成される。再処理はそのプルトニウムを抽出する処理であることから、使用済み核燃料と再処理工場を保有することは、核兵器の原料であるプルトニウムを得ることができることを意味する。
ただし、プルトニウムと一口に言っても、その同位体組成の違いが爆弾としての性能に影響する[20]。核兵器に使用されるプルトニウムはウラン238から生成されるプルトニウム239である。核燃料の燃焼を続けると、さらに中性子を吸収して、自発核分裂により不完全核爆発の原因となりやすいプルトニウム240などに変化する。したがって、軍事用プルトニウム生産原子炉では、なるべくプルトニウム239の純度が高くなるように短期間で再処理にまわす[21]。一方で、発電用原子炉では高出力を目的とするためプルトニウム239が他の同位体に変化する割合が高くなる[22][23]。
そのため、原子力発電所の使用済み核燃料から分離したプルトニウムは原子爆弾に使用することができないということが主張されることがある[22][24]。
しかしながら、プルトニウム240の割合の増加は爆弾の設計や作業工程を複雑にすることはあっても、不可能にする要因ではなく、実際に、使用済み核燃料から抽出した金属プルトニウムが8kgあれば臨界を起こすと言われる[22][25]。
ウラン原爆は経年劣化がなく取り扱いやすい優秀な兵器が作れる半面、ウラン濃縮に大変な電力と時間が必要されるため、核兵器を大量に作るには不向きである。そのため、5大国の核兵器は実験用を除くほとんどすべてがプルトニウム爆弾であり、北朝鮮も黒鉛炉で兵器級プルトニウムを生産している。
脚注
[脚注の使い方]
^ 用語辞典(1974) p.164『使用ずみ核燃料』
^ 天然ウランよりウラン235の含有量が2% - 4%程度に濃縮されたウランを低濃縮ウランと呼ぶ。発電工学(2003) p.194
^ 一般的な燃焼(酸化反応)の場合、たとえば石炭を燃焼させる場合は、温度がある程度高ければ酸素 (O2) さえ供給すれば燃焼が続く。核燃料の場合は、中性子の供給が必要となる。発電工学(2003) p.188
^ 原子炉内ではウラン238は中性子を吸収してプルトニウム239に核変換する。プルトニウム239はウラン235同様に核分裂を起こす核種である。
^ 核分裂反応を起こす核種であるウラン235やプルトニウム239を核分裂性物質 (fissile material) と呼ぶ。発電工学(2003) p.186
^ a b 発生工学(1980) p.236
^ 使用済燃料 (spent fuel) とも呼ばれる。
^ 生成物 30kg の内訳は、下記の通り。
白金族:2kg
短半減期核分裂生成物 (SLFP):26kg (ストロンチウム90、セシウム137など高発熱量は 10kg、即ガラス固化できる低発熱量は 16kg)
長半減期核分裂生成物 (LLFP):1.2kg (ヨウ素など半減期7000年前後のもの[要検証 – ノート])
マイナーアクチノイド (MA):0.6kg (アメリシウムやネプツニウムやキュリウムなど、ウランやプルトニウムと化学的性質が近い元素)
^ ウラン238のように中性子照射によって核分裂性物質に転換するものを親物質(fertile material)と呼ぶ。発電工学(2003) p.186
^ ただし、プルトニウムについては、高速増殖炉の燃料として貯蔵されており、本当の意味でのリサイクルはしていない。 発生工学(1980) p.237 なお、現在においてはMOX燃料としての利活用の方法も存在する。日本において、使用済み核燃料から抽出されたプルトニウムはプルトニウム240の割合が高いため核兵器の材料としては品質が悪いが危険性はあるため大量に貯蔵することは好ましくないとされている。
^ NHKスペシャル “核のゴミ”はどこへ〜検証・使用済み核燃料 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
^ 毎日新聞13面(2012年3月13日付朝刊)
^ 以下は2007年時点での日本における放射性廃棄物の在庫である
L1 使用済み核燃料 14,870トン
L2 放射性廃棄物の貯蔵量
L2.1 高レベル放射性廃棄物 ガラス固化体(120リットル容器)1,614本(原研247本、原燃1,367本)、高レベル液体廃棄物404m3
L2.2 発電所廃棄物
L2.2.1 均質固化体、充填固化体、雑個体 625,169本(200リットルドラム缶換算)
L2.2.2 蒸気発生器 29基
L2.2.3 制御棒、チャンネルボックス等
制御棒 91m3(東海発電所)、8,987本(その他の原発)
チャンネルボックス等 62,183本
その他 1,665m3
樹脂など 17,370m3
L2.3 長半減期低発熱放射性廃棄物
103,933本(200リットルドラム缶換算)、濃縮廃液、スラッジ、廃溶媒など3,908m3
L2.4 ウラン廃棄物
44,139本(200リットルドラム缶換算)、低レベル液体廃棄物21.29m3
L2.5 研究施設等での廃棄物
固体廃棄物 332,033本(200リットルドラム缶換算)
液体廃棄物 62.33m3
L2.5.2 廃棄業者が保管している廃棄物
固体・液体廃棄物 119,011本(200リットルドラム缶換算)
— 資源エネルギー庁による集計値 平成19年度 (2007)
、「L附属書」
原子力発電に代表される原子力エネルギーの利用に伴って発生し[2]、また医療[3]や農業、工業における放射性同位元素(RI)の利用によっても発生する。日本においては、その発生源に応じて取り扱いを規定する法律及び所管官庁が異なる。
概要
放射性廃棄物はその定義から放射性物質を含む、すなわち人間にとって有害な放射線を放出しておりその取り扱いには一般に注意を要する[4]。一口に放射性物質といっても発生源及びその性質などに応じて分類され処分方法も変わってくる[5]。
日本の国内法においては、核燃料物質であるかそれ以外の発生の放射性同位元素(radioisotope:RI)であるかの違いによってその取り扱いを規定する法律は異なる。なお、日本においては、放射性廃棄物は、廃棄物の処理及び清掃に関する法律で定義される「廃棄物」には原則として該当しない[6]。ただし、その放射性物質を含む廃棄するものの放射能のレベルがクリアランスレベル以下または規制除外対象であるなどといった場合は、法定上は放射性廃棄物とはみなされず産業または一般廃棄物として処理される。
原子力発電所から出る放射性廃棄物の場合、原子炉から取り出した使用済み核燃料[7]や、作業員が使用した衣服やこれの除染に用いた水など多岐に渡る。使用済み核燃料は一時保管した後、再処理工場に運ばれる。再処理工場からは、燃料棒の部品、また燃料棒のペレットに含まれる核分裂反応による生成物(核分裂生成物)や、湿式によるウラン・プルトニウムの分離抽出の過程で発生した廃液などの放射性廃棄物が発生する。発生別により、ヨウ素を閉じ込めるための廃銀吸着剤、二次廃棄物(MOX燃料施設から発生するものも含む)等の内、ウラン燃料を加工する施設から発生するウランで汚染された廃棄物は特にウラン廃棄物と呼ばれる[8]。
日本における放射性廃棄物の分類
法令に基づいた分類
日本においては、法律に基づいて、放射性廃棄物は(a)核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律に言う放射性廃棄物[9](以下、核燃料廃棄物という)と、(b)それ以外の法律によって規制される放射性廃棄物(以下、RI廃棄物という)に大別することができる。さらにRI廃棄物は
(b-1)放射性同位元素等による放射線障害の防止に関する法律における研究分野からのRI廃棄物(以下、研究RI廃棄物という)と、
(b-2)医療法、薬事法、獣医療法及び臨床検査技師等に関する法律における医療分野からのRI廃棄物(以下、医療RI廃棄物という)
に分けることができる[10]。
特別措置法によるもの
平成22年度までは法的には概ね上記のように分類されていたが、平成23年3月11日に発生した東京電力福島第一原子力発電所の事故を受けて平成二十三年三月十一日に発生した東北地方太平洋沖地震に伴う原子力発電所の事故により放出された放射性物質による環境の汚染への対処に関する特別措置法(放射性物質汚染対処特措法)が公布および施行されることとなり、その中で言う(c)特定廃棄物(指定廃棄物及び対策地域内廃棄物からなる)と呼ばれる放射性廃棄物の分類が新たに導入されることとなった[11]。
IAEAの分類を参考にした慣習的な分類
日本において放射性廃棄物は、慣習的に、使用済み核燃料の再処理における溶解に使った硝酸を主とする廃液及びその固化体のみを指す高レベル放射性廃棄物(High Level Waste、HLW)[12]と、それ以外のものを指す低レベル放射性廃棄物[13]の二つに分類される[14]。なお、低レベル放射性廃棄物は、その中でアルファ放射体[15]を多量に含むものはアルファ廃棄物もしくはTRU廃棄物[16]と呼ばれさらに区分される[14]。
「放射性物質として扱う必要の無い物」に関する制度・概念
放射性廃棄物とは、使用済みの放射性物質及び放射性物質で汚染されたもので以後の使用の予定が無く廃棄されるものを言うが、放射線の検出は物理現象の中でも最も鋭敏に検出できるものであることから、極端なことを言えばすべての廃棄するものを放射性廃棄物とすることができる。しかし、この場合、規制の対象となるものは膨大となり、規制制度自体が機能しなくなることにつながる。
このように、放射線防護に関する規制の枠組みの中にある放射性物質であっても、その規制自体をうまく機能させるためには、その量が微量であり人の健康に対する影響が無視できる、または規制をしても効果がほとんどないなどといった場合は、それを放射性物質として扱う必要の無い物としてその規制の枠組みから外しても良いという制度や概念が必要となる。
放射性物質を含んでいて廃棄するものであっても、それら制度や概念を適用することにより条件によって放射性廃棄物として規制外となれば、例えば廃棄物処理法でいう「廃棄物」として埋設処分するなど[17]といったことができるようになる。
クリアランス(clearance)または規制免除(exemption)
人工放射性物質に起因する被曝線量が「自然界の放射線レベルと比較して十分小さく」また「人の健康に対するリスクが無視できるものである」ならば、規制の枠組みから外しても良いという考え方をクリアランス(clearance)と呼ぶ[18]。また、放射性物質として扱う必要のないものを区分するレベルをクリアランスレベル(clearance level)と呼ぶ[19]。
クリアランス制度が適用される放射性物質を含むものは、その定義より人の健康に対するリスクは無視できる程度であると言うことができる[20]。
日本においては1997年から原子力安全委員会は、IAEAの技術文書[21]に示されたクリアランスレベル算出の考え方に基づき、発電用原子炉(軽水炉、ガス炉、試験研究炉)などを対象として委員会報告書をとりまとめた[22][23]。
規制除外(exclusion)
自然放射性物質[24]による被曝のように「規制が不可能で規制のしようがない」または「規制をしても効果がほとんどない」ならば、規制の対象にしないことを規制除外(exclusion)と呼ぶ[25]。
規制除外廃棄物は、その定義から規制の対象とはならないが、かといってクリアランス制度の対象とは限らないので人の健康に対するリスクが無視できる程度の廃棄物とは言い難い。
核燃料廃棄物の処理・処分
核燃料廃棄物は、便宜上その発生源に応じてさらに次のように分類される[26]。
発電所廃棄物:原子力発電所の運転、保守、解体に伴って発生する廃棄物をいう[27]。
高レベル放射性廃棄物:使用済み核燃料の再処理における溶解に使った硝酸を主とする廃液及びその固化体をいう。
TRU廃棄物:MOX燃料加工や使用済み核燃料再処理の運転・保守の結果発生する超ウラン元素(TRU)で汚染された廃棄物をいう[28]。
研究所等廃棄物:発電所ではなく、大学や研究機関の研究開発活動において核燃料物質で汚染された廃棄物をいう。
このうち、人の健康に重大な影響を及ぼすおそれがある高レベル放射性廃棄物と極めて長寿命核種からなるTRU廃棄物は、深い地層への地層処分(第一種廃棄物埋設)が計画されている。ほか、発電所廃棄物については、それらの物性により三段階の地表近くの処分がされることとなっている[29]。
第二種廃棄物埋設:低レベル放射性廃棄物の処分方法
低レベル放射性廃棄物の処分(核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律(昭和三十二年法律第百六十六号)第二種廃棄物埋設)には余裕深度処分、浅地中ピット処分、浅地中トレンチ処分の三つの処分方法がある[30]。トレンチ処分を除く処分はいずれも遮断型処分ではあるが、人工構造物(人工バリア)による完全な放射能の遮断を管理期間中継続させることは困難である。放射能の漏洩による影響を最小限にするために場所(地質・地層、水脈など)および地中深度などが考慮され処分基準となっている。
余裕深度処分
一般的であるとされる土地利用(住居などの建設)や地下利用(地上の構造物を支持する基盤の設置、地下鉄、上下水道、共同溝や地下室としての利用など)に対して十分に余裕を持った深度(地下50〜100メートル程度)に、コンクリートでトンネル型やサイロ型の人工構築物を作り、廃棄物を埋設する方法を余裕深度処分と呼ぶ。シュラウド[31]、チャンネルボックス[32]、使用済み制御棒など主に原子炉の廃止措置に伴って発生する放射能レベルが比較的高いものが対象となる[33]。管理期間は数百年。処分・管理方法等については調査中である。
日本原燃の六ヶ所低レベル放射性廃棄物埋設センターにて次の三号施設として調査中。
浅地中ピット処分
浅い地中(地下約10メートル)にコンクリートピットなどの人工構築物を設置し廃棄物を搬入後、その構築物ごと埋設する方法を浅地中ピット処分と呼ぶ。濃縮廃液や使用済みイオン交換樹脂、可燃物を焼却した焼却灰などをセメントなどでドラム缶に固形化したものなど、主に原子力発電所から排出される放射能レベルの比較的低いものが対象となる[34]。埋設後の管理期間は300〜400年が一つの目安とされている。
日本原燃の六ヶ所低レベル放射性廃棄物埋設センターで一号・二号施設が1992年より稼働している。
浅地中トレンチ処分
浅い地中に素掘りの溝、つまりトレンチ(trench)を掘り、そこにそのまま(人工構築物は設けない)廃棄物を定置することにより埋設処分を行う方法(いわゆる単純な埋め立て)を浅地中トレンチ処分と呼ぶ。コンクリートや金属など、化学的、物理的に安定な性質の廃棄物のうち[35]放射能レベルの極めて低い極低レベル放射性廃棄物が対象である[36]。50年程度の管理期間を経たのち、一般的な土地利用が可能になる[37]。
動力試験炉(JPDR)の解体に伴って発生した廃棄物を処分するために、日本原子力研究開発機構・東海研究開発センター原子力科学研究所・廃棄物埋設施設にて1995年より試験的に実施されている。
第一種廃棄物埋設:高レベル放射性廃棄物等の処分方法
核燃料廃棄物の内、高レベル放射性廃棄物及びTRU廃棄物は地層処分(核原料物質、核燃料物質及び原子炉の規制に関する法律、昭和三十二年法律第百六十六号)されることとなっている。特定放射性廃棄物の最終処分に関する法律に基づき原子力発電環境整備機構(NUMO)が実施主体となって処分する。
詳細は「地層処分」、「高レベル放射性廃棄物」、および「TRU廃棄物」を参照
なお、高レベル放射性廃棄物の処分については様々な方法が検討された。[38]海洋投棄(かつて各国で実施されたが1993年に全面禁止)、地上施設による長期保管(未実施、ただし一時的な中間貯蔵施設は除く)、氷床処分(禁止)、宇宙処分(大気圏外にロケットで打ち上げ太陽系の引力圏外に放出する、もしくは太陽の重力に引き寄せさせる方法。かつて米が検討したがコストと不確実性から不採用)、地中直接注入(米、ソが実施)[39]などが検討され、このうち海洋投棄と地中直接注入処分は実施された[40]。21世紀初頭においては地中埋設処分が各国で採用されている。
RI廃棄物の処理・処分(研究施設等廃棄物の処理・処分)
原子力施設や核兵器関連施設以外にも、原子力の研究施設や大学、医療分野や民間産業分野、農業分野などでも放射性物質を使用する場合があるので、放射性廃棄物は発生する。
RI廃棄物に含まれる代表的な放射性核種は、研究RI廃棄物としては 3H、14C、32P、35S などであり、医療RI廃棄物としては、99mTc、125I、201Tl などである。RI廃棄物(研究RI廃棄物および医療RI廃棄物)の大部分はRI協会が集荷し貯蔵している[41]。RI廃棄物等の処分については、2008年に処分実施主体が日本原子力研究開発機構に決まり、法律も改正されることとなった[42]。
放射性物質汚染対処特措法に規定される特定廃棄物等の処理・処分
東京電力福島第一原子力発電所の事故により大気中に放出された放射性物質による環境の汚染が生じることとなった。これによる人の健康または生活環境に及ぼす影響を速やかに低減するため、平成23年8月30日にいわゆる放射性物質汚染対処特措法が公布された(平成24年1月1日に全面施行)[43]。
この特措法に基づき、環境大臣が指定を行う、事故由来放射性物質による汚染状態が8,000 Bq/kg を超える廃棄物は指定廃棄物と呼ばれる。その処理にあたっての環境への影響については、1都15県のごみ焼却施設についてデータを収集・分析したりなどした上で、国立環境研究所[44]によって確認されている[45]。
脚注
[脚注の使い方]
^ 長崎・中山(2011) p.4
^ 原子力発電所および核燃料製造施設、核兵器関連施設などから排出される
^ 病院の検査部門から出るガンマ線源の廃棄などで排出される。
^ 放射性廃棄物を含め、放射性物質はある程度の時間(半減期)が経過すると放射能が弱くなり、やがては大部分が安定した物質に変化する性質を持つ。半減期と単位時間当たりの放射線量は反比例し、半減期の長い物質は単位時間当たりの放射線量は少ない。半減期は放射性核種により異なる。
放射性物質の中には、半減期が極めて長いものも存在する。放射性物質の量は半減期を経過すると元の半分になるが、残った放射性物質がさらに半分(つまり元の1/4)になるのにも、同じだけの期間が掛かる。たとえば、半減期が約12年であるトリチウムの場合、24年後に崩壊が終わり消失するわけではない。12年後に元の量の50%、24年後に25%、36年後に12.5%…と量が減り限りなくゼロに近づくのみで、同時にトリチウムが崩壊してできる安定同位体、ヘリウム3が生成されていく。ウラン等の原子番号の大きい物質は、崩壊後の物質も放射性物質(娘核種)になるため、含まれる全ての放射性元素が崩壊を終え、鉛などの安定同位体に落ち着くまでは、非常に長い期間を要するものもある。
^
放射性廃棄物の区分と処分方法
廃棄物の種類 廃棄物の例 発生源 処分方法
高レベル放射性廃棄物 ガラス固化体 再処理施設 地層処分
低レベル
放射性
廃棄物 高レベルの物 制御棒、炉内構造物、
放射化金属 原子力発電所 余裕深度処分
低レベルの物 廃液、フィルター、廃器材、
消耗品等を固形化 浅地中ピット処分
レベルの極めて低い物 コンクリート、金属等 浅地中トレンチ処分
超ウラン核種を含む廃棄物
(TRU廃棄物) 燃料棒の部品、
廃液などプロセス廃棄物、
フィルター 再処理施設
MOX燃料加工施設 特性に応じトレンチ処分以外の3段階
ウラン廃棄物 消耗品、スラッジ、廃器材 ウラン濃縮
燃料加工施設 特性に応じ全4段階の処理
研究所廃棄物 大学・企業等
研究機関
放射性同位体(RI)
廃棄物 医療機関等
放射性廃棄物の処分方法
処分方法 廃棄物の例 封入容器 人工構造物 深度 管理期間
地層処分 高レベル放射性廃棄物
およびTRU廃棄物 ガラス固化体キャニスター 多重人工バリア
鉄筋コンクリート構造物 300m以深 数万年以上
余裕深度処分 制御棒、炉内構造物
放射化金属および加工・再処理における
プロセス廃棄物等 200リットルドラム缶等 鉄筋コンクリート構造物 50~100m 数百年、
管理内容未定
浅地中ピット処分 廃液、フィルター
廃器材、消耗品等 セメント等で固化した廃棄物を入れた
200リットルドラム缶等 鉄筋コンクリート構造物 十数m 約300年
浅地中トレンチ処分 コンクリート、金属等 廃棄物のまま 人工構造物無し 約50年
概略
現在広く使われている加圧水型原子炉(PWR)や沸騰水型原子炉(BWR)では、燃料に濃縮ウランを用いているが、進行波炉は、ウラン濃縮過程で多く発生する廃棄物である劣化ウランを用いることができる。増殖炉の一種である。
核燃料である劣化ウランにて核分裂連鎖反応が開始された後、その反応が波状的に60年以上かけてゆっくりと進行する炉であることから、進行波炉と呼ばれている。
最初の理論は1958年にソ連のサヴェリー・モイセヴィッチ・ファインバーグが提唱し、1996年には「水爆の父」エドワード・テラーが論文を発表していたが、実用化に向けた研究は進まなかった。日本でも、東京工業大学原子炉工学研究所の関本博教授が、非常によく似た概念である「CANDLE」と呼ばれる方式を研究している[1]以外にはほとんど知られていなかった。しかし、2010年3月に、マイクロソフト創業者のビル・ゲイツが出資するテラパワー社と東芝が共同で技術協力に向けた検討を始めたというニュース[2]以降、日本でも知られるようになった。
炉の反応方法
反応原理は、ウラン238(劣化ウラン)に1個の中性子を衝突させると、ある割合でウラン239(核分裂性ウラン)が生成され、それがβ崩壊してネプツニウム239に変化して、さらにβ崩壊してプルトニウム239(核分裂性プルトニウム)となる。その核分裂性のプルトニウム239に中性子が当って核分裂が生じ、その核分裂によって新たに数個の中性子が放出され、生じた中性子は周囲の反射板に当って段々と速度を落した後にウラン238やプルトニウム239に吸収されて次の反応を促し、核分裂反応が連続的に進行する。以上の過程で生成される熱エネルギーを利用するというもの。
{\displaystyle \mathrm {^{238}_{\ 92}U+\,_{0}^{1}n\;\rightarrow \;_{\ 92}^{239}U\;\rightarrow \;_{\ 93}^{239}Np+\beta \;\rightarrow \;_{\ 94}^{239}Pu+\beta } }{\mathrm {^{238}_{\ 92}U+\,_{0}^{1}n\;\rightarrow \;_{\ 92}^{239}U\;\rightarrow \;_{\ 93}^{239}Np+\beta \;\rightarrow \;_{\ 94}^{239}Pu+\beta }
テラパワー社の資料[3][4][5]に拠れば、冷却材に金属ナトリウムを使用するプール型の炉である。
核燃料としては劣化ウランが用いられる。劣化ウランは、核分裂性のウラン235の含有率が0.2%程度であり、大部分が非核分裂性のウラン238であるため、通常の原子炉では核燃料として使用されない。
核分裂連鎖反応の開始時には濃縮ウランを使用する。一旦連鎖反応が開始された後の通常発電状態、すなわち、定常状態においては、中性子がウラン238に衝突することで核分裂性のプルトニウム239を生み出す。プルトニウムは核分裂し、エネルギーと中性子を生み出す。なお、濃縮ウランは反応開始時のみ必要とされる。
利用済み(核分裂反応が終了した)領域が増大し、利用可能(核分裂反応が可能な)領域が減少することにより、核分裂反応が起こっている領域が徐々に移動(進行)することから、「進行波炉」という名前が付けられている。
柳の枝を曲げた輪に糸を張って蜘蛛の巣に見立て、悪夢を捕らえ防いでくれるよう願った。 オジブウェー語のローマ字ではasabikeshiinhと記され、クモまたはクモの巣を意味する。
1960年代から1970年代のパン・インディアン運動 により、他の少数民族へ広まったとみられ、先住民族、ファースト・ネーションの文化的アイデンティティーを象徴すると見なされもした。もっとも、現在市場に流通しているアクセサリー商品に対しては、その限りでない模様。
概要
オジブワのキャンプ地
現在のアメリカ・カナダ国境付近、五大湖周辺で漁労生活を送っていた彼らは、円または涙形の枠でイラクサの繊維を撚り合わせ、漁に用いていた。 ドリームキャッチャーはこの作業の中から生まれたと考えられ、子供たちの寝床の上に下げて悪霊・悪夢から守ってくれる、魔除けのお守りとなった。
テリ・J.アンドリューズ(Terri J. Andrews)によると、『悪夢は網目に引っかかったまま夜明けと共に消え去り、良い夢だけが網目から羽を伝わって降りてきて眠っている人のもとに入る』とされる[1]。 また、『良い夢は網目の中央にある穴を通って眠っている人に運ばれてくるが、悪夢は網目に引っかかったまま夜明けと共に消え去る』とも言う[1]。
ドリームキャッチャー
その後、ニューエイジ運動などを通じて日本をはじめ世界的に知られ、アクセサリーとして販売されるようになった。しかしこのことは、最も伝統的なインディアンやその支援者からすると、好ましくない文化流用だと見なされている。
関連
ドリームキャッチャー (映画) - ドリームキャッチャーをモチーフにしたSF映画
一方で、地理学の歴史は、環境決定論を克服する方法の開発の歴史としての側面を持っている[4]。その方法の1つとして文化地理学が打ち立てられた[5]。
概要
極端に言えば、「人間は自由意志を持たず、地域の自然環境によって人間活動が決定される」という論である[2]。「環境決定論」の名は、フランスの歴史学者であるリュシアン・フェーブルが著書『大地と人類の進化』の中でフリードリヒ・ラッツェルを環境決定論者、ポール・ヴィダル・ドゥ・ラ・ブラーシュを環境可能論者と呼んだことに由来する[6]。故にラッツェル本人が自身を環境決定論者と認めていたわけではなく[3]、ラッツェルが単に人間が自然を受容することを説いたわけではないことが後世の研究者によって明らかにされている[6]。 また、環境決定論がラッツェル固有の理論ではなく、同時代の地理学者のエリゼ・ルクリュ(Élisée Reclus)の著作にも環境決定論的な見解が示されている[7][注 1]。
平たく言えば、自然条件A,B,C(A≠B≠C)を満たす地域であれば、世界のどこでもDという人間活動が見られる、という主張が環境決定論である。
環境決定論は自然環境の差はすなわち文化の差であるから、新しい考え方や技術、つまりイノベーションはすべての地域で独立して発生することになる[9]。しかしある地域における現実の文化は、他の地域で発生した文化が伝播したものであることが多い[9]。環境決定論者とされるラッツェルは、地理学における移動や伝播の重要性に言及した[10]。ラッツェルの著書『民族学』(Volkerkunde)では文化周圏説を説いており、人類学界では伝播主義の主唱者とみなされている[6]。
環境決定論は長い間、首尾一貫して因果関係を用いた地理学的説明を可能にする唯一の理論として君臨し続けた[11]。その一方で真の環境決定論者と呼べるような人物は少なく、フェーブルが槍玉に挙げたフランスの学者はわずか2人で、ドイツ語圏・英語圏の学者もそれほどいなかった[12]。論者の少なさ、論者の著作の学問的価値の小ささに対して不釣り合いなほど後に感情的に否定されたのは、地理学者の多くが彼らの抱える懐疑と疑問に答えうる唯一の存在として認識しているからだとポール・クラヴァル(Paul Claval)は述べている[13]。また地理学者は一種のノスタルジアを環境決定論に抱いており、フィリップ・パンシュメル(Philippe Pinchemel)は「ある種の決定論を承認し、それを受け入れることなしには、地理学は、自らの統一性と独自性とを同時に喪失する。」と述べている[14]。
ラッツェルの環境決定論
ラッツェルは『人類地理学』において「すべての有機的生命に対する大気の作用はきわめて深く多様であって、人間の環境を構成するほかの自然物(Naturkörper)と比較にならぬほどの影響を及ぼしている。」と述べ、環境の中でも特に気候が人間に与える影響が大きいとした[15]。これ自体は真新しい主張ではないが、ラッツェルは「気候の影響を証明することのできる大気の主要特性、つまり暖かさと寒さや湿潤と乾燥の、さまざまな混合と配合においてのみ」検討することで、従来の人間への未知なる影響をすべて気候に求めるという乱暴な説と一線を画したのである[15]。ここからラッツェルは、北方的な民族性と南方的な民族性に差異が見られることを発見した[16]。そして「往々にして征服者や国家の創設者が北部から現れ、南部の地方を支配下に置くのは偶然であろうか」という問いが浮かんだ[16]。ラッツェルはこれを必然と考え、ゲルマン民族の大移動、ドイツとイタリアの関係、満州民族による漢民族の支配、温帯に住むカフィール族の熱帯への侵入を例として挙げ、北方の冷涼な気候が有利に働いていると解釈した[16]。
一方でラッツェルは影響の間接性を強調した[17]。これはラッツェルが高度の精神生活への自然の影響が、経済的・社会的関係を媒介し、内的なものと相互に結び付くことを分かっていたからである[17]。また進化論の影響から、諸民族が可変性(変異性)の下に置かれているとし、「諸民族がその土地の反映である」という論は誇張だとしている[18]。
ラッツェルの主張は、生涯一貫していたわけではない。初期にはどんな意志の強い人間でさえ、巨大な機械の1本のピンに過ぎない、と考えたが、次第に自然環境に対抗する意志の強さによって環境のもたらす影響の度合いに変化が生じるという考えに変化した[19]。
辞書による定義
各種の地理学辞典では、以下のような解説がなされている。
決定論というのは,一般的には世のなかに生起するすべてのものは,因果の必然的な鎖によって決定されるという哲学概念であるとされているが,地理学では,人間の地域的な生活様式は,人間の自由選択によるものではなく,外的な気候・地形・水界・植生などの自然環境によって必然的に決定される概念で,環境可能論と対立する言葉である。(後略)
— 日本地誌研究所 編『地理学辞典 改訂版』109ページ
人間の活動は環境とりわけ自然環境によって支配されているとする考え方.この考え方によると,個人は感覚を通じて世界に向き合って認識を構築し,環境に対する反応を超えることはできない.(後略)
— Susan Mayhew 編『オックスフォード地理学辞典』49ページ
人間と自然の関係,つまり人間の自然への働き方を考えるのが地理学であるが,その中で因果的な法則を考えるに当り,環境が活動方法を決定するといった1種の宿命論的な考え方が打ち出された.有名なドイツの地理学者のラッツェルなどはそのような考え方に基づいた人文地理学の体系を打立てた人として知られている.
— 金崎肇『地理用語の基礎知識』55ページ
歴史的展開
人間と自然環境の関わりを論じることは、東洋・西洋ともに文明の誕生から今日に至るまで、人類にとって重大な関心事であった[20]。例えば、アリストテレスは気候と文化の関係を論じ、ストラボンは著書『地理誌』(Geographia)において気候が人間生活に大きな影響を及ぼすことを述べている[21]。また、エラトステネスも自然環境の差異が人間社会に大きな影響を与えることに言及している[20]。ルネサンス期以降の近世ヨーロッパにおいては自然科学の発展に伴い、「地理的環境が人間社会の発展を規定する」という環境決定論的な考えが受容されていった[20]。啓蒙思想家も環境論を展開し、シャルル・ド・モンテスキューは主著『法の精神』で自然環境の人間精神や肉体への影響を論じた[21]。
近代に入ると従来の博物学的な地理学を自然科学的手法で体系化する動きが見られ、アレクサンダー・フォン・フンボルトとカール・リッターの2人の有力な地理学者が現れる[20]。フンボルトは生物が環境に適応していることから、人間も同様に自然の因果関係に支配されるとし、リッターは自然の人類発展に及ぼす影響に着目した[20]。2人は近代地理学を切り開いたが、その後地理学は自然の解明を目指す自然地理学と地誌学が併存する形となり、他の学問から独立した「地理学」としての統一性は失われつつあった[22]。「自然地理学こそ科学的地理学である」という考えが優越し、人文地理学が停滞するようになった[2]。
そうした状況に変革をもたらしたのはチャールズ・ダーウィンが1859年に発表した『種の起源』と進化論である[22]。進化論のドイツでの有力な紹介者であったエルンスト・ヘッケルから動物学を学んだラッツェルは、進化論の枠組みを用いて『人類地理学』(Anthropogeographie)を著し[23]、地域の自然環境の諸性質によって人間活動が著しく制限される、と説いた[2]。この学説は各国の地理学界に影響を与え、アメリカのエレン・センプル、フランスのジャン・ブリュンヌ、イギリスのハルフォード・マッキンダー、更に日本の内村鑑三・牧口常三郎らに影響が窺える[24]。これほどまでに広く受け入れられたのは、ラッツェルの考えが隣接諸科学から学ぶことを容易としたことと、地理学者を悩ませていた「地理学の統一性と有効性は何か」という問いに関して、環境決定論が「地理学は環境の人間への影響を研究する学問であり、自然科学と人文科学の結合点に位置することから重要である」という明快な答えを与えてくれたからである[25]。ブラーシュは環境決定論を批判したが、ラッツェルの地理学の本質(地理学の統一性と有効性に対する答え)を最も良く指摘した人物でもあった[25][26]。
ラッツェルの考えは弟子らによって強調されすぎたため、フランスのブラーシュによって非難された[27]。ブラーシュの論は、自然環境の制約は認めるが、それだけで人間行動が決定されるわけではない、と説いたため環境可能論と呼ばれている[27]。ラッツェル自身の認識はともかく、ラッツェルの地理学上の業績は、政治的なプロパガンダに利用されやすいものが多かったことは否定できない[3]。スウェーデンの政治学者ルドルフ・チェレン(Rudolf Kjellén)は、ラッツェルの政治地理学思想である国家有機体説を政治学に取り込むことで地政学を打ち立て、地政学の系譜を引き継いだカール・ハウスホーファーによってナチス・ドイツの領土拡張主義と民族的優秀性を裏付ける理論的根拠を与えた[28]。ハウスホーファーの学説は日本の大東亜共栄圏の思想的基盤となったと考えられている[29]。また、環境決定論の要素を含んだマッキンダーのハートランド理論は、ニコラス・スパイクマンのリムランド理論と結びついて冷戦時代にソビエト連邦に対するアメリカの封じ込め政策に利用された[29]。こうして環境決定論が地政学と結びついた反省から、環境決定論は日本の地理学界においてタブーとなったのであった[28]。
アメリカにおける普及
アメリカにおいては一部の州において高等学校でダーウィンの進化論を教えることが禁止されている一方、進化論から派生した環境決定論を単純化した、通俗的な環境決定論が幅広い支持を得ている[26]。背景には、エレン・センプルとエルズワース・ハンティントンの著書が広く読者に受け入れられたことがある[26]。
センプルは、ラッツェルの著書『人類地理学』(Anthropogeographie)に影響を受けライプツィヒ大学に留学、ラッツェルの講義を受講した[30]。その後、1911年に『環境と人間 ― ラッツェルの人類地理学の体系に基づく』(原題:Influences of Geographic Environment: On the Basis of Ratzel's System of Anthropo-Geography)、1913年に『アメリカの歴史とその地理的状況』(American History and Its Geographic Conditions)を執筆した[3]。前者は学問的には厳密ではなかったが環境の文明への影響を平易な文章で記述し、後者はアメリカ合衆国の歴史における過酷な自然への適応と競争による淘汰を正当化したため、一般の読者に受け入れられた[31]。『環境と人間』は「人間は地表の産物である。」という文章から始まり[32]、「ラッツェルの人類地理学の体系に基づく」と銘打っていたことから、ラッツェルを環境決定論者として規定する要因の一つとなったのである[33]。
ハンティントンは、中央アジアや中近東、中央アメリカなど世界中を旅行し、気候が文明に与える影響に関心を持ったことから1915年に『気候と文明』(原題:Civilization and Climate)を著した[26]。センプルの著書同様、学問的厳密性に欠けていたが、過酷な条件下で民族が環境を克服しようとする力が文明を生み出すと説き、支持を集めた[26]。さらに、イギリスの歴史家・アーノルド・J・トインビーは「挑戦と応答」という概念の中に、この説を取り入れた[26]。
アメリカでは、他国の地理学界が環境決定論を脱していた1920年代においても依然として環境決定論が支配的で[34]、1930年代までアメリカ地理学の主流であり続けた[35]。当時のアメリカの地理学界は人間の生業から人間の肉体・精神に至るまで環境が能動的に影響を及ぼす因子と考えられていた[36]。これに立ち向かったのがカリフォルニア大学バークレー校教授のカール・O・サウアーであり、人間が文化を通して地表面に能動的に働きかけると主張した[37]。農業地理学の分野からも、1930年代になると環境決定論に反発する声が上がり、自然環境以外の諸要因から農業活動の差異を探る動きが始まった[38]。
環境決定論の否定と見直し
環境決定論は帝国主義を肯定するものとして、戦後に激しく非難された[39]。ハンティントンの「気候と文明の関係」が環境決定論であるとされてからは、環境と人間の関係を議論することはタブー視されるようになった[40]。1950年代に人文地理学へ幾何学的(数学的)な一般法則から地理的事象を分析・理解しようとする空間分析(Spatial analysis)が盛んになると、反対派から「(幾何学的)環境決定論である」との声が挙がり、批判的に「環境決定論」の語が使われた[41]。
1970年代から1980年代の日本の地理学界においては、環境決定論を否定し、人類の叡智・技術による限りない未来、という考え方が支配的であった[42]。大学教育においては、諸悪の根源のように言われることもあった[43]。この背景に、第二次世界大戦での日本の敗戦がある、と国際日本文化研究センター教授の安田喜憲は指摘している[42]。ハンティントンの『気候と文明』が、結果的に白人による植民地支配を正当化する理論となったからである[42]。1976年(昭和51年)、山本武夫は屋久杉の年輪から復元された気候変動データを用いて、環境決定論的に日本の歴史を説明した[44]。山本の説明によれば、10世紀〜12世紀の温暖期に東日本で武士団が勢力を拡大して律令制が崩壊、15世紀に小氷期に入って戦国時代に突入、16世紀末から17世紀中頃の温暖期に豊臣秀吉が天下統一を果たし徳川氏が江戸幕府の基礎を固めた、という[45]。1990年代に環境問題への社会的関心が高まると気候と文化・文明の関係が研究されるようになった[42]。
安田によれば21世紀に入ってから遺伝学や栄養学の分野で環境決定論が正しいとする説が証明されつつあるという[46]。今井清一は、環境の影響を環境決定論のように重視しすぎることは誤りであるが、環境を軽視してよいということでもなく、社会の進歩によってさらに重要となってくる、と述べている[24]。ハンティントンの『気候と文明』は様々な工夫を凝らしていたことから熱帯医学の分野で再評価され、人間生物学にも影響を及ぼしている[47]。
分布の一致と環境決定論
地図を使った説明では、しばしば分布の一致をもって両者に関係がある、とすることがある[48]。これは地理学のみならず、日常会話の中でも知らず知らずのうちに使われる論理である[48]。
具体例として良く知られたものに、エルズワース・ハンティントンによる「気候と文明の関係」がある[48]。ハンティントンは人間の活動の能率に与える気候要素の影響を調査し、「気候的指数」を作成、世界地図に分布を示した[48]。「気候的指数」は値が高いほど活動エネルギーが高くなる[49]。また、ハンティントンは世界中の学識者を対象に各国の文明度に対する認識を調査、その結果も世界地図に分布を示した[50]。この文明度アンケートにはアジア人が5名回答しており、日本人回答者は新渡戸稲造・山崎直方・原勝郎[要曖昧さ回避]の3人であった[39]。するとこの2枚の世界地図は、全く別のデータから作成したにも関わらず、分布傾向がよく一致したため、ハンティントンは「気候が文明を決定する」と結論付けた[40]。そして現代の気候から説明できない古代文明については低気圧の経路変更などの気候変動が原因である、とした[40]。
後にハンティントン説は環境決定論であるとされ、環境と人間の関係を語ることが忌避されるようになったが、河西英通は問題視すべき点は、文明を気候で説明することではなく、「文明の高低差」に見られる差別意識である、とした[39]。
地理学以外の環境決定論
ここでは、地理学以外の分野で「環境決定論」と呼ばれる理論について解説する。
組織の適応における環境決定論
組織が環境に適応していく方法としては、環境との関わりに着目すれば、環境決定論と戦略的選択論の2つに大別される[51][52]。ここでいう環境決定論は、コンティンジェシー理論(Contingency theory)と呼ばれ、組織の構造・プロセスを環境に適合させれば業績を出すことができる、というものである[53]。一方の戦略的選択論は、ポスト・コンティンジェシー理論とも言え[52]、環境決定論の一元的な図式に対して、組織と環境の間に意志決定者である経営者が介在するとし、経営者による主体的な選択を認めるものである[54]。別の言い方をすれば、カオスの中から新しい環境を創造することができる、という理論である[55]。
性格形成における環境決定論
イギリスのロバート・オウエンは、人間の性格は環境によって形成されると述べ、環境決定論と呼ばれている[56]。ここで言う「環境」とは自然環境ではなく社会環境である[57]。宿命論と言うこともできる[57]。人間の欲求や行為は、先行する環境が形成した性格によって決まり、各人は行為に責任を持つこと、主体的に関わることができない。また、その環境は各人を思って性格を作り上げると主張する[58]。このような思想に至ったのは、産業革命下の労働者の労働環境と生活環境が劣悪で、労働者は怠惰・不道徳・労働意欲がない、とオウエンが解釈したためである。また、ダーウィンは道徳・良心・罪の意識は人間の育った環境により形成され、自然淘汰の結果である、と考えた[59]。
ジョン・スチュアート・ミルは環境が性格を形成することは認めるが、既に持っている内的経験から生成される願望によって性格を変えることができるとした[60]。ミルは、環境決定論が「内的経験」の側面を見落としているとし、自分の性格を望ましい方向に変えることができると述べた[60]。
生物学における環境決定論
生物学における環境決定論は、ダーウィンによれば「生物は環境を変えることはできず、環境によって変化していく」という理論である。環境決定論はある環境が原因で、ある生物が存在する、と規定しているため、生物の主体的な環境への適用が否定され、進化も否定される。
資源変動に関する環境決定論
資源変動の要因を説明するために導入される環境決定論は、自然変動論とも称し、生物の発育初期(特に卵から稚仔の段階)での死亡量の大小が資源量を決する、という考え方である。
例えば、スルメイカの資源変動に環境決定論を適用した伊東祐方は、寿命が短く浮魚的性質の強い種は、水温などの環境の作用を受ける、とした[64]。これに対する概念は、人為変動論である[64]。人為変動論では人間による乱獲がスルメイカの漁獲減少につながり、人間が漁獲をしなければスルメイカの個体数は限界値で安定する、としている。
心理学における環境決定論
心理学における環境決定論は、人間の意識や心といった曖昧な概念を除外し、外的な力が人間にある特定の行動をとらせる、というものである。また、行動は学習によって獲得されるものである、とする。伊藤"混みあいに関する環境心理学的考察―公共的な空間を対象とした検討―"(2003)は、この説が正しければ、人間にとって適切な音量は1つに決まり、ある特定の色は人間に特定の反応を引き出すことになる、という事例を紹介している。
環境決定論は非常に単純な環境観を示しているが、心理の内面ではなく、目に見える客観的事実に基づく研究は、心理学において画期的であった。
その大きさより"スーツケース型核爆弾"や"超小型核爆弾"とも称される。
概要
アメリカ海軍およびアメリカ海兵隊の特殊部隊向けの装備で、爆破器材の一つに分類される。空挺降下もしくは潜水により隠密潜入する兵士によって運ばれ、重要施設・地点の所定の場所に設置・爆破する運用構想であった。
全体は大きめの背嚢ほどの大きさに取りまとめられており、重量は68kg。兵士が背負って運ぶことが可能である。使用弾頭はW54核弾頭であり、機械式タイマーにより起爆する。核出力は可変であり、10tから1ktまで選択できた。
1965年より配備され、1989年、冷戦の終結ともに退役した。
登場作品
小説
『復讐戦(PAYBACK)』
冷戦中に東ドイツに設置する目的で米特殊部隊のチームが降下するも、アクシデントにより全員死亡し、SADMも当局に押収される。時は流れ冷戦後、テロリスト・グループにSADMと暗号鍵が渡ったことから、事態が動き出す。
『スーツケース一杯の恐怖』
冷戦中にソ連で開発されたスーツケース核爆弾がアメリカ国内に持ち込まれ、そのうち数個が行方不明となっていた。
アニメ
『聖戦士ダンバイン』
巨大空中戦艦を破壊するため、超小型核爆弾が家具に偽装されて贈り物として届けられた。
漫画
『砂の薔薇』
テロリストによって製造された超小型核爆弾を回収するため、対テロ部隊の主人公たちが出動する。
ゲーム
『バトルフィールド3』
シングルプレイの「OPERATION GUILLOTINE」にて、主人公のヘンリー・ブラックバーン達が発見した小型核爆弾は、運搬ケースの外観がSADMに酷似している。大型の収容容器の空きスペースから元は3発収められていたが、発見時には1発しか収められておらず、こちらは「FEAR NO EVIL」にてブラックバーン達の手によってヘリに乗せられ、安全圏へと運ばれた。そして残る2発はソロモンとPLRによってパリとニューヨークへ運ばれ、前者は「COMRADES」の終盤で爆発してパリ市民8万人を死なせる大惨事を引き起こすが、後者は「THE GREAT DESTROYER」でブラックバーンがソロモンとの戦いに勝利して、爆発を阻止させた。
「KAFFAROV」におけるアミール・カファロフやもう一人の主人公ディマことディミトリ・マヤコフスキーの言、そしてブラックバーンを尋問するCIAの尋問官の言を総合すると、小型核爆弾はロシア製でカファロフがソロモンの意によって調達した物であり、その威力はロシアのスーツケース核爆弾と一致するとのこと。
『サイバーパンク2.0.2.0.』及び『サイバーパンク2077』
第四次企業戦争で、アラサカタワーを破壊する為にミリテクの突入部隊が使用。当初はタワーのみを破壊する予定だったが、地上120階で爆発した為にナイトシティ中心部が壊滅した。
概要
プリマチェンコは、デッサン、刺繡、陶磁器の絵付けに携わる。
1937年、パリで開催された国際展示会で、金メダルを獲得。
1966年、タラス・シェフチェンコ国立賞(英語版)の受賞。
1970年、ソビエト連邦の名誉芸術家。
1988年、ウクライナの人民芸術家[1]
パブロ・ピカソは、パリで開催されたプリマチェンコの展示会を訪れた後、「この素晴らしいウクライナ人の芸術的な奇跡の前に身をかがめます」と言った[2]。
ユネスコは 2009年をマリア・プリマチェンコの年と宣言した[3]。
芸術家のイメージの独創性は、彼女のユニークな形式的で様式的な発見(木の描写、コテージの内部と外部の同時表現など)で明らかにされている。
善と悪の闘いは、プリマチェンコのすべての作品に浸透している。
マリア・プリマチェンコの作品は、旧ソビエト連邦、ウクライナ、その他の国々(ポーランド、ブルガリア、フランス、カナダ)で展示された[4]。
プリマチェンコの絵画「旅中のロッタ」('Ratona Journey」は、有名なフィンランド人デザイナークリスティーナ・イソラによって、フィンランド航空が飛行機の装飾に使用したファブリックデザイン「メトサンヴァキ/森の住人」に盗作された[5]。
2022年2月27日ロシアのウクライナ侵攻のイヴァンキフの戦いの最中に、イヴァンキフ歴史・地方史博物館が全焼し、プリマチェンコによる20以上の所蔵作品も失われた。
ギャラリー
お金と切手について
ウクライナの切手 (1999). «Дикий чаплун», 1977年
ウクライナの切手 (1999). «Дикий чаплун», 1977年
ウクライナの切手(1999). «エンドウ豆の獣», 1971年
ウクライナの切手(1999). «エンドウ豆の獣», 1971年
ウクライナの切手, 2009年
ウクライナの切手, 2009年
マリア・プリマチェンコの100周年記念銀貨(2008年)表面
マリア・プリマチェンコの100周年記念銀貨(2008年)表面
マリア・プリマチェンコの100周年記念銀貨(2008年)裏面
マリア・プリマチェンコの100周年記念銀貨(2008年)裏面
銃規制が緩い国では、遊戯銃が実銃と誤認されないよう、銃口や銃口付近を赤色に塗装したり、赤色の部品に変更しなければならないなど、外観に対する制限が加えられる。そのため、遊戯銃は銃規制が厳しい地域ほど、よく発達する傾向がある[1]。日本において遊戯銃が発達を遂げたのは、このためである。
種別
遊戯銃について、具体的には以下の種類に大別できる。
エアソフトガン
主に直径6mmまたは8mmのプラスチック製BB弾を発射するもので、サバイバルゲームなどで使用される。所持免許などは必要ないが、業界の自主規制や都道府県の条例によって購入に際して年齢制限がある。手動で空気を圧縮するコッキングガン、低圧のフロンガスやグリーンガスを使うガスガン、モーターで射出用エアーピストンを連続的に操作する電動ガンなどがある。外見は実銃と同じだが、内部にあるのは圧縮空気を作り出す機構のみ。
モデルガン
銃器の外観や機構を再現したものであるが、弾丸の発射機能は持たない。火薬(キャップ火薬)を発火させることができるものと、観賞用のディスプレイモデルがある。内部構造は材質以外、完全に実際の銃と(分解方法まで)同じなので、リアリティを求める愛好家に好まれる。特に金属製のものについては、厳しい法規制の対象となっている。
その他
純粋に子供向けの玩具とみなされる物であり、銀玉鉄砲(エアソフトガンの先祖とも言える製品)や巻玉火薬を使用する100連発銃、直径4mmほどの輪状キャップ火薬を使用する8連発、12連発銃などがその代表格である。電池で発光・発音する物や、特撮ヒーロー物に登場する光線銃などのキャラクター玩具もこの区分に含まれる。バーチャガンやスーパースコープといった銃の形をしたゲーム機のコントローラ(ガンコントローラ)のようなハイテク玩具的な物や、水鉄砲、紙玉鉄砲、輪ゴム鉄砲などの伝統的な鉄砲玩具も本項では広義の遊戯銃に含まれるものとする。
祭や縁日で使われる射的銃(コルク銃、コルクガン、コルクライフルとも)がある。撃針に繋がっているレバーを引き、コルクを詰めて発射する、マスケット銃と同じ中世からの前装式である。
銃でないものに紙鉄砲がある。これは折り紙で、振って広げた時に大きな音が鳴るのでこの名がある。
CSIRO
概要
オーストラリア最大の総合研究機関で、産業への応用や公共の利益につながる国家的課題の解決に向けた研究開発を行うことを目的とする。研究分野は、農業、環境、情報通信、保健、材料、製造、鉱物、エネルギー等広範にわたり、スタッフは6500人。本部はキャンベラにあり、支所は国内、外国事務所大小合わせて57カ所。
2006-07年予算は607百万豪ドル(連邦所管省庁からの予算)、外部からの委託などを加えると900百万豪ドルを超える。
国家研究フラッグシップ
オーストラリア政府が進めるイノベーション行動計画の中心的な研究プログラムで、オーストラリア連邦科学産業研究機構が主導している。
国家として直面する課題に対し、緊急に必要な以下の6つの国家目標を設定。それに沿って6つのフラッグシップ(産学官の研究者を結集した研究グループ)を設置している。
年間の予算規模は、62百万オーストラリアドルの政府支出を含め総額145百万オーストラリアドル(2004-05年)。オーストラリア政府は今後7年間で更に305百万オーストラリアドルの追加支出を表明しており、オーストラリア史上最大規模の研究プログラム(総額15億オーストラリアドル規模)となる。
(1)国家目標
強力で持続可能な経済成長、新産業、競争力ある事業と高品質の仕事(strong, sustained economic growth, new industries, competitive enterprises and quality jobs)
より健康で生産性あるオーストラリア人の生活(healthier, more productive lives for Australians)
クリーンで経済的なエネルギー(clean, cost-efficient energy)
より生産的で持続可能な水利用(more productive and sustainable use of water)
海洋からの持続可能な財産(sustainable wealth from our oceans)
地方の成長と繁栄(growth and prosperity for regional Australia)
(2)フラッグシップと目標
エネルギー変換(Energy Transformed Flagship:温暖化ガスを半減し、効率を2倍にするエネルギー生産と供給)
食料の将来(Food Futures Flagship:国際競争力と年間30億豪ドルの付加価値)
軽金属(Light Metals Flagship:環境影響を減らしながら輸出倍増と新産業創出)
予防医療(Preventative Health Flagship:健康増進と20億豪ドルの年間医療コスト削減)
健康な国のための水(Water for a Healthy Country Flagship:水からの経済、社会、環境の利益を10倍に)
海洋からの財産(Wealth from Oceans Flagship:海洋システムの理解により経済、社会、環境の富の供給を世界水準に)
タイプI文明は、惑星文明とも呼ばれ、その惑星で利用可能なすべてのエネルギーを使用および制御できる。
タイプII文明は、恒星文明とも呼ばれ、恒星系の規模でエネルギーを使用および制御できる。
タイプIII文明は、銀河文明とも呼ばれ、銀河全体の規模でエネルギーを制御できる。
概要
このスケールは、次に示す3つの段階にカテゴライズされている[2]。
I型 - 惑星の全てのエネルギーを利用できる文明。エネルギー消費は 4 × 1019 erg/秒(およそ4 × 1012W)。タイプIの文明は通常、母星の恒星から降り注ぐすべてのエネルギーを利用できるものとして定義されている(地球-太陽系の場合、この値は1.74 × 10 17Wに近い)[3] 。地球上で現在達成されている量よりも約4桁高く、エネルギー消費は≈2 × 10 13W。天文学者のGuillermo A. Lemarchand は、これは現代の地球文明に近いレベルであり、1016から1017Wの地球上の太陽の日射に相当するエネルギー能力を持っていると述べた[4]。
II型 - 母星の恒星の全てのエネルギーを利用することができる文明。例えば、ダイソン球を構築できる科学技術を有するレベル。エネルギー消費は 4 × 1033 erg/秒(およそ4 × 1026W)。
III型 - 属する銀河の全てのエネルギーをコントロールできる文明。エネルギー消費は 4 × 1044 erg/秒(およそ4 × 1037W)。
Three schematic representations: Earth, Solar System and Milky Way
カルダシェフ・スケール
人類文明の現状
全世界一年間の一次エネルギー消費量
Color photo. Man sitting wearing a suit and smiling.
天文学者カール・セーガンによれば人類は現在「カルダシェフスケール・タイプIを統合しようとしている文明の典型」であり、技術的な思春期の段階を経ている。
現時点では人類はまだタイプⅠ文明の地位にも達していない。物理学者および未来学者のミチオ・カクは、人類は100〜200年でタイプⅠ、数千年でタイプⅡ、10万〜100万年でタイプIIIの文明になる可能性があると示唆した[5]。
カール・セーガンは、タイプI(10 16 W)、タイプII(10 26 W)、およびタイプIII(10 36 W) に対して上記の値を補間および外挿する式で中間値(カルダシェフの元のスケールでは考慮されない)を定義することを提案した。
K = log 10 P − 6 10 {\displaystyle K={\frac {\log _{10}P-6}{10} {\displaystyle K={\frac {\log _{10}P-6}{10},
この値Kはカルダシェフ・スケールであり、Pはワットでの消費電力である。この外挿を使用すると、カルダシェフによって定義されていない「タイプ0」文明が約1 MWの電力を制御し、1973年時点の人類の文明タイプは約0.7だった(1970年代の人類の値として10 テラワット(TW)を使用)[6]。
2018年の世界の総エネルギー消費量は13864.9 Mtoe(161,249 TWh)[7] で、平均電力消費量18.40 TW、セーガンの補間カルダシェフ・スケールでは0.7265に相当する。
エネルギー開発
タイプI文明
核融合エネルギーの大規模応用。質量とエネルギーの等価性(E=mc2)によれば、タイプI文明は毎秒約2kgの物質をエネルギーへ変換することを意味する。 理論的には、1秒間に約280kgの水素を核融合でヘリウムに変換させることによって、同等のエネルギー放出を達成することができる[8]。 1立方kmの水には約1011 kgの水素が含まれ、地球の海には約1.3×109立方kmの水が含まれている。つまり、地球上の人類は、利用可能な水素の観点から地質時間スケールでこの消費率を維持できる。
大量の反物質には、現在の技術レベルを数倍上回る規模で電力を生成するメカニズムがある。反物質-物質衝突では、粒子の静止質量全体が放射エネルギーに変換される。それらのエネルギー密度(質量あたりに放出されるエネルギー)は、核分裂を使用した場合よりも約4桁大きく、核融合から得られる最高の収量よりも約2桁大きくなる[9] 。1kgの反物質と1kgの物質の反応により 、1.8×1017ジュール(180ペタジュール)のエネルギーが生成される[10]。反物質がエネルギー源として提案されることもあるが、これは現実的ではないと考えられている。現在の物理学の法則では、人工的に反物質を生成することは、最初にエネルギーを質量に変換する必要があり、正味のエネルギーを生み出さない。人工的に作成された反物質は、将来の技術開発(反物質に有利なCP対称性の破れなどのバリオン数の保存とは反対に)が通常の物質の変換を許可しない限り、エネルギー源としてではなく、エネルギー貯蔵の媒体として使用される。理論的には知的文明は将来、自然界に存在する多くの反物質の源を栽培し収穫する技術を持つかもしれない[11][12][13]。
太陽光を電気に変換することによる再生可能エネルギー - 太陽電池を使用した大規模な太陽光発電。間接的にはバイオ燃料、風力、水力発電など。人工の構造物で地球の表面を完全に被覆することなく太陽エネルギーを全て吸収する方法は知られておらず、現在の人類の技術では実現不可能である。軌道上に非常に大きな太陽光発電衛星を建設した場合、タイプI文明の電力レベルが達成可能になる可能性がある。これらは太陽光をマイクロ波に変換し、地球上の受信機に送電する。
タイプII文明
星を囲むダイソン・スウォームの図
タイプII文明は、タイプI文明で採用されているのと同じ手法を使用する場合があるが、多数の星系の多数の惑星に適用される。
ダイソン球やダイソン・スォームと同様の巨大構築物を建造し、母星の恒星を太陽光発電衛星で囲むことで、ほとんどまたはそのエネルギー出力のすべてを利用する[14]。
使用可能なエネルギーを生成するよりもエキゾチックな手段は、任意の質量をブラックホールに送り込み、降着円盤によって放出されたエネルギーを集めることである[15][16] 。エキゾチックではない手段では、すでに降着円盤から脱出したエネルギーを捕らえ、ブラックホールの角運動量を減らすことである。この手法はペンローズプロセスとして知られている。
スターリフティングは寿命が尽き掛けた恒星を操作することで恒星の問題のかなりの部分を取り除くことができるプロセスである。
反物質は、多くのメガスケールエンジニアリングプロセス(前述のスターリフティングなど)の産業副産物として生産される可能性が高いため、リサイクルできる。
複数の星系、個々の星の出力は小さいが、十分な数のエネルギーを収穫できる。
タイプIII文明
タイプIIIの文明はタイプIIの文明で採用されているのと同じ手法を使用するかもしれないが、1つ以上の銀河のすべての可能な星に個別に適用される。
ほとんどの銀河の中心に存在すると目されている超大質量ブラックホールから放出されたエネルギーを利用することができるかもしれない。
ホワイトホールがもし存在すれば、理論的には外に放出される物質を集めることで大量のエネルギーを供給することができる。
ガンマ線バーストのエネルギーを捉えることは、高度な文明が理論的に利用可能な電源の一つ。
クエーサーからの放出は小さな活動銀河の放出と容易に比較することができ、収集可能であれば大規模な電源を提供する可能性がある。
スケールの拡張
カルダシェフ・スケールに対する拡張や修正案がいくつか提案されている。
タイプ0、IV、V文明:スケールの最も直接的かつ仮設的な拡張として、宇宙全体を制御または使用できるタイプⅣ文明と、複数の宇宙の集合を制御できるタイプV文明がある。また、カルダシェフスケールに載らないタイプ0文明も考えられる。可視宇宙の出力は1045Wの数桁以内である。このような文明は現在の科学的知見に基づく推測の限界に近いか、あるいは超越しており、存在不可能かも知れない(フェルミのパラドックス)。
Zoltán Galántaiは、そのような文明は自然の働きと見分けがつかない(他に比較可能なものが無い)ため、検知できないと主張した[17]。
理論物理学者ミチオ・カクは自身の著書で、例えばダークエネルギーのような「超銀河的」なエネルギー源を利用できるタイプⅣ文明を取り上げた[18]。
科学ジャーナリストのジョリーン・クレイトン(英語版)は、タイプⅠに到達していない惑星文明は基本的にはタイプ0文明であると述べており、タイプ0.1は原始時代、タイプ0.2は火の発見程度であると細分している[19]。クレイトンはタイプⅣ文明は一つの銀河系を超えて複数の銀河群や銀河団、或いは超銀河団以上の範囲を支配できるに至った文明であり、宇宙のインフレーションに伴う加速膨張を飛び越えて移動可能となった時点で、事実上観測可能な宇宙全体を支配可能であると見なされる段階であるとしており、タイプⅤ文明は観測可能な宇宙を超えて、多元宇宙へと進出、或いは宇宙その物の創造すら可能となったとされる段階であり、事実上宗教における創造神に等しいとも記述している[20]。
タイプⅣ以上の拡張はサイエンス・フィクションに近いものであり、論者によってその分類は様々である。SF作家のベロニカ・シコエはタイプⅤ文明は多元宇宙へ進出可能となった段階、宇宙の創造が出来る段階はタイプⅥ文明であるとしており[21]、Kurzgesagt - In a Nutshellは複数の銀河への進出から一つの超銀河団を支配するに至る段階をタイプⅣ文明、複数の超銀河団から観測可能な宇宙全体を支配するに至る段階をタイプⅤ文明、多元宇宙の進出から宇宙の創造へ至る段階をタイプΩ文明と分類しているが、人類文明を参考にした動機の均一性(英語版)で、ある地球外文明の技術水準や行動理念の推測が可能であるのは精々複数の恒星系への進出を開始したタイプ2.5文明程度までであるとも述べており、タイプⅢ以上の文明の内容を推測する事は、蟻塚のアリが人類文明を認知するレベルの困難さが伴う為であると結論づけている[22]。
カルダシェフ・スケールの代替案
スケールに対する他の修正案として、異なる計量を採用するものがある。例えばシステムの「成熟度」や利用される情報量、または極大スケールではなく極小スケールを制御する技術の進捗などである。
星の成熟度(ロバート・ズブリン)
純粋なエネルギー使用量以外の指標も提案されている。一つはエネルギーだけではなく惑星、星系、や銀河の「成熟度」を指標とするものである[23]。
提唱者のズブリンによる分類では、文明が宇宙のどの範囲まで広がっているかを重視しており、一つの惑星全体に文明が浸透した段階をタイプⅠ、複数の恒星系まで広範なコロニーを形成して広まった段階をタイプⅡ、銀河全体に広まった段階をタイプⅢと規定している[23]。
情報の量(カール・セーガン)
カール・セーガンは、純粋なエネルギー使用に加えて、文明が利用可能な情報という別の次元を追加することを提案した。
セーガンは106ビットの情報量(これは人類史上で知られる如何なる文明の情報量よりも小さい)にAの文字を割り当て、続く各アルファベットで情報量が一桁ずつ上がるものとした。従ってレベルZ文明は1031ビットを持つ。
この分類では、1973年の地球は0.7 H文明であり、1013ビットの情報にアクセスできる。
セーガンはレベルZに到達した文明は未だ存在しないと推測している。根拠としては、それほどの情報量は超銀河団に存在する全ての知的種族が持つ情報量の総計を超え、かつ、観測上、現宇宙は大距離で効率的に情報交換できるほど古くないことを挙げている。
情報とエネルギーの軸は厳密に相互依存するわけではないので、例えレベルZの文明であっても、必ずしもカルダシェフのタイプⅢ文明である必要はない[6]。
ミクロ次元の習得度(ジョン・D・バロウ)
バロウは、人間が環境を操作する能力を、宇宙全体の操作といったマクロで漠然とした方向ではなく、原子や素粒子などよりミクロな物理学の操作能力によって文明の段階を分類する方がより効果的であると提唱している。従って、彼は文明段階をタイプ1マイナスからタイプΩマイナスという逆方向への分類を規定している。
タイプⅠマイナス - 機械工学。構造の構築、資源の採掘、固体の結合と破壊など、目に見える範囲での物体を操作する事が出来る段階。
タイプⅡマイナス - 医用生体工学。遺伝子を操作し、細胞の発達を変化させ、それら自身の一部を移植または交換し、それらの遺伝情報を読み取り、操作することが出来る段階。
タイプⅢマイナス - 化学工学。分子と分子結合を操作して、新しい材料を作成することが出来る段階。
タイプⅣマイナス - ナノテクノロジー。個々の原子を操作し、原子スケールのナノテクノロジーを実現し、複雑な形の人工生命を作成する事が出来る段階。
タイプⅤマイナス - 原子核物理学。原子核を操作し、それを構成する核子をも操作出来る段階。
タイプⅥマイナス - 素粒子物理学。素粒子を構成する物質(クォークとレプトン)を操作して、素粒子の集団が構成する複雑な組織を人工的に作り出せる段階。人類が到達可能な技術水準としては最高クラスの段階でもある。
タイプΩマイナス - 空間と時間の基本構造その物を操作できる段階[24]。
この分類によれば、人類の文明はタイプⅢマイナスとタイプⅣマイナスの中間付近の段階であるとされる。
解説
従来、火山は定性的な噴火活動度に応じて分類されてきた[1]。英語にはActive volcano、Dormant volcano、Extinct volcanoといった呼称があり、例えば日本の地質学者である横山又次郎は『地質學教科書』(1896年、冨山房)において、それぞれ活火山、睡眠火山、消火山という語をあてている[1]。
また、佐藤伝蔵は『地質學提要』(1928年、中興館)において、活火山、休火山、死火山という分類を用いている[1]。
しかし、当初よりこれらの分類は便宜的なものと考えられていた。横山又次郎は『地質學教科書』において、有史以来活動していなかった火山が突然活動を開始することもあるなど、このような分類を「非学術的」と述べていた[1]。また、佐藤伝蔵も『地質學提要』で「全く便宜上のもの」としていた[1]。
一般に死火山は有史以降に活動の痕跡がないものを基準としていたが、そもそも文字文化の進展には世界各国で地域差があるため「有史時代」を基準にした厳密な定義は困難と考えられていた[1]。
さらに、年代測定法の発達により過去の火山活動が明らかになるにつれ、数万年周期の噴火活動があることなどが解明されたことにより、有史時代の活動記録のみをもとに火山活動を判断することができないことが分かってきたため、死火山という言葉は休火山とともに学術的には廃用となっている[3]。活火山以外の火山については「活火山ではない」「活火山以外の火山」等という。
かつて、一部の火山学者と一般大衆が死火山と認識[4][5]していた木曽御嶽山が、1979年に水蒸気爆発を起こし、定義を大きく見直すきっかけとなった[6]。
概要
大陸の乾燥地帯を除く、亜寒帯から暖帯までの中緯度地方の土壌に広く生成され、日本では主として山地斜面の広葉樹林下に見られる。土壌中の水分と温度とのバランスがよく、樹々の落葉落枝がカルシウム・マグネシウムの塩基類に富むことから微生物や土壌動物の活動に適している。そのため、表層は団粒構造のよく発達した黒褐色の腐蝕土壌となり、風化変質層を経て酸化鉄に富んだ褐色の下層へと至る[3]。
日本ペドロジー学会による分類
「黒ボク土大群」および「赤黄色土大群」以外の土壌のなかで、次の要件を満たす土壌[4]。
土壌表面から50cm以内に、「風化変質層」または「粘土集積層」の上端が現れる。
岩盤が30cm以内に現れない。
分類カテゴリーは、最高位から順に、
大群(褐色森林土大群)
群(褐色森林土群:「褐色森林土大群」の中の全ての土壌。)
亜群
となっている。
以下では亜群分類について記述していく。
水田化
「褐色森林土」の中で、「水田鉄集積層」をもつ。
ばん土質
上記以外の「褐色森林土」の中で、土壌表面から50cm以内にリン酸吸収係数10.00mg P2O5/g以上(リン酸保持量60%以上、あるいはAlo+1/2Feoが1.2%以上)の層が25cm以上ある。
ポドゾル化
上記以外の「褐色森林土」のなかで、「ポドゾル性集積層(断面形態)」、または、「ポドゾル性集積層(分析値)」をもつ。
腐植質
上記以外の「褐色森林土」のなかで、「腐植質表層」または「多腐植質表層」をもつ。
下層赤黄色
上記以外の「褐色森林土」のなかで、土壌表面から 75cm 以内に「赤黄色特徴」を示す「風化変質層」または「粘土集積層」をもつ。
湿性
上記以外の「褐色森林土」のなかで、土壌表面から 75cm 以内に「地下水湿性特徴」を示す層の上端が現れる。
表層グライ化
上記以外の「褐色森林土」のなかで、土壌表面から 75cm 以内に「表面水湿性特徴」を示す層の上端が現れる。
塩基型
上記以外の「褐色森林土」のなかで、次表層の一部の亜層位で pH(H2O) 6.5 以上、または塩基飽和度 50%以上である。
普通
上記以外の「褐色森林土」。
技術的情報
96台のダイポールアンテナからなる直径60mのLOFARステーション(手前)とエフェルスベルク100m電波望遠鏡(奥)。双方とも、ドイツ・ボンにあるマックスプランク電波天文学研究所が運用する。
LOFARは250MHzよりも低周波な電波を用いた観測天文学において、既存のものを大幅に上回る感度を有する電波望遠鏡として計画された。天体観測に使われる電波干渉計は、パラボラアンテナやダイポールアンテナなどを並べたものである。LOFARは既存の電波望遠鏡の多くの特徴を併せ持っている。特に、全方向ダイポールアンテナを1950年代に発展した開口合成の手法を用いてひとつの電波望遠鏡として機能させる。LOFARの設計は可動部がなく、安価に製作できるアンテナを用いている。観測する方向は電気的にアンテナ間で位相をずらすことによって行う。LOFARは一度に複数の方向を観測することができ、このため複数の観測者が一度にこの望遠鏡を使って観測することができる。
LOFARの各アンテナで得られた電気信号はデジタル化され、中央データ処理装置に送られたのちにソフトウェア上で合成され、電波写真が作成される。LOFARの建設コストの大半は電気回路のコストが占めるため、ムーアの法則にのっとれば次第に低価格になってきており、このために大規模な電波望遠鏡を建造することができるようになった。アンテナは単純な構造ではあるが、全部で1万台が必要になる。良質な電波写真を作製するために、LOFARのアンテナは直径1000キロメートルを超える範囲に展開される。LOFARの第一段階では、オランダ国内の36か所(ステーション)に6000台のアンテナが設置され、最大基線長は100キロメートルである。最初の試作機は2006年から試験運用が行われている。20のステーションが建設中であり、さらに16のステーションの建設が2010年に開始される。ドイツでは5つのステーション(ボン(エフェルスベルク)、Garching/Unterweilenbach、ポツダム、Tautenburg、Ju"lich)を建造するための予算が配分されている。エフェルスベルク電波望遠鏡の近くにあるステーションは2007年11月から運用が行われている。UnterweilenbachとTautenburgのステーションは建設中である。オランダとドイツのステーションを結んでの実験は2008年から行われている。イギリス、フランス、スウェーデンではそれぞれひとつのステーションを建造する予算が配分されている。データ転送には1ステーションあたり秒間数ギガビットが必要で、全体のデータ処理には数十テラフロップスの速度が必要である。
感度
LOFARの目的は、10 - 240MHzの周波数帯において、既存のケンブリッジカタログ、超大型干渉電波望遠鏡群や巨大メートル波電波望遠鏡を用いた観測に比べて高い空間分解能と感度で宇宙を観測することである。LOFARは、さらに次の世代の電波望遠鏡であるスクエア・キロメートル・アレイが完成するまで、この周波数帯では最も感度の高い電波望遠鏡になる。
科学研究
低周波の電波で見ると、空には小さな明るい天体が目立つ。図は、銀経140° to 180°、銀緯-5° to 5°の銀河面。高感度観測によってLOFARはこの明るい天体の間にあると思われる暗い構造を描き出す。
LOFARで得られる高い感度と空間分解能により、これまで不可能だった新たな天文学観測や地球観測が可能になる。
以下の表では、LOFARで観測ができる天体の赤方偏移を z {\displaystyle z} zであらわす。
非常に遠方の宇宙( 6 < z < 10 {\displaystyle 6<z<10} {\displaystyle 6<z<10}):LOFARは中性水素分子の再電離の証拠を探す。この相転移が起きたころに最初の星や銀河が形成されたと考えられており、宇宙の暗黒時代の終わりとされる。宇宙再電離が起きた時代を考えると、その大きな赤方偏移によって中性水素分子が発する周波数1420.40575 MHzの電波がLOFARで観測可能な周波数帯に入ってくる。(観測される周波数は、1/(z+1)倍になる。)
遠方の宇宙( 1.5 < z < 7 {\displaystyle 1.5<z<7} {\displaystyle 1.5<z<7}):LOFARは最遠方の大質量銀河を検出し、銀河や銀河団、活動銀河核が形成される様子とそれらの間に充満する銀河間ガスを観測することができる。
より近傍の宇宙:LOFARはわれわれの銀河系内や近傍系外銀河内の磁場構造を描き出し、宇宙線加速についての謎に迫ることができる。
高エネルギー領域の天体現象:LOFARは超高エネルギー宇宙線が地球大気に飛び込む際に発生する電磁波を捉える事が出来る。この目的に特化したアンテナLOPESが2003年から運用されている。
我々の住む銀河系内:LOFARはパルサーや短時間の強度変動天体から発せられる低周波の電波を検出することができる。たとえば、恒星の合体やブラックホールへの質量降着、木星型の太陽系外惑星からの放射も捉えられるかもしれない。
太陽系内:LOFARは太陽のコロナ質量放出を検出し、広範囲にわたる太陽風の分布図を作ることができるだろう。これは宇宙天気予報に有用な情報であり、大きな被害を生むこともある磁気嵐の予測に役立つだろう。
地球:LOFARは地球大気、特に電離層を継続的に観測することができ、遠方のガンマ線バーストによって起きる大気の電離や、超高エネルギー宇宙線粒子によって起きる電波フラッシュも観測することができるだろう。
低周波の電波を継続的に観測するというLOFARの特徴はこれまでの観測装置にないものであるため、予想外の発見も期待される。歴史的にも、新しい観測装置の登場によって新しい観測周波数帯が開拓され、あるいは大幅な感度の向上が実現された結果、それまで予想されていなかった新しい天体現象の発見と研究をもたらしてきた。
キープロジェクト
宇宙の再電離
LOFARの最も重要な観測テーマのひとつは、宇宙再電離時の中性水素原子から発せられる波長21cmの輝線を検出することである。宇宙に満ちていた電子と陽子が結合し中性になった宇宙の晴れ上がりのあとの暗黒時代は、赤方偏移(z)=20程度の時期であったと考えられていた。WMAPの観測により、この時期は考えられていたよりも幅があり、zが15から20のころに始まりz=6のころに終わったと考えられるようになった。LOFARを用いれば、z=11.4(115 MHz)からz=6 (200 MHz) の範囲の赤方偏移になる中性水素原子を観測することができる。
系外銀河の高感度観測
広視野掃天観測もLOFARの重要なテーマである。LOFARの装置的特徴はこのテーマに向いており、そもそも当初からキープログラムの一つであった掃天観測が可能になるようにLOFARの装置性能が検討されてきた。LOFARによる高感度で複数周波数の掃天観測がおこなわれることで、ブラックホールや銀河、銀河団の形成などの天体物理学上の重要なテーマに迫るために欠かせない天体カタログを作成することができる。また、LOFARによりまったく新しい天体現象も発見されるだろう。
短時間変動天体とパルサー
低周波数観測、多指向型アンテナ、高速データ転送及び高速コンピューティングを組み合わせることで、LOFARは電波で空を見張る新たな時代を切り開くだろう。LOFARは一晩で、設置場所であるオランダから見ることのできる天域全体(全天の約6割)について、高感度の電波宇宙地図を作ることができる。短時間で電波強度が変動する天体は、過去に行われた非常に限られた天域での観測によってその存在が明らかになったが、LOFARでは同種の天体が多数発見されるだろう。また位置決定精度もよいので、他の波長の観測、例えばガンマ線、可視光、X線などの観測結果と自動的に比較をすることができる。そのような天体は、爆発する星やブラックホールであるかもしれないし、あるいは太陽のような星のフレア、太陽系外惑星のバースト、さらにはSETI信号である可能性もある。またパルサーを対象とした高感度モニタリングも行われ、遠方銀河内の回転する中性子星からの大規模バーストも観測することができるだろう。
超高エネルギー宇宙線
LOFARは、粒子を用いた天体物理学の分野において、超高エネルギー宇宙線( 10 15 − 10 20.5 {\displaystyle 10^{15}-10^{20.5} {\displaystyle 10^{15}-10^{20.5}エレクトロンボルト)の起源を探るというテーマに強みを発揮する[1]。宇宙線粒子の加速については、その場所もメカニズムも不明のままである。加速現場の可能性として、電波銀河が放出するジェットに付随する衝撃波や銀河形成時に作られる衝撃波、極超新星、ガンマ線バースト、初期宇宙の相転移等が挙げられている。LOFARが観測できるのは超高エネルギー宇宙線粒子そのものではなく、粒子が地球大気と衝突して大気シャワーが発生する際に放射される電波パルスである。
宇宙の磁場
LOFARは、これまであまり観測されていない低エネルギーのシンクロトロン放射を観測することができる。この放射は弱い磁場の中を運動する(宇宙線の)電子によって発せられる。銀河の中や銀河の間の物質はほとんどすべて磁化されているにもかかわらず、宇宙の磁場の起源と進化についてはほとんどわかっていない。LOFARは弱い磁場を初めて検出することによって、この分野の研究を大きく進める可能性がある。またLOFARは低周波の電波の偏光面が回転するファラデー効果も観測することができると期待されており、これは弱い磁場を研究するもう一つのツールとなる[2]。
太陽物理と宇宙天気
太陽は強力な電波源である。太陽が放出する電波には、100万Kの太陽コロナから発せられる熱放射と、太陽フレアやコロナ質量放出(CME)など太陽表面の活動に起因するものとがある。LOFARで観測できるのは、このうち上層および中層のコロナから放出されるものである。またLOFARは、惑星間空間に向けて発せられるCMEを研究において、現時点で最も優れた性能を有している。CMEが地球を直撃するのかどうかをLOFARによって確かめることができ、宇宙天気の研究にも極めて有用である。
LOFARによる太陽の観測には、宇宙天気の根源ともいえる太陽活動の周期的モニタリング観測も含まれる。LOFARはデータ処理も迅速に行われるため、太陽表面の爆発のような短時間の現象であっても、これを他の観測装置で追観測するための情報を的確に発信することができる。太陽フレアは非熱的放射を生じるだけでなく、X線を発生して周囲のプラズマを熱する効果もある。このため、LOFARと他の観測装置、例えばRHESSIやひので、ソーラー・ダイナミクス・オブザーバトリー等を組み合わせることで、基本的な天体物理過程の研究を包括的に行うことができる。
計画の推移
1990年代初頭、オランダの電波天文学研究機関ASTRONによって開口合成技術を用いた電波天文学計画の研究が盛んに行われた。同時に、ASTRONとオランダの大学に属する研究者の興味が、低周波電波望遠鏡での科学という点で一致した。実現可能性の研究と国際協力の模索が1999年までに行われ、2000年にASTRONとオランダの複数の大学によってオランダLOFAR運営委員会が設立された。
2003年11月、オランダ政府はLOFARに対して5200万ユーロの予算を計上した。このとき、LOFARは天文学だけでなく地球物理学、計算機科学、さらに農業までをも対象とする他分野センサーとして位置づけられた。
2003年12月には、LOFARの初期試験ステーション (Initial Test Station: ITS) の運用が開始された。これはLOFARの開発にとって重要な出来事であった。 ITSシステムは上下逆さにしたV字型のダイポールアンテナ60台からなっている。それぞれのアンテナでとらえられた信号は低雑音アンプによって増幅され、110メートルの同軸ケーブルを通って受信機ユニット送られる。
フローニンゲン大学計算センターのある'Zernikeborg'ビル, which houses the University of Groningen's computing center
2005年4月26日、LOFARのデータ処理のためにIBMのスーパーコンピューターBlue Gene/Lがフローニンゲン大学数学センターに導入された。当時、このスーパーコンピューターはバルセロナのMareNostrumに次いでヨーロッパ第2位の計算速度を持っていた[3]。
2006年の8月から9月にかけて、LOFARの最初のステーション(Core Station 1, 略称 CS1 北緯52度54分32秒 東経6度52分8秒)が試験機材によって構築された。ダイポールアンテナ96台が、アンテナ48台の中央クラスターと16台のクラスターの計4つに分けられている。それぞれのクラスターの大きさは100メートルであり、4つのクラスターは直径約500m内に配置されている。
2007年11月、オランダ国外の最初のLOFAR国際ステーション (Germany 1あるいはDE601)が、ドイツのエフェルスベルク100m電波望遠鏡の隣に設置され運用が始まった。また、LOFAR中心部の外縁に位置する初の本格ステーションCS302が2009年5月に完成し、2009年の終わりまでにオランダ国内に23のステーションが完成する予定である。[4].
「大蛇の長城」という名は現地の民間呼称であり、キエフ大公国時代の伝説に基づいている。伝説によれば、クィルィーロ革師という勇士は大蛇に打ち勝ち、その大蛇を犂に繋いで土を耕し、大きな畔を作り、その畔は城壁になったという。大蛇は遊牧民を象徴し、畔は境界線を意味している。
現在、城壁の8割が破壊されているが、キーウ州、ポルターヴァ州、ジトーミル州などにおいて城跡が残っている。城壁の北部側には集落の遺跡が発見されている。
機械語モニタは1970年代や1980年代前半のマイコン(マイクロコンピュータ)やホビーパソコン(en:Home computer)の時代に広く使われたものである。一部の機械語モニタは1ステップづつ機械語を実行するという機能(つまり原始的なデバッガのような機能)を持たせるようになり、やがて機能が足されてゆきデバッガ、またアセンブラや逆アセンブラなどの機能も加えることも行われたが、1980年代に、マイコンよりも複雑化・高度化したパーソナルコンピュータが一般化してゆき、デバッガ・アセンブラ・逆アセンブラなどがそれぞれ高機能化し単体のソフトウェアとなってゆくにつれ、機械語モニタのほうは使われる頻度が減っていった。現代では機械語モニタが使われる状況は、組み込みシステムやEFIなどできわめてハードウェア寄りの操作をする時など、かなり限られている。現代では、ハードウェア寄りの一部の技術者が使用することはあるが、一般のコンピュータユーザが直接使うことは無い。
1970年代や1980年代前半に一般的だった機械語モニタのありふれた使用法は、たとえば機械語プログラムのデバッグのために使うことであり、開始と停止のメモリアドレスをユーザが入力・指定して機械語プログラムを実行させる。指定した停止アドレスに達した段階でプログラムの実行が停止し、制御をユーザに戻し、ユーザの次の入力を待つ状態になる、というものである。
歴史
1970年代のコンピュータではROM(Read Only Memory)には機械語モニタしか書かれていないものもあった。
それより高度化したBASICを搭載したコンピュータでは、ローレベルの処理を行う際にBASIC側から内部的に機械語モニタを呼び出すしくみになっていることもあった。その後ROM-BASICやDISK-BASICが標準装備されるコンピュータが登場し、電源を入れるといきなりBASICのモードでマシンが起動するようになっても、「MONコマンド」等を入力すれば機械語モニタを使うことができた。
なおシャープのMZ-80のような「クリーン設計」の機種では、システムの自由度を極限まで高めるために、機械語モニタはROMに書き込まれていなかった。本体ROMに書き込まれているのはもっと素朴なIPL(イニシャル・プログラム・ローダー Initial Program Loader)だけで、機械語モニタも補助記憶装置(データレコーダなど)からRAMに読み込まれる方式になっていた[1]。
高機能な機械語モニタは、簡易デバッガとしても機能し、絶対アドレス指定方式のアセンブラや逆アセンブラの機能も備えていた。例えば、i8086を搭載したPC-9801のN88-DISK BASIC(86)(1982年 - )の機械語モニタでは、アセンブラと逆アセンブラを備えていた[2]。この時代、機械語モニタだけでプログラミングを行うこともそう珍しいことではなかった。
以後のパーソナルコンピュータでは、デバッガ・アセンブラ・逆アセンブラはそれぞれの高機能化し便利になり、低機能で作業効率の悪い機械語モニタを使わずに済むようになった。
現代では、組み込みシステムの開発用ターゲット環境のファームウェアや、EFIのコマンド環境・Open Firmwareなど、開発目的等のローレベルにハードウェアを制御する必要がある場合に使用は限られている。
エンペドクレスの説がよく知られるが、アラビア・ヨーロッパの西洋文化圏で広く支持されたのはアリストテレスの説であり、四元素を成さしめる「熱・冷・湿・乾」の4つの性質を重視するため、四性質ともいわれる。4つの元素は、土や水など、実際にその名でよばれている具体物を指すわけではなく、物質の状態であり、様相であり[3]、それぞれの物質を支える基盤のようなものだとされた[4]。
歴史
エンペドクレス以前
詳細は「元素#古代ギリシア」を参照
古代ギリシャの哲学者の間で、万物の根源、原初的要素として「アルケー(古代ギリシア語: ἀρχή、希: arkhē)[5]」が用いられた。この意味ではじめて「アルケー」を用いたのは、アナクシマンドロスとされている。タレースは、アルケーは「水」であるとし、アナクシメネスは「空気」、クセノパネスは「土」、ヘラクレイトスは「火」(そしてパルメニデスは両者の折衷で「火・土」)であるとした[6]。
エンペドクレス
上記の先行する4説を折衷・統合し、四元素説を最初に唱えたのはエンペドクレスだといわれ、アルケーは「火」「空気」「水」「土(地)」(古代ギリシア語: πυρ, αήρ, ὕδωρ, γη、ギリシア語: φωτιά, αέρας, νερό, γη)を4つのリゾーマタ(古代ギリシア語: ῥιζὤματα、「根の物質」の意)であるとした[注釈 2]。絶対的な意味での生成・消滅を否定し、四元素が様々に離散集合し、自然界の変化が生じるとする説を唱えた[7]。四元素の混合によって諸々の事象の生成が、分離において事象の消滅が説明される[8]。
元素の混合と分離を可能にする動的な力として、元素を結合させる「愛」(ピリア、ピロテス)と分離させる「憎」あるいは「争い」(ネイコス、エリス)が導入された[9]。ただし、四元素は活力のないただの物質ではなく、それ自体が運動性能を持ち、「愛・憎」は元素に運動の方向性を規定する原理と考えられる[8]。宇宙のプロセスは、「愛の完全支配期 → 憎の伸長期 → 憎の完全支配期 → 愛の伸長期」の4つの段階が円環的な周期をなしてめぐっており、2つの伸長期には、四元素は可視的な事象・生物となって生成し消滅するとされた[8]。
プラトン
プラトンは後期の著作『ティマイオス』で四元素説を受け継いだが、エンペドクレスの考えとは異なり、これらの元素は複合体であり、分解できるばかりでなく、相互転化すると考えた。
四元素と5種類の正多面体(プラトン立体)のうち4つを対応させ、土は正方形からなる正六面体で、他の元素は三角形からなる正多面体であり、水は正二十面体、空気は正八面体、火は正四面体で、ひとつの正多面体が基本の三角形に解体して別の正多面体を作ることで、元素から元素への転化が起こると解釈した。(正五角形から成る正十二面体は、宇宙のためにあるという理由で元素の対応から外された)[10]。土が最も重く、次いで水、空気、火が最も軽く、各元素はそれぞれの重さに応じて運動し互いに入り混じると考えた[11]。
Hexahedron.gif Icosahedron.gif Octahedron.gif Tetrahedron.gif Dodecahedron.gif
正六面体(地) 正二十面体(水) 正八面体(空気) 正四面体(火) 正十二面体
アリストテレス
アリストテレスは師プラトンの元素論を批判しつつも、四元素の相互転化という考え方を受け継いだ。火、空気、水、土の4つを「単純物体」と呼び、ほかの物体はこれらで構成されていると考えた。しかし四元素を「いわゆる構成要素」と表現しており、最終的な構成要素ではないとしている。単純物体を構成する要素として、「熱・冷」「湿・乾」という二対の相反する性質を挙げ、これらの組み合わせによって成り立ちを説明した[12]。すなわち、形相(エイドス)も性質も持たない純粋な質料(ヒュレー)「プリマ・マテリア(第一質料)[1]」に「熱・冷」「湿・乾」のうち2つの性質が加わることで、各元素が現れる。火は熱・乾、空気は熱・湿、水は冷・湿、土は冷・乾という性質から構成されており、性質のひとつが反対の性質に置き換えられることで、相互に転嫁すると考えた。彼の説において重要な役割を持っているのは、四元素よりむしろ「熱・冷」「湿・乾」という相反する2つの性質のペアであるため、アラビア・ヨーロッパで広く普及したアリストテレスの四元素説(四原質説)は、むしろ四性質説と呼ぶのが適当であり[13]、プリマ・マテリア(第一質料)を究極の質とする一元論である[14]。
また、四元素が主に月下界(地上)の物質を構成するのに対し、天上界(恒星と惑星の世界)は第五元素が構成するとした。四元素からなる地上は時間とともに変化・腐敗するが、第五元素から成る天上界は不変であるとされた。また、プリマ・マテリアは第五元素と同一視された[14]。
アリストテレス以後
アリストテレスの四元素説は、ギリシャ・ローマ医学の基礎となる体液病理説「四体液説」と関連付けられ、医学・薬学においても重要な理論であった。キリスト教を国教とした東ローマ帝国では、6世紀頃、異教徒・異端の学者が激しく迫害され、学者たちが大勢亡命したことで、ギリシャ・ローマの学問はアラビアに伝わった。四元素説は、アリストテレス哲学の強い影響力と相まって、哲学、神学、錬金術(実質的にアラビアに始まるといわれる[3])、科学(アラビア科学)、医学(ユナニ医学)等に影響を与え、ビザンツ・アラビア、中世ラテン世界といった西洋世界で主流を占める物質観になった。
錬金術
詳細は「錬金術」を参照
アリストテレスの物質観においては、任意の物質にたいして「熱・冷」「湿・乾」といった原理的には単純な操作を行い、四元素の配合を金と同じに変化させることができれば、金を作りだすことができると考えられるため、錬金術との相性が良く[13]、「硫黄=水銀理論」(または、これに塩(えん)を加えた三原質説)と並ぶ錬金術の基礎理論となった。ヨーロッパの錬金術師たちは、錬金術と占星術を結び付け、四元素と黄道十二宮は対応関係にあり、4つの基本性質、季節も黄道十二宮の支配を受けると考えた[4]。
医学
詳細は「ユナニ医学」および「四体液説」を参照
ヨーロッパの大学では、西洋近代医学誕生まで、四体液説、四元素説をベースとするユナニ医学(ギリシャ・アラビア医学)が主流となり、イブン・シーナーの『医学典範』などが教科書として使われた。これに、出生時の星の配置が体質を支配し、人体(小宇宙)は天(大宇宙)と対応するという占星医学(星辰医学)[15]が関連付けられ、診断・治療に利用された。
ルネサンス以後
「原子論」および「元素」も参照
四元素説は長く西洋世界の主流であったが、ルネサンス期に入ると思想の枠組みがゆらぎはじめ、古代ギリシャで唱えられた原子論も再び注目されるようになった。ヒューマニストたちの間で、古代ローマのルクレティウスの『物の本性について』が読まれるようになったことで、ギリシアの原子論的な物質観は徐々にヨーロッパに普及した。そして、デカルトのよき論敵として知られるピエール・ガッサンディによって、原子論は全面的に復活した[13]。17世紀には、原子論は物質観の分野で人々を惹きつけたが、その裏には民主主義的思想というバックボーンがあった。民主主義的思想では、社会を人間相互の有機的な関係性の集まりというより、独立した1人の人間の集合として捉えたため、原子論と強い親和性を持っていたのである。17世紀にはボイルの法則で知られるロバート・ボイルは、『懐疑的な化学者』(The Sceptical Chymist)で四元素説・三原質説を否定し、錬金術は科学の座から落ちていった。18世紀には、アントワーヌ・ラヴォアジエの元素観を背景として現れたジョン・ドルトンの仕事を通じて、原子論は具体的な意味内容を持つようになり、科学において徐々に主流の物質観となっていった[13]。こうした近代科学、原子論の台頭に伴い、物質観としての四元素説は科学の世界から姿を消した。
また、四体液説・四元素説をベースとするユナニ医学を受けつぐヨーロッパの伝統医学は、西洋近代医学の台頭で徐々にその地位を失っていったが、19世紀後半まで一般的に治療が行われていた。
再評価
「分析心理学#心的エネルギーの方向性と性格類型」も参照
錬金術・四元素説はオカルトとして顧みられなくなったが、20世紀には、カール・グスタフ・ユングやガストン・バシュラールらによって、無意識や想像力との深い関わりが指摘され[16]、再評価された。
現在錬金術は、学問の対象として真剣に取り組まれているが、ドイツの心理学者カール・グスタフ・ユングがそのきっかけだったと言える[4]。ユングは中国の曼荼羅の本に出会って道教(タオイズム)に興味を持ち、そこから中国錬金術に入り、西洋錬金術を研究した[17]。「硫黄=水銀理論」による賢者の石の製造過程に、人間の心の成長過程との類似を見出した。また、四元素説、四性質説、四体液説を参考に、心の機能を「思考・感情」「直観・感覚」の4つからなる、2組の対立する機能の組み合わせにまとめた[18]。
また、フランスの哲学者ガストン・バシュラール(1884年 - 1962年)は、『火の精神分析』で、コンプレックスの概念を手掛かりに、ユングの精神分析的方法を用いて、火のイメージ、夢想を分析した。続く詩的想像力に関する研究『水と夢』などでは、四元素に関わる物質的想像力を究明した。夢想は最も根源的な物質に根ざしており、四元素をめぐる物質的想像力が夢想を支配しているとし、想像力の領域における「四元素の法則」を確立できると主張した[19]。
インドの四大
詳細は「元素#古代インド」および「五大」を参照
インドでは、紀元前5世紀ごろにアーリア人の定住地域が拡大すると、他民族との混血・文化面での混合が進み、ヴェーダの権威を無視した自由な思索が行われた。ブッダに先行するこうした思想家たちは、仏教側からは「六師外道」「六十二見」などと呼ばれる。
世界が多元の要素の集合から構成されるという思想は、インドでは積集説(アーランバ・ヴァーダ)と呼ばれるが、その先駆として、地・水・火・風の四元素と苦・楽・霊魂の7つを構成要素とするパクダ・カッチャーヤナの要素集合説が見られる。四元素説としてはアジタ・ケーサカンバリンがおり、世界を構成するものは四元素以外になく[20][21]、死によって実体を構成する元素は四散し、人間は無となる。霊魂はなく、来世もなく、父母もなく、有徳の師もなく、善悪もなく、業もなく因果もなく、布施も祭祀も供儀も無意味であると主張した[22]。哲学としては唯物論であり、認識においては感覚論、道徳を否定し現世での享楽のみを肯定するため、快楽主義に分類される[23]。
また、六派哲学(4~5世紀頃)のひとつで、厳密な二元論の立場に立つサーンキヤ学派は、プルシャ(純粋精神)とプラクリティ(根本原質)を根源だと想定した。プラクリティ(根本原質)の展開によって世界が形成され、物質はプラクリティ(根本原質)から展開した五大(五粗大元素、四元素と虚空(空, アーカーシャ))からなると主張した[23]。積集説を代表するヴァイシェーシカ学派は、多言論的世界観を展開し、実体(実)・属性(徳)・運動(業)・普遍(同)・特殊(異)・内属(和合)の6つのパダールタ(六句義)を想定して世界を分析した。実体は四大と虚空、時間、方角、アートマン(我)、マナス(意)からなり、四元素は原子(極微)からなると考えた[23]。
仏教の四大
「大」はサンスクリット語のmahā-bhūtaの訳で、「4つの粗大な実在」の意[24]。四大種ともいう[24]。物質を作り上げる地・水・火・風の4元素のことで、説一切有部の教学では、4つのいずれも十二処のうちの触処(そくしょ)に含まれる[24]。また、上座部大寺派の勝義法に挙げられる170法のうち、四大のそれぞれが、「色」の28法のうちに、またその中の「完色」の18法のうちに分類される(詳細は五位#上座部大寺派参照)。病気は四大の調和が崩れた時に起こると見なされるため、病気のことを四大不調ともいう[24]。
最初は、実際に触れられる地、水、火、風の4種が様々に混じり合い、材料となって、他のあらゆる物質を合成していると考えられていた(例:牛の角には「地」が多い、牛乳には「水」が多い)[25]。後にアビダルマ的思索が進むと、元素としての地、水、火、風は自然界の地、水、火、風とは別であり、地の「堅さ(堅)」、水の「湿潤性(湿)」、火の「熱性(煖)」、風の「流動性(動)」という性質こそが四元素の本体と考えられるようになった [26][27]。アビダルマ論師の中には、質料因としての四元素から物質的存在が合成されると考えるとしても、四元素の性質によって物質的存在が認識され把握されると考えるとしても、「四元素」と別に「四元素によって存在するもの」があるのではないから、全ての物質は結局四元素に過ぎないと考えた者もいた[28]。しかし説一切有部の正統派は、物質的存在のある部分は「四元素」で、他の部分は「四元素によって存在するもの」と、両者を並立的に考えていた[28]。
説一切有部の論書阿毘達磨倶舎論では、地界、水界、火界、風界をさすが、このうち風界は流動性という作用をもつ軽い一つのものそれ自体を世間では風と呼ぶため、世間一般の風と別なものではないと説かれる[29]。また、地界は「保持」、水界は「包摂」、火界は「熟成」、風界は「増長」「増大」「流動」の作用をもつとされる[30]。
四元素
アリストテレスの理論による元素の分布を同心円状に表わしたもの。
アリストテレスの理論による四元素の関係図。
この項では、西洋で広く支持された四元素について説明する。
四元素は、物質の外観と状態に対応すると考えられた。水・土は可視的な元素であり、この両者は2つの不可視な元素である火・空気(風)を内部に孕んでいる。4つの元素の間には「プラトンの輪」と呼ばれる一連の周期的循環現象があり、火は凝結して空気(風)になり、空気(風)は液化して水になり、水は固化して土になり、土は昇華して火になる。火と水の関係、風と土の関係は対極となる。また、各元素は、それぞれの基本性質によって生じる二次性質を持つとされた[3]。四元素説はイスラーム、キリスト教(スコラ哲学)に取り入れられ、四元素の働きは神が定めた規則に拠っていると考えられた。
ギリシャ・アラビア医学(ユナニ医学)において、軽い火・空気(風)の元素は生命力を構成し、その運動を助けるとされ、重い水・土の元素は身体を構成し、その安定を助けるとされた[31]。
火
他の3元素より微細で希薄な元素で、自然な状態では全元素の上に位置する。対極は水。生成や消滅の終焉する先であるため、火には絶対的な軽さが生じる[31]。光と熱と電気は分けて考えることが難しかったため、その3つの象徴的な支えであり、エーテル状流体という実体の観念に対応する。同時に物質を構成する究極的な微粒子の運動という観念にも対応する[3]。熱く乾いた元素で明るさ・軽さ・多孔性という二次性質を与えられる。空気をも浸透する力によって自然界を還流し、冷たく凝り固まった元素を解きほぐし、混ぜ合わせる[31]。その熱で物質の成熟や成長を可能にし、水・土の冷たさと重さの影響を軽減する[32]。錬金術における火の記号Fire symbol (alchemical).svgは、炎が燃え上がり、先で終わっていることを示す。上昇・成長・膨張・侵入・征服・怒り・破壊などを暗示し、女性的な特徴を持つ水に対し、男性的な激しい気質を象徴する[33]。
空気(風)
揮発性の象徴であり支えである[3]。対極は土。自然な状態では火の下・水の上に位置し[31]、比較的軽い元素である。基本性質は熱・湿で、物質に多孔性・軽さ・希薄さといった二次性質を与え、上昇できるようにする[32]。錬金術における空気の記号Air symbol (alchemical).svgは火を止めたり中断させることを示す。どこまでも上昇する火に対し、気は一定以上上昇することはなく火の力を和らげる[33]。また空気は液化することによって水分を生じさせる。
水
流動性の象徴であり支えである[3]。対極は火。比較的重い元素で、自然な状態では空気によって含まれ、土を含む位置である[31]。基本性質は冷・湿。水の存在意義は物質の形を扱いやすい物にすることであり、湿の性質によって柔らかく形を変えられるという二次性質を物質に与える。土の元素のように物質の形を維持するわけではないが[31]、湿気を保つことで物質が砕けたり散逸することを防ぐ[32]。空気に生じられる存在であり、空気が液化することによって水分となる。上昇する火に対し、水は下の方に流れて隙間を埋め、火が膨張させた物を縮小させる求心的・生産的な元素である。錬金術における水の記号Water symbol (alchemical).svg は子宮の典型的表示であり、火の記号Fire symbol (alchemical).svgと重なって大宇宙を象徴する六芒星をなる[33]。
土
固体的状態の象徴であり支えである[3]。対極は空気。絶対的な重さを持つ元素で、自然な状態では全元素の中心に位置する[31]。本来の状態では静止しているため、この元素が優勢な物質は動かなくなり、離れてもそこへ戻ろうとする性質がある[31]。物質を硬く安定的で持続する物にし、外形を維持し、保護する。基本性質は冷・乾で、二次的な性質は密・重・硬など[32]。錬金術における土の記号Earth symbol (alchemical).svgは水の落下を止めたり中断させて流動性を失わせることを示す[33]。
対応関係
17世紀の錬金術の本より、錬金術のシンボル。
錬金術師・医師・作家だったDaniel Stolz von Stolzenberg (1600年 - 1660年)の著書Viridarium chymicum (1624年) より。下の球体には、錬金術における四元素説のシンボルが描かれている。
「元素#中世の元素観」も参照
次の表は、錬金術における三原質と元素の対応を示す。三原質の「硫黄、水銀、塩(えん)」は、同名の化学物質を指すのではなく、物質のある種の特性をあらわす。硫黄は形相であり、能動的、男性的要素。水銀は質料であり、受動的、女性的要素。塩は運動であり、中間項であり、硫黄と水銀をむすびつける媒介で、理論的にあまり重視されない[3][4]。
三原質 元素
プリマ・マテリア
(第一質料)
硫黄
(形相・不揮発性原質) 土
(可視的・固体的状態)
火
(不可視・微細で精妙な状態)
塩
(運動・媒介) 第五元素
(エーテル)
水銀
(質料・揮発性原質) 水
(可視的・液体的状態)
空気(風)
(不可視・気体的状態)
次の表は、元素と各項目の対応関係を示す[4][32][14][34][35][36][37]。
元素 プラトン立体
(プラトン) 性質
(アリストテレス) 黄道十二宮
(占星術) 四大精霊
(パラケルスス) 方角 大天使 気質
(ギリシャ・アラビア医学) シンボル
(錬金術)
火 正四面体 熱 + 乾 白羊宮
獅子宮
人馬宮 サラマンダー 南 ミカエル 黄胆汁質 Fire symbol (alchemical).svg
空気(風) 正八面体 熱 + 湿 双児宮
天秤宮
宝瓶宮 シルフ 東 ラファエル 多血質 Air symbol (alchemical).svg
水 正二十面体 冷 + 湿 巨蟹宮
天蝎宮
双魚宮 ウンディーネ 北
・
西
ガブリエル 粘液質 Water symbol (alchemical).svg
土 正六面体 冷 + 乾 金牛宮
処女宮
磨羯宮 ノーム 西
・
北
ウリエル 黒胆汁質 Earth symbol (alchemical).svg
派生
創作における魔法と属性
詳細は「属性」および「魔法#フィクションと魔法」を参照
ロールプレイングゲームやトレーディングカードゲームでは、「属性」という設定が散見され、主に四元素や陰陽五行思想などがベースとなっている[要出典]。1970年代にアメリカで登場したテーブルトークRPG(紙や鉛筆、サイコロなどの道具を用いて、会話と定められたルールに従って遊ぶ対話型ロールプレイングゲーム)は、ヒロイック・ファンタジーを題材とするものが多く、神話や呪術、古代の世界観などを材料に、体系的なシステムとして魔法が構築された。テーブルトークRPGや、それから生まれた『ドラゴンクエストシリーズ』・『ファイナルファンタジーシリーズ』などのコンピュータRPG、RPGをベースに交換・収集・育成・対戦といった要素を加えた『ポケットモンスターシリーズ』、専用のカードを用いて対戦するトレーディングカードゲームなどでは、魔法や技、道具、モンスターに、火属性、水属性といった「属性」が設定されているものがあり、ゲームシステムの一部になっていることも多い。属性は、付加されるエネルギー原理や相性関係[38][信頼性要検証]を表す。
テーブルトークRPGは日本にも輸入され、剣と魔法の世界を舞台にした国産作品『ソード・ワールドRPG』のヒットで普及し、広い影響を与えた。ファンタジー小説やアニメ、漫画などでも、魔法やモンスターの属性として四元素が登場しており、例えば、日本のファンタジー業界にとって画期となった[39]ライトノベル『スレイヤーズシリーズ』には様々な魔法があるが、四元素に「精神」の属性を加えた五属性の精霊から力を借りる精霊魔術が登場する。
クトゥルフ神話においては、1937年にラヴクラフトが死亡した後にオーガスト・ダーレスが善の旧神と対立する邪神・旧支配者という設定を作った。旧支配者はそれぞれ、四元素のいずれかに属するとされた。
ハリー・ポッターシリーズのホグワーツ魔法魔術学校の四寮には四大元素がそれぞれ充当されている。
音楽
フランス盛期バロック音楽の作曲家ジャン=フェリ・ルベル(レーベル)が1737年に発表したバレエ音楽「四大元素」(Les éléments)は、冒頭の「カオス(混沌)」[40]を表現するために、教会旋法の全ての音を楽器で全合奏するという、トーン・クラスターに極めて近い音響を用いている[41]。
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