包除原理(ほうじょげんり、英: Inclusion-exclusion principle, principle of inclusion and exclusion, Principle of inclusion-exclusion, PIE)あるいは包含と排除の原理とは、数え上げ組合せ論における基本的な結果のひとつ。特別な場合には「有限集合 A と B の和集合に属する元の数を計算するには、まずそれぞれに属する元の数 |A| と |B| を足しあわせた後、それらの共通部分に属する元の数 |A ∩ B| を引き去ればよい」というものである。つまり単に数え上げた後で重複を取り除くことに相当する。
Intersection of sets A and B.svg 以上の2つの有限集合 A, B に対する包除原理は次のように表せる。
{\displaystyle {\begin{aligned}\left|A\cup B\right|=&\left|A\right|+\left|B\right|-\left|A\cap B\right|\\\end{aligned}{\displaystyle {\begin{aligned}\left|A\cup B\right|=&\left|A\right|+\left|B\right|-\left|A\cap B\right|\\\end{aligned} 同様に、3つの有限集合 A, B, C に対する包除原理は次のように表せる。
作曲者による原典版(1867年) 音詩『聖ヨハネ祭前夜の禿山』(露:Иванова ночь на Лысой горе, 英:St. John's Eve on Bald Mountain)は、1866年から1867年にかけて作曲され、1867年6月23日、まさに聖ヨハネ祭の前夜に作曲を完了した[3]。1866年3月にリストの『死の舞踏』を聞いたことがきっかけで作曲されたのかもしれない[4]。リムスキー=コルサコフにあてた手紙には、「魔物たちの集合〜そのおしゃべりとうわさ話〜サタンの行列〜サタンの邪教賛美〜魔女たちの盛大な夜会」という4つの場面が曲想として構成されていると記されている。サバトで終わるところはベルリオーズ『幻想交響曲』の最終楽章と共通する[5]。
絵柄と、法人の名称やロゴタイプを始めとする、それぞれに異なる目的をもって印刷された情報を紙面に施された製品も、数が多いとは言えないまでも、商品史の黎明期から (cf. J C Gayetty N Y ) 変わらず作られ続けている。絵柄には、インダストリアルデザインに適うよう開発されたものもあれば、女性・子供など特定の消費者層に合わせて開発・販売されるものもある。クイズと解答、名言集、ジョーク集などといった濃厚な文字情報を載せた製品も、変わり種と呼べないほどに珍しいものではなくなっている。
1857年12月8日には、アメリカ合衆国の実業家ジョセフ・ガイエティー(英語版)が[8]、"J C Gayetty N Y (J・C・ガイエティー・ニューヨーク)" の名を透かし印刷で紙面に載せた巻き取り型のトイレットペーパーを[8]痔の医療用製品として生産し始め[9]、これがトイレットペーパーとして世界初の工業製品であった[8]。
Комментарии
元来、旧暦7月7日の夜のことで、日本ではお盆(旧暦7月15日前後)との関連がある年中行事であったが、明治改暦(日本におけるグレゴリオ暦導入)以降、お盆が新暦月遅れの8月15日前後を主に行われるようになったため関連性が薄れた。
日本の七夕祭りは、新暦7月7日や、その前後の時期に開催されている。
歴史
日本の「たなばた」は、元来、中国での行事であった七夕が奈良時代に伝わった[1]。牽牛織女の二星がそれぞれ耕作および蚕織をつかさどるため、それらにちなんだ種物(たなつもの)・機物(はたつもの)という語が「たなばた」の由来とする江戸期の文献もある[2]。
日本では、雑令によって7月7日が節日と定められ、相撲御覧(相撲節会[3])、七夕の詩賦、乞巧奠などが奈良時代以来行われていた[4]。その後、平城天皇が7月7日に亡くなると、826年(天長3年)相撲御覧が別の日に移され[5]、行事は分化して星合と乞巧奠が盛んになった[4]。
乞巧奠(きこうでん、きっこうでん、きっこうてん[6]、きぎょうでん)は乞巧祭会(きっこうさいえ)または単に乞巧とも言い[7]、7月7日の夜、織女に対して手芸上達を願う祭である。古くは『荊楚歳時記』に見え、唐の玄宗のときは盛んに行われた。この行事が日本に伝わり、宮中や貴族の家で行われた。宮中では、清涼殿の東の庭に敷いたむしろの上に机を4脚並べて果物などを供え、ヒサギの葉1枚に金銀の針をそれぞれ7本刺して、五色の糸をより合わせたもので針のあなを貫いた。一晩中香をたき灯明を捧げて、天皇は庭の倚子に出御して牽牛と織女が合うことを祈った。また『平家物語』によれば、貴族の邸では願い事をカジの葉に書いた[8]。二星会合(織女と牽牛が合うこと)や詩歌・裁縫・染織などの技芸上達が願われた。江戸時代には手習い事の願掛けとして一般庶民にも広がった。なお、日本において機織りは、当時もそれまでも、成人女性が当然身につけておくべき技能であった訳ではない。
明治6年(1873年)1月4日、太政官布告第一号で神武天皇即位日と天長節の両日が祝日として定められると共に、徳川幕府が定めた七夕を含む「五節句」の式日が、次の通り廃止された[9]。
一 太政官 第一號(一月四日)(布) 今般改暦ニ付人日上巳端午七夕重陽ノ五節ヲ廢シ 神武天皇即位日天長節ノ兩日ヲ以自今祝日ト被定候事
— 『法令全書 明治6年』より抜粋
風習
明治6年五節句の廃止以前
七夕は、旧暦の七月七日に行われた。その日は、月齢およそ6の、船のような形の月が南西の夜空に浮かんだ[10]。
七夕飾りは、現代のように軒下に飾るのではなく、色紙短冊等を付けた葉竹を屋上にたてていたことが、次の通り、明治政府発行の百科事典『古事類苑』に概説されている[11]。
七月七日ハ、古來其夜ヲ賞シ、是ヲ七夕ト云フ、七夕ハ古ハ、ナヌカノヨト呼ビシガ、後ニタナバタト云フ、棚機(タナバタ)ツ女ノ省言ニテ、織女ヲ云フナリ、支那ノ俗説ニ云フ、此夜牽牛織女ノ二星相遇フ、巧ヲ之ニ乞ヘバ、其願ヲ得ト、故ニ我朝廷ニ於テモ、乞巧奠ノ設アリテ、織女祭トモ稱ス、後世民間ニテハ、葉竹ヲ屋上ニ樹テ、色紙短册等ヲ附スルヲ例トス、亦乞巧奠ノ遺意ナリ、
— 『古事類苑』歳時部七月七日より抜粋
その『古事類苑』の出典は、『東都歳事記』三の七月に記された「六日 今朝未明より、毎家屋上に短册竹を立る事繁く」や、『守貞漫稿』二十七に記れた「兒アル家モ、ナキ屋モ、貧富大小ノ差別ナク、毎戸必ラズ青竹ニ短册色紙ヲ付テ、高ク屋上ニ建ルコト、」から引かれている。 また、次の通り、七遊と呼ばれる七種類の遊びを楽しんだ[12]。
七月七日七遊といふ事、ふるくは物にみえざれども、此事のはじまれるは、南北両朝の頃よりや初りけん、基証は七月にもなりぬ雲々、七日は七百首の詩、七百首の歌、七調子の管弦、七十韻の連句、七十韻の連歌、七百の数のまり、七献の御酒なりと〈おもひのままの日記〉みえたり、
— 『古事類苑』歳時部七月七日–七遊『古今要覧稿』より抜粋
現代
ほとんどの神事は、「夜明けの晩」(7月7日午前1時頃)に行うことが常であり、祭は7月6日の夜から7月7日の早朝の間に行われる。午前1時頃には天頂付近に主要な星が上り、天の川、牽牛星、織女星の三つが最も見頃になる時間帯でもある。
全国的には、短冊に願い事を書き葉竹に飾ることが一般的に行われている。短冊などを笹に飾る風習は、夏越の大祓に設置される茅の輪の両脇の笹竹に因んで江戸時代から始まったもので、日本以外では見られない[13]。
「たなばたさま」の楽曲にある五色の短冊の五色は、五行説にあてはめた五色で、緑・紅・黄・白・黒をいう。中国では五色の短冊ではなく、五色の糸をつるす。さらに、上記乞巧奠は技芸の上達を祈る祭であるために、短冊に書いてご利益のある願い事は芸事であるとされる。また、お盆や施餓鬼法要で用いる佛教の五色の施餓鬼幡からも短冊は影響を強く受けている。
サトイモの葉の露で墨をすると習字が上達するといい、7枚のカジ(梶)の葉に歌を書いてたむける。俊成の歌に「たなばたのとわたるふねの梶の葉にいくあきかきつ露のたまづさ」とある。
このようにして作られた笹を7月6日に飾り、さらに海岸地域では翌7日未明に海に流すことが一般的な風習である。しかし、近年では飾り付けにプラスチック製の物を使用することがあり海に流すことは少なくなった。地区によっては川を跨ぐ橋の上に飾り付けを行っているところもある。
地域によっては半夏生のように農作業で疲労した体を休めるため休日とする風習が伝承[14]していたり、雨乞いや虫送りの行事と融合したものが見られる。そのほか、北海道では七夕の日に「ローソクもらい(ローソク出せ)」という子供たちの行事が行われたり、仙台などでは七夕の日にそうめんを食べる習慣がある。この理由については、中国の故事に由来する説のほか、麺を糸に見立て、織姫のように機織・裁縫が上手くなることを願うという説がある。
富山県黒部市東布施地区の尾山では、2004年(平成16年)7月16日に富山県の無形民俗文化財に指定、2018年(平成30年)3月8日国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)に選択された七夕流しが、毎年8月7日に行われる。子供達が満艦舟や行燈を作り、和紙で人型人形である「姉さま人形」を折る。夕刻から姉さま人形を板にくくり付け、笛や太鼓のお囃子とともに地区内を引き回し、午後9時になると両岸に七夕飾りを立てた幅約1mの泉川に入り、満艦舟や行燈、姉さま人形を流すものであり、江戸時代より続けられている[15][16]。
沖縄では、旧暦で行われ、盂蘭盆会の一環として位置づけられている。墓を掃除し、先祖に盂蘭盆会が近付いたことを報告する。また往時は洗骨をこの日に行った[17]。
他方、商店街などのイベントとしての「七夕まつり」は、一般的に昼間に華麗な七夕飾りを通りに並べ、観光客や買い物客を呼び込む装置として利用されており、上記のような夜間の風習や神事などをあまり重視していないことが多い(顕著な例としては、短冊を記入させて笹飾りにつけるような催しが、7日夜になっても行われていたりする)。
イベントとしての「七夕まつり」については後記の項を参照。
時期
日本では、旧暦(天保暦、和暦)の7月7日(行事によっては7月6日の夜)に行われ、お盆(旧暦7月15日)に入る前の前盆行事として行う意味合いが強かった。明治6年(1873年)の改暦後は、従来通り旧暦7月7日に行う地域、グレゴリオ暦(新暦)の7月7日に行う地域、月遅れの8月7日に行う地域に分かれ、特に新暦開催ではお盆との関連が薄れた。なお、旧暦では7月の翌月に閏7月をおく年もあるが、閏月に年中行事は行わないので、閏7月7日は旧七夕ではない[注釈 1]。
グレゴリオ暦の7月7日は夏だが、旧暦の7月7日はほとんど立秋以降であるので、古来の七夕は秋の季語である。
風俗
現代の日本では、人々は一般的にこの日を祝うために、詩の形で短冊に願い事を書き、それを竹に掛けたり、他の装飾を付けたりする。竹や飾りは、多くの場合、祭りの後、真夜中または翌日に川に流されたり、燃やされたりする。これは、お盆に紙船や蝋燭を川に流す風習に似ている。日本の多くの地域には独自の七夕の習慣があり、主に地元のお盆の伝統に関連している。伝統的な七夕の歌もある。
平仮名[18] 漢字表記[18]
ささのは さらさら
のきばに ゆれる
おほしさま きらきら
きんぎん すなご
ごしきの たんざく
わたしが かいた
おほしさま きらきら
そらから みてる
笹の葉 さらさら
軒端に 揺れる
お星様 きらきら
金銀 砂子
五色の 短冊
私が 書いた
お星様 きらきら
空から 見てる
祭り
1687年(貞享4年)刊行の藤田理兵衛の『江戸鹿子』(えどかのこ)には、「七夕祭、江戸中子供、短冊七夕ニ奉ル」とある。その他、喜多川守貞の『守貞謾稿』にも、「七月七日、今夜を七夕という、今世、大坂ニテハ、…太鼓など打ちて終日遊ぶこと也。江戸ニテハ、…青竹ニ短冊色紙ヲ付ケ、高ク屋上ニ建ルコト。」とあり、江戸時代中期には既に江戸で七夕祭りが始まっており、江戸時代末期には大坂でも盛んになっている様子が窺える。その他、喜多村筠庭の『喜遊笑覧』には「江戸にて近ごろ文政十二年の頃より」、『諸事留』には「天保十二年六月、例年七月七夕祭と唱」、斎藤月岑の『東都歳時記』には「七月六日、今朝未明より」、屋代弘賢の『古今要覧稿』には「たなばた祭、延喜式、七月七日織女祭と見えたるを初とせり」とある。
現代の「七夕祭り」は、神事との関わりも薄れ、もっぱら、観光客や地元商店街等への集客を目当てとしたものとなっている。神輿や山車などを繰り出す祭りと異なり、前日までに、笹飾りをはじめとした七夕飾りの設置を終えれば当日は人的な駆り出しも少なく、また商店前の通行規制も少ないため、商店街の機能を低下させることなく買物客を集められるという点で、商店街との親和性が高く、戦後の復興期以降、商業イベントとして東日本を中心に日本各地で開催されてきた。多くは昼間のイベントと、夕方から夜にかけての花火という組み合わせが殆どで、伝統的あるいは神事としての七夕の風習に頓着せず行われている事が多い。
また、青森の「ねぶた」や「ねぷた」、秋田の「竿燈」などの「眠り流し行事」も七夕祭りが原型である。
大規模な七夕祭りが各地で開催され、主にショッピングモールや通りに沿って、大きな色とりどりの吹流しが飾られる。最も有名な七夕まつりは、8月6日から8日まで仙台市で開催される。関東地方では、神奈川県平塚市(7月7日頃)と東京・阿佐谷で、8月中旬のお盆休みの直前に最大級の七夕まつりが開催される。ブラジルのサンパウロでは7月の第1週末頃、カリフォルニア州のロサンゼルスでは8月の初めに七夕まつりが開催される。
七夕まつりは地域によって異なるが、ほとんどのお祭りでは七夕飾り大会が行われる。その他のイベントには、パレードやミス七夕コンテストなどがある。他の日本の祭りと同様に、多くの屋台が食べ物を売ったり、謝肉祭ゲームを提供したりして、お祭りの雰囲気を盛り上げる。
東京ディズニーランドと東京ディズニーシーでは、ミニーマウスが織姫に、ミッキーマウスが彦星に扮したグリーティングパレードを特徴とする七夕まつりを祝うことがよくある。
主なもの
全国地方公共団体コード順に記載。
観客を集める祭りのメイン行事が、七夕飾り、山車行列、七夕おどり(七夕パレード)、野外コンサート、花火大会、火祭りなど、各祭りによって違いがある。
水戸黄門まつりや桐生八木節まつりなど、七夕祭りが他の祭りに併呑された例も記載。
名称 開催地 時期 観客数 備考
八戸七夕まつり 青森県八戸市 7月 海の日までの金・土・日・月 37万人/4日間(2007年)[19]
盛岡七夕まつり 岩手県盛岡市 8月4日・5日・6日・7日 18万人/4日間(2008年)[20]
うごく七夕まつり 岩手県陸前高田市 8月7日
けんか七夕まつり 岩手県陸前高田市気仙町 8月7日
仙台七夕まつり 宮城県仙台市 8月6日・7日・8日 206万人/3日間(2013年)[21]
能代役七夕(能代ねぶながし) 秋田県能代市 8月6日・7日 能代市選択 記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財
七夕絵どうろうまつり 秋田県湯沢市 8月5日・6日・7日 17万人/3日間(2013年)[22]
平七夕まつり 福島県いわき市平 8月6日・7日・8日 43万人/3日間(2010年)[23]
水戸黄門まつり 茨城県水戸市 8月 第1金・土・日
土浦キララまつり 茨城県土浦市 8月 第1土・日
前橋七夕まつり 群馬県前橋市 7月 第1月の3日後から4日間 35万人/4日間(2012年)[24]
桐生八木節まつり 群馬県桐生市 8月 第1金・土・日 53万人/3日間(2016年)[25]
入間川七夕まつり 埼玉県狭山市 8月 第1土・日 43万人/2日間(2001年)[26]
深谷七夕まつり 埼玉県深谷市 7月 上旬の金・土・日
上福岡七夕まつり 埼玉県ふじみ野市上福岡 8月 第1土・日 17万人/2日間(2013年)[27]
小川町七夕まつり 埼玉県小川町 7月 最終土・日
茂原七夕まつり 千葉県茂原市 7月 最終金・土・日 84万人/3日間(2008年)[28]
阿佐谷七夕まつり 東京都杉並区阿佐谷 8月7日と土曜を含む5日間 70万人/5日間(2011年)[29]
福生七夕まつり 東京都福生市 8月 第1木・金・土・日 40万人/4日間(2013年)[30]
下町七夕まつり 東京都台東区 7月 初旬の数日間 40万人/6日間(2017年)[31]
橋本七夕まつり 神奈川県相模原市緑区 8月 第1金・土・日 34万人/3日間(2016年)[32]
湘南ひらつか七夕まつり 神奈川県平塚市 7月 第1金・土・日 155万人/3日間(2016年)[33]
慶應義塾大学SFC七夕祭 神奈川県藤沢市 7月 第1土
古町七夕まつり 新潟県新潟市中央区古町 7月 上旬の9日間
越後村上七夕祭 新潟県村上市 8月16日・17日
戸出七夕まつり 富山県高岡市戸出町 7月3日・4日・5日・6日・7日
舟見七夕まつり 富山県入善町舟見 7月6日・7日
高岡七夕まつり 富山県高岡市 8月1日~7日 15万人/7日間(2013年)[34]
尾山の七夕流し 富山県黒部市東布施地区尾山 8月7日 国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財(選択無形民俗文化財)・富山県指定無形民俗文化財
宝立七夕キリコ祭り 石川県珠洲市宝立町 8月7日 キリコ祭りの一つとして、国の記録作成等の措置を講ずべき無形の民俗文化財及び、日本遺産「灯り舞う半島 能登 ~熱狂のキリコ祭り~」の内の一つ。
水都まつり 岐阜県大垣市 8月 第1木・金・土・日
清水七夕まつり 静岡県静岡市清水区 7月 第1水・木・金・土 60万人/4日間(2017年)[35]
円頓寺七夕まつり 愛知県名古屋市 7月 最終水より5日間
一宮七夕まつり 愛知県一宮市 7月 最終日曜の木・金・土・日 118万人/4日間(2017年)[36]
安城七夕まつり 愛知県安城市 8月 第1金・土・日 125万人/3日間(2013年)[37]
松阪七夕まつり 三重県松阪市 8月 第1土
機物神社七夕まつり 大阪府交野市 7月6日・7日
山口七夕ちょうちんまつり 山口県山口市 8月6日・7日 21万人/2日間(2011年)[38]
七夕バルーンリリース 徳島県徳島市 7月7日7時7分7秒
三木町いけのべ七夕まつり 香川県三木町 8月 第1土・日
七夕神社夏祭り 福岡県小郡市 7月7日、8月5日~8日
大分七夕まつり 大分県大分市 8月 第1金・土・日 39万人/3日間(2013年)[39]
盛岡七夕まつり
盛岡七夕まつり
能代役七夕
能代役七夕
仙台七夕まつり
仙台七夕まつり
平七夕まつり
平七夕まつり
阿佐谷七夕まつり
阿佐谷七夕まつり
福生七夕まつり
福生七夕まつり
湘南ひらつか七夕まつり
湘南ひらつか七夕まつり
戸出七夕まつり
戸出七夕まつり
全国七夕サミット
七夕に関連したイベントを開いている自治体の代表が集まって情報交換し、課題などを討議する会。商業的七夕祭りの他に、伝統的七夕の習慣がある都市も参加している。開催都市は以下の通り。
第1回:1996年8月 宮城県仙台市
第2回:1997年7月 愛知県一宮市
第3回:1998年8月 富山県高岡市
第4回:2000年7月 神奈川県平塚市
第5回:2001年 石川県根上町(現能美市)
第6回:2003年8月 愛知県安城市
第7回:2004年7月 千葉県茂原市
第8回:2005年7月 愛知県一宮市
第9回:2006年8月 富山県高岡市
第10回:2007年7月 大阪府枚方市・交野市
第11回:2010年7月 神奈川県平塚市
第12回:2011年7月 群馬県前橋市
五節句が廃止される前の七夕の再現
2009年(平成21年)、第55回茂原七夕まつりにおいて、明治以降初めて、太政官布告第一号によって五節句が廃止される前の七夕が再現された。その再現された内容は、七夕七遊(『古事類苑』−「古今要覧稿」−時令)にちなんで、性が作曲しジョン・海山・ネプチューン等が実演した「七調子管弦」と七拍子の郢曲、七十首の川柳と俳句、先着70名のビンゴ大会、飲料7本購入で景品、7チーム対抗クイズ他、計7種であった[40]。
日付
元の七夕の日付は、グレゴリオ暦より約 1 か月遅れている日本の太陰太陽暦に基づいていた。その結果、いくつかの祭りは7月7日に開催され、一部は8月7日前後の数日間に開催され(「一ヶ月遅れ」の方法による)、残りは依然として7月7日に開催される。通常、グレゴリオ暦の 8 月に当たる旧暦の旧暦。
今後数年間の「日本の太陰太陽暦の旧暦7月7日」のグレゴリオ暦の日付は次のとおりである。
2018年:8月17日
2019年:8月7日
2020年:8月25日
2021年:8月14日
2022年:8月4日
2023年:8月22日
2024年:8月10日
2025年:8月29日
2026年:8月19日
関連作品
音楽
「五色の糸」(長唄、作曲:初代杵屋勝三郎)
「たなばたさま」(童謡、作詞:権藤花代・林柳波、作曲:下総皖一)
「March Tanabata」(吹奏楽、作曲:團伊玖磨、上記「たなばたさま」をトリオにて引用)
「たなばたさま」(歌:Pinkish、ROCKバージョン、アルバム『PS.童謡のふる里から』収録、上記下総皖一作曲「たなばたさま」とダンス・ミュージックのマッシュアップ、補詩:Pinkish)
「たなばたさま」(歌:Pinkish、POPバージョン、シングル「ゆめみるいちご」収録、上記下総皖一作曲「たなばたさま」とダンス・ミュージックのマッシュアップ、補詩:安藤貴子)
「THE SEVENTH NIGHT OF JULY ~TANABATA~」(吹奏楽、作曲:酒井格)
「七夕」(「ピアノ組曲」第2楽章、作曲:伊福部昭)
「オーボエとハープと管弦楽のための二重協奏曲」(作曲:尹伊桑)オーボエを牽牛、ハープを織女に見立て、朝鮮半島情勢を暗示させている。
「七夕」 THE CRANE FLY
「白いとび羽根」(歌:Naomile ミシュカ名義、作詞・作曲:木田俊介、アーケードゲーム『pop'n music』に収録)
「milky way」(歌:L'Arc〜en〜Ciel、作詞・作曲:testu、TBS系番組『ワンダフル』テーマソング)
「涙がキラリ☆」(歌:スピッツ、作詞・作曲:草野正宗)
「かささぎ」(歌・作詞・作曲:さだまさし、NHKスペシャルドラマ『海峡』主題歌)
「七月七日」(歌・作曲:Kagrra、作詞:一志)
「平成十七年七月七日」(歌:アリス九號.)
「7月7日、晴れ」(歌:DREAMS COME TRUE、作詞:吉田美和・作曲:中村正人)
七調子の管弦:「東から逢来(平調・黄鐘調・盤渉調)」、「うちへ帰ろう(壱越調・双調・太食調)」、「泣かないで(性調)」(作曲:性、尺八:ジョン・海山・ネプチューン他)
「七夕の短い夜」(歌:absorb)
「7月7日」(歌:スターダストレビュー、作詞:康珍化、作曲:根本要)
「七夕祭り」(歌:テゴマス、Tegomass)
「空飛ぶ夏彦さん」(歌:ウエマツノビヨと犬耳家の一族、作詞・作曲:植松伸夫)
「七夕の夜、君に逢いたい」(歌:Chappie、作詞:松本隆 作曲:細野晴臣)
「-OZONE-」(歌:vistlip、テレビアニメ『遊☆戯☆王5D's』エンディングテーマ)
「5cmの向こう岸」(歌・作詞・作曲:松任谷由実、アルバム『時のないホテル』収録)
「Weaver of Love−ORIHIME-」(歌・作詞・作曲:松任谷由実、アルバム『KATHMANDU』収録)
「7月7日」(歌・作詞:水樹奈々、作曲:上松美香、アルバム『IMPACT EXCITER』収録)
「織姫」(歌:ヴィドール)
「ベガ」(歌・作詞:桑田佳祐)
「たなばた」(歌:裕木奈江、作詞・作曲:村下孝蔵、編曲:萩田光男、アルバム『森の時間』収録)
映像作品
映画『薄れゆく記憶のなかで』(1992年)
映画『7月7日、晴れ』(1996年、フジテレビジョン)
デジタルコミック『七夕委員』(今日マチ子)
映画『劇場版ポケットモンスター アドバンスジェネレーション 七夜の願い星 ジラーチ』(2003年、2022年)
映画『チルソクの夏』(2004年)
映画『ベスト・キッド』(2010年)
映画『1秒先の彼女』(2020年)
漫画
『七夕の国』(岩明均)古い七夕の風習が根強く残る土地と、その土地に深く関わる超能力の謎を描いた伝奇漫画
文学
「鵲の渡せる橋におく霜のしろきを見れば夜ぞ更けにける」大伴家持の和歌。『新古今和歌集』『小倉百人一首』収載。
「催涙雨」山田詠美著『タイニーストーリーズ』文藝春秋刊 収録
「鳥姫伝」バリー・ヒューガート著 ハヤカワ文庫FT刊
「笹の葉ラプソディ」谷川流著『涼宮ハルヒの退屈』角川スニーカー文庫 収録
関連項目
七夕
七夕ミュージアム
日本の祭一覧
参考文献
^ 字通,世界大百科事典内言及, 日本大百科全書(ニッポニカ),ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典,百科事典マイペディア,デジタル大辞泉,[日本酒・本格焼酎・泡盛]銘柄コレクション,とっさの日本語便利帳,精選版 日本国語大辞典,世界大百科事典 第2版,普及版. “七夕(たなばた)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2023年7月7日閲覧。
^ 西村白鳥 編「煙霞綺談」吉川弘文館(日本随筆大成 巻2)、1927年,582頁
^ 直木孝次郎 他訳注『続日本紀1』平凡社(東洋文庫457)1986年、237頁の注14
^ a b 中村義雄「七夕」『国史大辞典』
^ 山中裕「相撲節」『国史大辞典』
^ 中村義雄「乞巧奠」『国史大辞典』
^ 「乞巧奠」『日本国語大辞典』
^ 山中裕「乞巧奠」『日本第百科全書』
^ 内閣官報局『法令全書 明治6年』明20-45
^ 国立天文台「質問3-10)伝統的七夕について教えて」
^ [1]古事類苑』歳時部七月七日
^ 国際日本文化研究センター『古事類苑』歳時部七月七日
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外部リンク
ウィキメディア・コモンズには、七夕 (日本)に関連するカテゴリがあります。
一般社団法人七夕協会. “公式ホームページ(2016年7月7日設立)”. 2017年7月7日閲覧。
伝統的七夕ライトダウン2011推進委員会. “伝統的七夕ライトダウン2011キャンペーン”. 2011年7月25日閲覧。
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参考資料:早稲田大学 古典籍データベース(JAPANESE & CHINESE CLASSICS) 江家次第 第8巻 7月条「乞巧奠」 各伝本(聞書、抄本含む)5種類がPDFファイル、HTMLファイルとして閲覧、ダウンロードできる。
伝統的七夕とその関連行事について
『七夕』 - コトバンク
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Intersection of sets A and B.svg
以上の2つの有限集合 A, B に対する包除原理は次のように表せる。
{\displaystyle {\begin{aligned}\left|A\cup B\right|=&\left|A\right|+\left|B\right|-\left|A\cap B\right|\\\end{aligned}{\displaystyle {\begin{aligned}\left|A\cup B\right|=&\left|A\right|+\left|B\right|-\left|A\cap B\right|\\\end{aligned}
同様に、3つの有限集合 A, B, C に対する包除原理は次のように表せる。
{\displaystyle {\begin{aligned}\left|A\cup B\cup C\right|=&\left|A\right|+\left|B\right|+\left|C\right|\\&\quad -\left|A\cap B\right|-\left|B\cap C\right|-\left|C\cap A\right|\\&\qquad +\left|A\cap B\cap C\right|\end{aligned}{\begin{aligned}\left|A\cup B\cup C\right|=&\left|A\right|+\left|B\right|+\left|C\right|\\&\quad -\left|A\cap B\right|-\left|B\cap C\right|-\left|C\cap A\right|\\&\qquad +\left|A\cap B\cap C\right|\end{aligned}
3つの集合について包除を図示
一般に、 n 個の有限集合 A1, ..., An が与えられたとき、その和集合に属する元の数は
{\displaystyle {\begin{aligned}\left\vert \bigcup _{i=1}^{n}A_{i}\right\vert &=\sum _{k=1}^{n}(-1)^{k-1}\!\sum _{J\subseteq [n],\ \vert J\vert =k}\left\vert \bigcap _{j\in J}A_{j}\right\vert \\&=\sum _{i}\left|A_{i}\right|-\sum _{i<j}\left|A_{i}\cap A_{j}\right|+\cdots +(-1)^{n-1}\left|A_{1}\cap \cdots \cap A_{n}\right|\end{aligned}{\displaystyle {\begin{aligned}\left\vert \bigcup _{i=1}^{n}A_{i}\right\vert &=\sum _{k=1}^{n}(-1)^{k-1}\!\sum _{J\subseteq [n],\ \vert J\vert =k}\left\vert \bigcap _{j\in J}A_{j}\right\vert \\&=\sum _{i}\left|A_{i}\right|-\sum _{i<j}\left|A_{i}\cap A_{j}\right|+\cdots +(-1)^{n-1}\left|A_{1}\cap \cdots \cap A_{n}\right|\end{aligned}
と表せる[1][2]。ただし、ここで [n] = {1, 2, …, n} とした。
この原理の名称は、あらゆるものを「含め」、その後で「取り除いて」補正をするという考え方に基づいていることからきている。n > 2 のとき、共通部分の補正項を計算するのが非常に困難になることもある。また、公式には符号が交互にあらわれる。
この公式はアブラーム・ド・モアブルによるものと考えられているが、ジェームス・ジョセフ・シルベスターまたはアンリ・ポアンカレによるとも言われる。
証明
包除原理を一般に証明するため、X を A1, ..., An の上位集合とする。公式はまず恒等式
{\displaystyle 1_{\bigcup A_{i}=\sum _{i}1_{A_{i}-\sum _{i<j}1_{A_{i}\cap A_{j}+\cdots +(-1)^{n-1}1_{\bigcap A_{i}{\displaystyle 1_{\bigcup A_{i}=\sum _{i}1_{A_{i}-\sum _{i<j}1_{A_{i}\cap A_{j}+\cdots +(-1)^{n-1}1_{\bigcap A_{i}
を指示関数の変形でもとめ、全ての x ∈ X について足しあわせることで示される。
その他の形
この原理は時に以下のような形で表される[3]。有限集合 S のべき集合 2S 上で定義された関数 f, g が
{\displaystyle g(A)=\sum _{B\subseteq A}f(B)}{\displaystyle g(A)=\sum _{B\subseteq A}f(B)}
を満たすならば、
{\displaystyle f(A)=\sum _{B\subseteq A}(-1)^{\left|A\setminus B\right|}g(B).}{\displaystyle f(A)=\sum _{B\subseteq A}(-1)^{\left|A\setminus B\right|}g(B).}
この形は半順序集合 2S の隣接代数におけるメビウスの反転公式となる。
また、包除原理は確率においても以下のように用いられる。
{\displaystyle \Pr \left(\bigcup _{i}A_{i}\right)=\sum _{i}\Pr \left(A_{i}\right)-\sum _{i<j}\Pr \left(A_{i}\cap A_{j}\right)+\cdots +(-1)^{n-1}\Pr \left(\bigcap _{i}A_{i}\right)}{\displaystyle \Pr \left(\bigcup _{i}A_{i}\right)=\sum _{i}\Pr \left(A_{i}\right)-\sum _{i<j}\Pr \left(A_{i}\cap A_{j}\right)+\cdots +(-1)^{n-1}\Pr \left(\bigcap _{i}A_{i}\right)}
ボンフェローニの不等式によれば、この公式の始めの k 項の和は左辺の上界と下界を交互にとる[4]:
{\displaystyle {\begin{aligned}\Pr \left(\bigcup _{i}A_{i}\right)&\leq \sum _{i}\Pr \left(A_{i}\right),\\\Pr \left(\bigcup _{i}A_{i}\right)&\geq \sum _{i}\Pr \left(A_{i}\right)-\sum _{i<j}\Pr \left(A_{i}\cap A_{j}\right),\\\Pr \left(\bigcup _{i}A_{i}\right)&\leq \sum _{i}\Pr \left(A_{i}\right)-\sum _{i<j}\Pr \left(A_{i}\cap A_{j}\right)+\sum _{i<j<k}\Pr \left(A_{i}\cap A_{j}\cap A_{k}\right),\\&\vdots \end{aligned}{\displaystyle {\begin{aligned}\Pr \left(\bigcup _{i}A_{i}\right)&\leq \sum _{i}\Pr \left(A_{i}\right),\\\Pr \left(\bigcup _{i}A_{i}\right)&\geq \sum _{i}\Pr \left(A_{i}\right)-\sum _{i<j}\Pr \left(A_{i}\cap A_{j}\right),\\\Pr \left(\bigcup _{i}A_{i}\right)&\leq \sum _{i}\Pr \left(A_{i}\right)-\sum _{i<j}\Pr \left(A_{i}\cap A_{j}\right)+\sum _{i<j<k}\Pr \left(A_{i}\cap A_{j}\cap A_{k}\right),\\&\vdots \end{aligned}
このことは公式全体が扱いにくい場合に利用される。
応用
おそらく、包除原理のもっともよく知られている応用は、組み合わせ問題における有限集合の攪乱(derangement)に対するものであろう。集合Aの攪乱とはAから自分自身への全単射であって不動点を持たないもののことである。包除原理によって、Aの基数(要素数)をnとしたときの攪乱の数が
{\displaystyle \left[{\frac {n!}{e}\right]}\left[{\frac {n!}{e}\right]
となることを示せる。ここで[x]はもっとも近い整数をあたえる関数(nearest integer function)を表す。
これはnのsubfactorialとしても知られ、{\displaystyle !n}!nと表す。 これはまた、全ての全単射に等しい確率が与えられた場合、無作為に選ばれた全単射が攪乱となっている確率がnの増加に従い、1/e に素早く近づくことを示している。
この原理によって理論的な公式を求める場合(特にエラトステネスの篩を用いる素数の数え上げ)、誤差評価が困難であるため有効な公式が得られないことが多い。これは、各項が個別には正確に求められてもそれらの相殺の様子を一般的に定式化することが難しい上に、和の項数が非常に多くなってしまうためである。数論において、ヴィーゴ・ブルンはこのような困難を部分的に克服する方法を見出し、これは現代的な篩の理論の端緒となった。ただし、この理論を用いてもたいてい、厳密な公式はもとより漸近公式さえ得られるのもまれで、したがってふるい落とされた集合の大きさの評価を与えるにとどまる。
共通部分の計算
包除原理とド・モルガンの法則とを合わせることで、共通部分の要素数を計算できる。{\displaystyle A}A を普遍集合、各 {\displaystyle i}i について {\displaystyle A_{i}\subseteq A}A_{i}\subseteq A とし、{\displaystyle {\overline {A_{i}\overline {A_{i} が {\displaystyle A}A に関する {\displaystyle A_{i}A_{i} の補集合を表すものとする。このとき
{\displaystyle \left\vert \bigcap _{i=1}^{n}A_{i}\right\vert ={\overline {\left\vert \bigcup _{i=1}^{n}{\overline {A_{i}\right\vert }\left\vert \bigcap _{i=1}^{n}A_{i}\right\vert =\overline {\left\vert \bigcup _{i=1}^{n}\overline {A_{i}\right\vert }
をえる。こうして、共通部分をもとめる問題を和集合をもとめる問題に帰着させることができる。
説明
従来の核パルス推進には、エンジンの最小サイズが推力を生成するために使用される核爆弾の最小サイズによって定義されるという欠点がある。従来の核水素爆弾の設計は、2つの部分で構成されている。起爆側はほとんどの場合プルトニウムに基本としており、もう一方は核融合燃料(通常は水素化リチウム)を使用している。前者の最小サイズは約25キログラムで、約1/100キロトン(10トン、42 GJ; W54 )の小さな核爆発を引き起こす。より強力なデバイスは、主に核融合燃料の追加によってサイズが拡大する。2つのうち、核融合燃料ははるかに安価で、放射性生成物がはるかに少ないため、コストと効率の観点から、より大きな爆弾の方がはるかに効率的である。しかし、宇宙船の推進にこのような大きな爆弾を使用するには、応力を処理できるはるかに大きな構造が必要であり、2つの要求はトレードオフになっている。
臨界量未満の燃料塊(通常はプルトニウムまたはウラン)に少量の反物質を注入することにより、燃料の核分裂を強制することができる。反陽子は電子と同じように負の電荷を持っており、正に帯電した原子核によって同様の方法で捕獲することができる。ただし、初期構成は安定しておらず、ガンマ線としてエネルギーを放射する。結果として、反陽子は最終的に接触するまで原子核にどんどん近づき、その時点で反陽子と陽子の両方が消滅する。この反応は途方もない量のエネルギーを放出し、そのうちのいくつかはガンマ線として放出され、いくつかは運動エネルギーとして原子核に伝達され、原子核を爆発させる。結果として生じる中性子のシャワーは、周囲の燃料に急速な核分裂または核融合さえも起こす可能性がある。
装置のサイズの下限は、反陽子処理の問題と核分裂反応の要件によって決まる。そのため、大量の核爆薬を必要とするオリオン計画型の推進システムや、膨大な量の反物質を必要とするさまざまな反物質駆動装置とは異なり、反物質核パルス推進には本質的な利点がある[1]。
反物質核熱核爆発の概念設計は、通常、従来の水素爆弾熱核爆発の点火に必要なプルトニウムの質量が1μgの反水素に置き換えられたものである。この理論的設計では、反物質はヘリウムで冷却され、デバイスの中心で直径10分の1mmのペレットの形で磁気浮上する。この位置は、レイヤーケーキ/スロイカ設計の主要な核分裂コアに類似している[2][3]。反物質は爆発の望ましい瞬間まで通常の物質から離れていなければならないので、中央のペレットは100グラムの熱核燃料の周囲の中空球から隔離されなければならない。爆縮レンズ、核融合燃料は、反水素と接触しする。ペニングトラップが破壊された直後に始まる消滅反応の役割は、熱核燃料の核融合を開始するためのエネルギーを提供することである。選択した圧縮度が高い場合、爆発/推進効果が増加したデバイスが得られ、低い場合、つまり燃料が高密度でない場合、かなりの数の中性子がデバイスから逃げ、中性子爆弾の様になる。どちらの場合も、電磁パルス効果と放射性降下物は、同じ収量の従来の核分裂装置または水素爆弾装置よりも大幅に低く、約1ktである[4]。
熱核爆弾に必要な量
1回の熱核爆発を引き起こすのに必要な反陽子の数は2005年に次のように計算されました。 {\displaystyle 10^{18}10^{18} 個、これはマイクログラム量の反水素を意味する[5]。
宇宙船の性能の調整も可能である。ロケットの効率は、使用される作業質量(この場合は核燃料)の質量と強く関連している。核融合燃料の特定の質量によって放出されるエネルギーは、核分裂燃料の同じ質量によって放出されるエネルギーの数倍である。有人の惑星間ミッションなど、短期間の高推力を必要とするミッションでは、必要な燃料要素の数が減るため、純粋な微小核分裂が好まれる可能性がある。外惑星探査のように、効率が高く、推力が低い、より長い期間のミッションでは、総燃料量が減少するため、微小核融合と核融合の組み合わせが好ましい場合がある。
研究
この概念は、1992年以前にペンシルベニア州立大学で発明された。それ以来、いくつかのグループが研究室で反物質起爆による微小核分裂/核融合エンジンを研究してきた(反物質や反水素ではなく反陽子の場合もある)[6]。
ローレンス・リバモア国立研究所では、早くも2004年に反陽子による核融合に関する研究が行われている[7]。慣性閉じ込め方式(ICF)の従来のドライバーの大きな質量、複雑さ、および再循環力とは対照的に、反陽子消滅は1µgあたり90MJの比エネルギーを提供し、したがって独自の形式のエネルギーパッケージングと供給を提供する。原則として、反陽子ドライバーは、ICFによる高度な宇宙推進のためにシステム質量を大幅に削減することができる。
反陽子駆動ICFは投機的な概念であり、反陽子の取り扱いとそれに必要な注入精度(時間的および空間的)は、重大な技術的課題を提示する。特に反水素の形での低エネルギー反陽子の貯蔵と操作は、この技術の初期段階の課題であり、現在の供給方法を超える反陽子生産の大規模なスケールアップには、本格的な研究開発プログラムに着手するのが不可欠である。
反物質貯蔵に関する最新(2011年)の記録は、 CERNで記録された1000秒強であり、以前は達成可能であったのがミリ秒単位であったことから考えると飛躍的な向上である[8]。
概要
「聖ヨハネ祭の前夜に不思議な出来事が起こる」というヨーロッパの言い伝えの一種、「聖ヨハネ祭前夜、禿山に地霊チェルノボーグが現れ手下の魔物や幽霊、精霊達と大騒ぎするが、夜明けとともに消え去っていく」とのロシアの民話を元に作られている。聖ヨハネの前夜祭は夏至祭の前夜であり、題材としてはシェイクスピアの『夏の夜の夢』と同様であるといえる。
1858年にゴーゴリの『ディカーニカ近郷夜話』に収める短篇「イワン・クパーラの前夜」(イワン・クパーラは聖ヨハネ祭を意味する)を3幕のオペラ化にする案がムソルグスキーやバラキレフらの間で話し合われたことがあった[1]。
1860年夏の手紙でムソルグスキーはメングデンの戯曲『魔女』(Ведьма)の中に出てくる禿山の魔女のサバトのための音楽を書く計画について語っているが、このときの音楽は残っておらず、現行の『禿山の一夜』とどのような関係にあったかはわかっていない[1]。初版は独立した管弦楽作品として1866年から1867年ごろにかけて作曲された。ムソルグスキーが初めて書いたある程度の大きさを持った管弦楽曲だったが、この曲はムソルグスキーの生前には演奏されなかった。ムソルグスキーはその後この曲を別の作品中で使用するために何度か書き直しているが、それらはいずれも日の目を見なかった[2]。
長らくリムスキー=コルサコフが編曲した版だけが普及していたが、20世紀に入ってムソルグスキー自身の手による原典版が再発見されると、こちらもムソルグスキーの典型的作風を示すものとして広く知られるようになった。
オーケストレーションと編曲の変遷
ムソルグスキーの楽曲の例に漏れず、『禿山の一夜』も何度もお蔵入りと改訂・編曲が繰り返された。その結果、今日までに様々なバージョンが残されている状態にあり、それぞれ特徴ある楽曲となっている。時に「ムソルグスキー・パラノイア(偏執病)」と揶揄されるほど熱心に彼の作品を取り上げた指揮者クラウディオ・アバドは、これらの4つの版についていずれも録音を残している。
『サランボー』でのモチーフ(1864年頃)
未完のオペラ『サランボー』において、初めて『禿山の一夜』のモチーフが登場したとされている。独立した曲としては明確に現存せず、アバドが『サランボー』の一節「巫女たちの合唱」として録音しているにとどまっている。『禿山の一夜』の原曲と言えるのは第3幕第1場の最後あたりという。
作曲者による原典版(1867年)
音詩『聖ヨハネ祭前夜の禿山』(露:Иванова ночь на Лысой горе, 英:St. John's Eve on Bald Mountain)は、1866年から1867年にかけて作曲され、1867年6月23日、まさに聖ヨハネ祭の前夜に作曲を完了した[3]。1866年3月にリストの『死の舞踏』を聞いたことがきっかけで作曲されたのかもしれない[4]。リムスキー=コルサコフにあてた手紙には、「魔物たちの集合〜そのおしゃべりとうわさ話〜サタンの行列〜サタンの邪教賛美〜魔女たちの盛大な夜会」という4つの場面が曲想として構成されていると記されている。サバトで終わるところはベルリオーズ『幻想交響曲』の最終楽章と共通する[5]。
バラキレフは、その粗野なオーケストレーションを批判し、修正を求めたが、ムソルグスキーが修正を拒絶したために演奏を断った[2]。演奏も印刷もされないまま、この版の存在は忘れられていたが、ムソルグスキー研究者としての功績で知られるソ連の音楽学者パーヴェル・ラム(ロシア語版)が1933年に再発見した後、1968年に楽譜が出版された。デーヴィッド・ロイド=ジョーンズ指揮による1971年の録音や、アバド指揮による1980年の録音で聴くことができる。
楽器編成
フルート2、ピッコロ、オーボエ2、クラリネット(変ロ調)2、ファゴット2
ホルン4(ニ調および変ロ調各2)、コルネット(変ロ調)2、トランペット(ニ調)2、トロンボーン3、テューバ
ティンパニ、トライアングル、タンバリン、スネアドラム、シンバル[注釈 1]、バスドラム、タムタム
弦五部
『ムラダ』(1872年)
1872年にロシア5人組の合作のオペラ・バレエ『ムラダ』を作る計画が持ち上がった。その第3幕に夏至祭の前夜の魔女のサバトが登場するため、ムソルグスキーは『禿山の一夜』をこの作品用に書きかえて合唱を加え、上記の『サランボー』の要素を追加し、新たなエンディングを加えた[6]。しかし『ムラダ』の計画は完成する前に中断され、上演されることはなかった。この版の楽譜は現存していないが、次の『ソローチンツィの市』に使われた版は『ムラダ』版を改訂したものである。
なお、ずっと後にリムスキー=コルサコフは新たに『ムラダ』を作曲し直しているが、第3幕の音楽はムソルグスキーのものとはまったく異なるものになっている。この部分は管弦楽曲『トリグラフ山の一夜』として編曲されている。
『ソローチンツィの市』(1880年)
1874年から1880年にかけて作曲されたムソルグスキー晩年のオペラ『ソローチンツィの市』の第3幕第1場の合唱曲「若者の夢」として、『禿山の一夜』が用いられている。ムソルグスキーがオペラ自体を未完のまま没したため、ほとんど知られることなく長年放置された。
オペラの一節であることからテノール・バスと児童合唱により構成された、魔物の咆吼ともいえる合唱が秀逸である。原典版にはなかった「教会の鐘」とその後の「悪魔たちの退散」はこの版に収められている。原典版にはこのシーンがないため、リムスキー=コルサコフによる編曲で追加されたものと思われている場合もあるが、このシーンはムソルグスキーのこの版がオリジナルである。
「若者の夢」はヴォーカル・スコアの形で完成しているものの、オーケストレーションはなされていない。ヴィッサリオン・シェバリーンによって補完された『ソローチンツィの市』には、ヴォーカル・スコアに比較的正確な形でオーケストレーションされた「若者の夢」が第3幕の前に含まれる(1933年出版)。
リムスキー=コルサコフによる改訂版(1886年)
1881年のムソルグスキー没後、彼の才能を何とかして世に知らしめたいと考えたリムスキー=コルサコフは、未発表だったムソルグスキーの作品から『禿山の一夜』を採り上げた。リムスキー=コルサコフ版は1867年の交響詩とはまったく異なっており、『ソローチンツィの市』に含まれる合唱版にもっとも近い[7]。オーケストレーションについては全面的にやりなおして、1886年に発表した。現在『禿山の一夜』として一般に知られる楽曲はこの改訂版である。
五人組のアカデミズムの立場を代表するリムスキー=コルサコフの手により編曲されたことにより、原典版とはかなり異なる洗練された印象を受ける。そのため、原典版において感じられるムソルグスキーの粗野で魅力でもあるイメージがいささか失われたうらみが残るが、それでもムソルグスキーの描いた荒々しく不気味なイメージを、リムスキー=コルサコフ得意の華麗なオーケストレーションで表現してみせたことで、この曲は広く普及した。リムスキー=コルサコフの意図したとおりに、未完の大器ともいえるムソルグスキーの名声を轟かせた貢献は大きい。
なお、この曲はディズニーが1940年に作ったアニメーション映画『ファンタジア』にも取り上げられている(ストコフスキーの編曲が使用された)。TVの不気味なシーンの効果音として頻繁に使われるなど日頃耳にする機会は多く、たとえば松本清張の『けものみち』がNHKでテレビドラマ化されたときにも主題曲として使用されていた。
楽器編成
フルート2、ピッコロ、オーボエ2、クラリネット(変ロ調)2、ファゴット2
ホルン(ヘ調)4、トランペット(変ロ調)2、トロンボーン3、テューバ
ティンパニ、シンバル[注釈 1]>、バスドラム、タムタム、鐘(1点ニ音)
ハープ、弦五部
その他の編曲
冨田勲がアルバム『火の鳥』にリムスキー=コルサコフ版を元にシンセサイザーで多重録音した演奏を収めている。
ヴォフカ・アシュケナージがリムスキー=コルサコフ版から2台のピアノのために編曲し、父ウラディーミル・アシュケナージと録音している。
BLANKEY JET CITYによるパンクバージョンでの演奏が、1991年に毎日新聞のCMに使われている。
ドイツのバンド「メコン・デルタ」、アメリカのバンド「アナル・カント」、イタリアのバンド「ニュー・トロルス」などがロックにアレンジして演奏している。
ポップンミュージック18の「ヒップロック5【一激必翔】(Des-ROW・組 スペシアル)」のメロディが、この曲をリスペクトして作られている。
映画(サタデー・ナイト・フィーバー)のサウンドトラックにてデヴィッド・シャイアーがディスコ調でアレンジ。
紀元前から中国各王朝が中国東南の地域およびその住人を指す際に用いた呼称。紀元前後頃から7世紀末頃に国号を「日本」に変更するまで、日本列島の政治勢力も倭もしくは倭国()と自称した。なお倭人()は、倭国の国民だけを指すのではない。和、俀とも記す。
※倭の政治組織・国家については「倭国」、倭の住人・種族については「倭人」をそれぞれ参照のこと。
奈良盆地(のちの大和国)の古名。倭人ないしヤマト王権自身による呼称。「大倭」とも記す。
※「大和」を参照のこと。
概要
「日本」の前身としての「倭」
「倭国」および「倭人」も参照
倭については、中国正史で記述されている。後漢書倭伝や魏志倭人伝、晋書倭人伝、宋書倭国伝、南斉書倭国伝、梁書倭国伝、隋書倭国伝、北史倭国伝、南史倭国伝などに記述されている。 史書に現れる中国南東部にいたと思われる倭人や百越の人々を含んだ時代もあったという意見もある[1]。 中国人歴史学者の王勇によれば中国の史書に現れる倭人の住居地は初めから日本列島を指すとしている[2]。倭国の領域は、隋書や北史では、東西に五カ月で、南北に三カ月とされる。
倭(ヤマト国家)は、大王を中心とする諸豪族による連合政権であった。大王は、元来大和地方(現奈良県)の王()であったが、5世紀ごろから大王と呼ばれるようになった。ヤマト国家では、有力豪族によって大王が擁されたり、廃されたり、場合によっては殺害されることもあり、実質は有力豪族たちによって運営されていた。そのため有力豪族同士の権力争いも絶えなかった。氏を持つ血縁を中心につながる一族が、身分(姓)を与えられていた(氏姓制度)。
『日本』と言う国名は、大化の改新によって『天皇』という称号とともに使われるようになった。天智及び天武朝において始まったとされるが、いずれにしても7世紀後半のことである。
「倭」という呼称
「大和」も参照
『古事記』や『日本書紀』では倭()日本()として表記されている。 魏志倭人伝では日本は邪馬台国と音文字で表記されている。 また『日本書紀』では夜摩苔つまりʎia mwɑ də もしくはjia mo tʰaiと表記されていた。
奈良時代まで日本語の「イ」「エ」「オ」の母音には甲類 (i, e, o) と乙類 (ï, ë, ö) の音韻があったといわれる(上代特殊仮名遣い)。「魏志倭人伝」における「邪馬台」や「隋書倭国伝」における「邪摩堆」は"yamatö"(山のふもと)であり、古代の「大和」と一致し現在の「奈良県」にあたる。筑紫の「山門」(山の入り口)は"yamato"であり、音韻のうえでは合致しないので、その点では邪馬台国九州説はやや不利ということになる[3]。なお、山門や山都などの「と(甲)」が「魏志倭人伝」に記録された場合、「伊都(怡土郡)」や「都支(土岐郡・刀支)」のように「台」ではなく「都」が当てられた可能性が高い。ただし、古来、「と(甲)」と「と(乙)」は通用される例もあり、一概に否定はできない[4]。
8世紀に「大倭郷」に編成された奈良盆地南東部の三輪山麓一帯が最狭義の「ヤマト」である[5]。同地は椎根津彦を祖とする倭国造の本拠であった。なお、『日本書紀』には新益京(藤原京)に先だつ7世紀代の飛鳥地方の宮都を「倭京」と記す例がある。
737年(天平9年)、令制国の「ヤマト」は橘諸兄政権下で「大倭国」から「大養徳国」へ改称されたが、諸兄の勢力の弱まった747年(天平19年)には再び「大倭国」の表記に戻された。そして757年(天平宝字元年)橘奈良麻呂の乱直後に「大倭国」から「大和国」への変更が行われたと考えられている。「大和」の初出は『続日本紀』(天平宝字元年(757)12月壬子(九日)「大和宿祢長岡」)である(但し、同書にはそれ以前に、追書と思われるものが数カ所ある)。
語義
倭の文字の変遷。下に行くにつれて古い。
解字
「倭」は「委(ゆだねる)」に人が加わった字形。解字は「ゆだねしたがう」「柔順なさま」「つつしむさま」、また「うねって遠いさま」[6]。音符の委は、「女」と音を表す「禾」で「なよやかな女性」の意[7]。
用例
中国の古代史書で、日本列島に居住する人びとである倭人を指した[2]。
説文解字では「従順なさま。詩経に曰く“周道倭遲(周への道は曲がりくねり遠い)”。」と解説されている[8]。 康熙字典によれば、さらに人名にも使用され、例えば魯の第21代王宣公の名は「倭」であると書かれている[9]。
『隋書』では俀とも記し、『隋書』本紀では「倭」、志・伝で「俀」とある。「俀」は「倭」の別字である可能性もあるが詳細は不明である[10]。
のち和と表記される。奈良時代中期頃(天平勝宝年間)から同音好字の「和」が併用されるようになり、次第に「和」が主流となっていった。例えば鎌倉時代の徒然草には「和国は、単律の国にて、呂の音なし」(199)とあり[11]、また親鸞も和国と記している。
現代の日本では、倭の字はいくつかの場面で使われている。人名用漢字の一つとして選ばれている他、東京には「倭」という手作り弁当のチェーン店がある。公立学校として三重県津市と長野県中野市に倭小学校が存在する。奈良県には北倭保育園(私立)が存在する。日経ビジネスオンラインでは、海外で働く日本人に対し、華僑という言葉を参考にして「倭僑」という言葉を提案した[12]。中国には貴州省清鎮市に犁倭という地名が存在する。
解釈
日本列島に住む人々が倭・倭人と呼称されるに至った由来にはいくつかの説があるが、いずれも定説の域には達していない。
平安時代初期の『弘仁私記』序にはある人の説として、倭人が自らを「わ」(吾・我)と称したことから「倭」となった、とする説を記している。
一条兼良は、『説文解字』に倭の語義が従順とあることから、「倭人の人心が従順だったからだ」と唱え(『日本書紀纂疏』)、後世の儒者はこれに従う者が多かった。
江戸時代の木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説を述べている。現在でも、ピグミーマーモセットの中国語表記は「倭狨」、「コビトカバ」は「倭河馬」で、倭は小ささを表す言葉である。
新井白石は『古史通或問』にて「オホクニ」の音訳が倭国であるとした。
隋唐代の中国では、「韻書」と呼ばれる字書がいくつも編まれ、それらには、倭の音は「ワ」「ヰ」両音が示されており、ワ音の倭は東海の国名として、ヰ音の倭は従順を表す語として、説明されている。すなわち、隋唐の時代から国名としての倭の語義は不明とされていた。
また、平安時代の『日本書紀私記』丁本においても、倭の由来は不明であるとする。
さらに、本居宣長も『国号考』で倭の由来が不詳であることを述べている。
神野志隆光は、倭の意味は未だ不明とするのが妥当としている[13]。
悪字・蔑称説
『旧唐書・東夷伝・日本国の条』に「或曰、倭国自悪其名不雅、改為日本(あるいは曰く、倭国自らその名の雅ならざるを悪みて、改めて日本となす)」とある。
江戸時代の木下順庵らは、小柄な人びと(矮人)だから倭と呼ばれたとする説を述べ、他にも「倭」を蔑称とする説もあるが、「倭」の字が悪字であるかどうかについても見解が分かれる。「倭」を悪字とすれば、記録を残した側の「魏」は小柄な亡霊(矮鬼)で倭より酷い蔑称になってしまう。『魏志倭人伝』や『詩経』(小雅、四牡)などにおける用例から見て、倭は必ずしも侮蔑の意味を含まないとする見解がある。それに対して「卑弥呼」や「邪馬台国」と同様に非佳字をあてることにより、中華世界から見た夷狄であることを表現しているとみなす見解もある。
なお、古代中国において日本列島を指す雅称としては瀛洲()・東瀛()という呼称がある[14]。瀛洲とは、蓬萊や方丈ともに東方三神山のひとつである。
詳細は「瀛州」を参照
倭の国々
漢委奴国王印
冒頭で掲げたように、「倭」には現在の西日本および奈良盆地という2つの意味があるが、ここでは広義の「倭」つまり西日本における小国分立時代の国々について若干ふれる(古墳時代を通じて徐々に小国連合が成立して「倭国」というひとつのまとまりが生まれてからについては「倭国」を参照のこと)。
『魏志』倭人伝にみられる「奴国」は、福岡市・春日市およびその周辺を含む福岡平野が比定地とされている。この地では、江戸時代に『後漢書』東夷伝に記された金印「漢委奴国王印」が博多湾北部に所在する志賀島の南端より発見されている。奴国の中枢と考えられているのが須玖岡本遺跡(春日市)である。そこからは紀元前1世紀にさかのぼる前漢鏡が出土している。
「伊都国」の中心と考えられるのが糸島平野にある三雲南小路遺跡(糸島市)であり、やはり紀元前1世紀の王墓が検出されている[15]。
紀元前1世紀代にこのような国々が成立していたのは、玄界灘沿岸の限られた地域だけではなかった。唐古・鍵遺跡の環濠集落の大型化などによっても、紀元前1世紀には奈良盆地全域あるいはこれを二分、三分した範囲を領域とする国が成立していたものと考えられる[15]
名称
日本語においては、用便の際の清拭用の紙を「落とし紙/落し紙(おとしがみ)」[1][2]と総称するが、この語がいつ頃から用いられてきたかは不明である。ただ、落とし紙という紙そのものは古くから用いられてきた。英語由来の外来語「トイレットペーパー (toilet paper, toilet-paper)」は、落とし紙の一種と見なすことができ、紙自体も語としても、近代以降のいつ頃からか用いられるようになったものである(巻き取りタイプは明治時代末期から)。また、鼻紙/花紙(鼻水を拭いたりするための紙)や落とし紙(落下式便所などで使って下に捨てる紙)を始めとする多用途の低品質紙を「塵紙/ちり紙(ちりがみ、ちりし)」という[3]ので、塵紙品質の落とし紙をその名で呼ぶことがある。加えて、円筒形の巻き取りタイプ(ロール紙タイプ)[* 2]を「トイレットロール(和製英語:toilet roll)」と呼ぶこともある[* 3][* 4]。ほかにも、総称的な語として「便所紙(べんじょがみ)」があるものの、広く通用しているとは言えず、方言としての用法に限られ、昔ながらの平判タイプを円筒形・巻き取りタイプと区別する際の呼称であることも多い。
同じ漢字文化圏でも中国語では大きく異なり、排便時の清拭用紙を「簡体字:卫生纸(繁体字:衞生紙)」「手纸(手紙)」「厕纸(厠紙)」「纸巾(紙巾)」などといい (cf. wikt:zh:卫生纸、wikt:en:衛生紙)、円筒形・巻き取りタイプは「厕纸卷(厠紙捲)」という。
概説
トイレットペーパーの
バリエーション
巻き取り型、漂白パルプ製で、エンボス加工した製品の一例
巻き取り型、漂白パルプ製で、絵柄と香りを付けた製品の一例
巻き取り型、クラフトパルプ製の製品の一例
ボール紙製の芯紙
水解紙製のトイレットペーパーの芯
円筒形・巻き取りタイプには、長尺紙を重ねるか否かで区別があり、重ねない一枚ものを「シングル巻き」、二枚を重ねるものを「ダブル巻き」といい、珍しいが三枚重ねの「トリプル巻き」もある。
紙の材料とその色は国・地域や時代によって大きな違いがあり、無漂白のクラフトパルプなどを材とした茶色がかった自然紙の色をしたもの、再生紙であるために再生前の印刷用インクや微細な不純物が影響して灰色がかった白いもので巻紙所状態では白くても便器の溜水部に浸かると灰色や褐色がかった色になり、そして、漂白パルプを材とした真っ白なものといい便器の溜水部に浸かっても真っ白であるものの、3種類に大別できる。漂白パルプを使った製品では、その白さを生かして淡色系の着色の施されたものもあり、ピンク系・黄色系・緑色系・水色系などといった様々な色の製品が販売されている。
絵柄と、法人の名称やロゴタイプを始めとする、それぞれに異なる目的をもって印刷された情報を紙面に施された製品も、数が多いとは言えないまでも、商品史の黎明期から (cf. J C Gayetty N Y ) 変わらず作られ続けている。絵柄には、インダストリアルデザインに適うよう開発されたものもあれば、女性・子供など特定の消費者層に合わせて開発・販売されるものもある。クイズと解答、名言集、ジョーク集などといった濃厚な文字情報を載せた製品も、変わり種と呼べないほどに珍しいものではなくなっている。
使用感と清拭・吸収性の向上のためにエンボス加工を施した製品もある。
芯については、従来どおりの芯紙のある製品が一般的であるが、エコロジーの観点から芯紙を無くした製品も開発され、「芯が無い」という意味合いの「コアレス」などといった名称で流通している。芯紙のある製品の場合、材料はボール紙と水解紙があるものの、圧倒的多数は昔からあるうえに安価な前者である(■右列に画像あり)。ほかにも、芯紙に香料で着香した製品もある。
下水道に流すか否か
トイレットペーパーには、下水道に流すか否かという問題がある[4][5]。トイレットペーパーが水に溶けない紙だったり、排水設備や管路の詰まりや堆積物などに深く関係して、インフラストラクチャー上の都合と流通品の品質の如何で、国家・地域によって、差異が極めて大きい。
一つに、トイレットペーパーから便器清掃用の紙製品まで流してよい例、一つに、トイレットペーパーしか流せない例、今一つに、紙類一切を流せない(ごみ箱に捨てる別の処分方法がある)例がある[6]。国・地域別での具体例を挙げるなら、中華圏(中国本土〈香港と澳門を除く〉と台湾)では、水洗式便所にトイレットペーパーを流すのは非文明的・非常識な行為とされていて[4][5]、それ以前の社会全体が貧しかった時代から使っていた新聞紙と同様、ごみ箱に捨てるのが社会良識となっている[5]。そのため、日本のように正反対の行為が社会良識として浸透している文化圏もあって、そういった地域を旅行する際には注意が必要であることを、現地メディアが紹介しているくらいである[5]。一方で、中華圏の中のトイレ先進地域(先進的な都市部)では、「抽水馬桶(水洗式便所)に紙を流してはならない」旨の注意書きが、正反対の常識を持つ日本人向けに用意されている例も、2010年代後期には見られる[4]ようである。中国本土や台湾でトイレットペーパーなどを下水道に流してはならない理由は、なんと言っても下水道インフラが未発達で[4]管路が細く詰まりやすい[5]ことにあり、しかし2つ目には紙質が“良すぎて”溶けにくいことも挙げている[5]ことがある(※もっとも、日本のものは紙質が悪いせいで溶けやすいわけではなく、品質向上を追求した結果、速やかに溶けて流れる商品が開発されてきたというのが事実であり、水解紙などは目下その最たるものである。(ティッシュペーパーとトイレットペーパーの特徴の違いも参照))。
歴史
平らな裁断紙のトイレットペーパー/"Le Troubadour (ル・トゥルバドゥール)" という銘柄のパッケージに収められている、1960年代のフランス製品。
前史
普及以前は、富める人は、羊毛、レース、麻を用い、その他は直接手を用いるか、木の葉、草、干し草、トウモロコシの皮、苔、水、鉋屑(かんなくず)、石、貝殻、砂、雪、ぼろ布や、付近にヤツデを植栽して葉を用いるなどしていた[疑問点 – ノート]。古代エトルリアの便所(公共水洗便所を含む)では、使い捨てにしない用具として天然のスポンジである海綿が使われており、この習慣は古代ローマにも継承された。日本では、使い捨てにしない用具として、貝殻や籌木(しゃがんで排便する際に姿勢を維持するために用いる木片で、体などに便が付着した際は掻き落とすのにも用いる)が長いあいだ使われ続けた。
清拭用紙の登場
851年に中国を旅したアラブ人の旅行記に中国人が用を足したのちに紙で拭くことを記述しているが、水で洗わないことから、清潔を気にしない人種として記録されている[7]。
帝政ロシアでは、皇帝専用紙に皇帝の印が家臣によってなされた。イングランド王ヘンリー8世の宮廷では、王族の用便後に素手で清拭する便所担当には特に信頼された廷臣が選ばれ、王と個別に相対する好機として影響力を期待し望む者も多かった。日本でも、江戸時代の大奥に似たような慣習があり、大奥女中に拭わせるしきたりにどうしても馴染めない御台所が自ら拭うということもあったという。
1857年12月8日には、アメリカ合衆国の実業家ジョセフ・ガイエティー(英語版)が[8]、"J C Gayetty N Y (J・C・ガイエティー・ニューヨーク)" の名を透かし印刷で紙面に載せた巻き取り型のトイレットペーパーを[8]痔の医療用製品として生産し始め[9]、これがトイレットペーパーとして世界初の工業製品であった[8]。
日本では、明治中期頃より古紙が原料の塵紙とパルプが原料の落とし紙や京花紙などが主に用いられていた[要出典]。また、明治時代末からは巻き取り型のトイレットペーパーも使われ始めたが、当時は舶来品が占めていた[10]。それでも、そういった変化は都市部での話で、農村部では、大正時代の頃まで木の葉や藁のほか、古来の籌木が用いられ続けていた[2]。
日本で最も早い時期に巻き取り型のトイレットペーパーを発売した企業は、紙の博物館によれば、記録の残る限りで、神戸市内にあった貿易商の島村商会(嶋村商會)である[10]。1924年(大正13年)、島村商会は高知県の工場に原紙の製造を依頼し、同商会がトイレットペーパーに仕上げた上で外国汽船などに納入していた[10]。
上下水道整備の進捗に伴い、1955年(昭和30年)前後から便所の様式が「汲み取り式」から「水洗式」へ「和式便器」から「洋式便器」へ変化し、合わせて巻き取り型のトイレットペーパーの生産量も増加した。使用量は2008年から2011年で、日本人一人あたり年間およそ8キログラムと推算[11]されるほど生活必需品で、非常時に備えて平時の備蓄が望まれる。2020年に日本で流通する97%は日本産であり、原材料も日本で調達される自給率の高い製品である[12]。
設置
紙巻器
壁でなくドアに設置
専用什器の紙巻器などで設置する。
2個横向きに並列配置した2連紙巻器は紙切れの不便解消[13]などに配慮した商品で、公共施設などで設置が見られる縦に2巻配する什器は使用済み芯紙を取り除いて新たな1巻を使用する。
「トイレットペーパーの向き」も参照
三角折り
三角折り、2個配置
巻き始めの先端を三角形に折る事例は、日本では三角折りと俗称する者も見られ、アメリカの消防署で緊急出動受令時に用便中でも迅速な対応を目した「ファイヤーホールド」に由来[* 5]するなど様々語られており、ホテル、劇場、店舗など公共の場所で散見[* 6]される。
自動販売機
日本では、鉄道駅のトイレ入り口などを中心に自動販売機が設置されている場合があるが減少傾向にある[14]。
規格
巻き取り型のトイレットペーパーは、通常は便所個室内で専用什器に装着して使用するため規格化が必要であるが、国情によりロール径や幅が若干異なる。また、トイレ、排水設備、管路等の詰まりや堆積物等の問題を回避するために、ほぐれやすさ(分解性)まで規格化されている国・地域もある[6]。
JIS
日本では、紙パックなどさまざまな再生パルプを多く用いて、およそ4割が静岡県で製造され、「ティシュペーパー及びトイレットペーパー」として家庭用品品質表示法の適用対象で雑貨工業品品質表示規程[15]に、品質や寸法などは日本産業規格(JIS)[* 7]に定めがある。
市販品は、JIS規格で1巻27.5、32.5、55、65、75、100メートル、許容差+3と公定されているが、量販品は60メートル巻きが多い。
公共用途の業務用は一巻あたり150から210、最大500メートルと高頻度需要に適応しているが、1巻重量は最大1~2キログラムで軸が鉛直方向の専用大型什器に装着する交換頻度低減を目する製品である。
また、日本では1993年(平成5年)からJISにトイレットペーパーのほぐれやすさ試験(分解性試験)が付加された[6]。
ISOでの規格化の動き
カナダでは、トイレクリーナーなどトイレに流せると表示された紙製品等によって、トイレ、排水設備、管路での詰まりや、堆積物、スクリーンかす、汚泥の処理費が増大した[6]。そのため、2014年1月、カナダは ISO/TC224(上下水道サービス運営規格検討委員会)に対して「トイレに流せる製品」 の規格化を提案した[6]。
ドイツは、水洗便所にトイレットペーパー以外を流してはならないとしており、ISOでの規格化に反対している[6]。また、日本では、日本下水道協会が ISO原案のほぐれやすさ試験(分解性試験)の基準が JIS P 4501 より著しく緩くなっている点について問題を指摘している[6]。
概要
大気圏内(対流圏内)で発生した核爆発については、エネルギーは概ね以下の4区分[1]により放出されている。
爆風 - 全エネルギーの40-50%
熱放射 - 全エネルギーの30-50%
電離放射線(初期放射線) - 全エネルギーの5%
放射性降下物 - 全エネルギーの5-10%
上記は一般的な核兵器の場合であり、中性子爆弾などによっては、エネルギーの分配が大きく異なる場合がある。水中や地表・地下等で爆発させた場合も、エネルギーの分配が異なり、衝撃波(地震波)を発生させる。
核爆発に際しては、最初に放射線が放出され、ついで熱放射が出される。放射線により発生した火球は数百万度の温度となり膨張し、衝撃波・爆風を発生させる。また火球により上昇気流が発生し、キノコ雲が生成され、放射性降下物を周囲に散布する。
直接効果
爆風
核反応により発生した放射線により大気中の原子が励起され、温度が上昇、高温・高圧の火球が形成される。この火球は数百万度の温度を持ち、表面に衝撃波を形成しつつ急速に膨張する。火球の膨張が停止する段になっても、衝撃波はより広範囲に爆風となって拡散する。大気圏内核爆発においては最も直接的な被害を引き起こすものである。高高度大気圏(高高度核爆発)や宇宙空間においては、大気分子が少ないために、火球の生成は活発なものとならず、放射線として放出されるエネルギーの割合が高くなる。そのため、高度が高いところの核爆発であるほど爆風の影響は減少する。
爆風の外側への拡散の後には、強風が爆心地に向かって逆に流れるが、これは膨大なエネルギーによって爆発中心部の空気が四方に発散しほぼ真空状態になるためである。
爆風の風速は300m/sを超える場合もあり、それは数秒間持続する。衝撃波も含めて、人工物や人体に対し致命的な打撃を与える。
熱放射
着物の色の濃い所に熱線が集中したため文様が体に焼き付き火傷した女性
核爆発に伴う火球からは紫外線、可視光線、赤外線領域においても多量の電磁波放射を伴う。多量の赤外線は、核出力に連動する光線の持続時間や光線量などにも影響されるが、木や紙等の可燃物を燃焼させるには十分な威力を有する。なお、天候の影響を受けやすく、多湿な環境であれば熱放射は阻害される。広島市への原子爆弾投下においても木造建築物の火災発生が見られた。
核爆発の熱放射に伴う火災は同時多発的であり、集合して大規模火災に成長する危険性がある。大規模火災には風が流入することで高温を発生させる旋風火災と、火災が徐々に燃え広がっていくコンフラグレーション(大火)の二つがある。旋風火災である場合、その高熱と燃焼反応によって多くの人を熱傷・窒息死に至らしめる。コンフラグレーションの場合、比較的避難の時間があるが、核爆発においては熱放射による火傷や放射線・爆風により負傷していることもあり、迅速な移動が困難で被害を拡大させる。
また、人体においては、火傷の発生[2]の他、可視光線による網膜損傷、赤外線による網膜火傷などを負う場合がある。なお、人間は体の30%以上の表皮が熱傷になるとショック状態となり、致命傷となる。また、物体の色による温度吸収に大きな差が発生する。爆撃機においては核爆発の熱放射を避けるために白色塗装が行われていた。また、実戦において核兵器が使用された広島および長崎の被爆者においては、色の濃い部分が熱線を吸収することによって衣服の柄が皮膚に焼きつく例も見られた。
間接効果
電磁パルス
核爆発によって発生したガンマ線は大気中の分子に作用し、コンプトン効果により自由電子を作り出す。これらは電磁パルスとなり、アンテナ・ケーブルなどを通じて、防護されていない電子機器を使用不能とする。低層大気圏中においては、濃密な大気の影響によりその影響は限定的となるが、高層大気圏中における核爆発においては、ガンマ線がより遠くに届くこともあり、広範囲に影響を与えるものとなる。これにより、情報通信機器への障害が発生すると考えられている[3]。
電離放射線
核反応に伴って中性子線、ガンマ線、アルファ線などの電離放射線が放出される[4]。放射線の強度は、爆心地ほど強く、距離が離れるに従い、その強度は急速に減衰する。減衰度は種類によって異なり、ガンマ線は中性子線より減衰度が小さい。そのため、爆心地付近においては放射線中の中性子線の占める割合がガンマ線より高いが、爆心地から離れるに従いガンマ線の割合が高くなり、より遠距離までガンマ線が到達する。電離放射線は放射化生成物をもたらし、キノコ雲や爆風により周囲に放射性降下物を散布する。放射性降下物の散布範囲は気象条件に大きく左右され、爆風や熱放射より広範囲に影響を与える。放射性降下物からも二次的な放射線が放出される。物質にもよるが、大半が短命に崩壊する物質であるので、49時間で100分の1、2週間後には1,000分の1にまでその線量は低下すると考えられる。
人間は短期間に600レム(6シーベルト)の線量を浴びれば致命的な病気を発生させ、数週間のうちに絶命すると推測されている。450レムであれば被爆者全体の半数が致命的な病気にかかり命を落とすが、半数が生き残り、300レムならば被爆者の10%が死亡し、50レム - 200レムならば眩暈や抵抗力が低下するなどの症状が現れ、50レム以下ならば自覚症状はないが、何らかの損傷を負っている可能性が高い。遺伝的な影響も懸念されるが、放射線影響研究所(RERF)による約12,000人を対象にした調査によると、被爆2世への遺伝的な影響を示す証拠はない。ただし、放射線と生体の影響については科学的な論争が存在する。
人体に対する相乗効果
人体に対して各効果は相互作用することが考えられる。例えば、核放射線と熱放射の相乗効果を考慮した場合、放射線を大量に浴びた人間の循環系には大きな損害が与えられ、熱傷の回復力が大きく低下することが動物実験で示されている。すなわち、放射線さえ受けなければ回復する熱傷であるにもかかわらず、回復不能で死に至る場合が考えられる。
その他の効果
地下・地表核爆発の効果の一つとして、大規模なクレーター生成の可能性があげられる。この際、小規模な地震の発生も伴う[5]。生成されるクレーターの規模は爆発威力や爆発深度による。かつてはこれを巨大な発破と見なして核爆弾を土木工事や爆風消火に利用することも研究されていたというが、爆発後長期に亘り残される放射能汚染の問題は解決できず、実用には至らなかった。平和的核爆発も併せて参照のこと。
等価線量が各組織・臓器の局所的な被曝線量を表すための線量概念であるのに対して、実効線量は被曝の形態に関わらず個人の生物学的リスクの尺度となる線量概念である[注釈 3]。
概要
放射線障害の確率的影響のリスク(発生確率)は、放射線被曝を受けた人体の組織・臓器の等価線量だけでなく、その組織・臓器の種類に依存する[注釈 4]。そこで、等価線量のように吸収線量に放射線加重係数を掛け合わせることで放射線の生物影響を平準化したのと同様に、各臓器の等価線量にその臓器に対応した組織加重係数(tissue weighting factor)を掛け合わせて、すべての臓器について足し合わせたもの(臓器の違いによる放射線感受性の違いを平準化して一つにまとめた線量)を実効線量(effective dose)と呼ぶ。 実効線量を用いることにより、例えばラドンの吸引などによる肺だけの内部被曝と、宇宙線などからの全身被曝を足し合わせすることができるようになる。つまりは、内部被曝や外部被曝という異なる形式の被曝を、1つの値でその被曝の程度を表現できる点が特徴である[5]。
なお、組織加重係数は、確率的影響(ガン及び遺伝的影響)に対する各臓器・組織の相対的な放射線感受性の程度を表したものであり、確定的影響についてはあまり考慮されていない[注釈 5]。したがって、実効線量で問題としているリスクとはあくまで確率的影響のリスクのみである[注釈 6]。
定義
実効線量(effective dose)E は、人体の臓器 T の等価線量を HT、組織加重係数を wT とするとき、
(実効線量 [Sv]) E = {\displaystyle \sum _{T}{\displaystyle \sum _{T}(臓器 T の等価線量 [Sv])HT × (臓器 T の組織加重係数) wT
で定義される。
より具体的には、
実効線量 = {\displaystyle \sum }\sum (その臓器の等価線量 × その臓器の組織加重係数)
= H生殖腺 x w生殖腺 + H赤色骨髄 x w赤色骨髄 + () + ()+ ()....
である。
組織加重係数(tissue weighting factor)
組織加重係数とは、各組織・臓器における放射線の影響度(放射線感受性)の指標となる係数であり、各組織・臓器がどれだけ放射線の影響を受けやすいかという度合いである。
国際放射線防護委員会(ICRP)がこれまでに勧告した各組織・臓器の組織加重係数は下表の通り[7][8][9]。なお、各個人の組織・臓器の係数の和は1であり、現行の国内法は1990年勧告の組織加重係数を元にしている。
組織加重係数
組織・臓器 組織加重係数
ICRP103 (2007年) ICRP60 (1990年) ICRP26 (1977年)
生殖腺 0.08 0.20 0.25
赤色骨髄 0.12 0.12 0.12
肺 0.12 0.12 0.12
結腸 0.12 0.12 項目なし
胃 0.12 0.12 項目なし
乳房 0.12 0.05 0.15
甲状腺 0.04 0.05 0.03
肝臓 0.04 0.05 項目なし
食道 0.04 0.05 項目なし
膀胱 0.04 0.05 項目なし
骨表面 0.01 0.01 0.03
皮膚 0.01 0.01 項目なし
唾液腺 0.01 項目なし 項目なし
脳 0.01 項目なし 項目なし
残りの組織・臓器 0.12 0.05 0.30
係数合計 1.00 1.00 1.00
ここで注意が必要なのは、等価線量も実効線量も同じシーベルト(Sv)の単位で表しているために混同しがちであることである。例えば、被曝が皮膚のみで、その被曝量が100mSv(等価線量)である場合、実効線量は、皮膚の組織加重係数(0.01)をかけて、1mSvとなる。このように局所被爆の場合、実効線量は等価線量よりも低い値となる。被曝しきい値などの記述で実効線量と等価線量が併記されている場合は、それぞれどちらの線量を示しているのか確認する必要がある。
放射線防護における適用
一般に人体に関する防護量である実効線量の直接測定は困難である。そのため、防護量である実効線量の推定値又は上限値を与えるための実用量が用いられる[10]。
「等価線量#モニタリングの実用量としての線量当量」も参照
外部被曝による実効線量
ここでは放射線業務従事者等が装着した個人線量測定器[11]の測定線量から日本の法令に基づいて外部被曝による実効線量を計算する場合を述べる。外部被曝による実効線量計算式を示すにあたっては個人線量モニタリングの方法に触れる必要がある。
線量当量には区分があり、皮膚表面からの深さによって70μm線量当量、3mm線量当量、1cm線量当量となっていて、70μmは皮膚の基底層、3mmは眼の水晶体、1cmはその他すべてを対象とする線量当量である[12][13]。
また、個人線量モニタリングは全身均等被曝を基本的な仮定とし、男子(および妊娠不能な女子)は胸部に、妊娠可能な女子は腹部に個人線量測定器を装着する。これは女子では胎児被曝を主に考慮しており、男子では造血組織である赤色骨髄の被曝を主に考慮しているためである。
不均等被曝が考慮されるべき場合には全身を「頭頸部」、「胸部・上腕部」、「腹部・大腿部」、「その他」の4部位に区分してその部位内では均等被曝を仮定し、全身均等被曝の場合の個人線量測定器装着部位以外の部位が最大被曝をするおそれのある場合にはその部位にも装着する。手指などの「その他」の部位が多く被曝する放射線作業では指輪型個人線量測定器も用いられるが、「その他」の部位は(中性子線被曝がない限り)皮膚の70μm線量当量のみを測定する[14]。例えば、X線使用業務で肩から膝下まで鉛入り防護エプロンを着用する場合は個人線量測定器をエプロンの下の胸部または腹部に装着し、さらに頭頸部(エプロンの外)に装着し、また作業内容によっては手指にも装着することになる。
以前は3種類の線量当量すべてを測定することとなっていたが、2001年の改正法令施行により70μm線量当量と1cm線量当量のみの測定となった。これは実務上、3mm線量当量が他の二者の大きい方を超えないためで、眼の水晶体の等価線量はいずれか大きい方の値(安全評価側)を採用する[15]。
実効線量の計算には1cm線量当量のみが用いられる。過去の法令では組織加重係数を元にした「実効線量当量」の計算式が示されていたが、ICRP 1990年勧告を受けた2001年の改正法令施行により組織加重係数がICRP 1977年勧告から変更され、不均等被曝による影響が小さくなったとして実効線量の計算式は放射線障害防止法令に明示されず、「適切な方法による」という表現になった。しかし、科学技術庁(当時)の通知には参考として平成11年4月の放射線審議会基本部会の示した式を掲載しており[16][9]、事実上以下の式が現在の計算式となっている。
HEE = 0.08Ha + 0.44Hb + 0.45Hc + 0.03Hm
ここで、
HEE : 外部被曝による実効線量当量
Ha : 頭頸部における1cm線量当量
Hb : 胸部および上腕部における1cm線量当量
Hc : 腹部および大腿部における1cm線量当量
Hm : 頭頸部、胸部・上腕部および腹部・大腿部のうち外部被曝による線量当量が最大となるおそれのある部分における1cm線量当量
である。
男性がX線使用業務で肩から膝下まで鉛入り防護エプロンを着用し、頭頸部線量当量が胸部・上腕部線量当量より大きかった場合を例にすると、
HEE = (0.08 + 0.03) Ha + (0.44 + 0.45) Hb
となる。
内部被曝による実効線量
内部被曝による被曝は長期にわたるため、生涯の健康リスクを評価するには預託実効線量(committed effective dose)を用いる[17]。
体内に入った放射性物質は、人体の代謝排泄機能か放射性崩壊によって放射能が減衰するまでは、体内で放射線を放出し続ける。体内に長く滞留する放射性同位元素の場合、被曝が長い期間に及ぶのが特徴であるが、被曝が数年から数十年に及ぶ場合、実際の被曝を年ごとに評価するのは現実的ではない。
そこで、将来受ける線量を前もって評価するため、放射性物質を摂取した時点に遡りその放射性物質が体内に残留している間の累積線量を各臓器に対して評価する。預託実効線量は預託等価線量と組織加重係数の積の和と定義される。線量の累積計算をする期間は明記されなければ、成人で50年間、子供や乳幼児は摂取した年齢から70歳までの期間が用いられ、放射される線量率を時間積分した値となる。
日本では科学技術庁告示により摂取量から内部被曝実効線量を算出するための実効線量係数が定められている[18]。同じ放射性元素でも化学形態によって被曝量は異なり、また吸入か経口摂取かの違いでも異なってくる、等で換算係数には大きく幅がある。
集団実効線量(collective effective dose)
「集団線量」を参照
生物学的実効線量 (Biological Effective Dose)
略称はBED[19]。実効線量と名前に付くが、本項で解説される実効線量(リスクの程度を表す線量概念)とは別の概念である。がん放射線治療において「腫瘍に対する生物学的実効線量」[20]という文脈で用いられ、LQモデルに基づいた分割照射において、照射線量を標準化して治療成績を比較するための概念である。
生物学的効果線量という訳語や、単にBEDも用いられる[21]。
多数の設計が行われたがそのうち少数が建設された。第4世代原子炉としてのひとつの概念である。
フッ化ウラン(IV) (UF4)など溶融状態のフッ化物塩を一次冷却材としてそこへ核分裂物質を混合させ、黒鉛を減速材とした炉心に低圧で送り臨界に到達させる。高温の溶融塩は炉心の外へ循環させ二次冷却材と熱を交換させる。燃料の設計はさまざまである。液体燃料原子炉特有の複雑な問題の発生を回避するため、溶融塩内に核分裂生成物を含まない構造の新型高温原子炉(AHTR)も設計されている。
歴史
航空機用原子炉実験
ORNLに建設された航空機用原子炉実験。後にMSREに改造
詳細は「航空機用原子炉実験」を参照
アメリカでの溶融塩型原子炉の研究は 2.5 MWth の原子炉実験装置を用い、高出力密度の動力源として原子力航空機に搭載する事を目的とした。計画は結果的にHTRE-l, HTRE-2,HTRE-3の3基の実験機を作って終わった。実験には溶融塩の NaF-ZrF4-UF4(53-41-6 mol%)が燃料として使用され、酸化ベリリウムが減速材、液体ナトリウムが冷却材として使用され、最高運転温度は860℃だった。1954年、1000時間運転された。実験にはインコネル600合金が構造と配管に使用された。
溶融塩原子炉実験
MSREプラント概要
オークリッジ国立研究所(ORNL)で1960年代に MSR の研究が進められた。溶融塩原子炉実験装置(MSRE)が設置され、出力は7.4MWthあった。
オークリッジ国立研究所原子炉
1970年から76年にかけて LiF-BeF2-ThF4-UF4 (72-16-12-0.4)を燃料とするMSRが設計された。減速材に黒鉛を使用し、NaF-NaBF4を二次冷却材に使用した。最高温度は705℃ だった。しかし、設計のみで実際には建設されなかった。
現在の開発
インド、中国[1]ではレアアース鉱石の精錬に伴って発生する副産物であるトリウムを溶融塩に溶かして燃料として使用する溶融塩原子炉の計画が進められている。計画は、天然ウランからプルトニウムを生産する段階を達成し、現在、高速増殖炉でプルトニウムを燃焼しつつ、トリウムをウラン233に転換する段階に入っている。着火剤は、ウラン原発の廃棄物でもあるプルトニウムを利用する。
現在、約1万世帯を賄える発電量である1000kWクラスの幅5m、高さ1m、奥行き2mの小型炉などが研究されている。小型の溶融塩原子炉には黒鉛減速材を使用する方式を取っている。1000kW級の小型トリウム原発の場合、燃料の崩壊熱が少なく、また燃料である700℃に溶けた溶融塩の液体トリウム自体が自然循環し空冷可能であるため、冷却機能喪失時も受動的安全を保つ。従来の軽水炉等のような燃料棒自体が存在しないため、冷却機能喪失時の燃料棒溶解、燃料棒と冷却水との反応による水素発生、といった事象は起こりえない。
さらに不測の事態が発生した場合は、重力によって燃料塩を一次系の下部に設置されているドレインタンクへ自動排出させる安全装置が存在する。ドレインタンクと一次系は凝固弁(フリーズバルブ)によって繋がれている。冷却機能喪失等による燃料の過熱が起きた場合には、このバルブが先に熱によって溶融し、燃料塩は下のドレインタンクに落下、排出される。つまり緊急時には外部からの制御を必要とせずに自動的に燃料の排出が行なわれる。ドレインタンク内で溶融塩は450℃以下に自然冷却されてガラス状に凝固し、放射性物質の飛散を防ぐ。またドレインタンク内に減速材となるものが存在しないため再臨界もおこりえない[2]。一方で、溶融塩として用いられるフリーベ(LiF-BeF2)の構成元素であるベリリウムやフッ素に関する化学的毒性の問題が懸念されている[3]。
また、トリウムは転換(増殖)できるため燃料消費量が少ないとされる。トリウム溶融塩炉では、気体核分裂生成物を運転しながら抜くことができるため、一次系の溶融塩中の核分裂生成物が増えて中性子を吸収するまでの間、燃料交換なしで最大30年連続運転が可能と言われている。したがって燃料交換回数が減り、再処理工場の処理量を減らすことが可能となる。ただし、このような設計は配管が長期間溶融塩と接触し続けることに繋がるため長期の耐食性が問題となり、核分裂生成物によって配管に長期的な腐食が起きる可能性が指摘されている[4]。
プルトニウム発生量は、年間100万kWの軽水炉で約230kgに対して、上述の規模のトリウム溶融塩炉では約0.5kgである。
発生するプルトニウムはほとんどプルトニウム238であり、兵器に適するプルトニウム239が十分に含まれていない[5]。かつ生成されるウラン232(半減期68.9年)からできる娘核種タリウム208(半減期3分)が強烈なガンマ線を放つため、ウランを核兵器に転用するのも困難であり(稼働中、核燃料中にタリウム208が占める線量の割合は小さく、保守・運用の点では問題ない[6][7])、その点では途上国への導入が期待される。
放射性ヨウ素、放射性セシウム等の核のゴミは出るため、いずれにせよ使用済み燃料や高レベル放射性廃棄物の処理は必要となる[8][2]。
欠点として溶融塩の侵食性が高く、圧力容器や配管の腐食による脆化の対策が軽水に比べて困難である点があげられる。これに対して、東京工業大学の関本博が、タンク型高速溶融塩炉を発案している。これは大型の容器型の原子炉内で溶融塩を自然対流させる構造で、配管のような細い部分を高速で流れることがないため脆化対策や圧力容器破損時の対策が容易になる。炉内に熱交換器を設けることで原子炉を冷却し熱出力を得る。
2011年から12年にかけて、静岡県の川勝平太知事が記者会見にてトリウム溶融塩炉について複数回言及している[9]。
2016年3月カナダのテレストリアル・エナジー社が独自開発した溶融塩炉の建設計画を申請[10]。2020年代に商業用実証炉の完成を目指す予定。
2021年、中国は2030年をめどにトリウム溶融塩炉を建設する計画を発表。冷却装置が不要であるメリットに着目してゴビ砂漠などに建設する予定[11]。
アメリシウムへの壊変
241Puの半減期は14年であることから、1年間に約5%がアメリシウム241(241Am)に壊変する。241Amは半減期432年のアルファ線源で、熱中性子の照射では核分裂を起こさない。使用済み核燃料を再処理する前の保管期間が長くなるとより多くの241が生成するため、数百年から数千年に渡って核廃棄物に含まれる放射能のうち大きな割合を占め続けることになる。
アメリシウムはプルトニウムやネプツニウム、ウランより原子価および電気陰性度が低い。このため、再処理の際にはランタノイドやストロンチウム・セシウム・バリウム・イットリウムといったアルカリ金属の分画に抽出され、特別な処理を行わない限り核燃料としてリサイクルされることはない。
熱中性子炉では、 241Amは中性子を吸収してアメリシウム242となり、約80%は速やかにベータ崩壊してキュリウム242(242Cm)、17.3%は電子捕獲により242Puとなる。242Cmと242Puはいずれも中性子捕獲も核分裂も起こさないが、242Cmは半減期160日でアルファ崩壊して238Puとなり、さらに中性子を捕獲すれば239Puとなり核分裂を起こす。すなわち、241Amが核分裂性同位体になるためには中性子を2つ吸収する必要がある。
使用済み核燃料には超寿命核種である超ウラン核種や大量の核分裂生成物などが含まれており、その危険性と処理の困難さのため、その処理・処分が世界的な問題となっている。なお、日本においては使用済み核燃料自体は再処理を行うため廃棄するものではない。
概要
核燃料は、原子炉に装荷し燃焼させる(核分裂反応を持続させる[3])ことでその核エネルギーを取り出す、またはプルトニウム239を生成する[4]ことができる。しかしながら核燃料は、
燃焼が進むにつれて、核分裂性のウランやプルトニウムが減少することによって中性子発生数と発熱量が低下し、核分裂生成物(特に希ガスや希土類)が大量に蓄積し、核分裂の持続的な燃えやすさ(余剰反応度)が低下する
燃料被覆管には、腐食や応力によるクリープ変形からくる寿命が存在する
といった理由から、核分裂性物質[5]を使い果たす前の適当な時期に原子炉から取り出し、新しい核燃料と交換する必要がある[6]。この取り出された核燃料を使用済み核燃料(spent nuclear fuel)[7]と呼ぶ。
3%濃縮ウラン燃料 1t が燃える前の組成はウラン238が 970kg、ウラン235が 30kg であるが、燃焼後は、ウラン238が 950kg、ウラン235が 10kg、プルトニウム 10kg、生成物 30kg となる[8]。
上記からわかるように使用済み核燃料の中には、大量の核分裂生成物と共に核分裂性物質や親物質[9]が残存していることから、これらを回収して再び核燃料として利用するということが考えられる。天然ウランなどの原料を精製・加工することで核燃料を作り、それを原子炉で燃焼させ、その使用済み核燃料を再処理して再び核燃料として利用する[10]という一連の核燃料循環過程は核燃料サイクル (nuclear fuel cycle) と呼ばれる[6]。
一般的には原子炉で使用された後、冷却するために原子力発電所内にある貯蔵プール(英語版)で3年 - 5年ほど保管される。その後、核燃料サイクルに用いるために再処理工場に輸送されて処理が行われるか、高レベル放射性廃棄物処理場での長期保管が行われる。
日本においては青森県六ヶ所村に六ヶ所村核燃料再処理施設の建設が行われている。
主な国の使用済み核燃料の保有量
2007年末の時点。
国名 トン
アメリカ 61,000
カナダ 38,400
日本 19,000[11]
フランス 13,500
ロシア 13,000
韓国 10,900
ドイツ 5,850
イギリス
スウェーデン 5,400
フィンランド 1,600
このうち日本、フランス、ロシア、イギリスは再処理を実施している[12]。
処理・処分
原子力発電の核燃料サイクルにおいては、様々な放射性廃棄物が各工程で発生する。その内比較的低レベルの放射性廃棄物の一部は処分されているが、大半は最終処分待ちの状態で各原子力発電所、核燃料施設、研究施設などで保管されている[13]。
使用済み核燃料の再処理
詳細は「再処理工場#再処理」を参照
原子炉の燃料である核燃料として使用できる物質は主にウラン235とプルトニウム239である。そのうち、プルトニウムは天然にほぼ存在せず、原子炉の中でウラン238から生成される。さらに、石炭や石油による火力発電とは異なり、核燃料は原子炉中ですべて核分裂反応してエネルギーに変換されるわけではなく、大部分はそのまま使用済み核燃料中に存在している。
そこで、これらを核燃料として再利用するために回収することが考えられるが、それを使用済み核燃料の再処理 (spent nuclear fuel reprocessing) と呼ぶ[14]。
使用済み核燃料の再処理の方法としては、ピューレックス法 (PUREX: Plutonium and Uranium Recovery by EXtraction) が実績もあることから主に用いられる。ただし、この方法では使用済み核燃料をいちど硝酸によって溶解させて水溶液にする必要があり、高いレベルの放射性廃液(高レベル廃液: High-level liquid waste)が発生することになる[15]。この高レベル廃液は、液体であるので取り扱いやすくするようにガラスで固められ(ガラス固化体)、高レベル放射性廃棄物と呼ばれることになる[16]。
日本においては、この高レベル放射性廃棄物は地上管理施設で冷却・保管(30年 - 50年)した後、地層処分(第一種廃棄物埋設)することとなっている。
詳細は「地層処分」を参照
ワンススルー方式(直接処分)
日本以外の国(アメリカなど)においては、コスト追求と、他国に再処理をやめるように勧告するなどのために、使用済み燃料を再処理しないでそのまま冷却保管し、地中のコンクリート構造物で保管するというワンススルー方式[17](once throw method, 直接処分)がとられることがある。日本においては、使用済み核燃料は廃棄するものではないため直接処分は実施されていないものの、2013年度(平成25年度)から研究開発は進められている[18]。
この方式の場合のコストは1キロワット時あたり0.7円弱と見積もられており、再処理コストがかからない分、再処理を実施する場合よりも安くなる。また、この方法で処分される放射性廃棄物は放射能の低いウラン238が大部分を占めるため、再処理で濃縮された高レベル廃棄物よりは初期の質量あたりの放射能は小さい。ただし、半減期が300年から数十億年に及ぶマイナーアクチノイドやウランやプルトニウムの寄与が大きく、長い年月を経ても放射能はあまり低下しない[19]。
プルトニウム抽出による核兵器製造
一般に、低濃縮ウランからなる核燃料を原子炉で「燃焼」させると、ウラン238が中性子を吸収することでプルトニウムが生成される。再処理はそのプルトニウムを抽出する処理であることから、使用済み核燃料と再処理工場を保有することは、核兵器の原料であるプルトニウムを得ることができることを意味する。
ただし、プルトニウムと一口に言っても、その同位体組成の違いが爆弾としての性能に影響する[20]。核兵器に使用されるプルトニウムはウラン238から生成されるプルトニウム239である。核燃料の燃焼を続けると、さらに中性子を吸収して、自発核分裂により不完全核爆発の原因となりやすいプルトニウム240などに変化する。したがって、軍事用プルトニウム生産原子炉では、なるべくプルトニウム239の純度が高くなるように短期間で再処理にまわす[21]。一方で、発電用原子炉では高出力を目的とするためプルトニウム239が他の同位体に変化する割合が高くなる[22][23]。
そのため、原子力発電所の使用済み核燃料から分離したプルトニウムは原子爆弾に使用することができないということが主張されることがある[22][24]。
しかしながら、プルトニウム240の割合の増加は爆弾の設計や作業工程を複雑にすることはあっても、不可能にする要因ではなく、実際に、使用済み核燃料から抽出した金属プルトニウムが8kgあれば臨界を起こすと言われる[22][25]。
ウラン原爆は経年劣化がなく取り扱いやすい優秀な兵器が作れる半面、ウラン濃縮に大変な電力と時間が必要されるため、核兵器を大量に作るには不向きである。そのため、5大国の核兵器は実験用を除くほとんどすべてがプルトニウム爆弾であり、北朝鮮も黒鉛炉で兵器級プルトニウムを生産している。
脚注
[脚注の使い方]
^ 用語辞典(1974) p.164『使用ずみ核燃料』
^ 天然ウランよりウラン235の含有量が2% - 4%程度に濃縮されたウランを低濃縮ウランと呼ぶ。発電工学(2003) p.194
^ 一般的な燃焼(酸化反応)の場合、たとえば石炭を燃焼させる場合は、温度がある程度高ければ酸素 (O2) さえ供給すれば燃焼が続く。核燃料の場合は、中性子の供給が必要となる。発電工学(2003) p.188
^ 原子炉内ではウラン238は中性子を吸収してプルトニウム239に核変換する。プルトニウム239はウラン235同様に核分裂を起こす核種である。
^ 核分裂反応を起こす核種であるウラン235やプルトニウム239を核分裂性物質 (fissile material) と呼ぶ。発電工学(2003) p.186
^ a b 発生工学(1980) p.236
^ 使用済燃料 (spent fuel) とも呼ばれる。
^ 生成物 30kg の内訳は、下記の通り。
白金族:2kg
短半減期核分裂生成物 (SLFP):26kg (ストロンチウム90、セシウム137など高発熱量は 10kg、即ガラス固化できる低発熱量は 16kg)
長半減期核分裂生成物 (LLFP):1.2kg (ヨウ素など半減期7000年前後のもの[要検証 – ノート])
マイナーアクチノイド (MA):0.6kg (アメリシウムやネプツニウムやキュリウムなど、ウランやプルトニウムと化学的性質が近い元素)
^ ウラン238のように中性子照射によって核分裂性物質に転換するものを親物質(fertile material)と呼ぶ。発電工学(2003) p.186
^ ただし、プルトニウムについては、高速増殖炉の燃料として貯蔵されており、本当の意味でのリサイクルはしていない。 発生工学(1980) p.237 なお、現在においてはMOX燃料としての利活用の方法も存在する。日本において、使用済み核燃料から抽出されたプルトニウムはプルトニウム240の割合が高いため核兵器の材料としては品質が悪いが危険性はあるため大量に貯蔵することは好ましくないとされている。
^ NHKスペシャル “核のゴミ”はどこへ〜検証・使用済み核燃料 - NHK名作選(動画・静止画) NHKアーカイブス
^ 毎日新聞13面(2012年3月13日付朝刊)
^ 以下は2007年時点での日本における放射性廃棄物の在庫である
L1 使用済み核燃料 14,870トン
L2 放射性廃棄物の貯蔵量
L2.1 高レベル放射性廃棄物 ガラス固化体(120リットル容器)1,614本(原研247本、原燃1,367本)、高レベル液体廃棄物404m3
L2.2 発電所廃棄物
L2.2.1 均質固化体、充填固化体、雑個体 625,169本(200リットルドラム缶換算)
L2.2.2 蒸気発生器 29基
L2.2.3 制御棒、チャンネルボックス等
制御棒 91m3(東海発電所)、8,987本(その他の原発)
チャンネルボックス等 62,183本
その他 1,665m3
樹脂など 17,370m3
L2.3 長半減期低発熱放射性廃棄物
103,933本(200リットルドラム缶換算)、濃縮廃液、スラッジ、廃溶媒など3,908m3
L2.4 ウラン廃棄物
44,139本(200リットルドラム缶換算)、低レベル液体廃棄物21.29m3
L2.5 研究施設等での廃棄物
固体廃棄物 332,033本(200リットルドラム缶換算)
液体廃棄物 62.33m3
L2.5.2 廃棄業者が保管している廃棄物
固体・液体廃棄物 119,011本(200リットルドラム缶換算)
— 資源エネルギー庁による集計値 平成19年度 (2007)
、「L附属書」