| 1 |
わたしはそのひとをつねにせんせいとよんでいた。だからここでもただせんせいとかくだけでほんみょうはうちあけない。これはせけんをはばかるえんりょというよりも、そのかたがわたしにとってしぜんだからである。わたしはそのひとのきおくをよびおこすごとに、すぐ「せんせい」といいたくなる。ふでをとってもこころもちはおなじことである. |
| 2 |
よそよそしいあたまもじなどはとてもつかうきにならない。わたしがせんせいとしりあいになったのはかまくらである。そのときわたしはまだわかわかしいしょせいであった。しょちゅうきゅうかをりようしてかいすいよくにいったともだちからぜひこいというはがきをうけとったので、わたしはたしょうのかねをくめんして、でかけることにした. |
| 3 |
わたしはかねのくめんにに、みっかをついやした。ところがわたしがかまくらについてみっかとたたないうちに、わたしをよびよせたともだちは、きゅうにくにもとからかえれというでんぽうをうけとった。でんぽうにはははがびょうきだからとことわってあったけれどもともだちはそれをしんじなかった。ともだちはかねてからくにもとにいるおやたちにすすむまないけっこんをしいられていた. |
| 4 |
かれはげんだいのしゅうかんからいうとけっこんするにはあまりとしがわかすぎた。それにかんじんのとうにんがきにはいらなかった。それでなつやすみにとうぜんかえるべきところを、わざとさけてとうきょうのちかくであそんでいたのである。かれはでんぽうをわたしにみせてどうしようとそうだんをした。わたしにはどうしていいかわからなかった. |
| 5 |
けれどもじっさいかれのははがびょうきであるとすればかれはもとよりかえるべきはずであった。それでかれはとうとうかえることになった。せっかくきたわたしはひとりとりのこされた。がっこうのじゅぎょうがはじまるにはまだおおいたにっすうがあるのでかまくらにおってもよし、かえってもよいというきょうぐうにいたわたしは、とうぶんもとのやどにとまるかくごをした. |
| 6 |
ともだちはちゅうごくのあるしさんかのむすこでかねにふじゆうのないおとこであったけれども、がっこうががっこうなのとねんがねんなので、せいかつのていどはわたしとそうかわりもしなかった。したがってひとりぼっちになったわたしはべつにかっこうなやどをさがすめんどうももたなかったのである。やどはかまくらでもへんぴなほうがくにあった. |
| 7 |
たまつきだのアイスクリームだのというハイカラなものにはながいなわてをひとつこさなければてがとどかなかった。くるまでいってもにじゅうせんはとられた。けれどもこじんのべっそうはそこここにいくつでもたてられていた。それにうみへはごくちかいのでかいすいよくをやるにはしごくべんりなちいをしめていた。わたしはまいにちかいへはいりにでかけた. |
| 8 |
ふるいくすぶりかえったわらぶきのあいだをとおりぬけていそへおりると、このへんにこれほどのとかいじんしゅがすんでいるかとおもうほど、ひしょにきたおとこやおんなですなのうえがうごいていた。あるときはうみのなかがせんとうのようにくろいあたまでごちゃごちゃしていることもあった。わたしはじつにせんせいをこのざっとうのあいだにみつけだしたのである. |
| 9 |
そのときかいがんにはがかりちゃやがにけんあった。わたしはふとしたきかいからそのいっけんのほうにいきなれていた。はせへんにおおきなべっそうをかまえているひととちがって、かくじにせんゆうのきがえばをこしらえていないここいらのひしょきゃくには、ぜひともこうしたきょうどうきがえしょといったふうなものがひつようなのであった. |
| 10 |
かれらはここでちゃをのみ、ここできゅうそくするそとに、ここでかいすいぎをせんたくさせたり、ここでしおはゆいからだをきよめたり、ここへぼうしやかさをあずけたりするのである。かいすいぎをもたないわたしにももちものをぬすまれるおそれはあったので、わたしはうみへはいるたびにそのちゃやへいっさいをぬぎすてることにしていた。わたしはそのときはんたいにぬれたからだをふうにふかしてみずからあがってきた. |
| 11 |
ふたりのあいだにはめをさえぎるいくたのくろいあたまがうごいていた。とくべつのじじょうのないかぎり、わたしはついにせんせいをみのがしたかもしれなかった。それほどはまべがこんざつし、それほどわたしのあたまがほうまんであったにもかかわらず、わたしがすぐせんせいをみつけだしたのは、せんせいがひとりのせいようじんをつれていたからである. |
| 12 |
そのせいようじんのすぐれてしろいひふのいろが、がかりちゃやへはいるやいなや、すぐわたしのちゅういをひいた。じゅんすいのにほんのゆかたをきていたかれは、それをしょうぎのうえにすぽりとほうりだしたまま、うでぐみをしてうみのほうをむいてたっていた。かれはわれわれのはくさるまたひとつのそとなにものもはだにつけていなかった. |
| 13 |
わたしにはそれがだいいちふしぎだった。わたしはそのふつかまえにゆいがはままでいって、すなのうえにしゃがみながら、ながいあいだせいようじんのうみへはいるようすをながめていた。おんなはことさらにくをかくしがちであった。たいていはあたまにごむせいのずきんをかぶって、えびちゃやこんやあいのいろをなみまにうかしていた。そのひとがすなわちせんせいであった. |
| 14 |
わたしはたんにこうきしんのために、ならんではまべをおりていくふたりのうしろすがたをみまもっていた。するとかれらはまなおになみのなかにあしをふみこんだ。そうしてとおあさのいそちかくにわいわいさわいでいるたにんずうのあいだをとおりぬけて、ひかくてきひろびろしたところへくると、ふたりともおよぎだした。かれらのあたまがちいさくみえるまでおきのほうへむいていった. |
| 15 |
それからひきかえしてまたいちちょくせんにはまべまでもどってきた。がかりちゃやへかえると、いどのみずもあびずに、すぐからだをふいてきものをきて、さっさとどこへかいってしまった。かれらのでていったあと、わたしはやはりもとのしょうぎにこしをおろしてたばこをふかしていた。そのときわたしはぽかんとしながらせんせいのことをかんがえた. |
| 16 |
どうもどこかでみたことのあるかおのようにおもわれてならなかった。しかしどうしてもいつどこであったひとかおもいだせずにしまった。そのときのわたしはくったくがないというよりむしろぶりょうにくるしんでいた。それでよくじつもまたせんせいにあったじこくをみはからって、わざわざがかりちゃやまででかけてみた。するとせいようじんはこないでせんせいひとりむぎわらぼうをかぶってやってきた. |
| 17 |
せんせいはめがねをとってだいのうえにおいて、すぐてぬぐいであたまをつつんで、すたすたはまをおりていった。せんせいがきのうのようにさわがしいよっかくのなかをとおりぬけて、ひとりでおよぎだしたとき、わたしはきゅうにそのあとがおいかけたくなった。わたしはあさいみずをあたまのうえまでとべかしてそうとうのふかさのところまできて、そこからせんせいをもくひょうにぬきてをきった. |
| 18 |
するとせんせいはきのうとちがって、いっしゅのこせんをえがいて、みょうなほうこうからきしのほうへかえりはじめた。それでわたしのもくてきはついにたっせられなかった。わたしがりくへあがってしずくのたれるてをふりながらがかりちゃやにはいると、せんせいはもうちゃんときものをきていれちがいにそとへでていった。わたしはつぎのひもおなじじこくにはまへいってせんせいのかおをみた. |
| 19 |
そのつぎのひにもまたおなじことをくりかえした。けれどもものをいいかけるきかいも、あいさつをするばあいも、ふたりのあいだにはおこらなかった。そのうえせんせいのたいどはむしろひしゃこうてきであった。いっていのじこくにちょうぜんとしてきて、またちょうぜんとかえっていった。しゅういがいくらにぎやかでも、それにはほとんどちゅういをはらうようすがみえなかった. |
| 20 |
さいしょいっしょにきたせいようじんはそのごまるですがたをみせなかった。せんせいはいつでもひとりであった。あるときせんせいがれいのとおりさっさとうみからあがってきて、いつものばしょにぬぎすてたゆかたをきようとすると、どうしたわけか、そのゆかたにすながいっぱいついていた。せんせいはそれをおとすために、うしろむきになって、ゆかたをにさんどふった. |
| 21 |
するときもののしたにおいてあっためがねがいたのすきまからしたへおちた。せんせいはしろがすりのうえへへこおびをしめてから、めがねのなくなったのにきがついたとみえて、きゅうにそこいらをさがしはじめた。わたしはすぐこしかけのしたへくびとてをつッこんでめがねをひろいだした。せんせいはありがとうといって、それをわたしのてからうけとった. |
| 22 |
つぎのひわたしはせんせいのあとにつづいてうみへとびこんだ。そうしてせんせいといっしょのほうがくにおよいでいった。にちょうほどおきへでると、せんせいはうしろをふりかえってわたしにはなしかけた。ひろいあおいうみのひょうめんにういているものは、そのきんじょにわたしらふたりよりそとになかった。そうしてつよいたいようのひかりが、めのとどくかぎりみずとやまとをてらしていた. |
| 23 |
わたしはじゆうとかんきにみちたきんにくをうごかしてうみのなかでおどりくるった。せんせいはまたぱたりとてあしのうんどうをやめてあおむけになったままろうのうえにねた。わたしもそのまねをした。あおぞらのいろがぎらぎらとめをいるようにつうれつないろをわたしのかおになげつけた。「ゆかいですね」とわたしはおおきなこえをだした. |
| 24 |
しばらくしてうみのなかでおきあがるようにしせいをあらためたせんせいは、「もうかえりませんか」といってわたしをうながした。ひかくてきつよいたいしつをもったわたしは、もっとうみのなかであそんでいたかった。しかしせんせいからさそわれたとき、わたしはすぐ「ええかえりましょう」とこころよくこたえた。そうしてふたりでまたもとのみちをはまべへひきかえした. |
| 25 |
わたしはこれからせんせいとこんいになった。しかしせんせいがどこにいるかはまだしらなかった。それからなかふつかおいてちょうどみっかめのごごだったとおもう。せんせいとがかりちゃやでであったとき、せんせいはとつぜんわたしにむかって、「きみはまだだいぶながくここにいるつもりですか」ときいた。かんがえのないわたしはこういうといにこたえるだけのよういをあたまのなかにたくわえていなかった. |
| 26 |
それで「どうだかわかりません」とこたえた。しかしにやにやわらっているせんせいのかおをみたとき、わたしはきゅうにきまりがわるくなった。「せんせいは?」とききかえさずにはいられなかった。これがわたしのくちをでたせんせいということばのはじまりである。わたしはそのばんせんせいのやどをたずねた。そこにすんでいるひとのせんせいのかぞくでないこともわかった. |
| 27 |
わたしがせんせいせんせいとよびかけるので、せんせいはにがわらいをした。わたしはそれがねんちょうしゃにたいするわたしのくちぐせだといってべんかいした。わたしはこのあいだのせいようじんのことをきいてみた。わたしはさいごにせんせいにむかって、どこかでせんせいをみたようにおもうけれども、どうしてもおもいだせないといった. |
| 28 |
わかいわたしはそのときあんにあいてもわたしとおなじようなかんじをもっていはしまいかとうたがった。そうしてはらのなかでせんせいのへんじをよきしてかかった。ところがせんせいはしばらくちんぎんしたあとで、「どうもきみのかおにはみおぼえがありませんね。ひとちがいじゃないですか」といったのでわたしはへんにいっしゅのしつぼうをかんじた. |
| 29 |
わたしはつきのすえにとうきょうへかえった。せんせいのひしょちをひきあげたのはそれよりずっとまえであった。わたしはせんせいとわかれるときに、「これからおりおりおたくへうかがってもよろしござんすか」ときいた。せんせいはたんかんにただ「ええいらっしゃい」といっただけであった。それでこのものたりないへんじがすこしわたしのじしんをいためた. |
| 30 |
わたしはこういうことでよくせんせいからしつぼうさせられた。せんせいはそれにきがついているようでもあり、またまったくきがつかないようでもあった。わたしはまたけいびなしつぼうをくりかえしながら、それがためにせんせいからはなれていくきにはなれなかった。むしろそれとははんたいで、ふあんにわななかされるたびに、もっとまえへすすみたくなった. |
| 31 |
もっとまえへすすめば、わたしのよきするあるものが、いつかめのまえにまんぞくにあらわれてくるだろうとおもった。わたしはわかかった。けれどもすべてのにんげんにたいして、わかいちがこうすなおにはたらこうとはおもわなかった。わたしはなぜせんせいにたいしてだけこんなこころもちがおこるのかわからなかった。それがせんせいのなくなったきょうになって、はじめてわかってきた. |
| 32 |
せんせいははじめからわたしをきらっていたのではなかったのである。せんせいがわたしにしめしたときどきのそっけないあいさつやれいたんにみえるどうさは、わたしをとおざけようとするふかいのひょうげんではなかったのである。いたましいせんせいは、じぶんにちかづこうとするにんげんに、ちかづくほどのかちのないものだからよせというけいこくをあたえたのである. |
| 33 |
たのなつかしみにおうじないせんせいは、たをけいべつするまえに、まずじぶんをけいべつしていたものとみえる。わたしはむろんせんせいをたずねるつもりでとうきょうへかえってきた。かえってからじゅぎょうのはじまるまでにはまだにしゅうかんのにっすうがあるので、そのうちにいっどいっておこうとおもった。しかしかえってふつかさんにちとたつうちに、かまくらにいたときのきぶんがだんだんうすくなってきた. |
| 34 |
そうしてそのうえにいろどられるだいとかいのくうきが、きおくのふっかつにともなうつよいしげきとともに、こくわたしのこころをそめつけた。わたしはおうらいでがくせいのかおをみるたびにあたらしいがくねんにたいするきぼうときんちょうとをかんじた。わたしはしばらくせんせいのことをわすれた。じゅぎょうがはじまって、いちカげつばかりするとわたしのこころに、またいっしゅのたるみができてきた. |
| 35 |
わたしはなにだかぶそくなかおをしておうらいをあるきはじめた。ものほしそうにじぶんのへやのなかをみまわした。わたしのあたまにはふたたびせんせいのかおがういてでた。わたしはまたせんせいにあいたくなった。はじめてせんせいのたくをたずねたとき、せんせいはるすであった。にどめにいったのはつぎのにちようだとおぼえている. |
| 36 |
はれたそらがみにしみこむようにかんぜられるよいびよりであった。そのひもせんせいはるすであった。かまくらにいたとき、わたしはせんせいじしんのくちから、いつでもたいていたくにいるということをきいた。むしろがいしゅつきらいだということもきいた。にどきてにどともあえなかったわたしは、そのことばをおもいだして、りゆうもないふまんをどこかにかんじた. |
| 37 |
わたしはすぐげんかんさきをさらなかった。げじょのかおをみてすこしちゅうちょしてそこにたっていた。このぜんめいしをとりついだきおくのあるげじょは、わたしをまたしておいてまたうちへはいった。するとおくさんらしいひとがかわってでてきた。うつくしいおくさんであった。わたしはそのひとからていやすしにせんせいのでさきをおしえられた. |
| 38 |
せんせいはれいげつそのひになるとぞうしがやのぼちにあるあるほとけへはなをたむけにいくしゅうかんなのだそうである。「たったいまでたばかりで、じゅうぶんになるか、ならないかでございます」とおくさんはきのどくそうにいってくれた。わたしはえしゃくしてそとへでた。にぎやかなまちのほうへいっちょうほどあるくと、わたしもさんぽがてらぞうしがやへいってみるきになった. |
| 39 |
せんせいにあえるかあえないかというこうきしんもうごいた。それですぐかかとをまわらした。わたしはぼちのてまえにあるなえばたけのひだりがわからはいって、りょうほうにかえでをうえつけたひろいみちをおくのほうへすすんでいった。するとそのはしくれにみえるちゃみせのなかからせんせいらしいひとがふいとでてきた。わたしはそのひとのめがねのえんがひにひかるまでちかくよっていった. |
| 40 |
そうしてだしぬけに「せんせい」とおおきなこえをかけた。せんせいはとつぜんたちどまってわたしのかおをみた。「どうして....、どうして....」せんせいはおなじことばをにぺんくりかえした。そのことばはしんかんとしたひるのなかにいようなちょうしをもってくりかえされた。わたしはきゅうになにともこたえられなくなった. |
| 41 |
「わたしのあとをつけてきたのですか。どうして....」せんせいのたいどはむしろおちついていた。こえはむしろしずんでいた。けれどもそのひょうじょうのなかにははんぜんいえないようないっしゅのくもりがあった。わたしはわたしがどうしてここへきたかをせんせいにはなした。「だれのはかへまいりにいったか、つまがそのひとのなをいいましたか」. |
| 42 |
「いいえ、そんなことはなにもおっしゃいません」「そうですか。――そう、それはいうはずがありませんね、はじめてあったあなたに。いうひつようがないんだから」せんせいはようやくとくしんしたらしいようすであった。しかしわたしにはそのいみがまるでわからなかった。せんせいとわたしはとおりへでようとしてはかのあいだをぬけた. |
| 43 |
いざべらなになにのはかだの、しんぼくロギンのはかだのというかたわらに、いっさいしゅじょうしつうふつせいとかいたとうばなどがたててあった。ぜんけんこうしなになにというのもあった。わたしはやすとくつよしとえりつけたちいさいはかのまえで、「これはなにとよむんでしょう」とせんせいにきいた。「アンドレとでもよませるつもりでしょうね」. |
| 44 |
といってせんせいはくしょうした。せんせいはこれらのぼひょうがあらわすひとしゅじゅのようしきにたいして、わたしほどにこっけいもアイロニーもみとめてないらしかった。わたしがまるいはかいしだのほそながいみかげのいしぶみだのをさして、しきりにかれこれいいたがるのを、はじめのうちはだまってきいていたが、しまいに「あなたはしというじじつをまだまじめにかんがえたことがありませんね」. |
| 45 |
といった。わたしはだまった。せんせいもそれぎりなにともいわなくなった。ぼちのくぎりめに、おおきなぎんなんがいっぽんそらをかくすようにたっていた。そのしたへきたとき、せんせいはたかいこずえをみあげて、「もうすこしすると、きれいですよ。このきがすっかりこうようして、ここいらのじめんはきんいろのらくようでうまるようになります」. |
| 46 |
といった。せんせいはつきにいっどずつはかならずこのきのしたをとおるのであった。むこうのほうででこぼこのじめんをならしてしんぼちをつくっているおとこが、くわのてをやすめてわたしたちをみていた。わたしたちはそこからひだりへきれてすぐかいどうへでた。これからどこへいくというもくてきのないわたしは、ただせんせいのあるくほうへあるいていった. |
| 47 |
せんせいはいつもよりくちかずをきかなかった。それでもわたしはさほどのきゅうくつをかんじなかったので、ぶらぶらいっしょにあるいていった。「すぐおたくへおかえりですか」「ええべつによるところもありませんから」ふたりはまただまってみなみのほうへさかをおりた。「せんせいのおたくのぼちはあすこにあるんですか」とわたしがまたくちをききだした. |
| 48 |
「いいえ」「どなたのおはかがあるんですか。――ごしんるいのおはかですか」「いいえ」せんせいはこれいがいになにもこたえなかった。わたしもそのはなしはそれぎりにしてきりあげた。するといちちょうほどあるいたあとで、せんせいがふいにそこへもどってきた。「あすこにはわたしのともだちのはかがあるんです」「おともだちのおはかへまいつきおまいりをなさるんですか」. |
| 49 |
「そうです」せんせいはそのひこれいがいをかたらなかった。わたしはそれからときどきせんせいをほうもんするようになった。いくたびにせんせいはざいたくであった。せんせいにあうどすうがかさなるにつれて、わたしはますますしげくせんせいのげんかんへあしをはこんだ。けれどもせんせいのわたしにたいするたいどははじめてあいさつをしたときも、こんいになったそのあとも、あまりかわりはなかった. |
| 50 |
せんせいはいつもしずかであった。あるときはしずかすぎてさびしいくらいであった。わたしはさいしょからせんせいにはちかづきがたいふしぎがあるようにおもっていた。それでいて、どうしてもちかづかなければいられないというかんじが、どこかにつよくはたらいた。こういうかんじをせんせいにたいしてもっていたものは、おおくのひとのうちであるいはわたしだけかもしれない. |
| 51 |
しかしそのわたしだけにはこのちょっかんがあとになってじじつのうえにしょうこたてられたのだから、わたしはわかわかしいといわれても、ばかげているとわらわれても、それをみこしたじぶんのちょっかくをとにかくたのもしくまたうれしくおもっている。いまいったとおりせんせいはしじゅうしずかであった。おちついていた。けれどもときとしてへんなくもりがそのかおをよこぎることがあった. |
| 52 |
まどにくろいとりかげがさすように。さすかとおもうと、すぐきえるにはきえたが。わたしがはじめてそのくもりをせんせいのみけんにみとめたのは、ぞうしがやのぼちで、ふいにせんせいをよびかけたときであった。わたしはそのいようのしゅんかんに、いままでこころよくながれていたしんぞうのちょうりゅうをちょっとにぶらせた。しかしそれはたんにいちじのけったいにすぎなかった. |
| 53 |
わたしのこころはごぷんとたたないうちにへいそのだんりょくをかいふくした。わたしはそれぎりくらそうなこのくものかげをわすれてしまった。ゆくりなくまたそれをおもいださせられたのは、こはるのつきるにまのないあるばんのことであった。せんせいとはなしていたわたしは、ふとせんせいがわざわざちゅういしてくれたぎんなんのたいじゅをめのまえにおもいうかべた. |
| 54 |
かんじょうしてみると、せんせいがまいつきれいとしてぼさんにいくひが、それからちょうどみっかめにあたっていた。そのみっかめはわたしのかぎょうがひるでおえるらくなひであった。わたしはせんせいにむかってこういった。「せんせいぞうしがやのぎんなんはもうちってしまったでしょうか」「まだそらぼうずにはならないでしょう」せんせいはそうこたえながらわたしのかおをみまもった. |
| 55 |
そうしてそこからしばしめをはなさなかった。わたしはすぐいった。「こんどおはかまいりにいらっしゃるときにおとものをしてもよろしござんすか。わたしはせんせいといっしょにあすこいらがさんぽしてみたい」「わたしははかまいりにいくんで、さんぽにいくんじゃないですよ」「しかしついでにさんぽをなすったらちょうどいいじゃありませんか」. |
| 56 |
せんせいはなにともこたえなかった。しばらくしてから、「わたしのはほんとうのはかまいりだけなんだから」といって、どこまでもぼさんとさんぽをきりはなそうとするふうにみえた。わたしといきたくないこうじつだかなにだか、わたしにはそのときのせんせいが、いかにもこどもらしくてへんにおもわれた。わたしはなおとさきへでるきになった. |
| 57 |
「じゃおはかまいりでもいいからいっしょにつれていってください。わたしもおはかまいりをしますから」じっさいわたしにはぼさんとさんぽとのくべつがほとんどむいみのようにおもわれたのである。するとせんせいのまゆがちょっとくもった。めのうちにもいようのひかりがでた。それはめいわくともけんおともいふともかたづけられないかすかなふあんらしいものであった. |
| 58 |
わたしはたちまちぞうしがやで「せんせい」とよびかけたときのきおくをつよくおもいおこした。ふたつのひょうじょうはまったくおなじだったのである。「わたしは」とせんせいがいった。「わたしはあなたにはなすことのできないあるりゆうがあって、たといっしょにあすこへはかまいりにはいきたくないのです。じぶんのつまさえまだつれていったことがないのです」. |
| 59 |
わたしはふしぎにおもった。しかしわたしはせんせいをけんきゅうするきでそのたくへでいりをするのではなかった。わたしはただそのままにしてうちすぎた。いまかんがえるとそのときのわたしのたいどは、わたしのせいかつのうちでむしろとうとむべきもののひとつであった。わたしはまったくそのためにせんせいとにんげんらしいあたたかいこうさいができたのだとおもう. |
| 60 |
もしわたしのこうきしんがいくぶんでもせんせいのこころにむかって、けんきゅうてきにはたらきかけたなら、ふたりのあいだをつなぐどうじょうのいとは、なにのようしゃもなくそのときふつりときれてしまったろう。わかいわたしはまったくじぶんのたいどをじかくしていなかった。それだからとうといのかもしれないが、もしまちがえてうらへでたとしたら、どんなけっかがふたりのなかにおちてきたろう. |
| 61 |
わたしはそうぞうしてもぞっとする。せんせいはそれでなくても、つめたいめでけんきゅうされるのをたえずおそれていたのである。わたしはつきににどもしくはさんどずつかならずせんせいのたくへいくようになった。わたしのあしがだんだんしげくなったときのあるひ、せんせいはとつぜんわたしにむかってきいた。「あなたはなにでそうたびたびわたしのようなもののたくへやってくるのですか」. |
| 62 |
「なにでといって、そんなとくべつないみはありません。――しかしおじゃまなんですか」「じゃまだとはいいません」なるほどめいわくというようすは、せんせいのどこにもみえなかった。わたしはせんせいのこうさいのはんいのきわめてせまいことをしっていた。せんせいのもとのどうきゅうせいなどで、そのころとうきょうにいるものはほとんどふたりかさんにんしかないということもしっていた. |
| 63 |
せんせいとどうきょうのがくせいなどにはときたまざしきでどうざするばあいもあったが、かれらのいずれもはみんなわたしほどせんせいにしたしみをもっていないようにみうけられた。「わたしはさびしいにんげんです」とせんせいがいった。「だからあなたのきてくださることをよろこんでいます。だからなぜそうたびたびくるのかといってきいたのです」. |
| 64 |
「そりゃまたなぜです」わたしがこうききかえしたとき、せんせいはなにともこたえなかった。ただわたしのかおをみて「あなたはいくさいですか」といった。このもんどうはわたしにとってすこぶるふとくようりょうのものであったが、わたしはそのときそこまでおさずにかえってしまった。しかもそれからよっかとたたないうちにまたせんせいをほうもんした. |
| 65 |
せんせいはざしきへでるやいなやわらいだした。「またきましたね」といった。「ええきました」といってじぶんもわらった。わたしはそとのひとからこういわれたらきっとしゃくにさわったろうとおもう。しかしせんせいにこういわれたときは、まるではんたいであった。しゃくにさわらないばかりでなくかえってゆかいだった。「わたしはさびしいにんげんです」. |
| 66 |
とせんせいはそのばんまたこのあいだのことばをくりかえした。「わたしはさびしいにんげんですが、ことによるとあなたもさびしいにんげんじゃないですか。わたしはさびしくってもとしをとっているから、うごかずにいられるが、わかいあなたはそうはいかないのでしょう。うごけるだけうごきたいのでしょう。うごいてなにかにぶつかりたいのでしょう....」. |
| 67 |
「わたしはちっともさびしくはありません」「わかいうちほどさびしいものはありません。そんならなぜあなたはそうたびたびわたしのたくへくるのですか」ここでもこのあいだのことばがまたせんせいのくちからくりかえされた。「あなたはわたしにあってもおそらくまださびしいきがどこかでしているでしょう。わたしにはあなたのためにそのさびしさをねもとからひきぬいてあげるだけのちからがないんだから. |
| 68 |
あなたはそとのほうをむいていまにてをひろげなければならなくなります。いまにわたしのたくのほうへはあしがむかなくなります」せんせいはこういってさびしいわらいかたをした。さいわいにしてせんせいのよげんはじつげんされずにすんだ。けいけんのないとうじのわたしは、このよげんのなかにふくまれているめいはくないぎさえりょうかいしえなかった. |
| 69 |
わたしはいぜんとしてせんせいにあいにいった。そのうちいつのあいだにかせんせいのしょくたくでめしをくうようになった。しぜんのけっかおくさんともくちをきかなければならないようになった。ふつうのにんげんとしてわたしはおんなにたいしてれいたんではなかった。それがみなもとのいんかどうかはぎもんだが、わたしのきょうみはおうらいでであうしりもしないおんなにむかっておおくはたらくだけであった. |
| 70 |
せんせいのおくさんにはそのぜんげんかんであったとき、うつくしいといういんしょうをうけた。それからあうたんびにおなじいんしょうをうけないことはなかった。しかしそれいがいにわたしはこれといってとくにおくさんについてかたるべきなにものももたないようなきがした。これはおくさんにとくしょくがないというよりも、とくしょくをしめすきかいがこなかったのだとかいしゃくするほうがせいとうかもしれない. |
| 71 |
しかしわたしはいつでもせんせいにふぞくしたいちぶぶんのようなこころもちでおくさんにたいしていた。おくさんもじぶんのおっとのところへくるしょせいだからというこういで、わたしをぐうしていたらしい。だからちゅうかんにたつせんせいをとりのぞければ、つまりふたりはばらばらになっていた。それではじめてしりあいになったときのおくさんについては、ただうつくしいというそとになにのかんじものこっていない. |
| 72 |
あるときわたしはせんせいのたくでさけをのまされた。そのときおくさんがでてきてかたわらでしゃくをしてくれた。せんせいはいつもよりゆかいそうにみえた。おくさんに「おまえもひとつおあがり」といって、じぶんののみほしたさかずきをさした。おくさんは「わたしは....」とじたいしかけたあと、めいわくそうにそれをうけとった. |
| 73 |
おくさんはきれいなまゆをよせて、わたしのはんぶんばかりついであげたさかずきを、くちびるのさきへもっていった。おくさんとせんせいのあいだにしたのようなかいわがはじまった。「めずらしいこと。わたしにのめとおっしゃったことはめったにないのにね」「おまえはきらいだからさ。しかしまれにはのむといいよ。よいこころもちになるよ」. |
| 74 |
「ちっともならないわ。くるしいぎりで。でもあなたはたいへんごゆかいそうね、すこしごしゅをめしあがると」「じによるとたいへんゆかいになる。しかしいつでもというわけにはいかない」「こんやはいかがです」「こんやはよいこころもちだね」「これからまいばんすこしずつめしあがるとよろしござんすよ」「そうはいかない」. |
| 75 |
「めしあがってくださいよ。そのかたがさびしくなくってよいから」せんせいのたくはふうふとげじょだけであった。いくたびにたいていはひそりとしていた。たかいわらいごえなどのきこえるためしはまるでなかった。あるときはたくのなかにいるものはせんせいとわたしだけのようなきがした。「こどもでもあるとよいんですがね」とおくさんはわたしのほうをむいていった. |
| 76 |
わたしは「そうですな」とこたえた。しかしわたしのこころにはなにのどうじょうもおこらなかった。こどもをもったことのないそのときのわたしは、こどもをたださばえいもののようにかんがえていた。「ひとりもらってやろうか」とせんせいがいった。「もらえッこじゃ、ねえあなた」とおくさんはまたわたしのほうをむいた。「こどもはいつまでたったってできっこないよ」. |
| 77 |
とせんせいがいった。おくさんはだまっていた。「なぜです」とわたしがかわりにきいたときせんせいは「てんばつだからさ」といってたかくわらった。わたしのしるかぎりせんせいとおくさんとは、なかのよいふうふのいちついであった。(おくさんのなはしずかといった)。せんせいは「おいしずか」といつでもふすまのほうをふりむいた. |
| 78 |
そのよびかたがわたしにはやさしくきこえた。へんじをしてでてくるおくさんのようすもはなはだすなおであった。ときたまごちそうになって、おくさんがせきへあらわれるばあいなどには、このかんけいがいっそうあきらかにふたりのあいだにえがきだされるようであった。せんせいはときどきおくさんをつれて、おんがくかいだのしばいだのにいった. |
| 79 |
それからふうふづれでいちしゅうかんいないのりょこうをしたことも、わたしのきおくによると、にさんどいじょうあった。わたしははこねからもらったえはがきをまだもっている。にっこうへいったときはこうようのはをいっまいふうじこめたゆうびんももらった。とうじのわたしのめにうつったせんせいとおくさんのあいだがらはまずこんなものであった. |
| 80 |
そのうちにたったひとつのれいがいがあった。あるひわたしがいつものとおり、せんせいのげんかんからあんないをたのもうとすると、ざしきのほうでだれかのはなしごえがした。よくきくと、それがじんじょうのだんわでなくって、どうもげんさからいらしかった。せんせいのたくはげんかんのつぎがすぐざしきになっているので、こうしのまえにたっていたわたしのみみにそのげんさからいのちょうしだけはほぼわかった. |
| 81 |
そうしてそのうちのひとりがせんせいだということも、ときどきたかまってくるおとこのほうのこえでわかった。あいてはせんせいよりもひくいおとなので、だれだかはんぜんしなかったが、どうもおくさんらしくかんぜられた。ないているようでもあった。わたしはどうしたものだろうとおもってげんかんさきでまよったが、すぐけっしんをしてそのままげしゅくへかえった. |
| 82 |
みょうにふあんなこころもちがわたしをおそってきた。わたしはしょもつをよんでものみこむのうりょくをうしなってしまった。やくいちじかんばかりするとせんせいがまどのしたへきてわたしのなをよんだ。わたしはおどろいてまどをあけた。せんせいはさんぽしようといって、したからわたしをさそった。せんこくたいのあいだへつつんだままのとけいをだしてみると、もうはちじすぎであった. |
| 83 |
わたしはかえったなりまだはかまをつけていた。わたしはそれなりすぐひょうへでた。そのばんわたしはせんせいといっしょにびーるをのんだ。せんせいはがんらいしゅりょうにとぼしいひとであった。あるていどまでのんで、それでよえなければ、ようまでのんでみるというぼうけんのできないひとであった。「きょうはだめです」といってせんせいはくしょうした. |
| 84 |
「ゆかいになれませんか」とわたしはきのどくそうにきいた。わたしのはらのなかにはしじゅうせんこくのことがひきっかかっていた。さかなのほねがのどにささったときのように、わたしはくるしんだ。うちあけてみようかとかんがえたり、よしたほうがよかろうかとおもいなおしたりするどうようが、みょうにわたしのようすをそわそわさせた. |
| 85 |
「きみ、こんやはどうかしていますね」とせんせいのほうからいいだした。「じつはわたしもすこしへんなのですよ。きみにわかりますか」わたしはなにのこたえもしえなかった。「じつはせんこくつまとすこしけんかをしてね。それでくだらないしんけいをこうふんさせてしまったんです」とせんせいがまたいった。「どうして....」. |
| 86 |
わたしにはけんかということばがくちへでてこなかった。「つまがわたしをごかいするのです。それをごかいだといってきかせてもしょうちしないのです。ついはらをたてたのです」「どんなにせんせいをごかいなさるんですか」せんせいはわたしのこのといにこたえようとはしなかった。「つまがかんがえているようなにんげんなら、わたしだってこんなにくるしんでいやしない」. |
| 87 |
せんせいがどんなにくるしんでいるか、これもわたしにはそうぞうのおよばないもんだいであった。ふたりがかえるときあるきながらのちんもくがいちちょうもにちょうもつづいた。そのあとでとつぜんせんせいがくちをききだした。「わるいことをした。おこってでたからつまはさぞしんぱいをしているだろう。かんがえるとおんなはかわいそうなものですね. |
| 88 |
わたしのつまなどはわたしよりそとにまるでたよりにするものがないんだから」せんせいのことばはちょっとそこでとぎれたが、べつにわたしのへんじをきたいするようすもなく、すぐそのつづきへうつっていった。「そういうと、おっとのほうはいかにもしんじょうぶのようですこしこっけいだが。きみ、わたしはきみのめにどううつりますかね. |
| 89 |
つよいひとにみえますか、よわいひとにみえますか」「ちゅういにみえます」とわたしはこたえた。このこたえはせんせいにとってすこしあんがいらしかった。せんせいはまたくちをとじて、むごんであるきだした。せんせいのたくへかえるにはわたしのげしゅくのついそばをとおるのがじゅんろであった。わたしはそこまできて、まがりかどでわかれるのがせんせいにすまないようなきがした. |
| 90 |
「ついでにおたくのまえまでおともなえしましょうか」といった。せんせいはたちまちてでわたしをさえぎった。「もうおそいからはやくかえりたまえ。わたしもはやくかえってやるんだから、さいくんのために」せんせいがさいごにつけくわえた「さいくんのために」ということばはみょうにそのときのわたしのこころをあたたかにした. |
| 91 |
わたしはそのことばのために、かえってからあんしんしてねることができた。わたしはそのあともながいあいだこの「さいくんのために」ということばをわすれなかった。せんせいとおくさんのあいだにおこったはらんが、たいしたものでないことはこれでもわかった。それがまためったにおこるげんしょうでなかったことも、そのあとたえずでいりをしてきたわたしにはほぼすいさつができた. |
| 92 |
それどころかせんせいはあるときこんなかんそうすらわたしにもらした。「わたしはよのなかでおんなというものをたったひとりしかしらない。つまいがいのおんなはほとんどおんなとしてわたしにうったえないのです。つまのほうでも、わたしをてんかにただひとりしかないおとことおもってくれています。そういういみからいって、わたしたちはもっともこうふくにうまれたにんげんのいちついであるべきはずです」. |
| 93 |
わたしはいまぜんごのいきがかりをわすれてしまったから、せんせいがなにのためにこんなじはくをわたしにしてきかせたのか、はんぜんいうことができない。けれどもせんせいのたいどのまじめであったのと、ちょうしのしずんでいたのとは、いまだにきおくにのこっている。そのときただわたしのみみにいようにひびいたのは、「もっともこうふくにうまれたにんげんのいちついであるべきはずです」. |
| 94 |
というさいごのいっくであった。せんせいはなぜこうふくなにんげんといいきらないで、あるべきはずであるとことわったのか。わたしにはそれだけがふしんであった。ことにそこへいっしゅのちからをいれたせんせいのごきがふしんであった。せんせいはじじつはたしてこうふくなのだろうか、またこうふくであるべきはずでありながら、それほどこうふくでないのだろうか. |
| 95 |
わたしはこころのなかでうたぐらざるをえなかった。けれどもそのうたがいはいちじかぎりどこかへほうむられてしまった。わたしはそのうちせんせいのるすにいって、おくさんとふたりさしむかいではなしをするきかいにであった。せんせいはそのひよこはまをしゅっぱんするきせんにのってがいこくへいくべきゆうじんをしんばしへおくりにいってるすであった. |
| 96 |
よこはまからふねにのるひとが、あさはちじはんのきしゃでしんばしをたつのはそのころのしゅうかんであった。わたしはあるしょもつについてせんせいにはなしてもらうひつようがあったので、あらかじめせんせいのしょうだくをえたとおり、やくそくのくじにほうもんした。せんせいのしんばしいきはぜんじつわざわざこくべつにきたゆうじんにたいするれいぎとしてそのひとつぜんたったできごとであった. |
| 97 |
せんせいはすぐかえるからるすでもわたしにまっているようにといいのこしていった。それでわたしはざしきへあがって、せんせいをまつま、おくさんとはなしをした。そのときのわたしはすでにだいがくせいであった。はじめてせんせいのたくへきたころからみるとずっとせいじんしたきでいた。おくさんともだいぶこんいになったあとであった. |
| 98 |
わたしはおくさんにたいしてなにのきゅうくつもかんじなかった。さしむかいでいろいろのはなしをした。しかしそれはとくしょくのないただのだんわだから、いまではまるでわすれてしまった。そのうちでたったひとつわたしのみみにとまったものがある。しかしそれをはなすまえに、ちょっとことわっておきたいことがある。せんせいはだいがくしゅっしんであった. |
| 99 |
これははじめからわたしにしれていた。しかしせんせいのなにもしないであそんでいるということは、とうきょうへかえってすこしたってからはじめてわかった。わたしはそのときどうしてあそんでいられるのかとおもった。せんせいはまるでせけんになまえをしられていないひとであった。それをわたしはつねにおしいことだといった。せんせいはまた「わたしのようなものがよのなかへでて、くちをきいてはすまない」. |
| 100 |
とこたえるぎりで、とりあわなかった。わたしにはそのこたえがけんそんすぎてかえってせけんをれいひょうするようにもきこえた。じっさいせんせいはときどきむかしのどうきゅうせいでいまちょめいになっているだれかれをとらえて、ひどくむえんりょなひひょうをくわえることがあった。それでわたしはろこつにそのむじゅんをあげてうんぬんしてみた. |
| 101 |
わたしのせいしんははんこうのいみというよりも、せけんがせんせいをしらないでへいきでいるのがざんねんだったからである。そのときせんせいはしずんだちょうしで、「どうしてもわたしはせけんにむかってはたらきかけるしかくのないおとこだからしかたがありません」といった。せんせいのかおにはふかいいっしゅのひょうじょうがありありときざまれた. |
| 102 |
わたしにはそれがしつぼうだか、ふへいだか、ひあいだか、わからなかったけれども、なにしろにのくのつげないほどにつよいものだったので、わたしはそれぎりなにもいうゆうきがでなかった。わたしがおくさんとはなしているあいだに、もんだいがしぜんせんせいのことからそこへおちてきた。「せんせいはなぜああやって、たくでかんがえたりべんきょうしたりなさるだけで、よのなかへでてしごとをなさらないんでしょう」. |
| 103 |
「あのひとはだめですよ。そういうことがきらいなんですから」「つまりくだらないことだとさとっていらっしゃるんでしょうか」「さとるのさとらないのって、――そりゃおんなだからわたくしにはわかりませんけれど、おそらくそんないみじゃないでしょう。やっぱりなにかやりたいのでしょう。それでいてできないんです。だからきのどくですわ」. |
| 104 |
「しかしせんせいはけんこうからいって、べつにどこもわるいところはないようじゃありませんか」「じょうぶですとも。なんにもじびょうはありません」「それでなぜかつどうができないんでしょう」「それがわからないのよ、あなた。それがわかるくらいならわたしだって、こんなにしんぱいしやしません。わからないからきのどくでたまらないんです」. |
| 105 |
おくさんのごきにはひじょうにどうじょうがあった。それでもくちもとだけにはびしょうがみえた。そとがわからいえば、わたしのほうがむしろまじめだった。わたしはむずかしいかおをしてだまっていた。するとおくさんがきゅうにおもいだしたようにまたくちをひらいた。「わかいときはあんなひとじゃなかったんですよ。わかいときはまるでちがっていました. |
| 106 |
それがまったくかわってしまったんです」「わかいときっていつごろですか」とわたしがきいた。「しょせいじだいよ」「しょせいじだいからせんせいをしっていらっしゃったんですか」おくさんはきゅうにうすあかいかおをした。おくさんはとうきょうのひとであった。それはかつてせんせいからもおくさんじしんからもきいてしっていた. |
| 107 |
おくさんは「ほんとういうとあいのこなんですよ」といった。おくさんのちちおやはたしかとっとりかどこかのでであるのに、おかあさんのほうはまだえどといったじぶんのいちがやでうまれたおんななので、おくさんはじょうだんはんぶんそういったのである。ところがせんせいはまったくほうがくちがいのにいがたけんじんであった。わたしはときによると、それをぜんいにかいしゃくしてもみた. |
| 108 |
ねんぱいのせんせいのことだから、なまめかしいかいそうなどをわかいものにきかせるのはわざとつつしんでいるのだろうとおもった。じによると、またそれをわるくもとった。せんせいにかぎらず、おくさんにかぎらず、ふたりともわたしにくらべると、いちじだいまえのいんしゅうのうちにせいじんしたために、そういうえんっぽいもんだいになると、しょうじきにじぶんをかいほうするだけのゆうきがないのだろうとかんがえた. |
| 109 |
もっともどちらもすいそくにすぎなかった。そうしてどちらのすいそくのうらにも、ふたりのけっこんのおくによこたわるはなやかなロマンスのそんざいをかていしていた。わたしのかていははたしてあやまらなかった。けれどもわたしはただこいのはんめんだけをそうぞうにえがきえたにすぎなかった。せんせいはうつくしいれんあいのうらに、おそろしいひげきをもっていた. |
| 110 |
そうしてそのひげきのどんなにせんせいにとってみむごなものであるかはあいてのおくさんにまるでしれていなかった。おくさんはいまでもそれをしらずにいる。せんせいはそれをおくさんにかくしてしんだ。せんせいはおくさんのこうふくをはかいするまえに、まずじぶんのせいめいをはかいしてしまった。わたしはいまこのひげきについてなにごともかたらない. |
| 111 |
そのひげきのためにむしろうまれでたともいえるふたりのれんあいについては、せんこくいったとおりであった。ふたりともわたしにはほとんどなんもはなしてくれなかった。おくさんはつつしみのために、せんせいはまたそれいじょうのふかいりゆうのために。ただひとつわたしのきおくにのこっていることがある。あるはやりじぶんにわたしはせんせいといっしょにうえのへいった. |
| 112 |
そうしてそこでうつくしいいちたいのだんじょをみた。かれらはむつまじそうによりそってはなのしたをあるいていた。ばしょがばしょなので、はなよりもそちらをむいてめを峙だてているひとがたくさんあった。「しんこんのふうふのようだね」とせんせいがいった。「なかがよさそうですね」とわたしがこたえた。せんせいはくしょうさえしなかった. |
| 113 |
ふたりのだんじょをしせんのそとにおくようなほうがくへあしをむけた。それからわたしにこうきいた。「きみはこいをしたことがありますか」わたしはないとこたえた。「こいをしたくはありませんか」わたしはこたえなかった。「したくないことはないでしょう」「ええ」「きみはいまあのおとことおんなをみて、れいひょうしましたね. |
| 114 |
あのれいひょうのうちにはきみがこいをもとめながらあいてをえられないというふかいのこえがまじわっていましょう」「そんなふうにきこえましたか」「きこえました。こいのまんぞくをあじわっているひとはもっとあたたかいこえをだすものです。しかし....しかしきみ、こいはざいあくですよ。わかっていますか」わたしはきゅうにおどろかされた. |
| 115 |
なにともへんじをしなかった。われわれはぐんしゅうのなかにいた。ぐんしゅうはいずれもうれしそうなかおをしていた。そこをとおりぬけて、はなもひともみえないもりのなかへくるまでは、おなじもんだいをくちにするきかいがなかった。「こいはざいあくですか」とわたしがそのときとつぜんきいた。「ざいあくです。たしかに」とこたえたときのせんせいのごきはまえとおなじようにつよかった. |
| 116 |
「なぜですか」「なぜだかいまにわかります。いまにじゃない、もうわかっているはずです。あなたのこころはとっくのむかしからすでにこいでうごいているじゃありませんか」わたしはいちおうじぶんのむねのなかをしらべてみた。けれどもそこはあんがいにくうきょであった。おもいあたるようなものはなんにもなかった。「わたしのむねのなかにこれというもくてきぶつはひとつもありません. |
| 117 |
わたしはせんせいになにもかくしてはいないつもりです」「もくてきぶつがないからうごくのです。あればおちつけるだろうとおもってうごきたくなるのです」「いまそれほどうごいちゃいません」「あなたはものたりないけっかわたしのところにうごいてきたじゃありませんか」「それはそうかもしれません。しかしそれはこいとはちがいます」. |
| 118 |
「こいにのぼるかいだんなんです。いせいとだきあうじゅんじょとして、まずどうせいのわたしのところへうごいてきたのです」「わたしにはふたつのものがまったくせいしつをことにしているようにおもわれます」「いやおなじです。わたしはおとことしてどうしてもあなたにまんぞくをあたえられないにんげんなのです。それから、あるとくべつのじじょうがあって、なおさらあなたにまんぞくをあたえられないでいるのです. |
| 119 |
わたしはじっさいおきのどくにおもっています。あなたがわたしからよそへうごいていくのはしかたがない。わたしはむしろそれをきぼうしているのです。しかし....」わたしはへんにかなしくなった。「わたしがせんせいからはなれていくようにおおもいになればしかたがありませんが、わたしにそんなきのたったことはまだありません」. |
| 120 |
せんせいはわたしのことばにみみをかさなかった。「しかしきをつけないといけない。こいはざいあくなんだから。わたしのところではまんぞくがえられないかわりにきけんもないが、――きみ、くろいながいかみでしばられたときのこころもちをしっていますか」わたしはそうぞうでしっていた。しかしじじつとしてはしらなかった。いずれにしてもせんせいのいうざいあくといういみはもうろうとしてよくわからなかった. |
| 121 |
そのうえわたしはすこしふゆかいになった。「せんせい、ざいあくといういみをもっとはんぜんいってきかしてください。それでなければこのもんだいをここできりあげてください。わたしじしんにざいあくといういみがはんぜんわかるまで」「わるいことをした。わたしはあなたにしんじつをはなしているきでいた。ところがじっさいは、あなたをしょうりょしていたのだ. |
| 122 |
わたしはわるいことをした」せんせいとわたしとははくぶつかんのうらからうぐいすけいのほうがくにしずかなほちょうであるいていった。かきのすきまからひろいにわのいちぶにしげるくまざさがゆうすいにみえた。「きみはわたしがなぜまいつきぞうしがやのぼちにうまっているゆうじんのはかへまいるのかしっていますか」せんせいのこのといはまったくとつぜんであった. |
| 123 |
しかもせんせいはわたしがこのといにたいしてこたえられないということもよくしょうちしていた。わたしはしばらくへんじをしなかった。するとせんせいははじめてきがついたようにこういった。「またわるいことをいった。しょうりょせるのがわるいとおもって、せつめいしようとすると、そのせつめいがまたあなたをあせせるようなけっかになる. |
| 124 |
どうもしかたがない。このもんだいはこれでとめましょう。とにかくこいはざいあくですよ、よござんすか。そうしてしんせいなものですよ」わたしにはせんせいのはなしがますますわからなくなった。しかしせんせいはそれぎりこいをくちにしなかった。ねんのわかいわたしはややともするといちずになりやすかった。すくなくともせんせいのめにはそううつっていたらしい. |
| 125 |
わたしにはがっこうのこうぎよりもせんせいのだんわのほうがゆうえきなのであった。きょうじゅのいけんよりもせんせいのしそうのほうがありがたいのであった。とどのつまりをいえば、きょうだんにたってわたしをしどうしてくれるえらいひとびとよりもただひとりをまもっておおくをかたらないせんせいのほうがえらくみえたのであった。「あんまりのぼせちゃいけません」. |
| 126 |
とせんせいがいった。「さめたけっかとしてそうおもうんです」とこたえたときのわたしにはじゅうぶんのじしんがあった。そのじしんをせんせいはゆるがってくれなかった。「あなたはねつにうかされているのです。ねつがさめるといやになります。わたしはいまのあなたからそれほどにおもわれるのを、くるしくかんじています。「わたしはそれほどけいはくにおもわれているんですか. |
| 127 |
それほどふしんようなんですか」「わたしはおきのどくにおもうのです」「きのどくだがしんようされないとおっしゃるんですか」せんせいはめいわくそうににわのほうをむいた。そのにわに、このあいだまでおもそうなあかいつよいいろをぽたぽたてんじていたつばきのはなはもうひとつもみえなかった。せんせいはざしきからこのつばきのはなをよくながめるくせがあった. |
| 128 |
「しんようしないって、とくにあなたをしんようしないんじゃない。にんげんぜんたいをしんようしないんです」そのときいけがきのむこうできんぎょうりらしいこえがした。そのそとにはなにのきこえるものもなかった。おおどおりからにちょうもふかくおれこんだこうじはぞんがいしずかであった。いえのなかはいつものとおりひっそりしていた. |
| 129 |
わたしはつぎのまにおくさんのいることをしっていた。だまってはりしごとかなにかしているおくさんのみみにわたしのはなしごえがきこえるということもしっていた。しかしわたしはまったくそれをわすれてしまった。「じゃおくさんもしんようなさらないんですか」とせんせいにきいた。せんせいはすこしふあんなかおをした。そうしてちょくせつのこたえをさけた. |
| 130 |
「わたしはわたしじしんさえしんようしていないのです。つまりじぶんでじぶんがしんようできないから、ひともしんようできないようになっているのです。じぶんをのろうよりそとにしかたがないのです」「そうむずかしくかんがえれば、だれだってたしかなものはないでしょう」「いやかんがえたんじゃない。やったんです。やったあとでおどろいたんです. |
| 131 |
そうしてひじょうにこわくなったんです」わたしはもうすこしさきまでおなじみちをたどっていきたかった。するとふすまのかげで「あなた、あなた」というおくさんのこえがにどきこえた。せんせいはにどめに「なにだい」といった。おくさんは「ちょっと」とせんせいをつぎのまへよんだ。ふたりのあいだにどんなようじがおこったのか、わたしにはわからなかった. |
| 132 |
それをそうぞうするよゆうをあたえないほどはやくせんせいはまたざしきへかえってきた。「とにかくあまりわたしをしんようしてはいけませんよ。いまにこうかいするから。そうしてじぶんがあざむかれたへんぽうに、ざんこくなふくしゅうをするようになるものだから」「そりゃどういういみですか」わたしはみらいのぶじょくをうけないために、いまのそんけいをしりぞけたいとおもうのです. |
| 133 |
わたしはいまよりいっそうさびしいみらいのわたしをがまんするかわりに、さびしいいまのわたしをがまんしたいのです。じゆうとどくりつとおのれとにみちたげんだいにうまれたわれわれは、そのぎせいとしてみんなこのさびしみをあじわわなくてはならないでしょう」わたしはこういうかくごをもっているせんせいにたいして、いうべきことばをしらなかった. |
| 134 |
そのあとわたしはおくさんのかおをみるたびにきになった。せんせいはおくさんにたいしてもしじゅうこういうたいどにでるのだろうか。もしそうだとすれば、おくさんはそれでまんぞくなのだろうか。おくさんのようすはまんぞくともふまんぞくともきわめようがなかった。わたしはそれほどちかくおくさんにせっしょくするきかいがなかったから. |
| 135 |
それからおくさんはわたしにあうたびにじんじょうであったから。さいごにせんせいのいるせきでなければわたしとおくさんとはめったにかおをあわせなかったから。わたしのぎわくはまだそのうえにもあった。せんせいのにんげんにたいするこのかくごはどこからくるのだろうか。ただつめたいめでじぶんをないせいしたりげんだいをかんさつしたりしたけっかなのだろうか. |
| 136 |
せんせいはすわってかんがえるしつのひとであった。せんせいのあたまさえあれば、こういうたいどはすわってよのなかをかんがえていてもしぜんとでてくるものだろうか。わたしにはそうばかりとはおもえなかった。せんせいのかくごはいきたかくごらしかった。ひにやけてれいきゃくしきったせきぞうかおくのりんかくとはちがっていた。わたしのめにえいずるせんせいはたしかにしそうかであった. |
| 137 |
けれどもそのしそうかのまとめあげたしゅぎのうらには、つよいじじつがおりこまれているらしかった。じぶんときりはなされたたにんのじじつでなくって、じぶんじしんがつうせつにあじわったじじつ、ちがあつくなったりみゃくがとまったりするほどのじじつが、たたみこまれているらしかった。これはわたしのむねですいそくするがものはない. |
| 138 |
せんせいじしんすでにそうだとこくはくしていた。ただそのこくはくがくものたけのようであった。わたしのあたまのうえにしょうたいのしれないおそろしいものをおおいかぶせた。そうしてなぜそれがおそろしいかわたしにもわからなかった。こくはくはぼうとしていた。それでいてあきらかにわたしのしんけいをふるわせた。(むろんせんせいとおくさんとのあいだにおこった). |
| 139 |
せんせいがかつてこいはざいあくだといったことからてらしあわせてみると、たしょうそれがてがかりにもなった。しかしせんせいはげんにおくさんをあいしているとわたしにつげた。するとふたりのこいからこんなえんせいにちかいかくごがでようはずがなかった。「かつてはそのひとのまえにひざまずいたというきおくが、こんどはそのひとのあたまのうえにあしをのせさせようとする」. |
| 140 |
といったせんせいのことばは、げんだいいっぱんのだれかれについてもちいられるべきで、せんせいとおくさんのあいだにはあてはまらないもののようでもあった。ぞうしがやにあるだれだかわからないひとのはか、――これもわたしのきおくにときどきうごいた。わたしはそれがせんせいとふかいえんこのあるはかだということをしっていた。けれどもわたしにとってそのはかはまったくしんだものであった. |
| 141 |
ふたりのあいだにあるいのちのとびらをあけるかぎにはならなかった。むしろふたりのあいだにたって、じゆうのおうらいをさまたげるまもののようであった。そうこうしているうちに、わたしはまたおくさんとさしむかいではなしをしなければならないじきがきた。そのころはひのなじっていくせわしないあきに、だれもちゅういをひかれるはだざむのきせつであった. |
| 142 |
せんせいのふきんでとうなんにかかったものがさんよんにちつづいてでた。とうなんはいずれもよいのくちであった。たいしたものをもっていかれたいえはほとんどなかったけれども、はいられたところではかならずなんかとられた。おくさんはぎみをわるくした。そこへせんせいがあるばんいえをあけなければならないじじょうができてきた. |
| 143 |
せんせいとどうきょうのゆうじんでちほうのびょういんにほうしょくしているものがじょうきょうしたため、せんせいはそとのにさんめいとともに、あるところでそのゆうじんにめしをくわせなければならなくなった。せんせいはわけをはなして、わたしにかえってくるあいだまでのるすばんをたのんだ。わたしはすぐひきうけた。「じかんにおくれるとわるいって、ついいましがたでかけました」. |
| 144 |
といったおくさんは、わたしをせんせいのしょさいへあんないした。しょさいにはようつくえといすのそとに、たくさんのしょもつがうつくしいせがわをならべて、がらすこしにでんとうのひかりでてらされていた。おくさんはひばちのまえにしいたざふとんのうえへわたしをすわらせて、「ちっとそこいらにあるほんでもよんでいてください」とことわってでていった. |
| 145 |
わたしはちょうどしゅじんのかえりをまちうけるきゃくのようなきがしてすまなかった。わたしはかしこまったままたばこをのんでいた。おくさんがちゃのまでなにかげじょにはなしているこえがきこえた。しょさいはちゃのまのえんがわをつきあたっておれまがったかどにあるので、むねのいちからいうと、ざしきよりもかえってかけはなれたしずかさをりょうしていた. |
| 146 |
ひとしきりでおくさんのはなしごえがやむと、あとはしんとした。わたしはどろぼうをまちうけるようなこころもちで、じっとしながらきをどこかにくばった。さんじゅうぷんほどすると、おくさんがまたしょさいのいりぐちへかおをだした。「おや」といって、かるくおどろいたときのめをわたしにむけた。そうしてきゃくにきたひとのようにしかつめらしくひかえているわたしをおかしそうにみた. |
| 147 |
「それじゃきゅうくつでしょう」「いえ、きゅうくつじゃありません」「でもたいくつでしょう」「いいえ。どろぼうがくるかとおもってきんちょうしているからたいくつでもありません」おくさんはてにこうちゃちゃわんをもったまま、わらいながらそこにたっていた。「ここはすみっこだからばんをするにはよくありませんね」とわたしがいった. |
| 148 |
「じゃしつれいですがもっとまんなかへでてきてちょうだい。ごたいくつだろうとおもって、おちゃをいれてもってきたんですが、ちゃのまでよろしければあちらであげますから」わたしはおくさんのあとにおいてしょさいをでた。ちゃのまにはきれいなながひばちにてつびんがなっていた。わたしはそこでちゃとかしのごちそうになった。おくさんはねられないといけないといって、ちゃわんにてをふれなかった. |
| 149 |
「せんせいはやっぱりときどきこんなかいへおでかけになるんですか」「いいえめったにでたことはありません。ちかごろはだんだんじんのかおをみるのがきらいになるようです」こういったおくさんのようすに、べつだんこまったものだというふうもみえなかったので、わたしはついだいたんになった。「それじゃおくさんだけがれいがいなんですか」. |
| 150 |
「いいえわたしもきらわれているひとりなんです」「そりゃうそです」とわたしがいった。「おくさんじしんうそとしりながらそうおっしゃるんでしょう」「なぜ」「わたしにいわせると、おくさんがすきになったからせけんがきらいになるんですもの」「あなたはがくもんをするかただけあって、なかなかおじょうずね。からっぽなりくつをつかいこなすことが. |
| 151 |
よのなかがきらいになったから、わたしまでもきらいになったんだともいわれるじゃありませんか。それとどうなじりくつで」「りょうほうともいわれることはいわれますが、このばあいはわたしのほうがただしいのです」「ぎろんはいやよ。よくおとこのほうはぎろんだけなさるのね、おもしろそうに。そらのさかずきでよくあああきずにけんしゅうができるとおもいますわ」. |
| 152 |
おくさんのことばはすこしていたかった。しかしそのことばのみみさわりからいうと、けっしてもうれつなものではなかった。じぶんにずのうのあることをあいてにみとめさせて、そこにいっしゅのほこりをみいだすほどにおくさんはげんだいてきでなかった。おくさんはそれよりもっとそこのほうにしずんだこころをだいじにしているらしくみえた. |
| 153 |
わたしはまだそのあとにいうべきことをもっていた。けれどもおくさんからいたずらにぎろんをしかけるおとこのようにとられてはこまるとおもってえんりょした。おくさんはのみほしたこうちゃちゃわんのそこをのぞいてだまっているわたしをそらさないように、「もういっぱいあげましょうか」ときいた。わたしはすぐちゃわんをおくさんのてにわたした. |
| 154 |
「いくつ? ひとつ? ふたッつ?」みょうなものでかくさとうをつまみあげたおくさんは、わたしのかおをみて、ちゃわんのなかへいれるさとうのかずをきいた。おくさんのたいどはわたしにこびるというほどではなかったけれども、せんこくのつよいことばをつとめてうちけそうとするあいきょうにみちていた。わたしはだまってちゃをのんだ. |
| 155 |
のんでしまってもだまっていた。「あなたたいへんだまりこんじまったのね」とおくさんがいった。「なにかいうとまたぎろんをしかけるなんて、しかりつけられそうですから」とわたしはこたえた。「まさか」とおくさんがふたたびいった。ふたりはそれをいとぐちにまたはなしをはじめた。そうしてまたふたりにきょうつうなきょうみのあるせんせいをもんだいにした. |
| 156 |
「おくさん、せんこくのつづきをもうすこしいわせてくださいませんか。おくさんにはうつろなりくつときこえるかもしれませんが、わたしはそんなうわのそらでいってることじゃないんだから」「じゃおっしゃい」「いまおくさんがきゅうにいなくなったとしたら、せんせいはげんざいのとおりでいきていられるでしょうか」「そりゃわからないわ、あなた. |
| 157 |
そんなこと、せんせいにきいてみるよりそとにしかたがないじゃありませんか。わたしのところへもってくるもんだいじゃないわ」「おくさん、わたしはまじめですよ。だからにげちゃいけません。しょうじきにこたえなくっちゃ」「しょうじきよ。しょうじきにいってわたしにはわからないのよ」「じゃおくさんはせんせいをどのくらいあいしていらっしゃるんですか. |
| 158 |
これはせんせいにきくよりむしろおくさんにうかがっていいしつもんですから、あなたにうかがいます」「なにもそんなことをひらきなおってきかなくってもいいじゃありませんか」「まじめくさってきくがものはない。わかりきってるとおっしゃるんですか」「まあそうよ」「そのくらいせんせいにちゅうじつなあなたがきゅうにいなくなったら、せんせいはどうなるんでしょう. |
| 159 |
よのなかのどっちをむいてもおもしろそうでないせんせいは、あなたがきゅうにいなくなったらあとでどうなるでしょう。せんせいからみてじゃない。あなたからみてですよ。あなたからみて、せんせいはこうふくになるでしょうか、ふこうになるでしょうか」「そりゃわたしからみればわかっています。(せんせいはそうおもっていないかもしれませんが). |
| 160 |
せんせいはわたしをはなれればふこうになるだけです。あるいはいきていられないかもしれませんよ。そういうと、おのれぼけになるようですが、わたしはこんせんせいをにんげんとしてできるだけこうふくにしているんだとしんじていますわ。どんなひとがあってもわたしほどせんせいをこうふくにできるものはないとまでおもいこんでいますわ. |
| 161 |
それだからこうしておちついていられるんです」「そのしんねんがせんせいのこころによくうつるはずだとわたしはおもいますが」「それはべつもんだいですわ」「やっぱりせんせいからきらわれているとおっしゃるんですか」「わたしはきらわれてるとはおもいません。きらわれるわけがないんですもの。しかしせんせいはせけんがきらいなんでしょう. |
| 162 |
せけんというよりちかごろではにんげんがきらいになっているんでしょう。だからそのにんげんのひとりとして、わたしもすかれるはずがないじゃありませんか」おくさんのきらわれているといういみがやっとわたしにのみこめた。わたしはおくさんのりかいりょくにかんしんした。おくさんのたいどがきゅうしきのにほんのおんならしくないところもわたしのちゅういにいっしゅのしげきをあたえた. |
| 163 |
それでおくさんはそのころはやりはじめたいわゆるあたらしいことばなどはほとんどつかわなかった。わたしはおんなというものにふかいこうさいをしたけいけんのないうかつなせいねんであった。おとことしてのわたしは、いせいにたいするほんのうから、どうけいのもくてきぶつとしてつねにおんなをゆめみていた。だからじっさいのおんなのまえへでると、わたしのかんじょうがとつぜんかわることがときどきあった. |
| 164 |
わたしはじぶんのまえにあらわれたおんなのためにひきつけられるかわりに、そのばにのぞんでかえってへんなはんぱつりょくをかんじた。おくさんにたいしたわたしにはそんなきがまるででなかった。ふつうだんじょのあいだによこたわるしそうのふへいきんというかんがえもほとんどおこらなかった。わたしはおくさんのおんなであるということをわすれた. |
| 165 |
わたしはただせいじつなるせんせいのひひょうかおよびどうじょうかとしておくさんをながめた。「おくさん、わたしがこのまえなぜせんせいがせけんてきにもっとかつどうなさらないのだろうといって、あなたにきいたときに、あなたはおっしゃったことがありますね。もとはああじゃなかったんだって」「ええいいました。じっさいあんなじゃなかったんですもの」. |
| 166 |
「どんなだったんですか」「あなたのきぼうなさるような、またわたしのきぼうするようなたのもしいひとだったんです」「それがどうしてきゅうにへんかなすったんですか」「きゅうにじゃありません、だんだんああなってきたのよ」「おくさんはそのかんしじゅうせんせいといっしょにいらしったんでしょう」「むろんいましたわ。ふうふですもの」. |
| 167 |
「じゃせんせいがそうかわっていかれるみなもとのもとがちゃんとわかるべきはずですがね」「それだからこまるのよ。あなたからそういわれるとじつにつらいんですが、わたしにはどうかんがえても、かんがえようがないんですもの。わたしはいままでなんぺんあのひとに、どうぞうちあけてくださいってたのんでみたかわかりゃしません」「せんせいはなにとおっしゃるんですか」. |
| 168 |
「なんにもいうことはない、なんにもしんぱいすることはない、おれはこういうせいしつになったんだからというだけで、とりあってくれないんです」わたしはだまっていた。おくさんもことばをとぎらした。げじょへやにいるげじょはことりともおとをさせなかった。わたしはまるでどろぼうのことをわすれてしまった。「あなたはわたしにせきにんがあるんだとおもってやしませんか」. |
| 169 |
ととつぜんおくさんがきいた。「いいえ」とわたしがこたえた。「どうぞかくさずにいってください。そうおもわれるのはみをきられるよりつらいんだから」とおくさんがまたいった。「これでもわたしはせんせいのためにできるだけのことはしているつもりなんです」「そりゃせんせいもそうみとめていられるんだから、だいじょうぶです. |
| 170 |
ごあんしんなさい、わたしがほしょうします」おくさんはひばちのはいをかきならした。それからみずちゅうのみずをてつびんにさした。てつびんはたちまちなりをしずめた。「わたしはとうとうしんぼうしきれなくなって、せんせいにききました。そういわれると、わたしかなしくなってしようがないんです、なみだがでてなおのことじぶんのわるいところがききたくなるんです」. |
| 171 |
おくさんはめのなかになみだをいっぱいためた。はじめわたしはりかいのあるじょせいとしておくさんにたいしていた。わたしがそのきではなしているうちに、おくさんのようすがしだいにかわってきた。おくさんはわたしのずのうにうったえるかわりに、わたしのしんぞうをうごかしはじめた。じぶんとおっとのあいだにはなにのとぐろまりもない、またないはずであるのに、やはりなんかある. |
| 172 |
それだのにめをあけてみきわめようとすると、やはりなんにもない。おくさんのくにするようてんはここにあった。おくさんはさいしょよのなかをみるせんせいのめがえんせいてきだから、そのけっかとしてじぶんもきらわれているのだとだんげんした。そうだんげんしておきながら、ちっともそこにおちついていられなかった。そこをわると、かえってそのぎゃくをかんがえていた. |
| 173 |
せんせいはじぶんをきらうけっか、とうとうよのなかまでいやになったのだろうとすいそくしていた。けれどもどうほねをおっても、そのすいそくをつきとめてじじつとすることができなかった。せんせいのたいどはどこまでもおっとらしかった。しんせつでやさしかった。「あなたどうおもって?」ときいた。「わたしからああなったのか、それともあなたのいうじんせいかんとかなにとかいうものから、ああなったのか. |
| 174 |
かくさずいってちょうだい」わたしはなにもかくすきはなかった。けれどもわたしのしらないあるものがそこにそんざいしているとすれば、わたしのこたえがなにであろうと、それがおくさんをまんぞくさせるはずがなかった。そうしてわたしはそこにわたしのしらないあるものがあるとしんじていた。「わたしにはわかりません」おくさんはよきのはずれたときにみるあわれなひょうじょうをそのとっさにあらわした. |
| 175 |
わたしはすぐわたしのことばをつぎたした。「しかしせんせいがおくさんをきらっていらっしゃらないことだけはほしょうします。わたしはせんせいじしんのくちからきいたとおりをおくさんにつたえるだけです。せんせいはうそをはかないかたでしょう」おくさんはなにともこたえなかった。しばらくしてからこういった。「じつはわたしすこしおもいあたることがあるんですけれども....」. |
| 176 |
「せんせいがああいうふうになったみなもとのもとについてですか」「ええ。もしそれがみなもとのもとだとすれば、わたしのせきにんだけはなくなるんだから、それだけでもわたしたいへんらくになれるんですが、....」「どんなことですか」おくさんはいいしぶってひざのうえにおいたじぶんのてをながめていた。「あなたはんだんしてくだすって. |
| 177 |
いうから」「わたしにできるはんだんならやります」「みんなはいえないのよ。みんないうとしかられるから。しかられないところだけよ」わたしはきんちょうしてだえきをのみこんだ。「せんせいがまだだいがくにいるじぶん、たいへんなかのよいおともだちがひとりあったのよ。そのかたがちょうどそつぎょうするすこしまえにしんだんです. |
| 178 |
きゅうにしんだんです」おくさんはわたしのみみにしごくようなちいさなこえで、「じつはへんししたんです」といった。それは「どうして」とききかえさずにはいられないようないいかたであった。「それっきりしかいえないのよ。けれどもそのことがあってからあとなんです。せんせいのせいしつがだんだんかわってきたのは。なぜそのかたがしんだのか、わたしにはわからないの. |
| 179 |
せんせいにもおそらくわかっていないでしょう。けれどもそれからせんせいがかわってきたとおもえば、そうおもわれないこともないのよ」「そのひとのはかですか、ぞうしがやにあるのは」「それもいわないことになってるからいいません。しかしにんげんはしんゆうをひとりなくしただけで、そんなにへんかできるものでしょうか。わたしはそれがしりたくってたまらないんです. |
| 180 |
だからそこをひとつあなたにはんだんしていただきたいとおもうの」わたしのはんだんはむしろひていのほうにかたむいていた。わたしはわたしのつらまえたじじつのゆるすかぎり、おくさんをなぐさめようとした。おくさんもまたできるだけわたしによってなぐさめられたそうにみえた。それでふたりはおなじもんだいをいつまでもはなしあった. |
| 181 |
けれどもわたしはもともとことのだいこんをつかんでいなかった。おくさんのふあんもじつはそこにただよううすいくもににたぎわくからでてきていた。じけんのしんそうになると、おくさんじしんにもおおくはしれていなかった。しれているところでもみなはわたしにはなすことができなかった。したがってなぐさめるわたしも、なぐさめられるおくさんも、ともになみにういて、ゆらゆらしていた. |
| 182 |
ゆらゆらしながら、おくさんはどこまでもてをだして、おぼつかないわたしのはんだんにすがりつこうとした。じゅうじころになってせんせいのくつのおとがげんかんにきこえたとき、おくさんはきゅうにいままでのすべてをわすれたように、まえにすわっているわたしをそっちのけにしてたちあがった。そうしてこうしをひらけるせんせいをほとんどであいあたまにむかえた. |
| 183 |
わたしはとりのこされながら、あとからおくさんにおいていった。げじょだけはかりねでもしていたとみえて、ついにでてこなかった。せんせいはむしろきげんがよかった。しかしおくさんのちょうしはさらによかった。いましがたおくさんのうつくしいめのうちにたまったなみだのひかりと、それからくろいまゆげのねによせられたはちのじをきおくしていたわたしは、そのへんかをいじょうなものとしてちゅういふかくながめた. |
| 184 |
もしそれがいつわりでなかったならば、(じっさいそれはいつわりとはおもえなかったが)、いままでのおくさんのうったえはかんしょうをもてあそぶためにとくにわたしをあいてにこしらえた、いたずらなじょせいのゆうぎととれないこともなかった。もっともそのときのわたしにはおくさんをそれほどひひょうてきにみるきはおこらなかった。わたしはおくさんのたいどのきゅうにかがやいてきたのをみて、むしろあんしんした. |
| 185 |
これならばそうしんぱいするひつようもなかったんだとかんがえなおした。せんせいはわらいながら「どうもごくろうさま、どろぼうはきませんでしたか」とわたしにきいた。それから「こないんではりあいがぬけやしませんか」といった。かえるとき、おくさんは「どうもおきのどくさま」とえしゃくした。おくさんはそういいながら、せんこくだしたせいようかしののこりを、かみにつつんでわたしのてにもたせた. |
| 186 |
わたしはそれをたもとへいれて、ひとどおりのすくないよさむのこうじをきょくせつしてにぎやかなまちのほうへいそいだ。わたしはそのばんのことをきおくのうちから抽きばついてここへくわしくかいた。これはかくだけのひつようがあるからかいたのだが、じつをいうと、おくさんにかしをもらってかえるときのきぶんでは、それほどとうやのかいわをおもくみていなかった. |
| 187 |
わたしはそのよくじつごはんをくいにがっこうからかえってきて、さくやつくえのうえにのせておいたかしのつつみをみると、すぐそのなかからチョコレートをぬったとびいろのカステラをだしてほおばった。そうしてそれをくうときに、ひっきょうこのかしをわたしにくれたふたりのだんじょは、こうふくないちたいとしてよのなかにそんざいしているのだとじかくしつつあじわった. |
| 188 |
あきがくれてふゆがくるまでかくべつのこともなかった。わたしはせんせいのたくへではいりをするついでに、いふくのあらいはりやしたてかたなどをおくさんにたのんだ。それまでじゅばんというものをきたことのないわたしが、シャツのうえにくろいえりのかかったものをかさねるようになったのはこのときからであった。「こりゃておりね. |
| 189 |
こんなちのよいきものはいままでぬったことがないわ。そのかわりぬいわるいのよそりゃあ。まるではりがたたないんですもの。おかげではりをにぽんおりましたわ」こんなくじょうをいうときですら、おくさんはべつにめんどうくさいというかおをしなかった。ふゆがきたとき、わたしはぐうぜんこくへかえらなければならないことになった. |
| 190 |
わたしのははからうけとったてがみのなかに、ちちのびょうきのけいかがおもしろくないようすをかいて、いまがいまというしんぱいもあるまいが、としがとしだから、できるならつごうしてかえってきてくれとたのむようにつけたしてあった。ちちはかねてからじんぞうをやんでいた。ちゅうねんいごのひとにしばしばみるとおり、ちちのこのやまいはまんせいであった. |
| 191 |
そのかわりようじんさえしていればきゅうへんのないものととうにんもかぞくのものもしんじてうたがわなかった。げんにちちはようじょうのおかげひとつで、きょうまでどうかこうかしのいできたようにきゃくがくるとふいちょうしていた。そのちちが、ははのしょしんによると、にわへでてなにかしているきにとつぜんめまいがしてひきッぐりかえった. |
| 192 |
かないのものはけいしょうののういっけつとおもいちがえて、すぐそのてあてをした。あとでいしゃからどうもそうではないらしい、やはりじびょうのけっかだろうというはんだんをえて、はじめてそっとうとじんぞうびょうとをむすびつけてかんがえるようになったのである。ふゆやすみがくるにはまだすこしまがあった。そのたびにいっしゅのこころぐるしさをなめたわたしは、とうとうかえるけっしんをした. |
| 193 |
くにからりょひをおくらせるてすうとじかんをはぶくため、わたしはいとまごいかたがたせんせいのところへいって、いるだけのかねをいちじたてかえてもらうことにした。せんせいはすこしかぜのぎみで、ざしきへでるのがおっくうだといって、わたしをそのしょさいにとおした。しょさいのがらすとからふゆにはいってまれにみるようななつかしいわらかなにっこうがつくえがけのうえにしゃしていた. |
| 194 |
せんせいはこのひあたりのよいへやのなかへおおきなひばちをおいて、ごとくのうえにかけたかなだらいからたちあがるゆげで、こきゅうのくるしくなるのをふせいでいた。「たいびょうはよいが、ちょっとしたかぜなどはかえっていやなものですね」といったせんせいは、くしょうしながらわたしのかおをみた。せんせいはびょうきというびょうきをしたことのないひとであった. |
| 195 |
せんせいのことばをきいたわたしはわらいたくなった。「わたしはかぜぐらいならがまんしますが、それいじょうのびょうきはまっぴらです。せんせいだっておなじことでしょう。こころみにやってごらんになるとよくわかります」「そうかね。わたしはびょうきになるくらいなら、しびょうにかかりたいとおもってる」わたしはせんせいのいうことにかくべつちゅういをはらわなかった. |
| 196 |
すぐははのてがみのはなしをして、かねのむしんをもうしでた。「そりゃこまるでしょう。そのくらいならいまてもとにあるはずだからもっていきたまえ」せんせいはおくさんをよんで、ひつようのきんがくをわたしのまえにならべさせてくれた。それをおくのちゃだんすかなにかのちゅうしゅつからだしてきたおくさんは、しろいはんしのうえへていやすしにかさねて、「そりゃごしんぱいですね」. |
| 197 |
といった。「なんぺんもそっとうしたんですか」とせんせいがきいた。「てがみにはなにともかいてありませんが。――そんなになんどもひきッぐりかえるものですか」「ええ」せんせいのおくさんのははおやというひともわたしのちちとおなじびょうきでなくなったのだということがはじめてわたしにわかった。「どうせむずかしいんでしょう」. |
| 198 |
とわたしがいった。「そうさね。わたしがかわられればかわってあげてもいいが。――おうきはあるんですか」「どうですか、なにともかいてないから、おおかたないんでしょう」「はきけさえこなければまだだいじょうぶですよ」とおくさんがいった。わたしはそのばんのきしゃでとうきょうをたった。ちちのびょうきはおもったほどわるくはなかった. |
| 199 |
それでもついたときは、ゆかのうえにあぐらをかいて、「みんながしんぱいするから、まあがまんしてこうじっとしている。なにもうおきてもよいのさ」といった。しかしそのよくじつからはははがとめるのもきかずに、とうとうゆかをあげさせてしまった。はははぶしょうむしょうにふとおりのふとんをたたみながら「おとうさんはおまえがかえってきたので、きゅうにきがつよくおなりなんだよ」. |
| 200 |
といった。わたしにはちちのきょどうがさしてきょせいをはっているようにもおもえなかった。わたしのあにはあるしょくをおびてとおいきゅうしゅうにいた。これはまんいちのことがあるばあいでなければ、よういにふぼのかおをみるじゆうのきかないおとこであった。いもうとはたこくへとついだ。これもきゅうばのまにあうように、おいそれとよびよせられるおんなではなかった. |
| 201 |
きょうだいさんにんのうちで、いちばんべんりなのはやはりしょせいをしているわたしだけであった。そのわたしがははのいいづけとおりがっこうのかぎょうをほうりだして、やすみまえにかえってきたということが、ちちにはおおきなまんぞくであった。「これしきのびょうきにがっこうをやすませてはきのどくだ。おかあさんがあまりぎょうさんなてがみをかくものだからいけない」. |
| 202 |
ちちはくちではこういった。こういったばかりでなく、いままでしいていたゆかをあげさせて、いつものようなげんきをしめした。「あんまりかるはずみをしてまたぎゃくまわすといけませんよ」わたしのこのちゅういをちちはゆかいそうにしかしきわめてかるくうけた。「なにだいじょうぶ、これでいつものようにようじんさえしていれば」じっさいちちはだいじょうぶらしかった. |
| 203 |
いえのなかをじゆうにおうらいして、いきもきれなければ、めまいもかんじなかった。ただかおいろだけはふつうのひとよりもたいへんわるかったが、これはまたいまはじまったしょうじょうでもないので、わたしたちはかくべつそれをきにとめなかった。わたしはせんせいにてがみをかいておんしゃくのれいをのべた。しょうがつじょうきょうするときにじさんするからそれまでまってくれるようにとことわった. |
| 204 |
そうしてちちのびょうじょうのおもったほどけんあくでないこと、このぶんならとうぶんあんしんなこと、めまいもおうきもかいむなことなどをかきつらねた。さいごにせんせいのかぜについてもひとことのみまいをつけくわえた。わたしはせんせいのかぜをじっさいかるくみていたので。わたしはそのてがみをだすときにけっしてせんせいのへんじをよきしていなかった. |
| 205 |
だしたあとでちちやははとせんせいのうわさなどをしながら、はるかにせんせいのしょさいをそうぞうした。「こんどとうきょうへいくときにはしいたけでももっていっておあげ」「ええ、しかしせんせいがほしたしいたけなぞをくうかしら」「うまくはないが、べつにきらいなひともないだろう」わたしにはしいたけとせんせいをむすびつけてかんがえるのがへんであった. |
| 206 |
せんせいのへんじがきたとき、わたしはちょっとおどろかされた。ことにそのないようがとくべつのようけんをふくんでいなかったとき、おどろかされた。せんせいはただしんせつずくで、へんじをかいてくれたんだとわたしはおもった。そうおもうと、そのかんたんないっぽんのてがみがわたしにはたいそうなよろこびになった。もっともこれはわたしがせんせいからうけとっただいいちのてがみにはそういなかったが. |
| 207 |
だいいちというとわたしとせんせいのあいだにしょしんのおうふくがたびたびあったようにおもわれるが、じじつはけっしてそうでないことをちょっとことわっておきたい。わたしはせんせいのせいぜんにたったにつうのてがみしかもらっていない。そのいっつうはいまいうこのかんたんなへんしょで、あとのいっつうはせんせいのしぬまえとくにわたしあてでかいたたいへんながいものである. |
| 208 |
ちちはびょうきのせいしつとして、うんどうをつつしまなければならないので、ゆかをあげてからも、ほとんどこがいへはでなかった。いちどてんきのごくおだやかなひのごごにわへおりたことがあるが、そのときはまんいちをきづかって、わたしがひきそうようにそばについていた。わたしがしんぱいしてじぶんのかたへてをかけさせようとしても、ちちはわらっておうじなかった. |
| 209 |
わたしはたいくつなちちのあいてとしてよくしょうごばんにむかった。ふたりともぶしょうなせいしつなので、こたつにあたったまま、ばんをやぐらのうえへのせて、こまをうごかすたびに、わざわざてをかけふとんのしたからだすようなことをした。ときどきもちごまをなくして、つぎのしょうぶのくるまでそうほうともしらずにいたりした。ぶしょうしゃにはもってこいだ. |
| 210 |
もういちばんやろう」ちちはかったときはかならずもういちばんやろうといった。そのくせまけたときにも、もういちばんやろうといった。ようするに、かってもまけても、こたつにあたって、しょうごをさしたがるおとこであった。わたしはかねやきょうしゃをにぎったこぶしをあたまのうえへのばして、ときどきおもいきったあくびをした. |
| 211 |
わたしはとうきょうのことをかんがえた。そうしてみなぎるしんぞうのちしおのおくに、かつどうかつどうとうちつづけるこどうをきいた。ふしぎにもそのこどうのおとが、あるびみょうないしきじょうたいから、せんせいのちからでつよめられているようにかんじた。わたしはこころのうちで、ちちとせんせいとをひかくしてみた。たにみとめられるというてんからいえばどっちもれいであった. |
| 212 |
それでいて、このしょうごをさしたがるちちは、たんなるごらくのあいてとしてもわたしにはものたりなかった。かつてゆうきょうのためにおうらいをしたおぼえのないせんせいは、かんらくのこうさいからでるしたしみいじょうに、いつかわたしのあたまにえいきょうをあたえていた。ただあたまというのはあまりにひややかすぎるから、わたしはむねといいなおしたい. |
| 213 |
にくのなかにせんせいのちからがくいこんでいるといっても、ちのなかにせんせいのいのちがながれているといっても、そのときのわたしにはすこしもこちょうでないようにおもわれた。わたしはちちがわたしのほんとうのちちであり、せんせいはまたいうまでもなく、あかのたにんであるというめいはくなじじつを、ことさらにめのまえにならべてみて、はじめておおきなしんりでもはっけんしたかのごとくにおどろいた. |
| 214 |
わたしがのつそつしだすとぜんごして、ちちやははのめにもいままでめずらしかったわたしがだんだんちんぷになってきた。わたしもたいざいちゅうにそのとうげをとおりこした。そのうえわたしはくにへかえるたびに、ちちにもははにもわからないへんなところをとうきょうからもってかえった。むろんわたしはそれをかくしていた。わたしはついおもしろくなくなった. |
| 215 |
はやくとうきょうへかえりたくなった。ちちのびょうきはさいわいげんじょういじのままで、すこしもわるいほうへすすむもようはみえなかった。ねんのためにわざわざとおくからそうとうのいしゃをまねいたりして、しんちょうにしんさつしてもらってもやはりわたしのしっているいがいにいじょうはみとめられなかった。わたしはふゆやすみのつきるすこしまえにくにをたつことにした. |
| 216 |
たつといいだすと、にんじょうはみょうなもので、ちちもははもはんたいした。「もうかえるのかい、まだはやいじゃないか」とははがいった。「まだよん、いつかいてもまにあうんだろう」とちちがいった。わたしはじぶんのきわめたしゅったつのひをうごかさなかった。とうきょうへかえってみると、まつかざりはいつかとりはらわれていた. |
| 217 |
まちはさむいかぜのふくにまかせて、どこをみてもこれというほどのしょうがつめいたけいきはなかった。わたしはさっそくせんせいのうちへかねをかえしにいった。れいのしいたけもついでにもっていった。ただだすのはすこしへんだから、ははがこれをさしあげてくれといいましたとわざわざことわっておくさんのまえへおいた。しいたけはあたらしいかしおりにいれてあった. |
| 218 |
ていやすしにれいをのべたおくさんは、つぎのまへたつとき、そのおりをもってみて、かるいのにおどろかされたのか、「こりゃなんのごかし」ときいた。おくさんはこんいになると、こんなところにきわめてたんぱくなこどもらしいこころをみせた。ふたりともちちのびょうきについて、いろいろがかりねんのといをくりかえしてくれたなかに、せんせいはこんなことをいった. |
| 219 |
「なるほどようだいをきくと、いまがいまどうということもないようですが、びょうきがびょうきだからよほどきをつけないといけません」せんせいはじんぞうのやまいについてわたしのしらないことをおおくしっていた。「じぶんでびょうきにかかっていながら、きがつかないでへいきでいるのがあのやまいのとくしょくです。なにしろそばにねていたさいくんがかんびょうをするひまもなんにもないくらいなんですからね. |
| 220 |
よなかにちょっとくるしいといって、さいくんをおこしたぎり、よくるあさはもうしんでいたんです。しかもさいくんはおっとがねているとばかりおもってたんだっていうんだから」いままでらくてんてきにかたむいていたわたしはきゅうにふあんになった。「わたしのちちもそんなになるでしょうか。ならんともいえないですね」「いしゃはなにというのです」. |
| 221 |
「いしゃはとうていなおらないというんです。けれどもとうぶんのところしんぱいはあるまいともいうんです」「それじゃよいでしょう。いしゃがそういうなら。わたしのいまはなしたのはきがつかずにいたひとのことで、しかもそれがずいぶんらんぼうなぐんじんなんだから」わたしはややあんしんした。わたしのへんかをじっとみていたせんせいは、それからこうつけたした. |
| 222 |
「しかしにんげんはけんこうにしろびょうきにしろ、どっちにしてももろいものですね。いつどんなことでどんなしにようをしないともかぎらないから」「せんせいもそんなことをかんがえておでですか」「いくらじょうぶのわたしでも、まんざらかんがえないこともありません」せんせいのくちもとにはびしょうのかげがみえた。「よくころりとしぬひとがあるじゃありませんか. |
| 223 |
しぜんに。それからあっとおもうまにしぬひともあるでしょう。ふしぜんなぼうりょくで」「ふしぜんなぼうりょくってなにですか」「なにだかそれはわたしにもわからないが、じさつするひとはみんなふしぜんなぼうりょくをつかうんでしょう」「するところされるのも、やはりふしぜんなぼうりょくのおかげですね」「ころされるかたはちっともかんがえていなかった. |
| 224 |
なるほどそういえばそうだ」そのひはそれでかえった。かえってからもちちのびょうきはそれほどくにならなかった。せんせいのいったしぜんにしぬとか、ふしぜんのぼうりょくでしぬとかいうことばも、そのばかぎりのあさいいんしょうをあたえただけで、あとはなにらのこだわりをわたしのあたまにのこさなかった。わたしにはただとしがあらたまったらおおいにやろうというけっしんだけがあった. |
| 225 |
わたしはそのけっしんでやりだした。そうしてたちまちうごけなくなった。いままでおおきなもんだいをそらにえがいて、ほねぐみだけはほぼできあがっているくらいにかんがえていたわたしは、あたまをおさえてなやみはじめた。わたしはそれからろんぶんのもんだいをちいさくした。わたしのせんたくしたもんだいはせんせいのせんもんとえんこのちかいものであった. |
| 226 |
わたしがかつてそのせんたくについてせんせいのいけんをたずねたとき、せんせいはよいでしょうといった。ろうばいしたぎみのわたしは、さっそくせんせいのところへでかけて、わたしのよまなければならないさんこうしょをきいた。せんせいはじぶんのしっているかぎりのちしきを、こころよくわたしにあたえてくれたうえに、ひつようのしょもつを、にさんさつかそうといった. |
| 227 |
しかしせんせいはこのてんについてふんでもわたしをしどうするにんにあたろうとしなかった。「ちかごろはあんまりしょもつをよまないから、あたらしいことはしりませんよ。がっこうのせんせいにきいたほうがいいでしょう」わたしはろんぶんをよそにして、そぞろにくちをひらいた。「せんせいはなぜもとのようにしょもつにきょうみをもちえないんですか」. |
| 228 |
「なぜというわけもありませんが。....つまりいくらほんをよんでもそれほどえらくならないとおもうせいでしょう。それから....」「それから、まだあるんですか」まあはやくいえばおいこんだのです」せんせいのことばはむしろへいせいであった。せけんにせなかをむけたひとのにがみをおびていなかっただけに、わたしにはそれほどのてごたえもなかった. |
| 229 |
わたしはせんせいをおいこんだともおもわないかわりに、えらいともかんしんせずにかえった。それからのわたしはほとんどろんぶんにたたられたせいしんびょうしゃのようにめをあかくしてくるしんだ。わたしはいちねんまえにそつぎょうしたともだちについて、いろいろようすをきいてみたりした。そのうちのひとりはしめきりのひにくるまでじむしょへかけつけてようやくまにあわせたといった. |
| 230 |
たのひとりはごじをじゅうごぷんほどおくらしてもっていったため、あやうくはねつけられようとしたところを、しゅにんきょうじゅのこういでやっとじゅりしてもらったといった。わたしはふあんをかんずるとともにどきょうをすえた。まいにちつくえのまえでせいこんのつづくかぎりはたらいた。でなければ、うすぐらいしょこにはいって、たかいほんだなのあちらこちらをみまわした. |
| 231 |
わたしのめはこうじかがこっとうでもほりだすときのようにせひょうしのきんもじをあさった。うめがさくにつけてさむいかぜはだんだんむきをみなみへかえていった。それがひとじきりたつと、さくらのうわさがちらほらわたしのみみにきこえだした。それでもわたしはばしゃばのようにしょうめんばかりみて、ろんぶんにむちうたれた。わたしはすぐせんせいのいえへいった. |
| 232 |
からたちのかきがくろずんだえだのうえに、もえるようなめをふいていたり、ざくろのかれたみきから、つやつやしいちゃかっしょくのはが、やわらかそうににっこうをうつしていたりするのが、みちみちわたしのめをひきつけた。わたしはうまれてはじめてそんなものをみるようなめずらしさをおぼえた。せんせいはうれしそうなわたしのかおをみて、「もうろんぶんはかたづいたんですか、けっこうですね」. |
| 233 |
といった。わたしは「おかげでようやくすみました。もうなんにもすることはありません」といった。じっさいそのときのわたしは、じぶんのなすべきすべてのしごとがすでにけつりょうして、これからさきはいばってあそんでいてもかまわないようなはれやかなこころもちでいた。わたしはかきあげたじぶんのろんぶんにたいしてじゅうぶんのじしんとまんぞくをもっていた. |
| 234 |
わたしはせんせいのまえで、しきりにそのないようをちょうちょうした。せんせいはいつものちょうしで、「なるほど」とか、「そうですか」とかいってくれたが、それいじょうのひひょうはすこしもくわえなかった。わたしはものたりないというよりも、いささかひょうしぬけのぎみであった。それでもそのひわたしのきりょくは、いんじゅんらしくみえるせんせいのたいどにぎゃくしゅうをこころみるほどにいきいきしていた. |
| 235 |
わたしはあおくよみがえろうとするおおきなしぜんのなかに、せんせいをさそいだそうとした。「せんせいどこかへさんぽしましょう。そとへでるとたいへんよいこころもちです」「どこへ」わたしはどこでもかまわなかった。ただせんせいをつれてこうがいへでたかった。いちじかんのあと、せんせいとわたしはもくてきどおりしをはなれて、むらともまちともくべつのつかないしずかなところをずつもなくあるいた. |
| 236 |
わたしはかなめのかきからわかいやわらかいはを※(「てへん+おじね」、だい3すいじゅん1-84-77)ぎとってしばふえをならした。あるかごしまじんをともだちにもって、そのひとのまねをしつつしぜんにならいおぼえたわたしは、このしばふえというものをならすことがじょうずであった。わたしがとくいにそれをふきつづけると、せんせいはしらんかおをしてよそをむいてあるいた. |
| 237 |
やがてわかばにとざされたように蓊欝したこだかいひとかまえのしたにほそいみちがあけた。もんのはしらにうちつけたひょうさつになになにえんとあるので、そのこじんのていたくでないことがすぐしれた。せんせいはだらだらのぼりになっているいりぐちをながめて、「はいってみようか」といった。わたしはすぐ「うえきやですね」とこたえた. |
| 238 |
うえこみのなかをひとうねりしておくへのぼるとひだりがわにいえがあった。あけはなったしょうじのうちはがらんとしてひとのかげもみえなかった。ただのきさきにすえたおおきなはちのなかにかってあるきんぎょがうごいていた。「しずかだね。ことわらずにはいってもかまわないだろうか」「かまわないでしょう」ふたりはまたおくのほうへすすんだ. |
| 239 |
しかしそこにもひとかげはみえなかった。つつじがもえるようにさきみだれていた。せんせいはそのうちでかばいろのたけのたかいのをさして、「これはきりしまでしょう」といった。しゃくやくもじゅうつぼあまりいちめんにうえつけられていたが、まだきせつがこないのではなをつけているのはいっぽんもなかった。このしゃくやくはたけのそばにあるふるびたえんだいのようなもののうえにせんせいはだいのじなりにねた. |
| 240 |
わたしはそのあまったはしのほうにこしをおろしてたばこをふかした。せんせいはあおいすきとおるようなそらをみていた。わたしはわたしをつつむわかばのいろにこころをうばわれていた。そのわかばのいろをよくよくながめると、いちいちちがっていた。おなじふうのきでもおなじいろをえだにつけているものはひとつもなかった。ほそいすぎなえのいただきになげかぶせてあったせんせいのぼうしがかぜにふかれておちた. |
| 241 |
わたしはすぐそのぼうしをとりあげた。ところどころについているあかつちをつめでひきながらせんせいをよんだ。「せんせいぼうしがおちました」「ありがとう」からだをはんぶんおこしてそれをうけとったせんせいは、おきるともねるともかたづかないそのしせいのままで、へんなことをわたしにきいた。「とつぜんだが、きみのいえにはざいさんがよっぽどあるんですか」. |
| 242 |
「あるというほどありゃしません」「まあどのくらいあるのかね。しつれいのようだが」「どのくらいって、やまとでんじがすこしあるぎりで、かねなんかまるでないんでしょう」せんせいがわたしのいえのけいざいについて、といらしいといをかけたのはこれがはじめてであった。わたしのほうはまだせんせいのくらしむきにかんして、なにもきいたことがなかった. |
| 243 |
せんせいとしりあいになったはじめ、わたしはせんせいがどうしてあそんでいられるかをうたがった。そのあともこのうたがいはたえずわたしのむねをさらなかった。しかしわたしはそんなろこつなもんだいをせんせいのまえにもちだすのをぶしつけとばかりおもっていつでもひかえていた。わかばのいろでつかれためをやすませていたわたしのこころは、ぐうぜんまたそのうたがいにふれた. |
| 244 |
「せんせいはどうなんです。どのくらいのざいさんをもっていらっしゃるんですか」「わたしはざいさんかとみえますか」せんせいはへいぜいからむしろしっそなふくそうをしていた。それにかないはしょうにんずうであった。したがってじゅうたくもけっしてひろくはなかった。けれどもそのせいかつのぶっしつてきにゆたかなことは、うちわにはいりこまないわたしのめにさえあきらかであった. |
| 245 |
ようするにせんせいのくらしはぜいたくといえないまでも、あたじけなくきりつめたむだんりょくせいのものではなかった。「そうでしょう」とわたしがいった。「そりゃそのくらいのかねはあるさ、けれどもけっしてざいさんかじゃありません。ざいさんかならもっとおおきないえでもつくるさ」それがすむと、こんどはステッキをつきさすようにまなおにたてた. |
| 246 |
「これでももとはざいさんかなんだがなあ」せんせいのことばははんぶんひとりごとのようであった。それですぐあとにおいていきそこなったわたしは、ついだまっていた。「これでももとはざいさんかなんですよ、きみ」といいなおしたせんせいは、つぎにわたしのかおをみてびしょうした。わたしはそれでもなにともこたえなかった。むしろふちょうほうでこたえられなかったのである. |
| 247 |
するとせんせいがまたもんだいをほかへうつした。「あなたのおとうさんのびょうきはそのあとどうなりました」わたしはちちのびょうきについてしょうがついごなんにもしらなかった。つきづきこくからおくってくれるかわせとともにくるかんたんなてがみは、れいのとおりちちのしゅせきであったが、びょうきのうったえはそのうちにほとんどみあたらなかった. |
| 248 |
そのうえしょたいもたしかであった。このしゅのびょうにんにみるふるえがすこしもふでのはこびをみだしていなかった。「なにともいってきませんが、もうよいんでしょう」「よければけっこうだが、――びょうしょうがびょうしょうなんだからね」「やっぱりだめですかね。でもとうぶんはもちあってるんでしょう。なにともいってきませんよ」. |
| 249 |
「そうですか」わたしはせんせいがわたしのうちのざいさんをきいたり、わたしのちちのびょうきをたずねたりするのを、ふつうのだんわ――むねにうかんだままをそのとおりぐちにする、ふつうのだんわとおもってきいていた。ところがせんせいのことばのそこにはりょうほうをむすびつけるおおきないみがあった。せんせいじしんのけいけんをもたないわたしはむろんそこにきがつくはずがなかった. |
| 250 |
「きみのうちにざいさんがあるなら、いまのうちによくしまつをつけてもらっておかないといけないとおもうがね、よけいなおせわだけれども。きみのおとうさんがたっしゃなうちに、もらうものはちゃんともらっておくようにしたらどうですか。まんいちのことがあったあとで、いちばんめんどうのおこるのはざいさんのもんだいだから」「ええ」. |
| 251 |
わたしはせんせいのことばにたいしたちゅういをはらわなかった。わたしのかていでそんなしんぱいをしているものは、わたしにかぎらず、ちちにしろははにしろ、ひとりもないとわたしはしんじていた。そのうえせんせいのいうことの、せんせいとして、あまりにじっさいてきなのにわたしはすこしおどろかされた。しかしそこはねんちょうしゃにたいするへいぜいのけいいがわたしをむくちにした. |
| 252 |
「あなたのおとうさんがなくなられるのを、いまからよそうしてかかるようなことばづかいをするのがきにさわったらゆるしてくれたまえ。しかしにんげんはしぬものだからね。どんなにたっしゃなものでも、いつしぬかわからないものだからね」せんせいのこうきはめずらしくにがにがしかった。「そんなことをちっともきにかけちゃいません」. |
| 253 |
とわたしはべんかいした。「きみのきょうだいはなんにんでしたかね」とせんせいがきいた。せんせいはそのうえにわたしのかぞくのにんずうをきいたり、しんるいのうむをたずねたり、おじやおばのようすをといなどした。そうしてさいごにこういった。「みんなよいひとですか」「べつにわるいにんげんというほどのものもいないようです. |
| 254 |
たいていいなかものですから」「いなかものはなぜわるくないんですか」わたしはこのついきゅうにくるしんだ。しかしせんせいはわたしにへんじをかんがえさせるよゆうさえあたえなかった。「いなかものはとかいのものより、かえってわるいくらいなものです。それから、きみはいま、きみのしんせきなぞのなかに、これといって、わるいにんげんはいないようだといいましたね. |
| 255 |
しかしわるいにんげんといういっしゅのにんげんがよのなかにあるときみはおもっているんですか。そんないがたにいれたようなあくにんはよのなかにあるはずがありませんよ。へいぜいはみんなぜんにんなんです。すくなくともみんなふつうのにんげんなんです。それが、いざというまぎわに、きゅうにあくにんにかわるんだからおそろしいのです. |
| 256 |
だからゆだんができないんです」せんせいのいうことは、ここできれるようすもなかった。わたしはまたここでなにかいおうとした。するとうしろのほうでいぬがきゅうにほえだした。せんせいもわたしもおどろいてうしろをふりかえった。えんだいのよこからこうぶへかけてうえつけてあるすぎなえのそばに、くまざさがさんつぼほどちをかくすようにしげってはえていた. |
| 257 |
いぬはそのかおとせをくまざさのうえにあらわして、さかんにほえたてた。そこへじゅうぐらいのこどもがちけてきていぬをしかりつけた。こどもはきしょうのついたくろいぼうしをかぶったまませんせいのまえへまわってれいをした。「おじさん、はいってくるとき、いえにだれもいなかったかい」ときいた。「だれもいなかったよ」「ねえさんやおっかさんがかってのほうにいたのに」. |
| 258 |
「そうか、いたのかい」「ああ。おじさん、きょうはって、ことわってはいってくるとよかったのに」せんせいはくしょうした。かいちゅうからがまぐちをだして、ごせんのはくどうをこどものてににぎらせた。「おっかさんにそういっとくれ。すこしここでやすましてくださいって」こどもはれいりそうなめにわらいをみなぎらして、うなずいてみせた. |
| 259 |
「いませっこうちょうになってるところなんだよ」こどもはこうことわって、つつじのあいだをしたのほうへかけおりていった。いぬもしっぽをたかくまいてこどものあとをおいかけた。しばらくするとおなじくらいのねんかっこうのこどもがにさんにん、これもせっこうちょうのおりていったほうへかけていった。せんせいのきにするざいさんうんぬんのがかりねんはそのときのわたしにはまったくなかった. |
| 260 |
わたしのせいしつとして、またわたしのきょうぐうからいって、そのときのわたしには、そんなりがいのねんにあたまをなやますよちがなかったのである。かんがえるとこれはわたしがまだせけんにでないためでもあり、またじっさいそのばにのぞまないためでもあったろうが、とにかくわかいわたしにはなぜかきんのもんだいがとおくのほうにみえた. |
| 261 |
せんせいのはなしのうちでただひとつそこまでききたかったのは、にんげんがいざというまぎわに、だれでもあくにんになるということばのいみであった。たんなることばとしては、これだけでもわたしにわからないことはなかった。しかしわたしはこのくについてもっとしりたかった。いぬとこどもがさったあと、ひろいわかばのそのはふたたびゆえのしずかさにかえった. |
| 262 |
そうしてわれわれはちんもくにとざされたひとのようにしばらくうごかずにいた。うるわしいそらのいろがそのときしだいにひかりをうしなってきた。めのまえにあるきはたいがいふうであったが、そのえだにしたたるようにふいたかるいみどりのわかばが、だんだんくらくなっていくようにおもわれた。とおいおうらいをにぐるまをひいていくひびきがごろごろときこえた. |
| 263 |
わたしはそれをむらのおとこがうえきかなにかをのせてえんにちへでもでかけるものとそうぞうした。せんせいはそのおとをきくと、きゅうにめいそうからこそくをふきかえしたひとのようにたちあがった。「もう、そろそろかえりましょう。おおいたひがながくなったようだが、やっぱりこうあんかんとしているうちには、いつのあいだにかくれていくんだね」. |
| 264 |
せんせいのせなかには、さっきえんだいのうえにあおむきにねたあとがいっぱいついていた。わたしはりょうてでそれをはらいおとした。「ありがとう。あぶらがこびりついてやしませんか」「きれいにおちました」「このはおりはついこのあいだこしらえたばかりなんだよ。だからむやみによごしてかえると、つまにしかられるからね。ありがとう」. |
| 265 |
ふたりはまただらだらさかのちゅうとにあるいえのまえへきた。はいるときにはだれもいるけしきのみえなかったえんに、おかみさんが、じゅうごろくのむすめをあいてに、いとまきへいとをまきつけていた。ふたりはおおきなきんぎょはちのよこから、「どうもおじゃまをしました」とあいさつした。おかみさんは「いいえおかまいもうしもいたしませんで」. |
| 266 |
とれいをかえしたあと、せんこくこどもにやったはくどうのれいをのべた。かどぐちをでてにさんちょうきたとき、わたしはついにせんせいにむかってくちをきった。「さきほどせんせいのいわれた、にんげんはだれでもいざというまぎわにあくにんになるんだといういみですね。あれはどういういみですか」「いみといって、ふかいいみもありません. |
| 267 |
――つまりじじつなんですよ。りくつじゃないんだ」「じじつでさしつかえありませんが、わたしのうかがいたいのは、いざというまぎわといういみなんです。いったいどんなばあいをさすのですか」せんせいはわらいだした。あたかもじきのすぎたいま、もうねっしんにせつめいするはりあいがないといったふうに。「きんさきみ。かねをみると、どんなくんしでもすぐあくにんになるのさ」. |
| 268 |
わたしにはせんせいのへんじがあまりにへいぼんすぎてなじらなかった。せんせいがちょうしにのらないごとく、わたしもひょうしぬけのぎみであった。わたしはすましてさっさとあるきだした。いきおいせんせいはすこしおくれがちになった。せんせいはあとから「おいおい」とこえをかけた。「そらみたまえ」「なにをですか」「きみのきぶんだって、わたしのへんじひとつですぐかわるじゃないか」. |
| 269 |
まちあわせるためにふりむいてたちどまったわたしのかおをみて、せんせいはこういった。そのときのわたしははらのなかでせんせいをにくらしくおもった。かたをならべてあるきだしてからも、じぶんのききたいことをわざときかずにいた。しかしせんせいのほうでは、それにきがついていたのか、いないのか、まるでわたしのたいどにこだわるようすをみせなかった. |
| 270 |
いつものとおりちんもくがちにおちつきはらったほちょうをすましてはこんでいくので、わたしはすこしごうはらになった。なにとかいってひとつせんせいをやっつけてみたくなってきた。「せんせい」「なにですか」「せんせいはさっきすこしこうふんなさいましたね。あのうえきやのにわでやすんでいるときに。せんせいはすぐへんじをしなかった. |
| 271 |
わたしはそれをてごたえのあったようにもおもった。またまとがはずれたようにもかんじた。しかたがないからあとはいわないことにした。するとせんせいがいきなりみちのはしへよっていった。そうしてきれいにかりこんだいけがきのもとで、すそをまくってしょうべんをした。わたしはせんせいがようをたすあいだぼんやりそこにたっていた. |
| 272 |
「やあしっけい」せんせいはこういってまたあるきだした。わたしはとうとうせんせいをやりこめることをだんねんした。わたしたちのとおるみちはだんだんにぎやかになった。いままでちらほらとみえたひろいはたけのしゃめんやへいちが、まったくめにはいらないようにさゆうのいえなみがそろってきた。しちゅうからかえるだばがしきりなくすれちがっていった. |
| 273 |
こんなものにしじゅうきをとられがちなわたしは、さっきまでむねのなかにあったもんだいをどこかへふりおとしてしまった。せんせいがとつぜんそこへあともどりをしたとき、わたしはじっさいそれをわすれていた。「わたしはせんこくそんなにこうふんしたようにみえたんですか」「そんなにというほどでもありませんが、すこし....」「いやみえてもかまわない. |
| 274 |
じっさいこうふんするんだから。わたしはざいさんのことをいうときっとこうふんするんです。きみにはどうみえるかしらないが、わたしはこれでたいへんしゅうねんふかいおとこなんだから。ひとからうけたくつじょくやそんがいは、じゅうねんたってもにじゅうねんたってもわすれやしないんだから」せんせいのことばはもとよりもなおこうふんしていた. |
| 275 |
しかしわたしのおどろいたのは、けっしてそのちょうしではなかった。むしろせんせいのことばがわたしのみみにうったえるいみそのものであった。せんせいのくちからこんなじはくをきくのは、いかなわたしにもまったくのいがいにそういなかった。わたしはせんせいのせいしつのとくしょくとして、こんなしゅうちゃくりょくをいまだかつてそうぞうしたことさえなかった. |
| 276 |
わたしはせんせいをもっとよわいひととしんじていた。そうしてそのよわくてたかいところに、わたしのなつかしみのねをおいていた。いちじのきぶんでせんせいにちょっとたてをついてみようとしたわたしは、このことばのまえにちいさくなった。せんせいはこういった。「わたしはたにあざむかれたのです。しかもちのつづいたしんせきのものからあざむかれたのです. |
| 277 |
わたしはけっしてそれをわすれないのです。わたしのちちのまえにはぜんにんであったらしいかれらは、ちちのしぬやいなやゆるしがたいふとくぎかんにかわったのです。わたしはかれらからうけたくつじょくとそんがいをこどものときからきょうまでせおわされている。おそらくしぬまでせおわされとおしでしょう。わたしはしぬまでそれをわすれることができないんだから. |
| 278 |
しかしわたしはまだふくしゅうをしずにいる。かんがえるとわたしはこじんにたいするふくしゅういじょうのことをげんにやっているんだ。わたしはかれらをにくむばかりじゃない、かれらがだいひょうしているにんげんというものを、いっぱんににくむことをおぼえたのだ。わたしはそれでたくさんだとおもう」わたしはいせきのことばさえくちへだせなかった. |
| 279 |
そのひのだんわもついにこれぎりではってんせずにしまった。わたしはむしろせんせいのたいどにいしゅくして、さきへすすむきがおこらなかったのである。ふたりはしのはずれからでんしゃにのったが、しゃないではほとんどくちをきかなかった。でんしゃをおりるとまもなくわかれなければならなかった。わかれるときのせんせいは、またかわっていた. |
| 280 |
つねよりははれやかなちょうしで、「これからろくがつまではいちばんきらくなときですね。ことによるとしょうがいでいちばんきらくかもしれない。せいだしてあそびたまえ」といった。わたしはわらってぼうしをぬった。そのときわたしはせんせいのかおをみて、せんせいははたしてこころのどこで、いっぱんのにんげんをにくんでいるのだろうかとうたがった. |
| 281 |
そのめ、そのくち、どこにもえんせいてきのかげはしゃしていなかった。わたしはしそうじょうのもんだいについて、おおいなるりえきをせんせいからうけたことをじはくする。しかしおなじもんだいについて、りえきをうけようとしても、うけられないことがままあったといわなければならない。せんせいのだんわはときとしてふとくようりょうにおわった. |
| 282 |
そのひふたりのあいだにおこったこうがいのだんわも、このふとくようりょうのいちれいとしてわたしのむねのうらにのこった。むえんりょなわたしは、あるときついにそれをせんせいのまえにうちあけた。せんせいはわらっていた。わたしはこういった。「あたまがにぶくてようりょうをえないのはかまいませんが、ちゃんとわかってるくせに、はっきりいってくれないのはこまります」. |
| 283 |
「わたしはなんにもかくしてやしません」「かくしていらっしゃいます」「あなたはわたしのしそうとかいけんとかいうものと、わたしのかことを、ごちゃごちゃにかんがえているんじゃありませんか。わたしはひんじゃくなしそうかですけれども、じぶんのあたまでまとめあげたかんがえをむやみにひとにかくしやしません。かくすひつようがないんだから. |
| 284 |
けれどもわたしのかこをことごとくあなたのまえにものがたらなくてはならないとなると、それはまたべつもんだいになります」「べつもんだいとはおもわれません。せんせいのかこがうみだしたしそうだから、わたしはおもきをおくのです。ふたつのものをきりはなしたら、わたしにはほとんどかちのないものになります。わたしはたましいのふきこまれていないにんぎょうをあたえられただけで、まんぞくはできないのです」. |
| 285 |
せんせいはあきれたといったふうに、わたしのかおをみた。まきたばこをもっていたそのてがすこしふるえた。「あなたはだいたんだ」「ただまじめなんです。まじめにじんせいからきょうくんをうけたいのです」「わたしのかこを訐いてもですか」訐くということばが、とつぜんおそろしいひびきをもって、わたしのみみをうった。せんせいのかおはあおかった. |
| 286 |
「あなたはほんとうにまじめなんですか」とせんせいがねんをおした。「わたしはかこのいんがで、ひとをうたぐりつけている。だからじつはあなたもうたがっている。しかしどうもあなただけはうたぐりたくない。あなたはうたぐるにはあまりにたんじゅんすぎるようだ。わたしはしぬまえにたったひとりでよいから、たをしんようしてしにたいとおもっている. |
| 287 |
あなたはそのたったひとりになれますか。なってくれますか。あなたははらのそこからまじめですか」「もしわたしのいのちがまじめなものなら、わたしのいまいったこともまじめです」わたしのこえはふるえた。「よろしい」とせんせいがいった。「はなしましょう。わたしのかこをのこらず、あなたにはなしてあげましょう。そのかわり..... |
| 288 |
いやそれはかまわない。しかしわたしのかこはあなたにとってそれほどゆうえきでないかもしれませんよ。きかないほうがぞうかもしれませんよ。それから、――いまははなせないんだから、そのつもりでいてください。てきとうのじきがこなくっちゃはなさないんだから」わたしはげしゅくへかえってからもいっしゅのあっぱくをかんじた. |
| 289 |
わたしのろんぶんはじぶんがひょうかしていたほどに、きょうじゅのめにはよくみえなかったらしい。それでもわたしはよていとおりきゅうだいした。そつぎょうしきのひ、わたしはかびくさくなったふるいふゆふくをこうりのなかからだしてきた。しきじょうにならぶと、どれもこれもみなあつそうなかおばかりであった。わたしはかぜのとおらないあつらしゃのしたにみっぷうされたじぶんのからだをもてあました. |
| 290 |
しばらくたっているうちにてにもったハンケチがぐしょぐしょになった。わたしはしきがすむとすぐかえってらたいになった。げしゅくのにかいのまどをあけて、えんめがねのようにぐるぐるまいたそつぎょうしょうしょのあなから、みえるだけのよのなかをみわたした。それからそのそつぎょうしょうしょをつくえのうえにほうりだした。そうしてだいのじなりになって、へやのまんなかにねそべった. |
| 291 |
わたしはねながらじぶんのかこをかえりみた。またじぶんのみらいをそうぞうした。するとそのあいだにたってひとくぎりをつけているこのそつぎょうしょうしょなるものが、いみのあるような、またいみのないようなへんなかみにおもわれた。わたしはそのばんせんせいのいえへごちそうにまねかれていった。しょくたくはやくそくとおりざしきのふちちかくにすえられてあった. |
| 292 |
もようのおりだされたあついのりのかたいたくぬのがうつくしくかつきよらかにでんとうのひかりをいかえしていた。せんせいのうちでめしをくうと、きっとこのせいようりょうりてんにみるようなしろいリンネルのうえに、はしやちゃわんがおかれた。そうしてそれがかならずせんたくしたてのまっしろなものにかぎられていた。「カラやカフスとおなじことさ. |
| 293 |
よごれたのをもちいるくらいなら、いっそうはじめからいろのついたものをつかうがいい。しらければじゅんぱくでなくっちゃ」こういわれてみると、なるほどせんせいはけっぺきであった。しょさいなどもじつにせいぜんとかたづいていた。むとんちゃくなわたしには、せんせいのそういうとくしょくがおりおりいちじるしくめにとまった。「せんせいはかんしょうですね」. |
| 294 |
とかつておくさんにつげたとき、おくさんは「でもきものなどは、それほどきにしないようですよ」とこたえたことがあった。それをそばにきいていたせんせいは、「ほんとうをいうと、わたしはせいしんてきにかんしょうなんです。それでしじゅうくるしいんです。かんがえるとじつにばかばかしいしょうぶんだ」といってわらった。おくさんにもよくつうじないらしかった. |
| 295 |
そのばんわたしはせんせいとむかいあわせに、れいのしろいたくぬののまえにすわった。おくさんはふたりをさゆうにおいて、ひとりにわのほうをしょうめんにしてせきをしめた。「おめでとう」といって、せんせいがわたしのためにさかずきをあげてくれた。わたしはこのさかずきにたいしてそれほどうれしいきをおこさなかった。せんせいはわらってさかずきをあげた. |
| 296 |
わたしはそのわらいのうちに、ちっともいじのわるいアイロニーをみとめなかった。どうじにめでたいというしんじょうもくみとることができなかった。せんせいのわらいは、「せけんはこんなばあいによくおめでとうといいたがるものですね」とわたしにものがたっていた。おくさんはわたしに「けっこうね。さぞおとうさんやおかあさんはおよろこびでしょう」. |
| 297 |
といってくれた。わたしはとつぜんびょうきのちちのことをかんがえた。はやくあのそつぎょうしょうしょをもっていってみせてやろうとおもった。「せんせいのそつぎょうしょうしょはどうしました」とわたしがきいた。「どうしたかね。――まだどこかにしまってあったかね」とせんせいがおくさんにきいた。「ええ、たしかしまってあるはずですが」. |
| 298 |
そつぎょうしょうしょのありかはふたりともよくしらなかった。めしになったとき、おくさんはそばにすわっているげじょをつぎへたたせて、じぶんできゅうじのやくをつとめた。これがおもてだたないきゃくにたいするせんせいのいえのしきたりらしかった。はじめのいちにかいはわたしもきゅうくつをかんじたが、どすうのかさなるにつけ、ちゃわんをおくさんのまえへだすのが、なにでもなくなった. |
| 299 |
「おちゃ? ごはん? ずいぶんよくたべるのね」おくさんのほうでもおもいきってえんりょのないことをいうことがあった。しかしそのひは、じこうがじこうなので、そんなにからかわれるほどしょくよくがすすまなかった。「もうおしまい。あなたちかごろたいへんしょうしょくになったのね」「しょうしょくになったんじゃありません. |
| 300 |
あついんでくわれないんです」おくさんはげじょをよんでしょくたくをかたづけさせたあとへ、あらためてアイスクリームとみずかしをはこばせた。「これはたくでこしらえたのよ」ようのないおくさんには、てせいのアイスクリームをきゃくにふるまうだけのよゆうがあるとみえた。わたしはそれをに体かえてもらった。「きみもいよいよそつぎょうしたが、これからなにをするきですか」. |
| 301 |
とせんせいがきいた。せんせいははんぶんえんがわのほうへせきをずらして、しきいさいでせなかをしょうじに靠たせていた。わたしにはただそつぎょうしたというじかくがあるだけで、これからなにをしようというもくてきもなかった。へんじにためらっているわたしをみたとき、おくさんは「きょうし?」ときいた。それにもこたえずにいると、こんどは、「じゃおやくにん?」. |
| 302 |
とまたきかれた。わたしもせんせいもわらいだした。「ほんとういうと、まだなんをするかんがえもないんです。じつはしょくぎょうというものについて、まったくかんがえたことがないくらいなんですから。だいちどれがよいか、どれがわるいか、じぶんがやってみたうえでないとわからないんだから、せんたくにこまるわけだとおもいます」. |
| 303 |
「それもそうね。けれどもあなたはひっきょうざいさんがあるからそんなのんきなことをいっていられるのよ。これがこまるひとでごらんなさい。なかなかあなたのようにおちついちゃいられないから」わたしのともだちにはそつぎょうしないまえから、ちゅうがくきょうしのくちをさがしているひとがあった。わたしははらのなかでおくさんのいうじじつをみとめた. |
| 304 |
しかしこういった。「すこしせんせいにかぶれたんでしょう」「ろくなかぶれかたをしてくださらないのね」せんせいはくしょうした。「かぶれてもかまわないから、そのかわりこのあいだいったとおり、おとうさんのいきてるうちに、そうとうのざいさんをわけてもらっておおきなさい。それでないとけっしてゆだんはならない」それはつよいばかりでなく、むしろすごいことばであった. |
| 305 |
けれどもじじつをしらないわたしにはどうじにてっていしないことばでもあった。「おくさん、おたくのざいさんはよッぽどあるんですか」「なにだってそんなことをおききになるの」「せんせいにきいてもおしえてくださらないから」おくさんはわらいながらせんせいのかおをみた。「おしえてあげるほどないからでしょう」せんせいはにわのほうをむいて、すましてたばこをふかしていた. |
| 306 |
あいてはしぜんおくさんでなければならなかった。「どのくらいってほどありゃしませんわ。まあこうしてどうかこうかくらしてゆかれるだけよ、あなた。――そりゃどうでもよいとして、あなたはこれからなにかなさらなくっちゃほんとうにいけませんよ。せんせいのようにごろごろばかりしていちゃ....」「ごろごろばかりしていやしないさ」. |
| 307 |
せんせいはちょっとかおだけむけなおして、おくさんのことばをひていした。わたしはそのよるじゅうじすぎにせんせいのいえをじした。にさんにちうちにきこくするはずになっていたので、ざをたつまえにわたしはちょっといとまごいのことばをのべた。「またとうぶんおめにかかれませんから」「くがつにはでていらっしゃるんでしょうね」. |
| 308 |
わたしはもうそつぎょうしたのだから、かならずくがつにでてくるひつようもなかった。しかしあついもりのはちがつをとうきょうまできておくろうともかんがえていなかった。わたしにはいちをもとめるためのきちょうなじかんというものがなかった。「まあくがつころになるでしょう」「じゃずいぶんごきげんよう。わたしたちもこのなつはことによるとどこかへいくかもしれないのよ. |
| 309 |
ずいぶんあつそうだから。いったらまたえはがきでもおくってあげましょう」「どちらのけんとうです。もしいらっしゃるとすれば」せんせいはこのもんどうをにやにやわらってきいていた。「なにまだいくともいかないともきわめていやしないんです」せきをたとうとしたとき、せんせいはきゅうにわたしをつらまえて、「じにおとうさんのびょうきはどうなんです」. |
| 310 |
ときいた。わたしはちちのけんこうについてほとんどしるところがなかった。なにともいってこないいじょう、わるくはないのだろうくらいにかんがえていた。「そんなにたやすくかんがえられるびょうきじゃありませんよ。にょうどくしょうがでると、もうだめなんだから」にょうどくしょうということばもいみもわたしにはわからなかった. |
| 311 |
このまえのふゆやすみにくにでいしゃとかいけんしたときに、わたしはそんなじゅつごをまるできかなかった。「ほんとうにだいじにしておあげなさいよ」とおくさんもいった。「どくがのうへまわるようになると、もうそれっきりよ、あなた。わらいごとじゃないわ」むけいけんなわたしはぎみをわるがりながらも、にやにやしていた。「そうおもいきりよくかんがえれば、それまでですけれども」. |
| 312 |
おくさんはむかしおなじびょうきでしんだというじぶんのおかあさんのことでもおもいだしたのか、しずんだちょうしでこういったなりしたをむいた。わたしもちちのうんめいがほんとうにきのどくになった。するとせんせいがとつぜんおくさんのほうをむいた。「せい、おまえはおれよりさきへしぬだろうかね」「なぜ」「なぜでもない、ただきいてみるのさ. |
| 313 |
それともおのれのほうがおまえよりまえにかたづくかな。たいていせけんじゃだんながさきで、さいくんがあとへのこるのがあたりまえのようになってるね」「そうきまったわけでもないわ。けれどもおとこのほうはどうしても、そらねんがうえでしょう」「だからさきへしぬというりくつなのかね。するとおのれもおまえよりさきにあのよへいかなくっちゃならないことになるね」. |
| 314 |
「あなたはとくべつよ」「そうかね」「だってじょうぶなんですもの。ほとんどわずらったれいがないじゃありませんか。そりゃどうしたってわたしのほうがさきだわ」「さきかな」「え、きっとさきよ」せんせいはわたしのかおをみた。わたしはわらった。「しかしもしおれのほうがさきへいくとするね。そうしたらおまえどうする」. |
| 315 |
「どうするって....」おくさんはそこでくちごもった。せんせいのしにたいするそうぞうてきなひあいが、ちょっとおくさんのむねをおそったらしかった。けれどもふたたびかおをあげたときは、もうきぶんをかえていた。「どうするって、しかたがないわ、ねえあなた。ろうしょうふていっていうくらいだから」おくさんはことさらにわたしのほうをみてしょうだんらしくこういった. |
| 316 |
わたしはたてかけたこしをまたおろして、はなしのくぎりのつくまでふたりのあいてになっていた。「きみはどうおもいます」とせんせいがきいた。せんせいがさきへしぬか、おくさんがはやくなくなるか、もとよりわたしにはんだんのつくべきもんだいではなかった。わたしはただわらっていた。「じゅみょうはわかりませんね。わたしにも」. |
| 317 |
「こればかりはほんとうにじゅみょうですからね。うまれたときにちゃんときまったねんすうをもらってくるんだからしかたがないわ。せんせいのおとうさんやおかあさんなんか、ほとんどおなじよ、あなた、なくなったのが」「なくなられたひがですか」「まさかひまでおなじじゃないけれども。でもまあおなじよ。だってつづいてなくなっちまったんですもの」. |
| 318 |
このちしきはわたしにとってあたらしいものであった。わたしはふしぎにおもった。「どうしてそういちどにしなれたんですか」おくさんはわたしのといにこたえようとした。せんせいはそれをさえぎった。「そんなはなしはおよしよ。つまらないから」せんせいはてにもったうちわをわざとばたばたいわせた。そうしてまたおくさんをかえりみた. |
| 319 |
「せい、おれがしんだらこのいえをおまえにやろう」おくさんはわらいだした。「ついでにじめんもくださいよ」「じめんはたのものだからしかたがない。そのかわりおれのもってるものはみんなおまえにやるよ」「どうもありがとう。けれどもよこもじのほんなんかもらってもしようがないわね」「ふるほんやにうるさ」「うればいくらぐらいになって」. |
| 320 |
せんせいはいくらともいわなかった。けれどもせんせいのはなしは、よういにじぶんのしというとおいもんだいをはなれなかった。そうしてそのしはかならずおくさんのまえにおこるものとかていされていた。おくさんもさいしょのうちは、わざとたわいのないうけこたえをしているらしくみえた。それがいつのあいだにか、かんしょうてきなおんなのこころをおもくるしくした. |
| 321 |
「おれがしんだら、おれがしんだらって、まあなんぺんおっしゃるの。ごしょうだからもうよいかげんにして、おれがしんだらはよしてちょうだい。えんきでもない。あなたがしんだら、なにでもあなたのおもいとおりにしてあげるから、それでいいじゃありませんか」せんせいはにわのほうをむいてわらった。しかしそれぎりおくさんのいやがることをいわなくなった. |
| 322 |
わたしもあまりながくなるので、すぐせきをたった。せんせいとおくさんはげんかんまでおくってでた。「ごびょうにんをおだいじに」とおくさんがいった。「またくがつに」とせんせいがいった。わたしはあいさつをしてこうしのそとへあしをふみだした。げんかんともんのあいだにあるこんもりしたもくせいのひとかぶが、わたしのゆくてをふさぐように、やいんのうちにえだをはっていた. |
| 323 |
わたしはにさんぽうごきだしながら、くろずんだはにおおわれているそのこずえをみて、きたるべきあきのはなとこうをおもいうかべた。わたしはせんせいのたくとこのもくせいとを、いぜんからこころのうちで、はなすことのできないもののように、いっしょにきおくしていた。せんせいふうふはそれぎりおくへはいったらしかった。わたしはひとりくらいおもてへでた. |
| 324 |
わたしはすぐげしゅくへはもどらなかった。くにへかえるまえにととのえるかいものもあったし、ごちそうをつめたいぶくろにくつろぎをあたえるひつようもあったので、ただにぎやかなまちのほうへあるいていった。まちはまだよいのくちであった。ようじもなさそうなだんじょがぞろぞろうごくなかに、わたしはきょうわたしといっしょにそつぎょうしたなにがしにあった. |
| 325 |
かれはわたしをむりやりにあるさかばへつれこんだ。わたしはそこでびーるのあわのようなかれのき※(「陷のつくり+えん」、だい3すいじゅん1-87-64)をきかされた。わたしのげしゅくへかえったのはじゅうにじすぎであった。わたしはそのよくじつもあつさをおかして、たのまれものをかいあつめてあるいた。わたしはこのひとなつをむいにすごすきはなかった. |
| 326 |
くにへかえってからのにっていというようなものをあらかじめつくっておいたので、それをりこうするにひつようなしょもつもてにいれなければならなかった。わたしははんにちをまるぜんのにかいでつぶすかくごでいた。わたしはじぶんにかんけいのふかいぶもんのしょせきたなのまえにたって、すみからすみまでいっさつずつてんけんしていった. |
| 327 |
かいもののうちでいちばんわたしをこまらせたのはおんなのはんえりであった。こぞうにいうと、いくらでもだしてはくれるが、さてどれをえらんでいいのか、かうだんになっては、ただまようだけであった。そのうえあたいがきわめてふていであった。やすかろうとおもってきくと、ひじょうにたかかったり、たかかろうとかんがえて、きかずにいると、かえってたいへんやすかったりした. |
| 328 |
あるいはいくらくらべてみても、どこからかかくのさいがでるのかけんとうのつかないのもあった。わたしはまったくよわらせられた。そうしてこころのうちで、なぜせんせいのおくさんをわずらわさなかったかをくいた。わたしはかばんをかった。むろんわせいのかとうなしなにすぎなかったが、それでもかなぐやなどがぴかぴかしているので、いなかものをいかくかすにはじゅうぶんであった. |
| 329 |
このかばんをかうということは、わたしのははのちゅうもんであった。そつぎょうしたらあたらしいかばんをかって、そのなかにいっさいのみやげものをいれてかえるようにと、わざわざてがみのなかにかいてあった。わたしはそのもんくをよんだときにわらいだした。わたしにはははのりょうけんがわからないというよりも、そのことばがいっしゅのこっけいとしてうったえたのである. |
| 330 |
わたしはいとまごいをするときせんせいふうふにのべたとおり、それからみっかめのきしゃでとうきょうをたってくにへかえった。このふゆいらいちちのびょうきについてせんせいからいろいろのちゅういをうけたわたしは、いちばんしんぱいしなければならないちいにありながら、どういうものか、それがたいしてくにならなかった。わたしはむしろちちがいなくなったあとのははをそうぞうしてきのどくにおもった. |
| 331 |
そのくらいだからわたしはこころのどこかで、ちちはすでになくなるべきものとかくごしていたにちがいなかった。きゅうしゅうにいるあにへやったてがみのなかにも、わたしはちちのとうていゆえのようなけんこうたいになるみこみのないことをのべた。いちどなどはしょくむのつごうもあろうが、できるならくりあわせてこのなつぐらいいちどかおだけでもみにかえったらどうだとまでかいた. |
| 332 |
そのうえどしよりがふたりぎりでいなかにいるのはさだめてこころぼそいだろう、われわれもことしていかんのいたりであるというようなかんしょうてきなもんくさえつかった。わたしはじっさいこころにうかぶままをかいた。けれどもかいたあとのきぶんはかいたときとはちがっていた。わたしはそうしたむじゅんをきしゃのなかでかんがえた. |
| 333 |
かんがえているうちにじぶんがじぶんにきのかわりやすいけいはくもののようにおもわれてきた。わたしはふゆかいになった。わたしはまたせんせいふうふのことをおもいうかべた。ことににさんにちぜんばんしょくによばれたときのかいわをおもいだした。「どっちがさきへしぬだろう」わたしはそのばんせんせいとおくさんのあいだにおこったぎもんをひとりくちのうちでくりかえしてみた. |
| 334 |
そうしてこのぎもんにはだれもじしんをもってこたえることができないのだとおもった。しかしどっちがさきへしぬとはんぜんわかっていたならば、せんせいはどうするだろう。おくさんはどうするだろう。せんせいもおくさんも、いまのようなたいどでいるよりそとにしかたがないだろうとおもった。(しにちかづきつつあるちちをくにもとにひかえながら、このわたしがどうすることもできないように). |
| 335 |
わたしはにんげんをはかないものにかんじた。にんげんのどうすることもできないもってうまれたけいはくを、はかないものにかんじた。たくへかえってあんがいにおもったのは、ちちのげんきがこのまえみたときとたいしてかわっていないことであった。「ああかえったかい。そうか、それでもそつぎょうができてまあけっこうだった。ちょっとおまち、いまかおをあらってくるから」. |
| 336 |
ちちはにわへでてなにかしていたところであった。ふるいむぎわらぼうのうしろへ、ひよけのためにくくりつけたうすきたないハンケチをひらひらさせながら、いどのあるうらてのほうへまわっていった。がっこうをそつぎょうするのをふつうのにんげんとしてとうぜんのようにかんがえていたわたしは、それをよきいじょうによろこんでくれるちちのまえにきょうしゅくした. |
| 337 |
「そつぎょうができてまあけっこうだ」ちちはこのことばをなんぺんもくりかえした。わたしはこころのうちでこのちちのよろこびと、そつぎょうしきのあったばんせんせいのいえのしょくたくで、「おめでとう」といわれたときのせんせいのかおつきとをひかくした。わたしはしまいにちちのむちからでるいなかくさいところにふかいをかんじだした. |
| 338 |
「だいがくぐらいそつぎょうしたって、それほどけっこうでもありません。そつぎょうするものはまいとしなんびゃくにんだってあります」わたしはついにこんなくちのききようをした。するとちちがへんなかおをした。「なにもそつぎょうしたからけっこうとばかりいうんじゃない。そりゃそつぎょうはけっこうにちがいないが、おれのいうのはもうすこしいみがあるんだ. |
| 339 |
それがおまえにわかっていてくれさえすれば、....」わたしはちちからそのあとをきこうとした。ちちははなしたくなさそうであったが、とうとうこういった。「つまり、おれがけっこうということになるのさ。おれはおまえのしってるとおりのびょうきだろう。きょねんのふゆおまえにあったとき、ことによるともうさんがつかよんがつぐらいなものだろうとおもっていたのさ. |
| 340 |
それがどういうしあわせか、きょうまでこうしている。ききょにふじゆうなくこうしている。そこへおまえがそつぎょうしてくれた。だからうれしいのさ。せっかくたんせいしたむすこが、じぶんのいなくなったあとでそつぎょうしてくれるよりも、じょうぶなうちにがっこうをでてくれるほうがおやのみになればうれしいだろうじゃないか。しかしおれのほうからみてごらん、たちばがすこしちがっているよ. |
| 341 |
つまりそつぎょうはおまえにとってより、このおれにとってけっこうなんだ。わかったかい」わたしはひとこともなかった。あやまるいじょうにきょうしゅくしてうつむいていた。ちちはへいきなうちにじぶんのしをかくごしていたものとみえる。しかもわたしのそつぎょうするまえにしぬだろうとおもいさだめていたとみえる。しょうしょはなにかにおしつぶされて、もとのかたちをうしなっていた. |
| 342 |
ちちはそれをていやすしにのした。「こんなものはまいたなりてにもってくるものだ」「なかにこころでもいれるとよかったのに」とははもそばからちゅういした。ちちはしばらくそれをながめたあと、おこってとこのまのところへいって、だれのめにもすぐはいるようなしょうめんへしょうしょをおいた。いつものわたしならすぐなんとかいうはずであったが、そのときのわたしはまるでへいぜいとちがっていた. |
| 343 |
ちちやははにたいしてすこしもさからうきがおこらなかった。わたしはだまってちちのためすがままにまかせておいた。いったんへきのついたとりのこしのしょうしょは、なかなかちちのじゆうにならなかった。てきとうないちにおかれるやいなや、すぐおのれにしぜんないきおいをえてたおれようとした。わたしはははをかげへよんでちちのびょうじょうをたずねた. |
| 344 |
「おとうさんはあんなにげんきそうににわへでたりなにかしているが、あれでいいんですか」「もうなにともないようだよ。おおかたよくおなりなんだろう」はははあんがいへいきであった。とかいからかけへだたったもりやたのなかにすんでいるおんなのつねとして、はははこういうことにかけてはまるでむちしきであった。「でもいしゃはあのときとうていむずかしいってせんこくしたじゃありませんか」. |
| 345 |
「だからにんげんのからだほどふしぎなものはないとおもうんだよ。あれほどおいしゃがておもくいったものが、いままでしゃんしゃんしているんだからね。おかあさんもはじめのうちはしんぱいして、なるべくうごかさないようにとおもってたんだがね。それ、あのきしょうだろう。ようじょうはしなさるけれども、ごうじょうでねえ。「もうだいじょうぶ、おかあさんがあんまりぎょうさんすぎるからいけないんだ」. |
| 346 |
といったそのときのことばをかんがえてみると、まんざらははばかりせめるきにもなれなかった。「しかしかたわらでもすこしはちゅういしなくっちゃ」といおうとしたわたしは、とうとうえんりょしてなんにもくちへださなかった。ただちちのやまいのせいしつについて、わたしのしるかぎりをおしえるようにはなしてきかせた。しかしそのだいぶぶんはせんせいとせんせいのおくさんからえたざいりょうにすぎなかった. |
| 347 |
はははべつにかんどうしたようすもみせなかった。ただ「へえ、やっぱりおなじびょうきでね。おきのどくだね。いくつでおなくなりかえ、そのかたは」などときいた。わたしはしかたがないから、ははをそのままにしておいてちょくせつちちにむかった。ちちはわたしのちゅういをははよりはまじめにきいてくれた。「もっともだ。おまえのいうとおりだ. |
| 348 |
けれども、おのれのからだはひっきょうおのれのからだで、そのおのれのからだについてのようじょうほうは、たねんのけいけんじょう、おのれがいちばんよくこころえているはずだからね」といった。それをきいたはははくしょうした。「それごらんな」といった。「でも、あれでおとうさんはじぶんでちゃんとかくごだけはしているんですよ. |
| 349 |
こんどわたしがそつぎょうしてかえったのをたいへんよろこんでいるのも、まったくそのためなんです。いきてるうちにそつぎょうはできまいとおもったのが、たっしゃなうちにめんじょうをもってきたから、それがうれしいんだって、おとうさんはじぶんでそういっていましたぜ」「そりゃ、おまえ、くちでこそそうおいいだけれどもね。おなかのなかではまだだいじょうぶだとおもっておでのだよ」. |
| 350 |
「そうでしょうか」「まだまだじゅうねんもにじゅうねんもいきるきでおでのだよ。もっともときどきはわたしにもこころぼそいようなことをおいいだがね。おれもこのぶんじゃもうながいこともあるまいよ、おれがしんだら、おまえはどうする、ひとりでこのいえにいるきかなんて」わたしはきゅうにちちがいなくなってははひとりがとりのこされたときの、ふるいひろいいなかやをそうぞうしてみた. |
| 351 |
このいえからちちひとりをひきさったあとは、そのままでたちいくだろうか。あにはどうするだろうか。はははなにというだろうか。そうかんがえるわたしはまたここのつちをはなれて、とうきょうできらくにくらしていけるだろうか。わたしはははをめのまえにおいて、せんせいのちゅうい――ちちのじょうぶでいるうちに、わけてもらうものは、わけてもらっておけというちゅういを、ぐうぜんおもいだした. |
| 352 |
「なにね、じぶんでしぬしぬっていうひとにしんだためしはないんだからあんしんだよ。おとうさんなんぞも、しぬしぬっていいながら、これからさきまだなんねんいきなさるかわかるまいよ。それよりかだまってるじょうぶのひとのほうがけんのんさ」わたしはりくつからでたともとうけいからきたともしれない、このちんぷなようなははのことばをもくぜんときいていた. |
| 353 |
わたしのためにあかいめしをたいてきゃくをするというそうだんがちちとははのあいだにおこった。わたしはかえったとうじつから、あるいはこんなことになるだろうとおもって、こころのうちであんにそれをおそれていた。わたしはすぐことわった。「あんまりぎょうさんなことはよしてください」わたしはいなかのきゃくがきらいだった。わたしはこどものときからかれらのせきにじするのをこころぐるしくかんじていた. |
| 354 |
ましてじぶんのためにかれらがくるとなると、わたしのくつうはいっそうはなはだしいようにそうぞうされた。しかしわたしはちちやははのてまえ、あんなやひなひとをあつめてさわぐのはよせともいいかねた。それでわたしはただあまりぎょうさんだからとばかりしゅちょうした。「ぎょうさんぎょうさんとおいいだが、ちっともぎょうさんじゃないよ. |
| 355 |
しょうがいににどとあることじゃないんだからね、おきゃくぐらいするのはあたりまえだよ。そうえんりょをおためでない」はははわたしがだいがくをそつぎょうしたのを、ちょうどよめでももらったとおなじていどに、おもくみているらしかった。「よばなくってもいいが、よばないとまたなんとかいうから」これはちちのことばであった。ちちはかれらのかげぐちをきにしていた. |
| 356 |
じっさいかれらはこんなばあいに、じぶんたちのよきとおりにならないと、すぐなんとかいいたがるひとびとであった。「とうきょうとちがっていなかはさばえいからね」ちちはこうもいった。「おとうさんのかおもあるんだから」とははがまたつけくわえた。わたしはわれをはるわけにもいかなかった。どうでもふたりのつごうのよいようにしたらとおもいだした. |
| 357 |
「つまりわたしのためなら、よしてくださいというだけなんです。かげでなにかいわれるのがいやだからというごしゅいなら、そりゃまたべつです。あなたがたにふりえきなことをわたしがしいてしゅちょうしたってしかたがありません」「そうりくつをいわれるとこまる」ちちはにがいかおをした。はははこうなるとおんなだけにしどろもどろなことをいった. |
| 358 |
そのかわりくちかずからいうと、ちちとわたしをふたりよせてもなかなかかなうどころではなかった。「がくもんをさせるとにんげんがとかくりくつっぽくなっていけない」ちちはただこれだけしかいわなかった。しかしわたしはこのかんたんないっくのうちに、ちちがへいぜいからわたしにたいしてもっているふへいのぜんたいをみた。わたしはこのおだやかなちちのまえにこだわらないあたまをさげた. |
| 359 |
わたしはちちとそうだんのうえしょうたいのひどりをきわめた。そのひどりのまだこないうちに、あるおおきなことがおこった。それはめいじてんのうのごびょうきのほうちであった。しんぶんしですぐにほんじゅうへしれわたったこのじけんは、いっけんのいなかやのうちにたしょうのきょくせつをへてようやくまとまろうとしたわたしのそつぎょういわいを、ごみのごとくにふきはらった. |
| 360 |
「まあ、ごえんりょもうしたほうがよかろう」めがねをかけてしんぶんをみていたちちはこういった。ちちはだまってじぶんのびょうきのこともかんがえているらしかった。わたしはついこのあいだのそつぎょうしきにれいねんのとおりだいがくへぎょうこうになったへいかをおもいだしたりした。こぜいなにんずうにはひろすぎるふるいいえがひっそりしているなかに、わたしはこうりをといてしょもつをひもときはじめた. |
| 361 |
なぜかわたしはきがおちつかなかった。あのめめめくるるしいとうきょうのげしゅくのにかいで、とおくはしるでんしゃのおとをみみにしながら、ぺーじをいっまいいちまいにまくっていくほうが、きにはりがあってこころもちよくべんきょうができた。わたしはややともするとつくえにもたれてかりねをした。じにはわざわざまくらさえだしてほんしきにひるねをどんぼることもあった. |
| 362 |
めがさめると、せみのこえをきいた。うつつからつづいているようなそのこえは、きゅうにやかましくみみのそこをかきみだした。わたしはじっとそれをききながら、ときにかなしいおもいをむねにいだいた。わたしはふでをとってともだちのだれかれにみじかいはがきまたはながいてがみをかいた。そのともだちのあるものはとうきょうにのこっていた. |
| 363 |
あるものはとおいこきょうにかえっていた。へんじのくるのも、おんしんのとどかないのもあった。わたしはもとよりせんせいをわすれなかった。げんこうしへこまじでさんまいばかりくにへかえってからいごのじぶんというようなものをだいもくにしてかきつづったのをおくることにした。わたしはそれをふうじるとき、せんせいははたしてまだとうきょうにいるだろうかとうたがった. |
| 364 |
せんせいがおくさんといっしょにたくをあけるばあいには、ごじゅうかっこうのきりさげのおんなのひとがどこからかきて、るすばんをするのがれいになっていた。わたしがかつてせんせいにあのひとはなにですかとたずねたら、せんせいはなにとみえますかとききかえした。わたしはそのひとをせんせいのしんるいとおもいちがえていた。せんせいは「わたしにはしんるいはありませんよ」. |
| 365 |
とこたえた。せんせいのきょうりにいるぞくきあいのひとびとと、せんせいはいっこうおんしんのとりやりをしていなかった。わたしのぎもんにしたそのるすばんのおんなのひとは、せんせいとはえんのないおくさんのほうのしんせきであった。わたしはせんせいにゆうびんをだすとき、ふとはばのほそいおびをらくにうしろでむすんでいるそのひとのすがたをおもいだした. |
| 366 |
もしせんせいふうふがどこかへひしょにでもおこなったあとへこのゆうびんがとどいたら、あのきりさげのおばあさんは、それをすぐてんちさきへおくってくれるだけのきてんとしんせつがあるだろうかなどとかんがえた。そのくせそのてがみのうちにはこれというほどのひつようのこともかいてないのを、わたしはよくしょうちしていた。ただわたしはさびしかった. |
| 367 |
そうしてせんせいからへんじのくるのをよきしてかかった。しかしそのへんじはついにこなかった。ちちはこのまえのふゆにかえってきたときほどしょうぎをさしたがらなくなった。しょうぎばんはほこりのたまったまま、とこのまのすみにかたよせられてあった。ことにへいかのごびょうきいごちちはじっとかんがえこんでいるようにみえた. |
| 368 |
まいにちしんぶんのくるのをまちうけて、じぶんがいちばんさきへよんだ。それからそのよみがらをわざわざわたしのいるところへもってきてくれた。「おいごらん、きょうもてんしさまのことがくわしくでている」ちちはへいかのことを、つねにてんしさまといっていた。「もったいないはなしだが、てんしさまのごびょうきも、おとうさんのとまあにたものだろうな」. |
| 369 |
こういうちちのかおにはふかいがかりねんのくもりがかかっていた。こういわれるわたしのむねにはまたちちがいつたおれるかわからないというしんぱいがひらめいた。「しかしだいじょうぶだろう。おれのようなくだらないものでも、まだこうしていられるくらいだから」ちちはじぶんのたっしゃなほしょうをじぶんであたえながら、いまにもおのれにおちかかってきそうなきけんをよかんしているらしかった. |
| 370 |
「おとうさんはほんとうにびょうきをこわがってるんですよ。おかあさんのおっしゃるように、じゅうねんもにじゅうねんもいきるきじゃなさそうですぜ」はははわたしのことばをきいてとうわくそうなかおをした。「ちょっとまたしょうぎでもさすようにすすめてごらんな」わたしはとこのまからしょうぎばんをとりおろして、ほこりをふいた. |
| 371 |
ちちのげんきはしだいにおとろえていった。わたしをおどろかせたハンケチつきのふるいむぎわらぼうしがしぜんとかんきゃくされるようになった。わたしはくろいすすけたたなのうえにのっているそのぼうしをながめるたびに、ちちにたいしてきのどくなおもいをした。ちちがいぜんのように、かるがるとうごくまは、もうすこしつつしんでくれたらとしんぱいした. |
| 372 |
ちちがじっとすわりこむようになると、やはりもとのほうがたっしゃだったのだというきがおこった。わたしはちちのけんこうについてよくははとはなしあった。「まったくきのせいだよ」とははがいった。ははのあたまはへいかのやまいとちちのやまいとをむすびつけてかんがえていた。わたしにはそうばかりともおもえなかった。「きじゃない. |
| 373 |
ほんとうにからだがわるかないんでしょうか。どうもきぶんよりけんこうのほうがわるくなっていくらしい」わたしはこういって、こころのうちでまたとおくからそうとうのいしゃでもよんで、ひとつみせようかしらとしあんした。「ことしのなつはおまえもなじらなかろう。せっかくそつぎょうしたのに、おいわいもしてあげることができず、おとうさんのからだもあのとおりだし. |
| 374 |
それにてんしさまのごびょうきで。――いっそのこと、かえるすぐにおきゃくでもよぶほうがよかったんだよ」わたしがかえったのはしちがつのご、むいかで、ちちやははがわたしのそつぎょうをいわうためにきゃくをよぼうといいだしたのは、それからいちしゅうかんごであった。そうしていよいよときわめたひはそれからまたいちしゅうかんのあまりもさきになっていた. |
| 375 |
じかんにそくばくをゆるさないゆうちょうないなかにかえったわたしは、おかげでこのもしくないしゃこうじょうのくつうからすくわれたもおなじことであったが、わたしをりかいしないはははすこしもそこにきがついていないらしかった。ほうぎょのほうちがつたえられたとき、ちちはそのしんぶんをてにして、「ああ、ああ」といった。「ああ、ああ、てんしさまもとうとうおかくれになる. |
| 376 |
おのれも....」ちちはそのあとをいわなかった。わたしはくろいうすものをかうためにまちへでた。それではたざおのたまをつつんで、それではたざおのさきへさんすんはばのひらひらをつけて、もんのとびらのよこからななめにおうらいへさしだした。はたもくろいひらひらも、かぜのないくうきのなかにだらりとさがった。わたしのたくのふるいもんのやねはわらでふいてあった. |
| 377 |
あめやかぜにうたれたりまたふかれたりしたそのわらのいろはとくにへんしょくして、うすくはいいろをおびたうえに、ところどころのでこぼこさえめについた。わたしはひとりもんのそとへでて、くろいひらひらと、しろいめりんすのちと、ちのなかにそめだしたあかいひのまるのいろとをながめた。それがうすぎたねないやねのわらにうつるのもながめた. |
| 378 |
わたしはかつてせんせいから「あなたのたくのかまえはどんなていさいですか。わたしのきょうりのかたとはだいぶおもむきがちがっていますかね」ときかれたことをおもいだした。わたしはじぶんのうまれたこのふるいいえを、せんせいにみせたくもあった。またせんせいにみせるのがはずかしくもあった。わたしはまたひとりいえのなかへはいった. |
| 379 |
じぶんのつくえのおいてあるところへきて、しんぶんをよみながら、とおいとうきょうのありさまをそうぞうした。わたしのそうぞうはにほんいちのおおきなとが、どんなにくらいなかでどんなにうごいているだろうかのがめんにあつめられた。わたしはそのくろいなりにうごかなければしまつのつかなくなったとかいの、ふあんでざわざわしているなかに、いってんのとうかのごとくにせんせいのいえをみた. |
| 380 |
わたしはそのときこのとうかがおとのしないうずのなかに、しぜんとまきこまれていることにきがつかなかった。しばらくすれば、そのひもまたふっときえてしまうべきうんめいを、めのまえにひかえているのだとはもとよりきがつかなかった。わたしはこんどのじけんについてせんせいにてがみをかこうかとおもって、ふでをとりかけた。わたしはそれをじゅうぎょうばかりかいてやめた. |
| 381 |
かいたところはすんずんにひきさいてくずかごへなげこんだ。(せんせいにあててそういうことをかいてもしかたがないともおもったし、ぜんれいにちょうしてみると、とてもへんじをくれそうになかったから)。わたしはさびしかった。それでてがみをかくのであった。そうしてへんじがくればいいとおもうのであった。はちがつのなかばごろになって、わたしはあるほうゆうからてがみをうけとった. |
| 382 |
そのなかにちほうのちゅうがくきょういんのくちがあるがいかないかとかいてあった。このほうゆうはけいざいのひつようじょう、じぶんでそんないちをさがしまわるおとこであった。このくちもはじめはじぶんのところへかかってきたのだが、もっとよいちほうへそうだんができたので、あまったほうをわたしにゆずるきで、わざわざしらせてきてくれたのであった. |
| 383 |
わたしはすぐへんじをだしてことわった。しりあいのなかには、ずいぶんほねをおって、きょうしのしょくにありつきたがっているものがあるから、そのほうへまわしてやったらよかろうとかいた。わたしはへんじをだしたあとで、ちちとははにそのはなしをした。ふたりともわたしのことわったことにいぞんはないようであった。「そんなところへいかないでも、まだよいくちがあるだろう」. |
| 384 |
こういってくれるうらに、わたしはふたりがわたしにたいしてもっているかぶんなきぼうをよんだ。うかつなちちやははは、ふそうとうなちいとしゅうにゅうとをそつぎょうしたてのわたしからきたいしているらしかったのである。「そうとうのくちって、ちかごろじゃそんなうまいくちはなかなかあるものじゃありません。「しかしそつぎょうしたいじょうは、すくなくともどくりつしてやっていってくれなくっちゃこっちもこまる. |
| 385 |
ひとからあなたのところのごじなんは、だいがくをそつぎょうなすってなにをしておでですかときかれたときにへんじができないようじゃ、おれもかたみがせまいから」ちちはじゅうめんをつくった。ちちのかんがえは、ふるくすみなれたきょうりからそとへでることをしらなかった。わたしのほうでも、じっさいそういうにんげんのようなきもちをおりおりおこした. |
| 386 |
わたしはあからさまにじぶんのかんがえをうちあけるには、あまりにきょりのけんかくのはなはだしいちちとははのまえにもくぜんとしていた。「おまえのよくせんせいせんせいというかたにでもおねがいしたらいいじゃないか。こんなときこそ」はははこうよりそとにせんせいをかいしゃくすることができなかった。そつぎょうしたから、ちいのしゅうせんをしてやろうというひとではなかった. |
| 387 |
「そのせんせいはなにをしているのかい」とちちがきいた。「なんにもしていないんです」とわたしがこたえた。わたしはとくのむかしからせんせいのなにもしていないということをちちにもははにもつげたつもりでいた。そうしてちちはたしかにそれをきおくしているはずであった。「なにもしていないというのは、またどういうわけかね. |
| 388 |
おまえがそれほどそんけいするくらいなひとならなんかやっていそうなものだがね」ちちはこういって、わたしをふうした。ちちのかんがえでは、やくにたつものはよのなかへでてみんなそうとうのちいをえてはたらいている。ひっきょうやくざだからあそんでいるのだとけつろんしているらしかった。「おれのようなにんげんだって、げっきゅうこそもらっちゃいないが、これでもあそんでばかりいるんじゃない」. |
| 389 |
ちちはこうもいった。わたしはそれでもまだだまっていた。「おまえのいうようなえらいかたなら、きっとなんかくちをさがしてくださるよ。たのんでごらんなのかい」とははがきいた。「いいえ」とわたしはこたえた。「じゃしかたがないじゃないか。なぜたのまないんだい。てがみでもいいからおだしな」「ええ」わたしはせいへんじをしてせきをたった. |
| 390 |
ちちはあきらかにじぶんのびょうきをおそれていた。しかしいしゃのくるたびにさばえいしつもんをかけてあいてをこまらすしつでもなかった。いしゃのほうでもまたえんりょしてなにともいわなかった。ちちはしごのことをかんがえているらしかった。すくなくともじぶんがいなくなったあとのわがやをそうぞうしてみるらしかった。「こどもにがくもんをさせるのも、よしあしだね. |
| 391 |
せっかくしゅぎょうをさせると、そのこどもはけっしてたくへかえってこない。これじゃてもなくおやこをかくりするためにがくもんさせるようなものだ」がくもんをしたけっかあにはいまおんごくにいた。きょういくをうけたいんがで、わたしはまたとうきょうにすむかくごをかたくした。こういうこをそだてたちちのぐちはもとよりふごうりではなかった. |
| 392 |
えいねんすみふるしたいなかやのなかに、たったひとりとりのこされそうなははをえがきだすちちのそうぞうはもとよりさびしいにちがいなかった。わがやはうごかすことのできないものとちちはしんじきっていた。そのなかにすむははもまたいのちのあるあいだは、うごかすことのできないものとしんじていた。それだのに、とうきょうでよいちいをもとめろといって、わたしをつよいたがるちちのあたまにはむじゅんがあった. |
| 393 |
わたしはそのむじゅんをおかしくおもったとどうじに、そのおかげでまたとうきょうへでられるのをよろこんだ。わたしはちちやははのてまえ、このちいをできるだけのどりょくでもとめつつあるごとくによそおおわなくてはならなかった。わたしはせんせいにてがみをかいて、いえのじじょうをくわしくのべた。もしじぶんのちからでできることがあったらなんでもするからしゅうせんしてくれとたのんだ. |
| 394 |
わたしはせんせいがわたしのいらいにとりあうまいとおもいながらこのてがみをかいた。またとりあうつもりでも、せけんのせまいせんせいとしてはどうすることもできまいとおもいながらこのてがみをかいた。しかしわたしはせんせいからこのてがみにたいするへんじがきっとくるだろうとおもってかいた。わたしはそれをふうじてだすまえにははにむかっていった. |
| 395 |
「せんせいにてがみをかきましたよ。あなたのおっしゃったとおり。ちょっとよんでごらんなさい」はははわたしのそうぞうしたごとくそれをよまなかった。「そうかい、それじゃはやくおだし。そんなことはほかがきをつけないでも、じぶんではやくやるものだよ」はははわたしをまだこどものようにおもっていた。わたしもじっさいこどものようなかんじがした. |
| 396 |
「しかしてがみじゃようはたりませんよ。どうせ、くがつにでもなって、わたしがとうきょうへでてからでなくっちゃ」「そりゃそうかもしれないけれども、またひょっとして、どんなよいくちがないともかぎらないんだから、はやくたのんでおくにこしたことはないよ」「ええ。とにかくへんじはくるにきまってますから、そうしたらまたおはなししましょう」. |
| 397 |
わたしはこんなことにかけてきちょうめんなせんせいをしんじていた。わたしはせんせいのへんじのくるのをこころまちにまった。けれどもわたしのよきはついにはずれた。せんせいからはいちしゅうかんたってもなにのおんしんもなかった。「おおかたどこかへひしょにでもいっているんでしょう」わたしはははにむかっていいわけらしいことばをつかわなければならなかった. |
| 398 |
そうしてそのことばはははにたいするいいわけばかりでなく、じぶんのこころにたいするいいわけでもあった。わたしはつよいてもなにかのじじょうをかていしてせんせいのたいどをべんごしなければふあんになった。わたしはときどきちちのびょうきをわすれた。いっそはやくとうきょうへでてしまおうかとおもったりした。そのちちじしんもおのれのびょうきをわすれることがあった. |
| 399 |
みらいをしんぱいしながら、みらいにたいするところおけはいっこうとらなかった。わたしはついにせんせいのちゅうこくとおりざいさんぶんぱいのことをちちにいいだすきかいをえずにすぎた。くがつはじめになって、わたしはいよいよまたとうきょうへでようとした。わたしはちちにむかってとうぶんいままでとおりがくしをおくってくれるようにとたのんだ. |
| 400 |
「ここにこうしていたって、あなたのおっしゃるとおりのちいがえられるものじゃないですから」わたしはちちのきぼうするちいをえるためにとうきょうへいくようなことをいった。「むろんくちのみつかるまででよいですから」ともいった。わたしはこころのうちで、そのくちはとうていわたしのあたまのうえにおちてこないとおもっていた. |
| 401 |
けれどもじじょうにうといちちはまたあくまでもそのはんたいをしんじていた。「そりゃわずかのあいだのことだろうから、どうにかつごうしてやろう。そのかわりながくはいけないよ。そうとうのちいをえしだいどくりつしなくっちゃ。がんらいがっこうをでたいじょう、でたあくるひからたのせわになんぞなるものじゃないんだから。ちちはこのそとにもまだいろいろのこごとをいった. |
| 402 |
そのなかには、「むかしのおやはこにくわせてもらったのに、いまのおやはこにくわれるだけだ」などということばがあった。それらをわたしはただだまってきいていた。こごとがひととおりすんだとおもったとき、わたしはしずかにせきをたとうとした。ちちはいついくかとわたしにたずねた。わたしにははやいだけがよかった。「おかあさんにひをみてもらいなさい」. |
| 403 |
「そうしましょう」そのときのわたしはちちのまえにぞんがいおとなしかった。わたしはなるべくちちのきげんにさからわずに、いなかをでようとした。ちちはまたわたしをひきとめた。「おまえがとうきょうへいくとたくはまたさびしくなる。なにしろおのれとおかあさんだけなんだからね。そのおれもからださえたっしゃならいいが、このようすじゃいつきゅうにどんなことがないともいえないよ」. |
| 404 |
わたしはできるだけちちをなぐさめて、じぶんのつくえをおいてあるところへかえった。わたしはとりちらしたしょもつのあいだにすわって、こころぼそそうなちちのたいどとことばとを、いくどかくりかえしながめた。わたしはそのときまたせみのこえをきいた。そのこえはこのあいだじゅうきいたのとちがって、つくつくぼうしのこえであった. |
| 405 |
わたしはなつきょうりにかえって、にえつくようなせみのこえのなかにじっとすわっていると、へんにかなしいこころもちになることがしばしばあった。わたしのあいしゅうはいつもこのむしのはげしいおととともに、こころのそこにしみこむようにかんぜられた。わたしはそんなときにはいつもうごかずに、ひとりでひとりをみつめていた。わたしのあいしゅうはこのなつきせいしたいごしだいにじょうちょうをかえてきた. |
| 406 |
あぶらぜみのこえがつくつくぼうしのこえにかわるごとくに、わたしをとりまくひとのうんめいが、おおきなりんねのうちに、そろそろうごいているようにおもわれた。わたしはさびしそうなちちのたいどとことばをくりかえしながら、てがみをだしてもへんじをよこさないせんせいのことをまたおもいうかべた。わたしはほとんどちちのすべてもしりつくしていた. |
| 407 |
もしちちをはなれるとすれば、じょうあいのうえにおやこのこころのこりがあるだけであった。せんせいのおおくはまだわたしにわかっていなかった。はなすとやくそくされたそのひとのかこもまだきくきかいをえずにいた。ようするにせんせいはわたしにとってうすぐらかった。わたしはぜひともそこをとおりこして、あかるいところまでいかなければきがすまなかった. |
| 408 |
せんせいとかんけいのたえるのはわたしにとっておおいなくつうであった。わたしはははにひをみてもらって、とうきょうへたつひどりをきわめた。わたしがいよいよたとうというまぎわになって、(たしかふつかまえのゆうがたのことであったとおもうが、)ちちはまたとつぜんひっくりかえった。わたしはそのときしょもつやいるいをつめたこうりをからげていた. |
| 409 |
ちちはふろへはいったところであった。ちちのせなかをながしにいったははがおおきなこえをだしてわたしをよんだ。わたしはらたいのままははにうしろからいだかれているちちをみた。それでもざしきへつれてもどったとき、ちちはもうだいじょうぶだといった。ねんのためにまくらもとにすわって、そおちてぬぐいでちちのあたまをひやしていたわたしは、くじころになってようやくかたちばかりのやしょくをすました. |
| 410 |
よくじつになるとちちはおもったよりげんきがよかった。とめるのもきかずにあるいてべんじょへいったりした。「もうだいじょうぶ」ちちはきょねんのくれたおれたときにわたしにむかっていったとおなじことばをまたくりかえした。そのときははたしてくちでいったとおりまあだいじょうぶであった。わたしはこんどもあるいはそうなるかもしれないとおもった. |
| 411 |
しかしいしゃはただようじんがかんようだとちゅういするだけで、ねんをおしてもはんぜんしたことをはなしてくれなかった。わたしはふあんのために、しゅったつのひがきてもついにとうきょうへたつきがおこらなかった。「もうすこしようすをみてからにしましょうか」とわたしはははにそうだんした。「そうしておくれ」とははがたのんだ. |
| 412 |
はははちちがにわへでたりせどへおりたりするげんきをみているあいだだけはへいきでいるくせに、こんなことがおこるとまたひつよういじょうにしんぱいしたりきをもんだりした。「おまえはきょうとうきょうへいくはずじゃなかったか」とちちがきいた。「ええ、すこしのばしました」とわたしがこたえた。「おれのためにかい」とちちがききかえした. |
| 413 |
わたしはちょっとちゅうちょした。そうだといえば、ちちのびょうきのおもいのをうらがきするようなものであった。わたしはちちのしんけいをかびんにしたくなかった。しかしちちはわたしのこころをよくみぬいているらしかった。「きのどくだね」といって、にわのほうをむいた。わたしはじぶんのへやにはいって、そこにほうりだされたこうりをながめた. |
| 414 |
こうりはいつもちだしてもさしつかえないように、かたくくくられたままであった。わたしはぼんやりそのまえにたって、またなわをとこうかとかんがえた。わたしはすわったままこしをうかしたときのおちつかないきぶんで、またさんよっかをすごした。するとちちがまたそっとうした。いしゃはぜったいにあんがをめいじた。「どうしたものだろうね」. |
| 415 |
とははがちちにきこえないようなちいさなこえでわたしにいった。ははのかおはいかにもこころぼそそうであった。わたしはあにといもうとにでんぽうをうつよういをした。けれどもねているちちにはほとんどなんのくもんもなかった。はなしをするところなどをみると、かぜでもひいたときとまったくおなじことであった。そのうえしょくよくはふだんよりもすすんだ. |
| 416 |
そばのものが、ちゅういしてもよういにいうことをきかなかった。「どうせしぬんだから、うまいものでもくってしななくっちゃ」わたしにはうまいものというちちのことばがこっけいにもひさんにもきこえた。ちちはうまいものをくちにいれられるみやこにはすんでいなかったのである。よるにはいってかきもちなどをやいてもらってぼりぼりかんだ. |
| 417 |
「どうしてこうかわくのかね。やっぱりこころにじょうぶのところがあるのかもしれないよ」はははしつぼうしていいところにかえってたのみをおいた。そのくせびょうきのときにしかつかわないかわくというむかしふうのことばを、なにでもたべたがるいみにもちいていた。おじがみまいにきたとき、ちちはいつまでもひきとめてかえさなかった. |
| 418 |
さびしいからもっといてくれというのがおもなりゆうであったが、ははやわたしが、たべたいだけものをたべさせないというふへいをうったえるのも、そのもくてきのひとつであったらしい。ちちのびょうきはおなじようなじょうたいでいちしゅうかんいじょうつづいた。わたしはそのあいだにながいてがみをきゅうしゅうにいるにいあてでだした. |
| 419 |
いもうとへはははからださせた。わたしははらのなかで、おそらくこれがちちのけんこうにかんしてふたりへやるさいごのおんしんだろうとおもった。それでりょうほうへいよいよというばあいにはでんぽうをうつからでてこいといういみをかきこめた。あにはいそがしいしょくにいた。いもうとはにんしんちゅうであった。だからちちのきけんがめのまえにせまらないうちによびよせるじゆうはきかなかった. |
| 420 |
といって、せっかくつごうしてきたにはきたが、まにあわなかったといわれるのもつらかった。わたしはでんぽうをかけるじきについて、ひとのしらないせきにんをかんじた。「そうはんぜんりしたことになるとわたしにもわかりません。しかしきけんはいつくるかわからないということだけはしょうちしていてください」ていしゃじょうのあるまちからむかえたいしゃはわたしにこういった. |
| 421 |
わたしはははとそうだんして、そのいしゃのしゅうせんで、まちのびょういんからかんごふをひとりたのむことにした。ちちはまくらもとへきてあいさつするしろいふくをきたおんなをみてへんなかおをした。ちちはしびょうにかかっていることをとうからじかくしていた。それでいて、がんぜんにせまりつつあるしそのものにはきがつかなかった. |
| 422 |
「いまになおったらもういっぺんとうきょうへあそびにいってみよう。にんげんはいつしぬかわからないからな。なにでもやりたいことは、いきてるうちにやっておくにかぎる」はははしかたなしに「そのときはわたしもいっしょにつれていっていただきましょう」などとちょうしをあわせていた。ときとするとまたひじょうにさびしがった. |
| 423 |
「おれがしんだら、どうかおかあさんをだいじにしてやってくれ」わたしはこの「おれがしんだら」ということばにいっしゅのきおくをもっていた。とうきょうをたつとき、せんせいがおくさんにむかってなんぺんもそれをくりかえしたのは、わたしがそつぎょうしたひのばんのことであった。わたしはわらいをおびたせんせいのかおと、えんきでもないとみみをふさいだおくさんのようすとをおもいだした. |
| 424 |
あのときの「おれがしんだら」はたんじゅんなかていであった。いまわたしがきくのはいつおこるかわからないじじつであった。わたしはせんせいにたいするおくさんのたいどをまなぶことができなかった。しかしくちのさきではなにとかちちをまぎらさなければならなかった。「そんなよわいことをおっしゃっちゃいけませんよ。いまになおったらとうきょうへあそびにいらっしゃるはずじゃありませんか. |
| 425 |
おかあさんといっしょに。こんどいらっしゃるときっとびっくりしますよ、かわっているんで。でんしゃのあたらしいせんろだけでもたいへんふえていますからね。でんしゃがとおるようになればしぜんまちなみもかわるし、そのうえにしくかいせいもあるし、とうきょうがじっとしているときは、まあにろくじちゅういちぷんもないといっていいくらいです」. |
| 426 |
わたしはしかたがないからいわないでいいことまでしゃべった。ちちはまた、まんぞくらしくそれをきいていた。びょうにんがあるのでしぜんかのでいりもおおくなった。きんじょにいるしんるいなどは、ふつかにひとりぐらいのわりでかわるがわるみまいにきた。なかにはひかくてきとおくにいてへいぜいそえんなものもあった。「どうかとおもったら、このようすじゃだいじょうぶだ. |
| 427 |
はなしもじゆうだし、だいちかおがちっともやせていないじゃないか」などといってかえるものがあった。わたしのかえったとうじはひっそりしすぎるほどしずかであったかていが、こんなことでだんだんざわざわしはじめた。そのなかにうごかずにいるちちのびょうきは、ただおもしろくないほうへうつっていくばかりであった。わたしはははやおじとそうだんして、とうとうあにといもうとにでんぽうをうった. |
| 428 |
あにからはすぐいくというへんじがきた。いもうとのおっとからもたつというほうちがあった。いもうとはこのまえかいにんしたときにりゅうざんしたので、こんどこそはくせにならないようにだいじをとらせるつもりだと、かねていいこしたそのおっとは、いもうとのかわりにじぶんででてくるかもしれなかった。こうしたおちつきのないあいだにも、わたしはまだしずかにすわるよゆうをもっていた. |
| 429 |
たまにはしょもつをあけてじっぺーじもつづけざまによむじかんさえでてきた。いったんかたくくくられたわたしのこうりは、いつのあいだにかとかれてしまった。わたしはいるにまかせて、そのなかからいろいろなものをとりだした。わたしはとうきょうをたつとき、こころのうちできわめた、このなつじゅうのにっかをかえりみた。わたしのやったことはこのにっかのさんがいちにもたらなかった. |
| 430 |
わたしはいままでもこういうふゆかいをなんどとなくかさねてきた。しかしこのなつほどおもったとおりしごとのはこばないれいもすくなかった。これがひとのよのつねだろうとおもいながらもわたしはいやなきもちにおさえつけられた。わたしはこのふかいのうらにすわりながら、いっぽうにちちのびょうきをかんがえた。ちちのしんだあとのことをそうぞうした. |
| 431 |
そうしてそれとどうじに、せんせいのことをいっぽうにおもいうかべた。わたしはこのふかいなこころもちのりょうたんにちい、きょういく、せいかくのぜんぜんことなったふたりのおもかげをながめた。わたしがちちのまくらもとをはなれて、ひとりとりみだしたしょもつのなかにうでぐみをしているところへははがかおをだした。「すこしひるねむりでもおしよ. |
| 432 |
おまえもさぞくたびれるだろう」はははわたしのきぶんをりょうかいしていなかった。わたしもははからそれをよきするほどのこどもでもなかった。わたしはたんかんにれいをのべた。はははまだへやのいりぐちにたっていた。「おとうさんは?」とわたしがきいた。「いまよくねておでだよ」とははがこたえた。はははとつぜんはいってきてわたしのそばにすわった. |
| 433 |
「せんせいからまだなんともいってこないかい」ときいた。はははそのときのわたしのことばをしんじていた。そのときのわたしはせんせいからきっとへんじがあるとははにほしょうした。しかしちちやははのきぼうするようなへんじがくるとは、そのときのわたしもまるできたいしなかった。わたしはこころえがあってははをあざむいたとおなじけっかにおちいった. |
| 434 |
「もういっぺんてがみをだしてごらんな」とははがいった。やくにたたないてがみをなんつうかこうと、それがははのいあんになるなら、てすうをいとうようなわたしではなかった。けれどもこういうようけんでせんせいにせまるのはわたしのくつうであった。わたしはちちにしかられたり、ははのきげんをそんじたりするよりも、せんせいからみさげられるのをはるかにおそれていた. |
| 435 |
あのいらいにたいしていままでへんじのもらえないのも、あるいはそうしたわけからじゃないかしらというじゃすいもあった。「てがみをかくのはわけはないですが、こういうことはゆうびんじゃとてもらちはあきませんよ。どうしてもじぶんでとうきょうへでて、じかにたのんでまわらなくっちゃ」「だっておとうさんがあのようすじゃ、おまえ、いつとうきょうへでられるかわからないじゃないか」. |
| 436 |
「だからでやしません。なおるともなおらないともかたづかないうちは、ちゃんとこうしているつもりです」「そりゃわかりきったはなしだね。いまにもむずかしいというだいびょうにんをはなちらかしておいて、だれがかってにとうきょうへなんかいけるものかね」わたしははじめこころのなかで、なにもしらないははをあわれんだ。そのとき「じつはね」. |
| 437 |
とははがいいだした。「じつはおとうさんのいきておでのうちに、おまえのくちがきまったらさぞあんしんなさるだろうとおもうんだがね。このようすじゃ、とてもまにあわないかもしれないけれども、それにしても、まだああやってくちもたしかならきもたしかなんだから、ああしておでのうちによろこばしてあげるようにおやこうこうをおしな」. |
| 438 |
あわれなわたしはおやこうこうのできないきょうぐうにいた。わたしはついにいっこうのてがみもせんせいにださなかった。あにがかえってきたとき、ちちはねながらしんぶんをよんでいた。ちちはへいぜいからなにをおいてもしんぶんだけにはめをとおすしゅうかんであったが、ゆかについてからは、たいくつのためなおさらそれをよみたがった. |
| 439 |
ははもわたしもつよいてははんたいせずに、なるべくびょうにんのおもいとおりにさせておいた。「そういうげんきならけっこうなものだ。よっぽどわるいかとおもってきたら、たいへんよいようじゃありませんか」あにはこんなことをいいながらちちとはなしをした。そのにぎやかすぎるちょうしがわたしにはかえってふちょうわにきこえた. |
| 440 |
それでもちちのまえをはずしてわたしとさしむかいになったときは、むしろしずんでいた。「しんぶんなんかよましちゃいけなかないか」「わたしもそうおもうんだけれども、よまないとしょうちしないんだから、しようがない」あにはわたしのべんかいをだまってきいていた。やがて、「よくわかるのかな」といった。「そりゃたしかです. |
| 441 |
わたしはさっきにじゅうぷんばかりまくらもとにすわっていろいろはなしてみたが、ちょうしのくるったところはすこしもないです。あのようすじゃことによるとまだなかなかもつかもしれませんよ」あにとぜんごしてついたいもうとのおっとのいけんは、われわれよりもよほどらっかんてきであった。ちちはかれにむかっていもうとのことをあれこれとたずねていた. |
| 442 |
「からだがからだだからむやみにきしゃになんぞのってゆれないほうがいい。むりをしてみまいにこられたりすると、かえってこっちがしんぱいだから」といっていた。「なにいまになおったらあかんぼうのかおでもみに、ひさしぶりにこっちからでかけるからさしつかえない」ともいっていた。のぎたいしょうのしんだときも、ちちはいちばんさきにしんぶんでそれをしった. |
| 443 |
「たいへんだたいへんだ」といった。なにごともしらないわたしたちはこのとつぜんなことばにおどろかされた。「あのときはいよいよあたまがへんになったのかとおもって、ひやりとした」とあとであにがわたしにいった。「わたしもじつはおどろきました」といもうとのおっともどうかんらしいことばつきであった。そのころのしんぶんはじっさいいなかものにはひごとにまちうけられるようなきじばかりあった. |
| 444 |
わたしはちちのまくらもとにすわってていやすしにそれをよんだ。よむじかんのないときは、そっとじぶんのへやへもってきて、のこらずめをとおした。わたしのめはながいあいだ、ぐんぷくをきたのぎたいしょうと、それからかんじょみたようなふくそうをしたそのふじんのすがたをわすれることができなかった。ようふくをきたひとをみるといぬがほえるようなところでは、いっつうのでんぽうすらだいじけんであった. |
| 445 |
それをうけとったははは、はたしておどろいたようなようすをして、わざわざわたしをひとのいないところへよびだした。「なにだい」といって、わたしのふうをひらくのをそばにたってまっていた。でんぽうにはちょっとあいたいがこられるかといういみがかんたんにかいてあった。わたしはくびをかたむけた。「きっとおたのもうしておいたくちのことだよ」. |
| 446 |
とははがすいだんしてくれた。わたしもあるいはそうかもしれないとおもった。しかしそれにしてはすこしへんだともかんがえた。とにかくあにやいもうとのおっとまでよびよせたわたしが、ちちのびょうきをうちつかって、とうきょうへいくわけにはいかなかった。わたしはははとそうだんして、いかれないというへんでんをうつことにした. |
| 447 |
できるだけかんりゃくなことばでちちのびょうきのきとくにおちいりつつあるむねもつけくわえたが、それでもきがすまなかったから、いさいてがみとして、こまかいじじょうをそのひのうちにみとめてゆうびんでだした。たのんだいちのこととばかりしんじきったははは、「ほんとうにまのわるいときはしかたのないものだね」といってざんねんそうなかおをした. |
| 448 |
わたしのかいたてがみはかなりながいものであった。ははもわたしもこんどこそせんせいからなにとかいってくるだろうとかんがえていた。するとてがみをだしてふつかめにまたでんぽうがわたしあてでとどいた。それにはこないでもよろしいというもんくだけしかなかった。わたしはそれをははにみせた。「おおかたてがみでなにとかいってきてくださるつもりだろうよ」. |
| 449 |
はははどこまでもせんせいがわたしのためにいしょくのくちをしゅうせんしてくれるものとばかりかいしゃくしているらしかった。わたしもあるいはそうかともかんがえたが、せんせいのへいぜいからおしてみると、どうもへんにおもわれた。「せんせいがくちをさがしてくれる」。これはありえべからざることのようにわたしにはみえた。わたしはははにむかってこんなわかりきったことをいった. |
| 450 |
はははまたもっともらしくしあんしながら「そうだね」とこたえた。わたしのてがみをよまないまえに、せんせいがこのでんぽうをうったということが、せんせいをかいしゃくするうえにおいて、なにのやくにもたたないのはしれているのに。そのひはちょうどしゅじいがまちからいんちょうをつれてくるはずになっていたので、ははとわたしはそれぎりこのじけんについてはなしをするきかいがなかった. |
| 451 |
ふたりのいしゃはたちあいのうえ、びょうにんにかんちょうなどをしてかえっていった。ちちはいしゃからあんがをめいぜられていらい、りょうべんともねたままほかのてでしまつしてもらっていた。けっぺきなちちは、さいしょのあいだこそはなはだしくそれをいみきらったが、からだがきかないので、やむをえずいやいやゆかのうえでようをたした. |
| 452 |
それがびょうきのかげんであたまがだんだんにぶくなるのかなにだか、ひをへるにしたがって、ぶしょうなはいせつをいとしないようになった。たまにはふとんやしきふをよごして、そばのものがまゆをよせるのに、とうにんはかえってへいきでいたりした。もっともにょうのりょうはびょうきのせいしつとして、きわめてすくなくなった。いしゃはそれをくにした. |
| 453 |
しょくよくもしだいにおとろえた。たまになんかほしがっても、したがほしがるだけで、のどからしたへはごくすくねしかとおらなかった。すきなしんぶんもてにとるきりょくがなくなった。まくらのそばにあるろうがんきょうは、いつまでもくろいさやにおさめられたままであった。といって、どんよりしためをつくるさんのほうにむけた。「つくるさんよくきてくれた. |
| 454 |
つくるさんはじょうぶでうらやましいね。おのれはもうだめだ」「そんなことはないよ。おまえなんかこどもはふたりともだいがくをそつぎょうするし、すこしぐらいびょうきになったって、もうしぶんはないんだ。おれをごらんよ。かかあにはしなれるしさ、こどもはなしさ。ただこうしていきているだけのことだよ。たっしゃだってなにのたのしみもないじゃないか」. |
| 455 |
かんちょうをしたのはつくるさんがきてからにさんにちあとのことであった。ちちはいしゃのおかげでたいへんらくになったといってよろこんだ。すこしじぶんのじゅみょうにたいするどきょうができたというふうにきげんがなおった。そばにいるわたしはむずがゆいこころもちがしたが、ははのことばをさえぎるわけにもゆかないので、だまってきいていた. |
| 456 |
びょうにんはうれしそうなかおをした。「そりゃけっこうです」といもうとのおっともいった。「なにのくちだかまだわからないのか」とあにがきいた。わたしはいまさらそれをひていするゆうきをうしなった。じぶんにもなにともわけのわからないあいまいなへんじをして、わざとせきをたった。ちちのびょうきはさいごのいちげきをまつまぎわまですすんできて、そこでしばらくちゅうちょするようにみえた. |
| 457 |
いえのものはうんめいのせんこくが、きょうくだるか、きょうくだるかとおもって、まいよゆかにはいった。ちちはそばのものをつらくするほどのくつうをどこにもかんじていなかった。そのてんになるとかんびょうはむしろらくであった。ようじんのために、だれかひとりぐらいずつかわるがわるおきてはいたが、あとのものはそうとうのじかんにかくじのねどこへひきとってさしつかえなかった. |
| 458 |
なにかのひょうしでねむれなかったとき、びょうにんのうなるようなこえをかすかにきいたとおもいあやまったわたしは、いっぺんはんやにゆかをぬけだして、ねんのためちちのまくらもとまでいってみたことがあった。そのよるはははがおきているばんにあたっていた。しかしそのはははちちのよこにひじをまげてまくらとしたなりねいっていた. |
| 459 |
ちちもふかいねむりのうらにそっとおかれたひとのようにしずかにしていた。わたしはしのびあしでまたじぶんのねどこへかえった。わたしはあにといっしょのかやのなかにねた。いもうとのおっとだけは、きゃくあつかいをうけているせいか、ひとりはなれたざしきにはいってやすんだ。「せきさんもきのどくだね。ああいくかもひっぱられてかえれなくっちゃあ」. |
| 460 |
せきというのはそのひとのみょうじであった。「しかしそんないそがしいからだでもないんだから、ああしてとまっていてくれるんでしょう。せきさんよりもにいさんのほうがこまるでしょう、こうながくなっちゃ」「こまってもしかたがない。そとのこととちがうからな」あにとゆかをならべてねるわたしは、こんなねものがたりをした。どうせたすからないものならばというかんがえもあった. |
| 461 |
われわれはことしておやのしぬのをまっているようなものであった。しかしことしてのわれわれはそれをことばのうえにあらわすのをはばかった。そうしておたがいにおたがいがどんなことをおもっているかをよくりかいしあっていた。「おとうさんは、まだなおるきでいるようだな」とあにがわたしにいった。じっさいあにのいうとおりにみえるところもないではなかった. |
| 462 |
きんじょのものがみまいにくると、ちちはかならずあうといってしょうちしなかった。あえばきっと、わたしのそつぎょういわいによぶことができなかったのをざんねんがった。そのかわりじぶんのびょうきがなおったらというようなこともときどきつけくわえた。「おまえのそつぎょういわいはやめになってけっこうだ。おれのときにはよわったからね」. |
| 463 |
とあにはわたしのきおくをつつッついた。わたしはアルコールにあおられたそのときのらんざつなありさまをおもいだしてくしょうした。のむものやくうものをしいてまわるちちのたいども、にがにがしくわたしのめにうつった。わたしたちはそれほどなかのよいきょうだいではなかった。ちいさいうちはよくけんかをして、としのすくないわたしのほうがいつでもなかされた. |
| 464 |
がっこうへはいってからのせんもんのそういも、まったくせいかくのそういからでていた。だいがくにいるじぶんのわたしは、ことにせんせいにせっしょくしたわたしは、とおくからあにをながめて、つねにどうぶつてきだとおもっていた。わたしはながくあににあわなかったので、またかけへだたったとおくにいたので、ときからいってもきょりからいっても、あにはいつでもわたしにはちかくなかったのである. |
| 465 |
それでもひさしぶりにこうおちあってみると、きょうだいのやさしいこころもちがどこからかしぜんにわいてでた。ばあいがばあいなのもそのおおきなみなもともとになっていた。ふたりにきょうつうなちち、そのちちのしのうとしているまくらもとで、あにとわたしはあくしゅしたのであった。「おまえこれからどうする」とあにはきいた。わたしはまたまったくけんとうのちがったしつもんをあににかけた. |
| 466 |
「いったいかのざいさんはどうなってるんだろう」「おれはしらない。おとうさんはまだなんともいわないから。しかしざいさんっていったところでかねとしてはたかのしれたものだろう」はははまたははでせんせいのへんじのくるのをくにしていた。「まだてがみはこないかい」とわたしをせめた。「せんせいせんせいというのはいったいだれのことだい」. |
| 467 |
とあにがきいた。「こないだはなしたじゃないか」とわたしはこたえた。わたしはじぶんでしつもんをしておきながら、すぐたのせつめいをわすれてしまうあににたいしてふかいのねんをおこした。「きいたことはきいたけれども」あにはひっきょうきいてもわからないというのであった。わたしからみればなにもむりにせんせいをあににりかいしてもらうひつようはなかった. |
| 468 |
けれどもはらはたった。またれいのあにらしいところがでてきたとおもった。せんせいせんせいとわたしがそんけいするいじょう、そのひとはかならずちょめいのしでなくてはならないようにあにはかんがえていた。すくなくともだいがくのきょうじゅぐらいだろうとすいさつしていた。めいもないひと、なにもしていないひと、それがどこにかちをもっているだろう. |
| 469 |
あにのはらはこのてんにおいて、ちちとまったくおなじものであった。けれどもちちがなにもできないからあそんでいるのだとそくだんするのにひきかえて、あにはなにかやれるのうりょくがあるのに、ぶらぶらしているのはなじらんにんげんにかぎるといったかぜのくちぶりをもらした。「イゴイストはいけないね。なにもしないでいきていようというのはおうちゃくなりょうけんだからね. |
| 470 |
ひとはじぶんのもっているさいのうをできるだけはたらかせなくっちゃうそだ」わたしはあににむかって、じぶんのつかっているイゴイストということばのいみがよくわかるかとききかえしてやりたかった。「それでもそのひとのおかげでちいができればまあけっこうだ。おとうさんもよろこんでるようじゃないか」あにはあとからこんなことをいった. |
| 471 |
せんせいからめいりょうなてがみのこないいじょう、わたしはそうしんずることもできず、またそうくちにだすゆうきもなかった。それをははのはやのみこみでみんなにそうふいちょうしてしまったいまとなってみると、わたしはきゅうにそれをうちけすわけにいかなくなった。わたしはははにさいそくされるまでもなく、せんせいのてがみをまちうけた. |
| 472 |
そうしてそのてがみに、どうかみんなのかんがえているようないしょくのくちのことがかいてあればいいがとねんじた。ちちがへんなきいろいものもえずいたとき、わたしはかつてせんせいとおくさんからきかされたきけんをおもいだした。「ああしてながくねているんだからいもわるくなるはずだね」といったははのかおをみて、なにもしらないそのひとのまえになみだぐんだ. |
| 473 |
あにとわたしがちゃのまでおちあったとき、あには「きいたか」といった。それはいしゃがかえりぎわにあににむかっていったことをきいたかといういみであった。わたしにはせつめいをまたないでもそのいみがよくわかっていた。「おまえここへかえってきて、たくのことをかんりするきがないか」とあにがわたしをかえりみた。わたしはなにともこたえなかった. |
| 474 |
「おかあさんひとりじゃ、どうすることもできないだろう」とあにがまたいった。あにはわたしをつちのにおいをかいでくちていってもおしくないようにみていた。「ほんをよむだけなら、いなかでもじゅうぶんできるし、それにはたらくひつようもなくなるし、ちょうどいいだろう」「にいさんがかえってくるのがじゅんですね」とわたしがいった. |
| 475 |
「おれにそんなことができるものか」とあにはひとくちにしりぞけた。あにのはらのなかには、よのなかでこれからしごとをしようというきがみちみちていた。「おまえがいやなら、まあおじさんにでもせわをたのむんだが、それにしてもおかあさんはどっちかでひきとらなくっちゃなるまい」「おかあさんがここをうごくかうごかないかがすでにおおきなぎもんですよ」. |
| 476 |
きょうだいはまだちちのしなないまえから、ちちのしんだあとについて、こんなふうにかたりあった。ちちはときどき囈語をいうようになった。「のぎたいしょうにすまない。じつにめんぼくしだいがない。いえわたしもすぐおあとから」こんなことばをひょいひょいだした。はははぎみをわるがった。なるべくみんなをまくらもとへあつめておきたがった. |
| 477 |
きのたしかなときはしきりにさびしがるびょうにんにもそれがきぼうらしくみえた。ことにへやのなかをみまわしてははのかげがみえないと、ちちはかならず「おひかりは」ときいた。きかないでも、めがそれをものがたっていた。わたしはよくおこってははをよびにいった。「なにかごようですか」そうかとおもうと、まるでかけはなれたはなしをした. |
| 478 |
とつぜん「おひかりおまえにもいろいろせわになったね」などとやさしいことばをだすときもあった。はははそういうことばのまえにきっとなみだぐんだ。そうしたあとではまたきっとじょうぶであったむかしのちちをそのたいしょうとしておもいだすらしかった。「あんなあわれっぽいことをおいいだがね、あれでもとはずいぶんひどかったんだよ」. |
| 479 |
はははちちのためにほうきでせなかをどやされたときのことなどをはなした。いままでなんぺんもそれをきかされたわたしとあには、いつもとはまるでちがったきぶんで、ははのことばをちちのきねんのようにみみへうけいれた。ちちはじぶんのめのまえにうすぐらくうつるしのかげをながめながら、まだゆいごんらしいものをくちにださなかった. |
| 480 |
「いまのうちなんかきいておくひつようはないかな」とあにがわたしのかおをみた。「そうだなあ」とわたしはこたえた。わたしはこちらからすすんでそんなことをもちだすのもびょうにんのためによしあしだとかんがえていた。ふたりはけっしかねてついにおじにそうだんをかけた。おじもくびをかたむけた。はなしはとうとうぐずぐずになってしまった. |
| 481 |
そのうちにこんすいがきた。れいのとおりなにもしらないははは、それをただのねむりとおもいちがえてかえってよろこんだ。「まあああしてらくにねられれば、そばにいるものもたすかります」といった。ちちはじじがんをあけて、だれはどうしたなどととつぜんきいた。そのだれはついせんこくまでそこにすわっていたひとのなにかぎられていた. |
| 482 |
ちちのいしきにはくらいところとあかるいところとできて、そのあかるいところだけが、やみをぬうしろいいとのように、あるきょりをおいてれんぞくするようにみえた。ははがこんすいじょうたいをふつうのねむりととりちがえたのもむりはなかった。そのうちしたがだんだんもつれてきた。なにかいいだしてもしりがふめいりょうにおわるために、ようりょうをえないでしまうことがおおくあった. |
| 483 |
そのくせはなしはじめるときは、きとくのびょうにんとはおもわれないほど、つよいこえをだした。われわれはもとよりふだんいじょうにちょうしをはりあげて、みみもとへくちをよせるようにしなければならなかった。「あたまをひやすとよいこころもちですか」「うん」わたしはかんごふをあいてに、ちちのみずまくらをとりかえて、それからあたらしいこおりをいれたひょうのうをあたまのうえへのせた. |
| 484 |
がさがさにわられてとがりきったこおりのはへんが、のうのなかでおちつくあいだ、わたしはちちのはげあがったがくのそとでそれをやわらかにおさえていた。そのときあにがろうかづたいにはいってきて、いっつうのゆうびんをむごんのままわたしのてにわたした。あいたほうのひだりてをだして、そのゆうびんをうけとったわたしはすぐふしんをおこした. |
| 485 |
それはふつうのてがみにくらべるとよほどめかたのおもいものであった。なみのじょうぶくろにもいれてなかった。またなみのじょうぶくろにいれられべきぶんりょうでもなかった。はんしでつつんで、ふうじめをていやすしにのりではりつけてあった。わたしはそれをあにのてからうけとったとき、すぐそのかきとめであることにきがついた. |
| 486 |
うらをかえしてみるとそこにせんせいのながつつしんだじでかいてあった。てのはなせないわたしは、すぐふうをきるわけにいかないので、ちょっとそれをふところにさしこんだ。そのひはびょうにんのできがことにわるいようにみえた。わたしがかわやへいこうとしてせきをたったとき、ろうかでいきあったあには「どこへいく」とばんぺいのようなくちょうですいかした. |
| 487 |
「どうもようすがすこしへんだからなるべくそばにいるようにしなくっちゃいけないよ」とちゅういした。わたしもそうおもっていた。かいちゅうしたてがみはそのままにしてまたびょうしつへかえった。ちちはめをあけて、そこにならんでいるひとのなまえをははにたずねた。ははがあれはだれ、これはだれといちいちせつめいしてやると、ちちはそのたびにうなずいた. |
| 488 |
うなずかないときは、ははがこえをはりあげて、なになにさんです、わかりましたかとねんをおした。「どうもいろいろおせわになります」ちちはこういった。そうしてまたこんすいじょうたいにおちいった。まくらべをとりまいているひとはむごんのまましばらくびょうにんのようすをみつめていた。やがてそのなかのひとりがたってつぎのまへでた. |
| 489 |
するとまたひとりたった。わたしもさんにんめにとうとうせきをはずして、じぶんのへやへきた。わたしにはせんこくふところへいれたゆうびんぶつのなかをあけてみようというもくてきがあった。それはびょうにんのまくらもとでもよういにできるしょさにはちがいなかった。しかしかかれたもののぶんりょうがあまりにおおすぎるので、ひといきにそこでよみとおすわけにはいかなかった. |
| 490 |
わたしはとくべつのじかんをぬすんでそれにあてた。わたしはせんいのつよいつつみがみをひきかくようにさきやぶった。なかからでたものは、じゅうおうにひいたけのなかへぎょうぎよくかいたげんこうさまのものであった。そうしてふうじるべんぎのために、よっつおりにたたまれてあった。わたしはくせのついたせいようしを、ぎゃくにおりかえしてよみやすいようにひらたくした. |
| 491 |
わたしのこころはこのたりょうのかみといんきが、わたしになにごとをかたるのだろうかとおもっておどろいた。わたしはどうじにびょうしつのことがきにかかった。わたしがこのかきものをよみはじめて、よみおわらないまえに、ちちはきっとどうかなる、すくなくとも、わたしはあにからかははからか、それでなければおじからか、よばれるにきまっているというよかくがあった. |
| 492 |
わたしはおちついてせんせいのかいたものをよむきになれなかった。わたしはそわそわしながらたださいしょのいちぺーじをよんだ。そのぺーじはしたのようにつづられていた。「あなたからかこをといただされたとき、こたえることのできなかったゆうきのないわたしは、いまあなたのまえに、それをめいはくにものがたるじゆうをえたとしんじます. |
| 493 |
しかしそのじゆうはあなたのじょうきょうをまっているうちにはまたうしなわれてしまうせけんてきのじゆうにすぎないのであります。したがって、それをりようできるときにりようしなければ、わたしのかこをあなたのあたまにかんせつのけいけんとしておしえてあげるきかいをえいきゅうにいっするようになります。そうすると、あのときあれほどかたくやくそくしたことばがまるでうそになります. |
| 494 |
わたしはやむをえず、くちでいうべきところを、ふででもうしあげることにしました」わたしはそこまでよんで、はじめてこのながいものがなにのためにかかれたのか、そのりゆうをあきらかにしることができた。わたしのいしょくのくち、そんなものについてせんせいがてがみをよこすきづかいはないと、わたしはしょてからしんじていた。せんせいはなぜわたしのじょうきょうするまでまっていられないだろう. |
| 495 |
「じゆうがきたからはなす。しかしそのじゆうはまたえいきゅうにうしなわれなければならない」わたしはこころのうちでこうくりかえしながら、そのいみをしるにくるしんだ。わたしはとつぜんふあんにおそわれた。わたしはつづいてあとをよもうとした。そのときびょうしつのほうから、わたしをよぶおおきなあにのこえがきこえた。わたしはまたおどろいてたちのぼった. |
| 496 |
ろうかをちけぬけるようにしてみんなのいるかたへいった。わたしはいよいよちちのうえにさいごのしゅんかんがきたのだとかくごした。びょうしつにはいつのあいだにかいしゃがきていた。なるべくびょうにんをらくにするというしゅいからまたかんちょうをこころみるところであった。かんごふはさくやのつかれをやすめるためにべっしつでねていた. |
| 497 |
なれないあにはおこってまごまごしていた。わたしのかおをみると、「ちょっとてをおかし」といったまま、じぶんはせきについた。わたしはあににかわって、あぶらがみをちちのしりのしたにあてがったりした。ちちのようすはすこしくつろいできた。さんじゅうぷんほどまくらもとにすわっていたいしゃは、かんちょうのけっかをみとめたうえ、またくるといって、かえっていった. |
| 498 |
かえりぎわに、もしものごとがあったらいつでもよんでくれるようにわざわざことわっていた。わたしはいまにもへんがありそうなびょうしつをしりぞいてまたせんせいのてがみをよもうとした。しかしわたしはすこしもかんくりしたきぶんになれなかった。つくえのまえにすわるやいなや、またあにからおおきなこえでよばれそうでならなかった. |
| 499 |
そうしてこんどよばれれば、それがさいごだといういふがわたしのてをふるわした。わたしはせんせいのてがみをただむいみにぺーじだけへげくっていった。わたしのめはきちょうめんにわくのなかにはめられたじかくをみた。けれどもそれをよむよゆうはなかった。ひろいよみにするよゆうすらおぼつかなかった。そのときふとけつまつにちかいいっくがわたしのめにはいった. |
| 500 |
「このてがみがあなたのてにおちるころには、わたしはもうこのよにはいないでしょう。とくにしんでいるでしょう」わたしははっとおもった。いままでざわざわとうごいていたわたしのむねがいちどにぎょうけつしたようにかんじた。わたしはまたぎゃくにぺーじをはぐりかえした。そうしていっまいにいっくぐらいずつのわりでとうによんでいった. |
| 501 |
わたしはとっさのあいだに、わたしのしらなければならないことをしろうとして、ちらちらするもじを、めでさしとおそうとこころみた。そのときわたしのしろうとするのは、ただせんせいのあんぴだけであった。せんせいのかこ、かつてせんせいがわたしにはなそうとやくそくしたうすぐらいそのかこ、そんなものはわたしにとって、まったくむようであった. |
| 502 |
わたしはとうまにぺーじをはぐりながら、わたしにひつようなちしきをよういにあたえてくれないこのながいてがみをじれったそうにたたんだ。わたしはまたちちのようすをみにびょうしつのとぐちまでいった。びょうにんのまくらべはぞんがいしずかであった。たよりなさそうにつかれたかおをしてそこにすわっているははをてまねきぎして、「どうですかようすは」. |
| 503 |
ときいた。ははは「いますこしもちあってるようだよ」とこたえた。わたしはちちのめのまえへかおをだして、「どうです、かんちょうしてすこしはこころもちがよくなりましたか」とたずねた。ちちはうなずいた。ちちははっきり「ありがとう」といった。ちちのせいしんはぞんがいもうろうとしていなかった。わたしはまたびょうしつをしりぞいてじぶんのへやにかえった. |
| 504 |
そこでとけいをみながら、きしゃのはっちゃくひょうをしらべた。わたしはとつぜんたっておびをしめなおして、たもとのなかへせんせいのてがみをなげこんだ。それからかってぐちからひょうへでた。わたしはむちゅうでいしゃのいえへかけこんだ。わたしはいしゃからちちがもうにさんにちたもつだろうか、そこのところをはんぜんきこうとした. |
| 505 |
ちゅうしゃでもなにでもして、たもたしてくれとたのもうとした。いしゃはあいにくるすであった。わたしにはじっとしてかれのかえるのをまちうけるじかんがなかった。こころのおちつきもなかった。わたしはすぐくるまをていしゃじょうへいそがせた。わたしはていしゃじょうのかべへしへんをあてがって、そのうえからえんぴつでははとあにあてでてがみをかいた. |
| 506 |
てがみはごくかんたんなものであったが、ことわらないではしるよりまだましだろうとおもって、それをいそいでたくへとどけるようにしゃふにたのんだ。そうしておもいきったいきおいでとうきょういきのきしゃにとびのってしまった。わたしはごうごうなるさんとうれっしゃのなかで、またたもとからせんせいのてがみをだして、ようやくはじめからしまいまでめをとおした. |
| 507 |
「....わたしはこのなつあなたからにさんどてがみをうけとりました。とうきょうでそうとうのちいをえたいからよろしくたのむとかいてあったのは、たしかにどめにてにはいったものときおくしています。わたしはそれをよんだときなんとかしたいとおもったのです。すくなくともへんじをあげなければすまんとはかんがえたのです。しかしそれはもんだいではありません. |
| 508 |
じつをいうと、わたしはこのじぶんをどうすればよいのかとおもいわずらっていたところなのです。このままにんげんのなかにとりのこされたミイラのようにそんざいしていこうか、それとも....そのじぶんのわたしは「それとも」ということばをこころのうちでくりかえすたびにぞっとしました。ちあしでぜっぺきのはしまできて、きゅうにそこのみえないたにをのぞきこんだひとのように. |
| 509 |
わたしはひきょうでした。そうしておおくのひきょうなひととおなじていどにおいてはんもんしたのです。いかんながら、そのときのわたしには、あなたというものがほとんどそんざいしていなかったといってもこちょうではありません。いっぽすすめていうと、あなたのちい、あなたのここうのし、そんなものはわたしにとってまるでむいみなのでした. |
| 510 |
どうでもかまわなかったのです。わたしはそれどころのさわぎでなかったのです。わたしはじょうさしへあなたのてがみをさしたなり、いぜんとしてうでぐみをしてかんがえこんでいました。たくにそうおうのざいさんがあるものが、なにをくるしんで、そつぎょうするかしないのに、ちいちいといってもがきまわるのか。わたしはむしろにがにがしいきぶんで、とおくにいるあなたにこんないちべつをあたえただけでした. |
| 511 |
わたしはへんじをあげなければすまないあなたにたいして、いいわけのためにこんなことをうちあけるのです。あなたをいからすためにわざとぶしつけなことばをろうするのではありません。わたしのほんいはあとをごらんになればよくわかることとしんじます。とにかくわたしはなにとかあいさつすべきところをだまっていたのですから、わたしはこのたいまんのつみをあなたのまえにしゃしたいとおもいます. |
| 512 |
そのあとわたしはあなたにでんぽうをうちました。ゆうたいにいえば、あのときわたしはちょっとあなたにあいたかったのです。それからあなたのきぼうとおりわたしのかこをあなたのためにものがたりたかったのです。あなたはへんでんをかけて、いまとうきょうへはでられないとことわってきましたが、わたしはしつぼうしてながらくあのでんぽうをながめていました. |
| 513 |
あなたもでんぽうだけではきがすまなかったとみえて、またあとからながいてがみをよこしてくれたので、あなたのしゅっきょうできないじじょうがよくわかりました。わたしはあなたをしつれいなおとこだともなにともおもうわけがありません。あなたのだいじなおとうさんのびょうきをそっちのけにして、なにであなたがたくをあけられるものですか. |
| 514 |
そのおとうさんのせいしをわすれているようなわたしのたいどこそふつごうです。――わたしはじっさいあのでんぽうをうつときに、あなたのおとうさんのことをわすれていたのです。そのくせあなたがとうきょうにいるころには、なんしょうだからよくちゅういしなくってはいけないと、あれほどちゅうこくしたのはわたしですのに。わたしはこういうむじゅんなにんげんなのです. |
| 515 |
あるいはわたしののうずいよりも、わたしのかこがわたしをあっぱくするけっかこんなむじゅんなにんげんにわたしをへんかさせるのかもしれません。わたしはこのてんにおいてもじゅうぶんわたしのわれをみとめています。あなたにゆるしてもらわなくてはなりません。あなたのてがみ、――あなたからきたさいごのてがみ――をよんだとき、わたしはわるいことをしたとおもいました. |
| 516 |
それでそのいみのへんじをだそうかとかんがえて、ふでをとりかけましたが、いっこうもかかずにやめました。どうせかくなら、このてがみをかいてあげたかったから、そうしてこのてがみをかくにはまだじきがすこしはやすぎたから、やめにしたのです。わたしがただくるにおよばないというかんたんなでんぽうをふたたびうったのは、それがためです. |
| 517 |
「わたしはそれからこのてがみをかきだしました。へいぜいひつをもちつけないわたしには、じぶんのおもうように、じけんなりしそうなりがはこばないのがおもいくつうでした。わたしはもうすこしで、あなたにたいするわたしのこのぎむをほうてきするところでした。しかしいくらよそうとおもってふでをおいても、なんにもなりませんでした. |
| 518 |
わたしはいちじかんたたないうちにまたかきたくなりました。あなたからみたら、これがぎむのすいこうをおもんずるわたしのせいかくのようにおもわれるかもしれません。わたしもそれはいなみません。わたしはあなたのしっているとおり、ほとんどせけんとこうしょうのないこどくなにんげんですから、ぎむというほどのぎむは、じぶんのさゆうぜんごをみまわしても、どのほうがくにもねをはっておりません. |
| 519 |
こいかしぜんか、わたしはそれをできるだけきりつめたせいかつをしていたのです。けれどもわたしはぎむにれいたんだからこうなったのではありません。むしろえいびんすぎてしげきにたえるだけのせいりょくがないから、ごらんのようにしょうきょくてきなつきひをおくることになったのです。だからいったんやくそくしたいじょう、それをはたさないのは、たいへんいやなこころもちです. |
| 520 |
わたしはあなたにたいしてこのいやなこころもちをさけるためにでも、おいたふでをまたとりあげなければならないのです。そのうえわたしはかきたいのです。ぎむはべつとしてわたしのかこをかきたいのです。わたしのかこはわたしだけのけいけんだから、わたしだけのしょゆうといってもさしつかえないでしょう。それをひとにあたえないでしぬのは、おしいともいわれるでしょう. |
| 521 |
わたしにもたしょうそんなこころもちがあります。ただしうけいれることのできないひとにあたえるくらいなら、わたしはむしろわたしのけいけんをわたしのせいめいとともにほうむったほうがいいとおもいます。じっさいここにあなたというひとりのおとこがそんざいしていないならば、わたしのかこはついにわたしのかこで、かんせつにもたにんのちしきにはならないですんだでしょう. |
| 522 |
わたしはなんぜんまんといるにほんじんのうちで、ただあなただけに、わたしのかこをものがたりたいのです。あなたはまじめだから。あなたはまじめにじんせいそのものからいきたきょうくんをえたいといったから。わたしはくらいじんせいのかげをえんりょなくあなたのあたまのうえになげかけてあげます。しかしおそれてはいけません。わたしのくらいというのは、もとよりりんりてきにくらいのです. |
| 523 |
わたしはりんりてきにうまれたおとこです。またりんりてきにそだてられたおとこです。そのりんりじょうのかんがえは、いまのわかいひととだいぶちがったところがあるかもしれません。しかしどうまちがっても、わたしじしんのものです。まにあわせにかりたそんりょうぎではありません。だからこれからはったつしようというあなたにはいくぶんかさんこうになるだろうとおもうのです. |
| 524 |
あなたはげんだいのしそうもんだいについて、よくわたしにぎろんをむけたことをきおくしているでしょう。わたしのそれにたいするたいどもよくわかっているでしょう。わたしはあなたのいけんをけいべつまでしなかったけれども、けっしてそんけいをはらいうるていどにはなれなかった。あなたのかんがえにはなにらのはいけいもなかったし、あなたはじぶんのかこをもつにはあまりにわかすぎたからです. |
| 525 |
わたしはときどきわらった。あなたはものたりなそうなかおをちょいちょいわたしにみせた。そのごくあなたはわたしのかこをえまきもののように、あなたのまえにてんかいしてくれとせまった。わたしはそのときこころのうちで、はじめてあなたをそんけいした。あなたがむえんりょにわたしのはらのなかから、あるいきたものをつかまえようというけっしんをみせたからです. |
| 526 |
わたしのしんぞうをたちわって、あたたかくながれるちしおをすすろうとしたからです。そのときわたしはまだいきていた。しぬのがいやであった。それでたじつをやくして、あなたのようきゅうをしりぞけてしまった。わたしはいまじぶんでじぶんのしんぞうをやぶって、そのちをあなたのかおにあびせかけようとしているのです。「わたしがりょうしんをなくしたのは、まだわたしのにじっさいにならないじぶんでした. |
| 527 |
いつかつまがあなたにはなしていたようにもきおくしていますが、ふたりはおなじびょうきでしんだのです。しかもつまがあなたにふしんをおこさせたとおり、ほとんどどうじといっていいくらいに、ぜんごしてしんだのです。じつをいうと、ちちのびょうきはおそるべきちょうちふすでした。それがそばにいてかんごをしたははにでんせんしたのです. |
| 528 |
わたしはふたりのあいだにできたたったひとりのおとこのこでした。たくにはそうとうのざいさんがあったので、むしろおうようにそだてられました。わたしはじぶんのかこをかえりみて、あのときりょうしんがしなずにいてくれたなら、すくなくともちちかははかどっちか、かたほうでよいからいきていてくれたなら、わたしはあのおうようなきぶんをいままでもちつづけることができたろうにとおもいます. |
| 529 |
わたしはふたりのあとにぼうぜんとしてとりのこされました。わたしにはちしきもなく、けいけんもなく、またぶんべつもありませんでした。ちちのしぬとき、はははそばにいることができませんでした。ははのしぬとき、ははにはちちのしんだことさえまだしらせてなかったのです。はははただおじにばんじをたのんでいました。そこにいあわせたわたしをゆびさすようにして、「このこをどうぞなんぷん」. |
| 530 |
といいました。わたしはそのまえからりょうしんのきょかをえて、とうきょうへでるはずになっていましたので、はははそれもついでにいうつもりらしかったのです。それで「とうきょうへ」とだけつけくわえましたら、おじがすぐあとをひきとって、「よろしいけっしてしんぱいしないがいい」とこたえました。はははつよいねつにこらえうるたいしつのおんななんでしたろうか、おじは「しっかりしたものだ」. |
| 531 |
といって、わたしにむかってははのことをほめていました。しかしこれがはたしてははのゆいごんであったのかどうだか、いまかんがえるとわからないのです。はははむろんちちのかかったびょうきのおそるべきなまえをしっていたのです。そうして、じぶんがそれにでんせんしていたこともしょうちしていたのです。だから....しかしそんなことはもんだいではありません. |
| 532 |
ただこういうふうにものをときほどいてみたり、またぐるぐるまわしてながめたりするくせは、もうそのじぶんから、わたしにはちゃんとそなわっていたのです。それはあなたにもはじめからおことわりしておかなければならないとおもいますが、そのじつれいとしてはとうめんのもんだいにたいしたかんけいのないこんなきじゅつが、かえってやくにだちはしないかとかんがえます. |
| 533 |
あなたのほうでもまあそのつもりでよんでください。このしょうぶんがりんりてきにこじんのこういやらどうさのうえにおよんで、わたしはこうらいますますほかのとくぎしんをうたがうようになったのだろうとおもうのです。それがわたしのはんもんやくのうにむかって、せっきょくてきにおおきなちからをそえているのはたしかですからおぼえていてください. |
| 534 |
はなしがほんすじをはずれると、わかりわるくなりますからまたあとへひきかえしましょう。これでもわたしはこのながいてがみをかくのに、わたしとおなじちいにおかれたほかのひととくらべたら、あるいはたしょうおちついていやしないかとおもっているのです。よのなかがねむるときこえだすあのでんしゃのひびきももうとだえました。なにもしらないつまはつぎのへやでむじゃきにすやすやねいっています. |
| 535 |
わたしがふでをとると、いちじいっかくができあがりつつペンのさきでなっています。わたしはむしろおちついたきぶんでかみにむかっているのです。ふなれのためにペンがよこへはずれるかもしれませんが、あたまがのうらんしてふでがしどろにはしるのではないようにおもいます。「とにかくたったひとりとりのこされたわたしは、ははのいいづけとおり、このおじをたよるよりそとにみちはなかったのです. |
| 536 |
おじはまたいっさいをひきうけてすべてのせわをしてくれました。そうしてわたしをわたしのきぼうするとうきょうへでられるようにとりはからってくれました。わたしはとうきょうへきてこうとうがっこうへはいりました。そのときのこうとうがっこうのせいとはいまよりもよほどさつばつでそやでした。わたしのしったものに、よなかしょくにんとけんかをして、あいてのあたまへげたできずをおわせたのがありました. |
| 537 |
それがさけをのんだあげくのことなので、むちゅうになぐりあいをしているあいだに、がっこうのせいぼうをとうとうむこうのものにとられてしまったのです。ところがそのぼうしのうらにはとうにんのなまえがちゃんと、ひしがたのしろいきれのうえにかいてあったのです。それでことがめんどうになって、そのおとこはもうすこしでけいさつからがっこうへしょうかいされるところでした. |
| 538 |
しかしともだちがいろいろとほねをおって、ついにひょうさたにせずにすむようにしてやりました。こんならんぼうなこういを、じょうひんないまのくうきのなかにそだったあなたがたにきかせたら、さだめてばかばかしいかんじをおこすでしょう。わたしもじっさいばかばかしくおもいます。しかしかれらはいまのがくせいにないいっしゅしつぼくなてんをそのかわりにもっていたのです. |
| 539 |
とうじわたしのつきづきおじからもらっていたかねは、あなたがいま、おとうさんからおくってもらうがくしにくらべるとはるかにすくないものでした。(むろんぶっかもちがいましょうが)。それでいてわたしはすこしのぶそくもかんじませんでした。のみならずすうあるどうきゅうせいのうちで、けいざいのてんにかけては、けっしてひとをうらやましがるあわれなきょうぐうにいたわけではないのです. |
| 540 |
いまからかいこすると、むしろひとにうらやましがられるかただったのでしょう。というのは、わたしはつきづききまったそうきんのそとに、しょせきひ、(わたしはそのじぶんからしょもつをかうことがすきでした)、およびりんじのひようを、よくおじからせいきゅうして、ずんずんそれをじぶんのおもうようにしょうひすることができたのですから. |
| 541 |
なにもしらないわたしは、おじをしんじていたばかりでなく、つねにかんしゃのこころをもって、おじをありがたいもののようにそんけいしていました。おじはじぎょうかでした。けんかいぎいんにもなりました。そのかんけいからでもありましょう、せいとうにもえんこがあったようにきおくしています。ちちはせんぞからゆずられたいさんをだいじにまもっていくとくじついっぽうのおとこでした. |
| 542 |
たのしみには、ちゃだのはなだのをやりました。それからししゅうなどをよむこともすきでした。しょがこっとうといったかぜのものにも、おおくのしゅみをもっているようすでした。いえはいなかにありましたけれども、にりばかりへだたったし、――そのしにはおじがすんでいたのです、――そのしからときどきどうぐやがかけものだの、こうろだのをもって、わざわざちちにみせにきました. |
| 543 |
ちちはひとくちにいうと、まあマン・オフ・ミーンズとでもひょうしたらよいのでしょう。ひかくてきじょうひんなしこうをもったいなかしんしだったのです。だからきしょうからいうと、かったつなおじとはよほどのけんかくがありました。それでいてふたりはまたみょうになかがよかったのです。ちちはよくおじをひょうして、じぶんよりもはるかにはたらきのあるたのもしいひとのようにいっていました. |
| 544 |
じぶんのように、おやからざいさんをゆずられたものは、どうしてもこゆうのざいかんがにぶる、つまりよのなかとたたかうひつようがないからいけないのだともいっていました。このことばはははもききました。わたしもききました。ちちはむしろわたしのこころえになるつもりで、それをいったらしくおもわれます。「おまえもよくおぼえているがいい」. |
| 545 |
とちちはそのときわざわざわたしのかおをみたのです。だからわたしはまだそれをわすれずにいます。このくらいわたしのちちからしんようされたり、ほめられたりしていたおじを、わたしがどうしてうたがうことができるでしょう。わたしにはただでさえほこりになるべきおじでした。ちちやははがなくなって、ばんじそのひとのせわにならなければならないわたしには、もうたんなるほこりではなかったのです. |
| 546 |
わたしのそんざいにひつようなにんげんになっていたのです。「わたしがなつやすみをりようしてはじめてくにへかえったとき、りょうしんのしにことわえたわたしのじゅうきょには、あたらしいしゅじんとして、おじふうふがいれかわってすんでいました。これはわたしがとうきょうへでるまえからのやくそくでした。たったひとりとりのこされたわたしがいえにいないいじょう、そうでもするよりそとにしかたがなかったのです. |
| 547 |
おじはそのころしにあるいろいろなかいしゃにかんけいしていたようです。ぎょうむのつごうからいえば、いままでのきょたくにねおきするほうが、にりもへだたったわたしのいえにうつるよりはるかにべんりだといってわらいました。これはわたしのふぼがなくなったあと、どうやしきをしまつして、わたしがとうきょうへでるかというそうだんのとき、おじのくちをもれたことばであります. |
| 548 |
やすみがくればかえらなくてはならないというきぶんは、いくらとうきょうをこいしがってでてきたわたしにも、ちからづよくあったのです。わたしはねっしんにべんきょうし、ゆかいにあそんだあと、やすみにはかえれるとおもうそのこきょうのいえをよくゆめにみました。わたしのるすのあいだ、おじはどんなふうにりょうほうのあいだをいききしていたかしりません. |
| 549 |
わたしのついたときは、かぞくのものが、みんなひとついえのうちにあつまっていました。がっこうへでるこどもなどはへいぜいおそらくしのほうにいたのでしょうが、これもきゅうかのためにいなかへあそびはんぶんといったかくでひきとられていました。みんなわたしのかおをみてよろこびました。わたしはまたちちやははのいたときより、かえってにぎやかでようきになったいえのようすをみてうれしがりました. |
| 550 |
おじはもとわたしのへやになっていたひとまをせんりょうしているいちばんめのおとこのこをおいだして、わたしをそこへいれました。ざしきのかずもすくなくないのだから、わたしはほかのへやでかまわないとじたいしたのですけれども、おじはおまえのたくだからといって、ききませんでした。それはぜんごでちょうどさんよんかいもくりかえされたでしょう. |
| 551 |
わたしもはじめはただそのとつぜんなのにおどろいただけでした。にどめにははんぜんことわりました。さんどめにはこっちからとうとうそのりゆうをはんもんしなければならなくなりました。かれらのしゅいはたんかんでした。はやくよめをもらってここのいえへかえってきて、なくなったちちのあとをそうぞくしろというだけなのです。ことにいなかのじじょうをしっているわたしには、よくわかります. |
| 552 |
わたしもぜったいにそれをきらってはいなかったのでしょう。しかしとうきょうへしゅぎょうにでたばかりのわたしには、それがとおめがねでものをみるように、はるかさきのきょりにのぞまれるだけでした。わたしはおじのきぼうにしょうだくをあたえないで、ついにまたわたしのいえをさりました。「わたしはえんだんのことをそれなりわすれてしまいました. |
| 553 |
わたしのしゅういをとりまいているせいねんのかおをみると、せたいじみたものはひとりもいません。みんなじゆうです、そうしてことごとくたんどくらしくおもわれたのです。こういうきらくなひとのなかにも、りめんにはいりこんだら、あるいはかていのじじょうによぎなくされて、すでにつまをむかえていたものがあったかもしれませんが、こどもらしいわたしはそこにきがつきませんでした. |
| 554 |
それからそういうとくべつのきょうぐうにおかれたひとのほうでも、しへんにきがねをして、なるべくはしょせいにえんのとおいそんなうちわのはなしはしないようにつつしんでいたのでしょう。あとからかんがえると、わたしじしんがすでにその体だったのですが、わたしはそれさえわからずに、ただこどもらしくゆかいにしゅうがくのみちをあるいていきました. |
| 555 |
がくねんのおわりに、わたしはまたこうりをからげて、おやのはかのあるいなかへかえってきました。そうしてきょねんとおなじように、ふぼのいたわがやのなかで、またおじふうふとそのこどものかわらないかおをみました。わたしはふたたびそこでこきょうのにおいをかぎました。そのにおいはわたしにとっていぜんとしてなつかしいものでありました. |
| 556 |
いちがくねんのたんちょうをやぶるへんかとしてもありがたいものにちがいなかったのです。しかしこのじぶんをそだてあげたとおなじようなにおいのなかで、わたしはまたとつぜんけっこんもんだいをおじからはなのさきへつきつけられました。おじのいうところは、きょねんのかんゆうをふたたびくりかえしたのみです。りゆうもきょねんとおなじでした. |
| 557 |
ただこのまえすすめられたときには、なにらのもくてきぶつがなかったのに、こんどはちゃんとかんじんのとうにんをつかまえていたので、わたしはなおこまらせられたのです。そのとうにんというのはおじのむすめすなわちわたしのじゅうまいにあたるおんなでした。そのおんなをもらってくれれば、おたがいのためにべんぎである、ちちもぞんじょうちゅうそんなことをはなしていた、とおじがいうのです. |
| 558 |
わたしもそうすればべんぎだとはおもいました。ちちがおじにそういうふうなはなしをしたというのもありえべきこととかんがえました。しかしそれはわたしがおじにいわれて、はじめてきがついたので、いわれないまえから、さとっていたことがらではないのです。だからわたしはおどろきました。おどろいたけれども、おじのきぼうにむりのないところも、それがためによくわかりました. |
| 559 |
わたしはうかつなのでしょうか。あるいはそうなのかもしれませんが、おそらくそのじゅうまいにむとんちゃくであったのが、おもなみなもともとになっているのでしょう。わたしはこどものうちからしにいるおじのいえへしじゅうあそびにいきました。ただいくばかりでなく、よくそこにとまりました。そうしてこのじゅうまいとはそのじぶんからしたしかったのです. |
| 560 |
あなたもごしょうちでしょう、きょうだいのあいだにこいのせいりつしたれいのないのを。わたしはこのこうにんされたじじつをかってにふえんしているかもしれないが、しじゅうせっしょくしてしたしくなりすぎただんじょのあいだには、こいにひつようなしげきのおこるせいしんなかんじがうしなわれてしまうようにかんがえています。わたしはどうかんがえなおしても、このじゅうまいをつまにするきにはなれませんでした. |
| 561 |
おじはもしわたしがしゅちょうするなら、わたしのそつぎょうまでけっこんをのばしてもいいといいました。けれどもぜんはいそげということわざもあるから、できるならいまのうちにしゅうげんのさかずきだけはすませておきたいともいいました。とうにんにのぞみのないわたしにはどっちにしたっておなじことです。わたしはまたことわりました. |
| 562 |
おじはいやなかおをしました。じゅうまいはなきました。わたしにそわれないからかなしいのではありません。けっこんのもうしこみをきょぜつされたのが、おんなとしてつらかったからです。わたしがじゅうまいをあいしていないごとく、じゅうまいもわたしをあいしていないことは、わたしによくしれていました。わたしはまたとうきょうへでました. |
| 563 |
「わたしがさんどめにきこくしたのは、それからまたいちねんたったなつのとりつけでした。わたしはいつでもがくねんしけんのすむのをまちかねてとうきょうをにげました。わたしにはこきょうがそれほどなつかしかったからです。あなたにもおぼえがあるでしょう、うまれたところはくうきのいろがちがいます、とちのにおいもかくべつです、ちちやははのきおくもこかにただよっています. |
| 564 |
いちねんのうちで、しちはちのにがつをそのなかにつつまれて、あなにはいったへびのようにじっとしているのは、わたしにとってなによりもあたたかいよいこころもちだったのです。たんじゅんなわたしはじゅうまいとのけっこんもんだいについて、さほどあたまをいためるひつようがないとおもっていました。いやなものはことわる、ことわってさえしまえばあとにはなにものこらない、わたしはこうしんじていたのです. |
| 565 |
だからおじのきぼうとおりにいしをまげなかったにもかかわらず、わたしはむしろへいきでした。かこいちねんのあいだいまだかつてそんなことにくったくしたおぼえもなく、あいかわらずのげんきでくにへかえったのです。ところがかえってみるとおじのたいどがちがっています。もとのようによいかおをしてわたしをじぶんのふところにだこうとしません. |
| 566 |
それでもおうようにそだったわたしは、かえってよん、いつかのあいだはきがつかずにいました。ただなんかのきかいにふとへんにおもいだしたのです。するとみょうなのは、おじばかりではないのです。おばもみょうなのです。じゅうまいもみょうなのです。わたしのしょうぶんとしてかんがえずにはいられなくなりました。どうしてわたしのこころもちがこうかわったのだろう. |
| 567 |
いやどうしてむこうがこうかわったのだろう。わたしはとつぜんしんだちちやははが、にぶいわたしのめをあらって、きゅうによのなかがはんぜんみえるようにしてくれたのではないかとうたがいました。わたしはちちやははがこのよにいなくなったあとでも、いたときとおなじようにわたしをあいしてくれるものと、どこかこころのおくでしんじていたのです. |
| 568 |
もっともそのころでもわたしはけっしてりにくらいしつではありませんでした。しかしせんぞからゆずられためいしんのかたまりも、つよいちからでわたしのちのなかにひそんでいたのです。いまでもひそんでいるでしょう。わたしはたったひとりやまへいって、ふぼのはかのまえにひざまずきました。はんはあいとうのいみ、はんはかんしゃのこころもちでひざまずいたのです. |
| 569 |
そうしてわたしのみらいのこうふくが、このつめたいいしのしたによこたわるかれらのてにまだにぎられてでもいるようなきぶんで、わたしのうんめいをまもるべくかれらにいのりました。あなたはわらうかもしれない。わたしもわらわれてもしかたがないとおもいます。しかしわたしはそうしたにんげんだったのです。わたしのせかいはてのひらをひるがえすようにかわりました. |
| 570 |
もっともこれはわたしにとってはじめてのけいけんではなかったのです。わたしがじゅうろくしちのときでしたろう、はじめてよのなかにうつくしいものがあるというじじつをはっけんしたときには、いちどにはっとおどろきました。なんぺんもじぶんのめをうたがって、なんぺんもじぶんのめをすりました。そうしてこころのなかでああうつくしいとさけびました. |
| 571 |
じゅうろくしちといえば、おとこでもおんなでも、ぞくにいういろけのつくころです。いろけのついたわたしはよのなかにあるうつくしいもののだいひょうしゃとして、はじめておんなをみることができたのです。いままでそのそんざいにすこしもきのつかなかったいせいにたいして、もうもくのめがたちまちひらいたのです。それいらいわたしのてんちはまったくあたらしいものとなりました. |
| 572 |
わたしがおじのたいどにこころづいたのも、まったくこれとおなじなんでしょう。がぜんとしてこころづいたのです。なにのよかんもじゅんびもなく、ふいにきたのです。ふいにかれとかれのかぞくが、いままでとはまるでべつもののようにわたしのめにうつったのです。わたしはおどろきました。そうしてこのままにしておいては、じぶんのいきさきがどうなるかわからないというきになりました. |
| 573 |
「わたしはいままでおじまかせにしておいたいえのざいさんについて、くわしいちしきをえなければ、しんだふぼにたいしてすまないというきをおこしたのです。おじはいそがしいからだだとじしょうするごとく、まいばんおなじところにねとまりはしていませんでした。ふつかいえへかえるとみっかはしのほうでくらすといったふうに、りょうほうのあいだをおうらいして、そのひそのひをおちつきのないかおですごしていました. |
| 574 |
そうしていそがしいということばをくちぐせのようにつかいました。なにのうたがいもおこらないときは、わたしもじっさいにいそがしいのだろうとおもっていたのです。それから、いそがしがらなくてはとうせいりゅうでないのだろうと、ひにくにもかいしゃくしていたのです。わたしはよういにおじをつかまえるきかいをえませんでした。わたしはおじがしのほうにめかけをもっているといううわさをききました. |
| 575 |
わたしはそのうわさをむかしちゅうがくのどうきゅうせいであったあるともだちからきいたのです。めかけをおくぐらいのことは、このおじとしてすこしもあやしむにたらないのですが、ちちのいきているうちに、そんなひょうばんをみみにいれたおぼえのないわたしはおどろきました。ともだちはそのそとにもいろいろおじについてのうわさをかたってきかせました. |
| 576 |
いちじじぎょうでしっぱいしかかっていたようにほかからおもわれていたのに、このにさんねんらいまたきゅうにもりかえしてきたというのも、そのひとつでした。しかもわたしのぎわくをつよくぞめつけたもののひとつでした。わたしはとうとうおじとだんぱんをひらきました。おじはどこまでもわたしをこどもあつかいにしようとします。わたしはまたはじめからさいぎのめでおじにたいしています. |
| 577 |
おだやかにかいけつのつくはずはなかったのです。いかんながらわたしはいまそのだんぱんのてんまつをくわしくここにかくことのできないほどさきをいそいでいます。じつをいうと、わたしはこれよりいじょうに、もっとだいじなものをひかえているのです。わたしのペンははやくからそこへたどりつきたがっているのを、やっとのことでおさえつけているくらいです. |
| 578 |
あなたにあってしずかにはなすきかいをえいきゅうにうしなったわたしは、ふでをとるじゅつになれないばかりでなく、とうといじかんをおしむといういみからして、かきたいこともはぶかなければなりません。あなたはまだおぼえているでしょう、わたしがいつかあなたに、つくりつけのあくにんがよのなかにいるものではないといったことを。あのときあなたはわたしにこうふんしているとちゅういしてくれました. |
| 579 |
そうしてどんなばあいに、ぜんにんがあくにんにへんかするのかとたずねました。わたしがただひとくちきんとこたえたとき、あなたはふまんなかおをしました。わたしはあなたのふまんなかおをよくきおくしています。わたしはいまあなたのまえにうちあけるが、わたしはあのときこのおじのことをかんがえていたのです。けれどもわたしにはあれがいきたこたえでした. |
| 580 |
げんにわたしはこうふんしていたではありませんか。わたしはひややかなあたまであたらしいことをくちにするよりも、ねっしたしたでへいぼんなせつをのべるほうがいきているとしんじています。ちのちからでからだがうごくからです。ことばがくうきにはどうをつたえるばかりでなく、もっとつよいものにもっとつよくはたらきかけることができるからです. |
| 581 |
「ひとくちでいうと、おじはわたしのざいさんをごまかしたのです。ことはわたしがとうきょうへでているさんねんのあいだにたやすくおこなわれたのです。すべてをおじまかせにしてへいきでいたわたしは、せけんてきにいえばほんとうのばかでした。せけんてきいじょうのけんちからひょうすれば、あるいはじゅんなるとうといおとことでもいえましょうか. |
| 582 |
わたしはそのときのおのれをかえりみて、なぜもっとひとがわるくうまれてこなかったかとおもうと、しょうじきすぎたじぶんがくやしくってたまりません。しかしまたどうかして、もういちどああいううまれたままのすがたにたちかえっていきてみたいというこころもちもおこるのです。きおくしてください、あなたのしっているわたしはごみによごれたあとのわたしです. |
| 583 |
きたなくなったねんすうのおおいものをせんぱいとよぶならば、わたしはたしかにあなたよりせんぱいでしょう。もしわたしがおじのきぼうとおりおじのむすめとけっこんしたならば、そのけっかはぶっしつてきにわたしにとってゆうりなものでしたろうか。これはかんがえるまでもないこととおもいます。おじはさくりゃくでむすめをわたしにおしつけようとしたのです. |
| 584 |
こういてきにりょうけのべんぎをはかるというよりも、ずっとげびたりがいしんにかられて、けっこんもんだいをわたしにむけたのです。わたしはじゅうまいをあいしていないだけで、きらってはいなかったのですが、あとからかんがえてみると、それをことわったのがわたしにはたしょうのゆかいになるとおもいます。しかしそれはほとんどもんだいとするにたりないささいなことがらです. |
| 585 |
ことにかんけいのないあなたにいわせたら、さぞばかげたいじにみえるでしょう。わたしとおじのあいだにほかのしんせきのものがはいりました。そのしんせきのものもわたしはまるでしんようしていませんでした。しんようしないばかりでなく、むしろてきししていました。わたしはおじがわたしをあざむいたとさとるとともに、たのものもかならずじぶんをあざむくにちがいないとおもいつめました. |
| 586 |
ちちがあれだけほめぬいていたおじですらこうだから、たのものはというのがわたしのろんりでした。それでもかれらはわたしのために、わたしのしょゆうにかかるいっさいのものをまとめてくれました。それはきんがくにみつもると、わたしのよきよりはるかにすくないものでした。わたしとしてはだまってそれをうけとるか、でなければおじをあいてとってこうさたにするか、ふたつのほうほうしかなかったのです. |
| 587 |
わたしはいきどおりました。またまよいました。そしょうにするとらくちゃくまでにながいじかんのかかることもおそれました。わたしはしゅぎょうちゅうのからだですから、がくせいとしてたいせつなじかんをうばわれるのはひじょうのくつうだともかんがえました。わたしはしあんのけっか、しにおるちゅうがくのきゅうゆうにたのんで、わたしのうけとったものを、すべてかねのかたちにかえようとしました. |
| 588 |
きゅうゆうはよしたほうがとくだといってちゅうこくしてくれましたが、わたしはききませんでした。わたしはながくこきょうをはなれるけっしんをそのときにおこしたのです。おじのかおをみまいとこころのうちでちかったのです。わたしはくにをたつまえに、またちちとははのはかへまいりました。わたしはそれぎりそのはかをみたことがありません. |
| 589 |
もうえいきゅうにみるきかいもこないでしょう。わたしのきゅうゆうはわたしのことばとおりにとりはからってくれました。もっともそれはわたしがとうきょうへついてからよほどたったあとのことです。いなかではたちなどをうろうとしたってよういにはうれませんし、いざとなるとあしもとをみてふみたおされるおそれがあるので、わたしのうけとったきんがくは、じかにくらべるとよほどすくないものでした. |
| 590 |
じはくすると、わたしのざいさんはじぶんがふところにしていえをでたじゃっかんのこうさいと、あとからこのゆうじんにおくってもらったかねだけなのです。おやのいさんとしてはもとよりひじょうにへっていたにそういありません。しかもわたしがせっきょくてきにへらしたのでないから、なおこころもちがわるかったのです。けれどもがくせいとしてせいかつするにはそれでじゅうぶんいじょうでした. |
| 591 |
じつをいうとわたしはそれからでるりしのはんぶんもつかえませんでした。このよゆうあるわたしのがくせいせいかつがわたしをおもいもよらないきょうぐうにおとしいれたのです。「かねにふじゆうのないわたしは、そうぞうしいげしゅくをでて、あたらしくいちこをかまえてみようかというきになったのです。わたしはそのくさのなかにたって、なにごころなくむこうのがけをながめました. |
| 592 |
いまでもわるいけしきではありませんが、そのころはまたずっとあのにしがわのおもむきがちがっていました。みわたすかぎりみどりがいちめんにふかくしげっているだけでも、しんけいがやすまります。わたしはふとここいらにてきとうなたくはないだろうかとおもいました。それですぐそうげんをよこぎって、ほそいとおりをきたのほうへすすんでいきました. |
| 593 |
いまだによいまちになりきれないで、がたぴししているあのへんのいえなみは、そのじぶんのことですからずいぶんきたならしいものでした。わたしはろつぎをぬけたり、よこちょうをまがったり、ぐるぐるあるきまわりました。しまいにだかしやのかみさんに、ここいらにこぢんまりしたかしやはないかとたずねてみました。かみさんは「そうですね」. |
| 594 |
といって、しょうじくびをかしげていましたが、「かしかはちょいと....」とまったくおもいあたらないふうでした。わたしはのぞみのないものとあきらめてかえりかけました。するとかみさんがまた、「しろうとげしゅくじゃいけませんか」ときくのです。わたしはちょっときがかわりました。それからそのだかしやのみせにこしをかけて、かみさんにくわしいことをおしえてもらいました. |
| 595 |
それはあるぐんじんのかぞく、というよりもむしろいぞく、のすんでいるいえでした。しゅじんはなにでもにっしんせんそうのときかなにかにしんだのだとかみさんがいいました。わたしはかみさんから、そのいえにはみぼうじんとひとりむすめとげじょよりそとにいないのだということをたしかめました。わたしはかんせいでしごくよかろうとこころのなかにおもいました. |
| 596 |
けれどもそんなかぞくのうちに、わたしのようなものが、とつぜんいったところで、そせいのしれないしょせいさんというめいしょうのもとに、すぐきょぜつされはしまいかというがかりねんもありました。わたしはよそうかともかんがえました。しかしわたしはしょせいとしてそんなにみぐるしいふくそうはしていませんでした。それからだいがくのせいぼうをかぶっていました. |
| 597 |
あなたはわらうでしょう、だいがくのせいぼうがどうしたんだといって。けれどもそのころのだいがくせいはいまとちがって、だいぶせけんにしんようのあったものです。わたしはそのばあいこのしかくなぼうしにいっしゅのじしんをみいだしたくらいです。そうしてだかしやのかみさんにおそわったとおり、しょうかいもなにもなしにそのぐんじんのいぞくのいえをたずねました. |
| 598 |
わたしはみぼうじんにあってらいいをつげました。みぼうじんはわたしのみもとやらがっこうやらせんもんやらについていろいろしつもんしました。そうしてこれならだいじょうぶだというところをどこかににぎったのでしょう、いつでもひっこしてきてさしつかえないというあいさつをそくざにあたえてくれました。みぼうじんはただしいひとでした、またはんぜんしたひとでした. |
| 599 |
わたしはぐんじんのさいくんというものはみんなこんなものかとおもってかんぷくしました。かんぷくもしたが、おどろきもしました。このきしょうでどこがさびしいのだろうとうたがいもしました。「わたしはさっそくそのいえへひきうつりました。わたしはさいしょきたときにみぼうじんとはなしをしたざしきをかりたのです。そこはたくちゅうでいちばんよいへやでした. |
| 600 |
ほんごうへんにこうとうげしゅくといったかぜのいえがぽつぽつたてられたじぶんのことですから、わたしはしょせいとしてせんりょうしうるもっともよいあいだのようすをこころえていました。わたしのあたらしくしゅじんとなったへやは、それらよりもずっとりっぱでした。うつったとうざは、がくせいとしてのわたしにはすぎるくらいにおもわれたのです. |
| 601 |
へやのひろさははちじょうでした。ゆかのよこにちがいだながあって、えんとはんたいのがわにはひとまのおしいれがついていました。まどはひとつもなかったのですが、そのかわりみなみむきのえんにあかるいひがよくさしました。わたしはうつったひに、そのへやのゆかにいけられたはなと、そのよこにたてかけられたごとをみました。どっちもわたしのきにはいりませんでした. |
| 602 |
わたしはしやしょやせんちゃを嗜なむちちのかたわらでそだったので、とうめいたしゅみをこどものうちからもっていました。そのためでもありましょうか、こういうなまめかしいそうしょくをいつのあいだにかけいべつするくせがついていたのです。わたしのちちがぞんじょうちゅうにあつめたどうぐるいは、れいのおじのためにめちゃめちゃにされてしまったのですが、それでもたしょうはのこっていました. |
| 603 |
わたしはくにをたつときそれをちゅうがくのきゅうゆうにあずかってもらいました。それからそのなかでおもしろそうなものをしごぷくはだかにしてこうりのそこへいれてきました。わたしはうつるやいなや、それをとりだしてゆかへかけてたのしむつもりでいたのです。ところがいまいったごとといけばなをみたので、きゅうにゆうきがなくなってしまいました. |
| 604 |
あとからきいてはじめてこのはながわたしにたいするごちそうにいけられたのだということをしったとき、わたしはこころのうちでくしょうしました。もっともごとはまえからそこにあったのですから、これはおきどころがないため、やむをえずそのままにたてかけてあったのでしょう。こんなはなしをすると、しぜんそのうらにわかいおんなのかげがあなたのあたまをかすめてとおるでしょう. |
| 605 |
うつったわたしにも、うつらないはじめからそういうこうきしんがすでにうごいていたのです。こうしたじゃきがよびてきにわたしのしぜんをそこなったためか、またはわたしがまだひとなれなかったためか、わたしははじめてそこのおじょうさんにあったとき、へどもどしたあいさつをしました。そのかわりおじょうさんのほうでもあかいかおをしました. |
| 606 |
わたしはそれまでみぼうじんのふうさいやたいどからおして、このおじょうさんのすべてをそうぞうしていたのです。しかしそのそうぞうはおじょうさんにとってあまりゆうりなものではありませんでした。ぐんじんのさいくんだからああなのだろう、そのさいくんのむすめだからこうだろうといったじゅんじょで、わたしのすいそくはだんだんのびていきました. |
| 607 |
ところがそのすいそくが、おじょうさんのかおをみたしゅんかんに、ことごとくうちけされました。そうしてわたしのあたまのなかへいままでそうぞうもおよばなかったいせいのにおいがあたらしくはいってきました。わたしはそれからゆかのしょうめんにいけてあるはながいやでなくなりました。おなじゆかにたてかけてあるごともじゃまにならなくなりました. |
| 608 |
そのはなはまたきそくただしくしおれるころになるといけかえられるのです。ごともたびたびかぎのてにおれまがったすじかいのへやにはこびさられるのです。わたしはじぶんのいまでつくえのうえにほおづえをつきながら、そのごとのおとをきいていました。わたしにはそのごとがじょうずなのかへたなのかよくわからないのです。まあいけばなのていどぐらいなものだろうとおもいました. |
| 609 |
はなならわたしにもよくわかるのですが、おじょうさんはけっしてうまいほうではなかったのです。それでもおくめんなくいろいろのはながわたしのゆかをかざってくれました。もっともかつほうはいつみてもおなじことでした。それからかびんもついぞかわったれいがありませんでした。しかしかたほうのおんがくになるとはなよりももっとへんでした. |
| 610 |
ぽつんぽつんいとをならすだけで、いっこうにくせいをきかせないのです。うたわないのではありませんが、まるでないしょはなしでもするようにちいさなこえしかださないのです。しかもしかられるとまったくでなくなるのです。わたしはよろこんでこのへたないけばなをながめては、まずそうなごとのおとにみみをかたむけました。「わたしのきぶんはくにをたつときすでにえんせいてきになっていました. |
| 611 |
たはたよりにならないものだというかんねんが、そのときほねのなかまでしみこんでしまったようにおもわれたのです。わたしはわたしのてきしするおじだのおばだの、そのほかのしんせきだのを、あたかもじんるいのだいひょうしゃのごとくかんがえだしました。きしゃへのってさえとなりのもののようすを、それとなくちゅういしはじめました. |
| 612 |
たまにむこうからはなしかけられでもすると、なおのことけいかいをくわえたくなりました。わたしのこころはちんうつでした。なまりをのんだようにおもくるしくなることがときどきありました。それでいてわたしのしんけいは、いまいったごとくにするどくとがってしまったのです。わたしがとうきょうへきてげしゅくをでようとしたのも、これがおおきなみなもともとになっているようにおもわれます. |
| 613 |
かねにふじゆうがなければこそ、いちこをかまえてみるきにもなったのだといえばそれまでですが、もとのとおりのわたしならば、たといかいちゅうによゆうができても、このんでそんなめんどうなまねはしなかったでしょう。わたしはこいしかわへひきうつってからも、とうぶんこのきんちょうしたきぶんにくつろぎをあたえることができませんでした. |
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わたしはじぶんでじぶんがはずかしいほど、きょときょとしゅういをみまわしていました。ふしぎにもよくはたらくのはあたまとめだけで、くちのほうはそれとはんたいに、だんだんうごかなくなってきました。わたしはいえのもののようすをねこのようによくかんさつしながら、だまってつくえのまえにすわっていました。あなたはさだめてへんにおもうでしょう. |
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そのわたしがそこのおじょうさんをどうしてよくよゆうをもっているか。そのおじょうさんのへたないけばなを、どうしてうれしがってながめるよゆうがあるか。おなじくへたなそのひとのごとをどうしてよろこんできくよゆうがあるか。そうしつもんされたとき、わたしはただりょうほうともじじつであったのだから、じじつとしてあなたにおしえてあげるというよりそとにしかたがないのです. |
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かいしゃくはあたまのあるあなたにまかせるとして、わたしはただひとことつけたしておきましょう。わたしはかねにたいしてじんるいをうたがったけれども、あいにたいしては、まだじんるいをうたがわなかったのです。だからほかからみるとへんなものでも、またじぶんでかんがえてみて、むじゅんしたものでも、わたしのむねのなかではへいきでりょうりつしていたのです. |
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わたしはみぼうじんのことをつねにおくさんといっていましたから、これからみぼうじんとよばずにおくさんといいます。おくさんはわたしをしずかなひと、おとなしいおとことひょうしました。それからべんきょうかだともほめてくれました。けれどもわたしのふあんなめつきや、きょときょとしたようすについては、なにごともくちへだしませんでした. |
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きがつかなかったのか、えんりょしていたのか、どっちだかよくわかりませんが、なにしろそこにはまるでちゅういをはらっていないらしくみえました。それのみならず、あるばあいにわたしをおうようなかただといって、さもそんけいしたらしいくちのききかたをしたことがあります。そのときしょうじきなわたしはすこしかおをあからめて、むこうのことばをひていしました. |
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するとおくさんは「あなたはじぶんできがつかないから、そうおっしゃるんです」とまじめにせつめいしてくれました。おくさんははじめわたしのようなしょせいをたくへおくつもりではなかったらしいのです。どこかのやくしょへつとめるひとかなにかにましんましじきをかすりょうけんで、きんじょのものにしゅうせんをたのんでいたらしいのです. |
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ほうきゅうがゆたかでなくって、やむをえずしろうとやにげしゅくするくらいのひとだからというかんがえが、それでまえかたからおくさんのあたまのどこかにはいっていたのでしょう。おくさんはじぶんのむねにえがいたそのそうぞうのおきゃくとわたしとをひかくして、こっちのほうをおうようだといってほめるのです。「おくさんのこのたいどがしぜんわたしのきぶんにえいきょうしてきました. |
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しばらくするうちに、わたしのめはもとほどきょろつかなくなりました。じぶんのこころがじぶんのすわっているところに、ちゃんとおちついているようなきにもなれました。ようするにおくさんはじめやのものが、ひがんだわたしのめやうたがいぶかいわたしのようすに、てんからとりあわなかったのが、わたしにおおきなこうふくをあたえたのでしょう. |
| 622 |
わたしのしんけいはあいてからてりかえしてくるはんしゃのないためにだんだんしずまりました。おくさんはこころえのあるひとでしたから、わざとわたしをそんなふうにとりあつかってくれたものともおもわれますし、またじぶんでこうげんするごとく、じっさいわたしをおうようだとかんさつしていたのかもしれません。わたしのこころがしずまるとともに、わたしはだんだんかぞくのものとせっきんしてきました. |
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おくさんともおじょうさんともしょうだんをいうようになりました。ちゃをいれたからといってむこうのへやへよばれるひもありました。またわたしのほうでかしをかってきて、ふたりをこっちへまねいたりするばんもありました。わたしはきゅうにこうさいのくいきがふえたようにかんじました。それがためにたいせつなべんきょうのじかんをつぶされることもなんどとなくありました. |
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ふしぎにも、そのぼうがいがわたしにはいっこうじゃまにならなかったのです。おくさんはもとよりひまじんでした。おじょうさんはがっこうへいくうえに、はなだのごとだのをならっているんだから、さだめていそがしかろうとおもうと、それがまたあんがいなもので、いくらでもじかんによゆうをもっているようにみえました。それでさんにんはかおさえみるといっしょにあつまって、せけんはなしをしながらあそんだのです. |
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わたしをよびにくるのは、たいていおじょうさんでした。おじょうさんはえんがわをちょっかくにまがって、わたしのへやのまえにたつこともありますし、ちゃのまをぬけて、つぎのへやのふすまのかげからすがたをみせることもありました。おじょうさんは、そこへきてちょっととまります。それからきっとわたしのなをよんで、「ごべんきょう?」. |
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とききます。わたしはたいていむずかしいしょもつをつくえのまえにあけて、それをみつめていましたから、かたわらでみたらさぞべんきょうかのようにみえたのでしょう。しかしじっさいをいうと、それほどねっしんにしょもつをけんきゅうしてはいなかったのです。ぺーじのうえにめはつけていながら、おじょうさんのよびにくるのをまっているくらいなものでした. |
| 627 |
まっていてこないと、しかたがないからわたしのほうでたちあがるのです。そうしてむこうのへやのまえへいって、こっちから「ごべんきょうですか」ときくのです。おじょうさんのへやはちゃのまとつづいたろくじょうでした。おくさんはそのちゃのまにいることもあるし、またおじょうさんのへやにいることもありました。わたしがそとからこえをかけると、「おはいんなさい」. |
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とこたえるのはきっとおくさんでした。おじょうさんはそこにいてもめったにへんじをしたことがありませんでした。ときたまおじょうさんひとりで、ようがあってわたしのへやへはいったついでに、そこにすわってはなしこむようなばあいもそのうちにでてきました。そういうときには、わたしのこころがみょうにふあんにおかされてくるのです. |
| 629 |
よくわかるようにふるまってみせるこんせきさえあきらかでした。わたしはそのよるじゅうじすぎにせんせいのいえをじした。にさんにちうちにきこくするはずになっていたので、ざをたつまえにわたしはちょっといとまごいのことばをのべた。「またとうぶんおめにかかれませんから」「くがつにはでていらっしゃるんでしょうね」わたしはもうそつぎょうしたのだから、かならずくがつにでてくるひつようもなかった. |
| 630 |
しかしあついもりのはちがつをとうきょうまできておくろうともかんがえていなかった。わたしにはいちをもとめるためのきちょうなじかんというものがなかった。「まあくがつころになるでしょう」「じゃずいぶんごきげんよう。わたしたちもこのなつはことによるとどこかへいくかもしれないのよ。ずいぶんあつそうだから。いったらまたえはがきでもおくってあげましょう」. |
| 631 |
「どちらのけんとうです。もしいらっしゃるとすれば」せんせいはこのもんどうをにやにやわらってきいていた。「なにまだいくともいかないともきわめていやしないんです」せきをたとうとしたとき、せんせいはきゅうにわたしをつらまえて、「じにおとうさんのびょうきはどうなんです」ときいた。わたしはちちのけんこうについてほとんどしるところがなかった. |
| 632 |
なにともいってこないいじょう、わるくはないのだろうくらいにかんがえていた。「そんなにたやすくかんがえられるびょうきじゃありませんよ。にょうどくしょうがでると、もうだめなんだから」にょうどくしょうということばもいみもわたしにはわからなかった。このまえのふゆやすみにくにでいしゃとかいけんしたときに、わたしはそんなじゅつごをまるできかなかった. |
| 633 |
「ほんとうにだいじにしておあげなさいよ」とおくさんもいった。「どくがのうへまわるようになると、もうそれっきりよ、あなた。わらいごとじゃないわ」むけいけんなわたしはぎみをわるがりながらも、にやにやしていた。「どうせたすからないびょうきだそうですから、いくらしんぱいしたってしかたがありません」「そうおもいきりよくかんがえれば、それまでですけれども」. |
| 634 |
おくさんはむかしおなじびょうきでしんだというじぶんのおかあさんのことでもおもいだしたのか、しずんだちょうしでこういったなりしたをむいた。わたしもちちのうんめいがほんとうにきのどくになった。するとせんせいがとつぜんおくさんのほうをむいた。「せい、おまえはおれよりさきへしぬだろうかね」「なぜ」「なぜでもない、ただきいてみるのさ. |
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それともおのれのほうがおまえよりまえにかたづくかな。たいていせけんじゃだんながさきで、さいくんがあとへのこるのがあたりまえのようになってるね」「そうきまったわけでもないわ。けれどもおとこのほうはどうしても、そらねんがうえでしょう」「だからさきへしぬというりくつなのかね。するとおのれもおまえよりさきにあのよへいかなくっちゃならないことになるね」. |
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「あなたはとくべつよ」「そうかね」「だってじょうぶなんですもの。ほとんどわずらったれいがないじゃありませんか。そりゃどうしたってわたしのほうがさきだわ」「さきかな」「え、きっとさきよ」せんせいはわたしのかおをみた。わたしはわらった。「しかしもしおれのほうがさきへいくとするね。そうしたらおまえどうする」. |
| 637 |
「どうするって....」おくさんはそこでくちごもった。せんせいのしにたいするそうぞうてきなひあいが、ちょっとおくさんのむねをおそったらしかった。けれどもふたたびかおをあげたときは、もうきぶんをかえていた。「どうするって、しかたがないわ、ねえあなた。ろうしょうふていっていうくらいだから」おくさんはことさらにわたしのほうをみてしょうだんらしくこういった. |
| 638 |
わたしはたてかけたこしをまたおろして、はなしのくぎりのつくまでふたりのあいてになっていた。「きみはどうおもいます」とせんせいがきいた。せんせいがさきへしぬか、おくさんがはやくなくなるか、もとよりわたしにはんだんのつくべきもんだいではなかった。わたしはただわらっていた。「じゅみょうはわかりませんね。わたしにも」. |
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「こればかりはほんとうにじゅみょうですからね。うまれたときにちゃんときまったねんすうをもらってくるんだからしかたがないわ。せんせいのおとうさんやおかあさんなんか、ほとんどおなじよ、あなた、なくなったのが」「なくなられたひがですか」「まさかひまでおなじじゃないけれども。でもまあおなじよ。だってつづいてなくなっちまったんですもの」. |
| 640 |
このちしきはわたしにとってあたらしいものであった。わたしはふしぎにおもった。「どうしてそういちどにしなれたんですか」おくさんはわたしのといにこたえようとした。せんせいはそれをさえぎった。「そんなはなしはおよしよ。つまらないから」せんせいはてにもったうちわをわざとばたばたいわせた。そうしてまたおくさんをかえりみた. |
| 641 |
「せい、おれがしんだらこのいえをおまえにやろう」おくさんはわらいだした。「ついでにじめんもくださいよ」「じめんはたのものだからしかたがない。そのかわりおれのもってるものはみんなおまえにやるよ」「どうもありがとう。けれどもよこもじのほんなんかもらってもしようがないわね」「ふるほんやにうるさ」「うればいくらぐらいになって」. |
| 642 |
せんせいはいくらともいわなかった。けれどもせんせいのはなしは、よういにじぶんのしというとおいもんだいをはなれなかった。そうしてそのしはかならずおくさんのまえにおこるものとかていされていた。おくさんもさいしょのうちは、わざとたわいのないうけこたえをしているらしくみえた。それがいつのあいだにか、かんしょうてきなおんなのこころをおもくるしくした. |
| 643 |
「おれがしんだら、おれがしんだらって、まあなんぺんおっしゃるの。ごしょうだからもうよいかげんにして、おれがしんだらはよしてちょうだい。えんきでもない。あなたがしんだら、なにでもあなたのおもいとおりにしてあげるから、それでいいじゃありませんか」せんせいはにわのほうをむいてわらった。しかしそれぎりおくさんのいやがることをいわなくなった. |
| 644 |
わたしもあまりながくなるので、すぐせきをたった。せんせいとおくさんはげんかんまでおくってでた。「ごびょうにんをおだいじに」とおくさんがいった。「またくがつに」とせんせいがいった。わたしはあいさつをしてこうしのそとへあしをふみだした。げんかんともんのあいだにあるこんもりしたもくせいのひとかぶが、わたしのゆくてをふさぐように、やいんのうちにえだをはっていた. |
| 645 |
わたしはにさんぽうごきだしながら、くろずんだはにおおわれているそのこずえをみて、きたるべきあきのはなとこうをおもいうかべた。わたしはせんせいのたくとこのもくせいとを、いぜんからこころのうちで、はなすことのできないもののように、いっしょにきおくしていた。せんせいふうふはそれぎりおくへはいったらしかった。わたしはひとりくらいおもてへでた. |
| 646 |
わたしはすぐげしゅくへはもどらなかった。くにへかえるまえにととのえるかいものもあったし、ごちそうをつめたいぶくろにくつろぎをあたえるひつようもあったので、ただにぎやかなまちのほうへあるいていった。まちはまだよいのくちであった。ようじもなさそうなだんじょがぞろぞろうごくなかに、わたしはきょうわたしといっしょにそつぎょうしたなにがしにあった. |
| 647 |
かれはわたしをむりやりにあるさかばへつれこんだ。わたしはそこでびーるのあわのようなかれのき※(「陷のつくり+えん」、だい3すいじゅん1-87-64)をきかされた。わたしのげしゅくへかえったのはじゅうにじすぎであった。わたしはそのよくじつもあつさをおかして、たのまれものをかいあつめてあるいた。わたしはこのひとなつをむいにすごすきはなかった. |
| 648 |
くにへかえってからのにっていというようなものをあらかじめつくっておいたので、それをりこうするにひつようなしょもつもてにいれなければならなかった。わたしははんにちをまるぜんのにかいでつぶすかくごでいた。わたしはじぶんにかんけいのふかいぶもんのしょせきたなのまえにたって、すみからすみまでいっさつずつてんけんしていった. |
| 649 |
かいもののうちでいちばんわたしをこまらせたのはおんなのはんえりであった。こぞうにいうと、いくらでもだしてはくれるが、さてどれをえらんでいいのか、かうだんになっては、ただまようだけであった。そのうえあたいがきわめてふていであった。やすかろうとおもってきくと、ひじょうにたかかったり、たかかろうとかんがえて、きかずにいると、かえってたいへんやすかったりした. |
| 650 |
あるいはいくらくらべてみても、どこからかかくのさいがでるのかけんとうのつかないのもあった。わたしはまったくよわらせられた。そうしてこころのうちで、なぜせんせいのおくさんをわずらわさなかったかをくいた。わたしはかばんをかった。むろんわせいのかとうなしなにすぎなかったが、それでもかなぐやなどがぴかぴかしているので、いなかものをいかくかすにはじゅうぶんであった. |
| 651 |
このかばんをかうということは、わたしのははのちゅうもんであった。そつぎょうしたらあたらしいかばんをかって、そのなかにいっさいのみやげものをいれてかえるようにと、わざわざてがみのなかにかいてあった。わたしはそのもんくをよんだときにわらいだした。わたしにはははのりょうけんがわからないというよりも、そのことばがいっしゅのこっけいとしてうったえたのである. |
| 652 |
わたしはいとまごいをするときせんせいふうふにのべたとおり、それからみっかめのきしゃでとうきょうをたってくにへかえった。このふゆいらいちちのびょうきについてせんせいからいろいろのちゅういをうけたわたしは、いちばんしんぱいしなければならないちいにありながら、どういうものか、それがたいしてくにならなかった。わたしはむしろちちがいなくなったあとのははをそうぞうしてきのどくにおもった. |
| 653 |
そのくらいだからわたしはこころのどこかで、ちちはすでになくなるべきものとかくごしていたにちがいなかった。きゅうしゅうにいるあにへやったてがみのなかにも、わたしはちちのとうていゆえのようなけんこうたいになるみこみのないことをのべた。いちどなどはしょくむのつごうもあろうが、できるならくりあわせてこのなつぐらいいちどかおだけでもみにかえったらどうだとまでかいた. |
| 654 |
そのうえどしよりがふたりぎりでいなかにいるのはさだめてこころぼそいだろう、われわれもことしていかんのいたりであるというようなかんしょうてきなもんくさえつかった。わたしはじっさいこころにうかぶままをかいた。けれどもかいたあとのきぶんはかいたときとはちがっていた。わたしはそうしたむじゅんをきしゃのなかでかんがえた. |
| 655 |
かんがえているうちにじぶんがじぶんにきのかわりやすいけいはくもののようにおもわれてきた。わたしはふゆかいになった。わたしはまたせんせいふうふのことをおもいうかべた。ことににさんにちぜんばんしょくによばれたときのかいわをおもいだした。「どっちがさきへしぬだろう」わたしはそのばんせんせいとおくさんのあいだにおこったぎもんをひとりくちのうちでくりかえしてみた. |
| 656 |
そうしてこのぎもんにはだれもじしんをもってこたえることができないのだとおもった。しかしどっちがさきへしぬとはんぜんわかっていたならば、せんせいはどうするだろう。おくさんはどうするだろう。せんせいもおくさんも、いまのようなたいどでいるよりそとにしかたがないだろうとおもった。(しにちかづきつつあるちちをくにもとにひかえながら、このわたしがどうすることもできないように). |
| 657 |
わたしはにんげんをはかないものにかんじた。にんげんのどうすることもできないもってうまれたけいはくを、はかないものにかんじた。たくへかえってあんがいにおもったのは、ちちのげんきがこのまえみたときとたいしてかわっていないことであった。「ああかえったかい。そうか、それでもそつぎょうができてまあけっこうだった。ちょっとおまち、いまかおをあらってくるから」. |
| 658 |
ちちはにわへでてなにかしていたところであった。ふるいむぎわらぼうのうしろへ、ひよけのためにくくりつけたうすきたないハンケチをひらひらさせながら、いどのあるうらてのほうへまわっていった。がっこうをそつぎょうするのをふつうのにんげんとしてとうぜんのようにかんがえていたわたしは、それをよきいじょうによろこんでくれるちちのまえにきょうしゅくした. |
| 659 |
「そつぎょうができてまあけっこうだ」ちちはこのことばをなんぺんもくりかえした。わたしはこころのうちでこのちちのよろこびと、そつぎょうしきのあったばんせんせいのいえのしょくたくで、「おめでとう」といわれたときのせんせいのかおつきとをひかくした。わたしはしまいにちちのむちからでるいなかくさいところにふかいをかんじだした. |
| 660 |
「だいがくぐらいそつぎょうしたって、それほどけっこうでもありません。そつぎょうするものはまいとしなんびゃくにんだってあります」わたしはついにこんなくちのききようをした。するとちちがへんなかおをした。「なにもそつぎょうしたからけっこうとばかりいうんじゃない。そりゃそつぎょうはけっこうにちがいないが、おれのいうのはもうすこしいみがあるんだ. |
| 661 |
それがおまえにわかっていてくれさえすれば、....」わたしはちちからそのあとをきこうとした。ちちははなしたくなさそうであったが、とうとうこういった。「つまり、おれがけっこうということになるのさ。おれはおまえのしってるとおりのびょうきだろう。きょねんのふゆおまえにあったとき、ことによるともうさんがつかよんがつぐらいなものだろうとおもっていたのさ. |
| 662 |
それがどういうしあわせか、きょうまでこうしている。ききょにふじゆうなくこうしている。そこへおまえがそつぎょうしてくれた。だからうれしいのさ。せっかくたんせいしたむすこが、じぶんのいなくなったあとでそつぎょうしてくれるよりも、じょうぶなうちにがっこうをでてくれるほうがおやのみになればうれしいだろうじゃないか。しかしおれのほうからみてごらん、たちばがすこしちがっているよ. |
| 663 |
つまりそつぎょうはおまえにとってより、このおれにとってけっこうなんだ。わかったかい」わたしはひとこともなかった。あやまるいじょうにきょうしゅくしてうつむいていた。ちちはへいきなうちにじぶんのしをかくごしていたものとみえる。しかもわたしのそつぎょうするまえにしぬだろうとおもいさだめていたとみえる。しょうしょはなにかにおしつぶされて、もとのかたちをうしなっていた. |
| 664 |
ちちはそれをていやすしにのした。「こんなものはまいたなりてにもってくるものだ」「なかにこころでもいれるとよかったのに」とははもそばからちゅういした。ちちはしばらくそれをながめたあと、おこってとこのまのところへいって、だれのめにもすぐはいるようなしょうめんへしょうしょをおいた。いつものわたしならすぐなんとかいうはずであったが、そのときのわたしはまるでへいぜいとちがっていた. |
| 665 |
ちちやははにたいしてすこしもさからうきがおこらなかった。わたしはだまってちちのためすがままにまかせておいた。いったんへきのついたとりのこしのしょうしょは、なかなかちちのじゆうにならなかった。てきとうないちにおかれるやいなや、すぐおのれにしぜんないきおいをえてたおれようとした。わたしはははをかげへよんでちちのびょうじょうをたずねた. |
| 666 |
「おとうさんはあんなにげんきそうににわへでたりなにかしているが、あれでいいんですか」「もうなにともないようだよ。おおかたよくおなりなんだろう」はははあんがいへいきであった。とかいからかけへだたったもりやたのなかにすんでいるおんなのつねとして、はははこういうことにかけてはまるでむちしきであった。「でもいしゃはあのときとうていむずかしいってせんこくしたじゃありませんか」. |
| 667 |
「だからにんげんのからだほどふしぎなものはないとおもうんだよ。あれほどおいしゃがておもくいったものが、いままでしゃんしゃんしているんだからね。おかあさんもはじめのうちはしんぱいして、なるべくうごかさないようにとおもってたんだがね。それ、あのきしょうだろう。ようじょうはしなさるけれども、ごうじょうでねえ。「もうだいじょうぶ、おかあさんがあんまりぎょうさんすぎるからいけないんだ」. |
| 668 |
といったそのときのことばをかんがえてみると、まんざらははばかりせめるきにもなれなかった。「しかしかたわらでもすこしはちゅういしなくっちゃ」といおうとしたわたしは、とうとうえんりょしてなんにもくちへださなかった。ただちちのやまいのせいしつについて、わたしのしるかぎりをおしえるようにはなしてきかせた。しかしそのだいぶぶんはせんせいとせんせいのおくさんからえたざいりょうにすぎなかった. |
| 669 |
はははべつにかんどうしたようすもみせなかった。ただ「へえ、やっぱりおなじびょうきでね。おきのどくだね。いくつでおなくなりかえ、そのかたは」などときいた。わたしはしかたがないから、ははをそのままにしておいてちょくせつちちにむかった。ちちはわたしのちゅういをははよりはまじめにきいてくれた。「もっともだ。おまえのいうとおりだ. |
| 670 |
けれども、おのれのからだはひっきょうおのれのからだで、そのおのれのからだについてのようじょうほうは、たねんのけいけんじょう、おのれがいちばんよくこころえているはずだからね」といった。それをきいたはははくしょうした。「それごらんな」といった。「でも、あれでおとうさんはじぶんでちゃんとかくごだけはしているんですよ. |
| 671 |
こんどわたしがそつぎょうしてかえったのをたいへんよろこんでいるのも、まったくそのためなんです。いきてるうちにそつぎょうはできまいとおもったのが、たっしゃなうちにめんじょうをもってきたから、それがうれしいんだって、おとうさんはじぶんでそういっていましたぜ」「そりゃ、おまえ、くちでこそそうおいいだけれどもね。おなかのなかではまだだいじょうぶだとおもっておでのだよ」. |
| 672 |
「そうでしょうか」「まだまだじゅうねんもにじゅうねんもいきるきでおでのだよ。もっともときどきはわたしにもこころぼそいようなことをおいいだがね。おれもこのぶんじゃもうながいこともあるまいよ、おれがしんだら、おまえはどうする、ひとりでこのいえにいるきかなんて」わたしはきゅうにちちがいなくなってははひとりがとりのこされたときの、ふるいひろいいなかやをそうぞうしてみた. |
| 673 |
このいえからちちひとりをひきさったあとは、そのままでたちいくだろうか。あにはどうするだろうか。はははなにというだろうか。そうかんがえるわたしはまたここのつちをはなれて、とうきょうできらくにくらしていけるだろうか。わたしはははをめのまえにおいて、せんせいのちゅうい――ちちのじょうぶでいるうちに、わけてもらうものは、わけてもらっておけというちゅういを、ぐうぜんおもいだした. |
| 674 |
「なにね、じぶんでしぬしぬっていうひとにしんだためしはないんだからあんしんだよ。おとうさんなんぞも、しぬしぬっていいながら、これからさきまだなんねんいきなさるかわかるまいよ。それよりかだまってるじょうぶのひとのほうがけんのんさ」わたしはりくつからでたともとうけいからきたともしれない、このちんぷなようなははのことばをもくぜんときいていた. |
| 675 |
わたしのためにあかいめしをたいてきゃくをするというそうだんがちちとははのあいだにおこった。わたしはかえったとうじつから、あるいはこんなことになるだろうとおもって、こころのうちであんにそれをおそれていた。わたしはすぐことわった。「あんまりぎょうさんなことはよしてください」わたしはいなかのきゃくがきらいだった。わたしはこどものときからかれらのせきにじするのをこころぐるしくかんじていた. |
| 676 |
ましてじぶんのためにかれらがくるとなると、わたしのくつうはいっそうはなはだしいようにそうぞうされた。しかしわたしはちちやははのてまえ、あんなやひなひとをあつめてさわぐのはよせともいいかねた。それでわたしはただあまりぎょうさんだからとばかりしゅちょうした。「ぎょうさんぎょうさんとおいいだが、ちっともぎょうさんじゃないよ. |
| 677 |
しょうがいににどとあることじゃないんだからね、おきゃくぐらいするのはあたりまえだよ。そうえんりょをおためでない」はははわたしがだいがくをそつぎょうしたのを、ちょうどよめでももらったとおなじていどに、おもくみているらしかった。「よばなくってもいいが、よばないとまたなんとかいうから」これはちちのことばであった。ちちはかれらのかげぐちをきにしていた. |
| 678 |
じっさいかれらはこんなばあいに、じぶんたちのよきとおりにならないと、すぐなんとかいいたがるひとびとであった。「とうきょうとちがっていなかはさばえいからね」ちちはこうもいった。「おとうさんのかおもあるんだから」とははがまたつけくわえた。わたしはわれをはるわけにもいかなかった。どうでもふたりのつごうのよいようにしたらとおもいだした. |
| 679 |
「つまりわたしのためなら、よしてくださいというだけなんです。かげでなにかいわれるのがいやだからというごしゅいなら、そりゃまたべつです。あなたがたにふりえきなことをわたしがしいてしゅちょうしたってしかたがありません」「そうりくつをいわれるとこまる」ちちはにがいかおをした。はははこうなるとおんなだけにしどろもどろなことをいった. |
| 680 |
そのかわりくちかずからいうと、ちちとわたしをふたりよせてもなかなかかなうどころではなかった。「がくもんをさせるとにんげんがとかくりくつっぽくなっていけない」ちちはただこれだけしかいわなかった。しかしわたしはこのかんたんないっくのうちに、ちちがへいぜいからわたしにたいしてもっているふへいのぜんたいをみた。わたしはこのおだやかなちちのまえにこだわらないあたまをさげた. |
| 681 |
わたしはちちとそうだんのうえしょうたいのひどりをきわめた。そのひどりのまだこないうちに、あるおおきなことがおこった。それはめいじてんのうのごびょうきのほうちであった。しんぶんしですぐにほんじゅうへしれわたったこのじけんは、いっけんのいなかやのうちにたしょうのきょくせつをへてようやくまとまろうとしたわたしのそつぎょういわいを、ごみのごとくにふきはらった. |
| 682 |
「まあ、ごえんりょもうしたほうがよかろう」めがねをかけてしんぶんをみていたちちはこういった。ちちはだまってじぶんのびょうきのこともかんがえているらしかった。わたしはついこのあいだのそつぎょうしきにれいねんのとおりだいがくへぎょうこうになったへいかをおもいだしたりした。こぜいなにんずうにはひろすぎるふるいいえがひっそりしているなかに、わたしはこうりをといてしょもつをひもときはじめた. |
| 683 |
なぜかわたしはきがおちつかなかった。あのめめめくるるしいとうきょうのげしゅくのにかいで、とおくはしるでんしゃのおとをみみにしながら、ぺーじをいっまいいちまいにまくっていくほうが、きにはりがあってこころもちよくべんきょうができた。わたしはややともするとつくえにもたれてかりねをした。じにはわざわざまくらさえだしてほんしきにひるねをどんぼることもあった. |
| 684 |
めがさめると、せみのこえをきいた。うつつからつづいているようなそのこえは、きゅうにやかましくみみのそこをかきみだした。わたしはじっとそれをききながら、ときにかなしいおもいをむねにいだいた。わたしはふでをとってともだちのだれかれにみじかいはがきまたはながいてがみをかいた。そのともだちのあるものはとうきょうにのこっていた. |
| 685 |
あるものはとおいこきょうにかえっていた。へんじのくるのも、おんしんのとどかないのもあった。わたしはもとよりせんせいをわすれなかった。げんこうしへこまじでさんまいばかりくにへかえってからいごのじぶんというようなものをだいもくにしてかきつづったのをおくることにした。わたしはそれをふうじるとき、せんせいははたしてまだとうきょうにいるだろうかとうたがった. |
| 686 |
せんせいがおくさんといっしょにたくをあけるばあいには、ごじゅうかっこうのきりさげのおんなのひとがどこからかきて、るすばんをするのがれいになっていた。わたしがかつてせんせいにあのひとはなにですかとたずねたら、せんせいはなにとみえますかとききかえした。わたしはそのひとをせんせいのしんるいとおもいちがえていた。せんせいは「わたしにはしんるいはありませんよ」. |
| 687 |
とこたえた。せんせいのきょうりにいるぞくきあいのひとびとと、せんせいはいっこうおんしんのとりやりをしていなかった。わたしのぎもんにしたそのるすばんのおんなのひとは、せんせいとはえんのないおくさんのほうのしんせきであった。わたしはせんせいにゆうびんをだすとき、ふとはばのほそいおびをらくにうしろでむすんでいるそのひとのすがたをおもいだした. |
| 688 |
もしせんせいふうふがどこかへひしょにでもおこなったあとへこのゆうびんがとどいたら、あのきりさげのおばあさんは、それをすぐてんちさきへおくってくれるだけのきてんとしんせつがあるだろうかなどとかんがえた。そのくせそのてがみのうちにはこれというほどのひつようのこともかいてないのを、わたしはよくしょうちしていた。ただわたしはさびしかった. |
| 689 |
そうしてせんせいからへんじのくるのをよきしてかかった。しかしそのへんじはついにこなかった。ちちはこのまえのふゆにかえってきたときほどしょうぎをさしたがらなくなった。しょうぎばんはほこりのたまったまま、とこのまのすみにかたよせられてあった。ことにへいかのごびょうきいごちちはじっとかんがえこんでいるようにみえた. |
| 690 |
まいにちしんぶんのくるのをまちうけて、じぶんがいちばんさきへよんだ。それからそのよみがらをわざわざわたしのいるところへもってきてくれた。「おいごらん、きょうもてんしさまのことがくわしくでている」ちちはへいかのことを、つねにてんしさまといっていた。「もったいないはなしだが、てんしさまのごびょうきも、おとうさんのとまあにたものだろうな」. |
| 691 |
こういうちちのかおにはふかいがかりねんのくもりがかかっていた。こういわれるわたしのむねにはまたちちがいつたおれるかわからないというしんぱいがひらめいた。「しかしだいじょうぶだろう。おれのようなくだらないものでも、まだこうしていられるくらいだから」ちちはじぶんのたっしゃなほしょうをじぶんであたえながら、いまにもおのれにおちかかってきそうなきけんをよかんしているらしかった. |
| 692 |
「おとうさんはほんとうにびょうきをこわがってるんですよ。おかあさんのおっしゃるように、じゅうねんもにじゅうねんもいきるきじゃなさそうですぜ」はははわたしのことばをきいてとうわくそうなかおをした。「ちょっとまたしょうぎでもさすようにすすめてごらんな」わたしはとこのまからしょうぎばんをとりおろして、ほこりをふいた. |
| 693 |
ちちのげんきはしだいにおとろえていった。わたしをおどろかせたハンケチつきのふるいむぎわらぼうしがしぜんとかんきゃくされるようになった。わたしはくろいすすけたたなのうえにのっているそのぼうしをながめるたびに、ちちにたいしてきのどくなおもいをした。ちちがいぜんのように、かるがるとうごくまは、もうすこしつつしんでくれたらとしんぱいした. |
| 694 |
ちちがじっとすわりこむようになると、やはりもとのほうがたっしゃだったのだというきがおこった。わたしはちちのけんこうについてよくははとはなしあった。「まったくきのせいだよ」とははがいった。ははのあたまはへいかのやまいとちちのやまいとをむすびつけてかんがえていた。わたしにはそうばかりともおもえなかった。「きじゃない. |
| 695 |
ほんとうにからだがわるかないんでしょうか。どうもきぶんよりけんこうのほうがわるくなっていくらしい」わたしはこういって、こころのうちでまたとおくからそうとうのいしゃでもよんで、ひとつみせようかしらとしあんした。「ことしのなつはおまえもなじらなかろう。せっかくそつぎょうしたのに、おいわいもしてあげることができず、おとうさんのからだもあのとおりだし. |
| 696 |
それにてんしさまのごびょうきで。――いっそのこと、かえるすぐにおきゃくでもよぶほうがよかったんだよ」わたしがかえったのはしちがつのご、むいかで、ちちやははがわたしのそつぎょうをいわうためにきゃくをよぼうといいだしたのは、それからいちしゅうかんごであった。そうしていよいよときわめたひはそれからまたいちしゅうかんのあまりもさきになっていた. |
| 697 |
じかんにそくばくをゆるさないゆうちょうないなかにかえったわたしは、おかげでこのもしくないしゃこうじょうのくつうからすくわれたもおなじことであったが、わたしをりかいしないはははすこしもそこにきがついていないらしかった。ほうぎょのほうちがつたえられたとき、ちちはそのしんぶんをてにして、「ああ、ああ」といった。「ああ、ああ、てんしさまもとうとうおかくれになる. |
| 698 |
おのれも....」ちちはそのあとをいわなかった。わたしはくろいうすものをかうためにまちへでた。それではたざおのたまをつつんで、それではたざおのさきへさんすんはばのひらひらをつけて、もんのとびらのよこからななめにおうらいへさしだした。はたもくろいひらひらも、かぜのないくうきのなかにだらりとさがった。わたしのたくのふるいもんのやねはわらでふいてあった. |
| 699 |
あめやかぜにうたれたりまたふかれたりしたそのわらのいろはとくにへんしょくして、うすくはいいろをおびたうえに、ところどころのでこぼこさえめについた。わたしはひとりもんのそとへでて、くろいひらひらと、しろいめりんすのちと、ちのなかにそめだしたあかいひのまるのいろとをながめた。それがうすぎたねないやねのわらにうつるのもながめた. |
| 700 |
わたしはかつてせんせいから「あなたのたくのかまえはどんなていさいですか。わたしのきょうりのかたとはだいぶおもむきがちがっていますかね」ときかれたことをおもいだした。わたしはじぶんのうまれたこのふるいいえを、せんせいにみせたくもあった。またせんせいにみせるのがはずかしくもあった。わたしはまたひとりいえのなかへはいった. |
| 701 |
じぶんのつくえのおいてあるところへきて、しんぶんをよみながら、とおいとうきょうのありさまをそうぞうした。わたしのそうぞうはにほんいちのおおきなとが、どんなにくらいなかでどんなにうごいているだろうかのがめんにあつめられた。わたしはそのくろいなりにうごかなければしまつのつかなくなったとかいの、ふあんでざわざわしているなかに、いってんのとうかのごとくにせんせいのいえをみた. |
| 702 |
わたしはそのときこのとうかがおとのしないうずのなかに、しぜんとまきこまれていることにきがつかなかった。しばらくすれば、そのひもまたふっときえてしまうべきうんめいを、めのまえにひかえているのだとはもとよりきがつかなかった。わたしはこんどのじけんについてせんせいにてがみをかこうかとおもって、ふでをとりかけた。わたしはそれをじゅうぎょうばかりかいてやめた. |
| 703 |
かいたところはすんずんにひきさいてくずかごへなげこんだ。(せんせいにあててそういうことをかいてもしかたがないともおもったし、ぜんれいにちょうしてみると、とてもへんじをくれそうになかったから)。わたしはさびしかった。それでてがみをかくのであった。そうしてへんじがくればいいとおもうのであった。はちがつのなかばごろになって、わたしはあるほうゆうからてがみをうけとった. |
| 704 |
そのなかにちほうのちゅうがくきょういんのくちがあるがいかないかとかいてあった。このほうゆうはけいざいのひつようじょう、じぶんでそんないちをさがしまわるおとこであった。このくちもはじめはじぶんのところへかかってきたのだが、もっとよいちほうへそうだんができたので、あまったほうをわたしにゆずるきで、わざわざしらせてきてくれたのであった. |
| 705 |
わたしはすぐへんじをだしてことわった。しりあいのなかには、ずいぶんほねをおって、きょうしのしょくにありつきたがっているものがあるから、そのほうへまわしてやったらよかろうとかいた。わたしはへんじをだしたあとで、ちちとははにそのはなしをした。ふたりともわたしのことわったことにいぞんはないようであった。「そんなところへいかないでも、まだよいくちがあるだろう」. |
| 706 |
こういってくれるうらに、わたしはふたりがわたしにたいしてもっているかぶんなきぼうをよんだ。うかつなちちやははは、ふそうとうなちいとしゅうにゅうとをそつぎょうしたてのわたしからきたいしているらしかったのである。「そうとうのくちって、ちかごろじゃそんなうまいくちはなかなかあるものじゃありません。「しかしそつぎょうしたいじょうは、すくなくともどくりつしてやっていってくれなくっちゃこっちもこまる. |
| 707 |
ひとからあなたのところのごじなんは、だいがくをそつぎょうなすってなにをしておでですかときかれたときにへんじができないようじゃ、おれもかたみがせまいから」ちちはじゅうめんをつくった。ちちのかんがえは、ふるくすみなれたきょうりからそとへでることをしらなかった。わたしのほうでも、じっさいそういうにんげんのようなきもちをおりおりおこした. |
| 708 |
わたしはあからさまにじぶんのかんがえをうちあけるには、あまりにきょりのけんかくのはなはだしいちちとははのまえにもくぜんとしていた。「おまえのよくせんせいせんせいというかたにでもおねがいしたらいいじゃないか。こんなときこそ」はははこうよりそとにせんせいをかいしゃくすることができなかった。そつぎょうしたから、ちいのしゅうせんをしてやろうというひとではなかった. |
| 709 |
「そのせんせいはなにをしているのかい」とちちがきいた。「なんにもしていないんです」とわたしがこたえた。わたしはとくのむかしからせんせいのなにもしていないということをちちにもははにもつげたつもりでいた。そうしてちちはたしかにそれをきおくしているはずであった。「なにもしていないというのは、またどういうわけかね. |
| 710 |
おまえがそれほどそんけいするくらいなひとならなんかやっていそうなものだがね」ちちはこういって、わたしをふうした。ちちのかんがえでは、やくにたつものはよのなかへでてみんなそうとうのちいをえてはたらいている。ひっきょうやくざだからあそんでいるのだとけつろんしているらしかった。「おれのようなにんげんだって、げっきゅうこそもらっちゃいないが、これでもあそんでばかりいるんじゃない」. |
| 711 |
ちちはこうもいった。わたしはそれでもまだだまっていた。「おまえのいうようなえらいかたなら、きっとなんかくちをさがしてくださるよ。たのんでごらんなのかい」とははがきいた。「いいえ」とわたしはこたえた。「じゃしかたがないじゃないか。なぜたのまないんだい。てがみでもいいからおだしな」「ええ」わたしはせいへんじをしてせきをたった. |
| 712 |
ちちはあきらかにじぶんのびょうきをおそれていた。しかしいしゃのくるたびにさばえいしつもんをかけてあいてをこまらすしつでもなかった。いしゃのほうでもまたえんりょしてなにともいわなかった。ちちはしごのことをかんがえているらしかった。すくなくともじぶんがいなくなったあとのわがやをそうぞうしてみるらしかった。「こどもにがくもんをさせるのも、よしあしだね. |
| 713 |
せっかくしゅぎょうをさせると、そのこどもはけっしてたくへかえってこない。これじゃてもなくおやこをかくりするためにがくもんさせるようなものだ」がくもんをしたけっかあにはいまおんごくにいた。きょういくをうけたいんがで、わたしはまたとうきょうにすむかくごをかたくした。こういうこをそだてたちちのぐちはもとよりふごうりではなかった. |
| 714 |
えいねんすみふるしたいなかやのなかに、たったひとりとりのこされそうなははをえがきだすちちのそうぞうはもとよりさびしいにちがいなかった。わがやはうごかすことのできないものとちちはしんじきっていた。そのなかにすむははもまたいのちのあるあいだは、うごかすことのできないものとしんじていた。それだのに、とうきょうでよいちいをもとめろといって、わたしをつよいたがるちちのあたまにはむじゅんがあった. |
| 715 |
わたしはそのむじゅんをおかしくおもったとどうじに、そのおかげでまたとうきょうへでられるのをよろこんだ。わたしはちちやははのてまえ、このちいをできるだけのどりょくでもとめつつあるごとくによそおおわなくてはならなかった。わたしはせんせいにてがみをかいて、いえのじじょうをくわしくのべた。もしじぶんのちからでできることがあったらなんでもするからしゅうせんしてくれとたのんだ. |
| 716 |
わたしはせんせいがわたしのいらいにとりあうまいとおもいながらこのてがみをかいた。またとりあうつもりでも、せけんのせまいせんせいとしてはどうすることもできまいとおもいながらこのてがみをかいた。しかしわたしはせんせいからこのてがみにたいするへんじがきっとくるだろうとおもってかいた。わたしはそれをふうじてだすまえにははにむかっていった. |
| 717 |
「せんせいにてがみをかきましたよ。あなたのおっしゃったとおり。ちょっとよんでごらんなさい」はははわたしのそうぞうしたごとくそれをよまなかった。「そうかい、それじゃはやくおだし。そんなことはほかがきをつけないでも、じぶんではやくやるものだよ」はははわたしをまだこどものようにおもっていた。わたしもじっさいこどものようなかんじがした. |
| 718 |
「しかしてがみじゃようはたりませんよ。どうせ、くがつにでもなって、わたしがとうきょうへでてからでなくっちゃ」「そりゃそうかもしれないけれども、またひょっとして、どんなよいくちがないともかぎらないんだから、はやくたのんでおくにこしたことはないよ」「ええ。とにかくへんじはくるにきまってますから、そうしたらまたおはなししましょう」. |
| 719 |
わたしはこんなことにかけてきちょうめんなせんせいをしんじていた。わたしはせんせいのへんじのくるのをこころまちにまった。けれどもわたしのよきはついにはずれた。せんせいからはいちしゅうかんたってもなにのおんしんもなかった。「おおかたどこかへひしょにでもいっているんでしょう」わたしはははにむかっていいわけらしいことばをつかわなければならなかった. |
| 720 |
そうしてそのことばはははにたいするいいわけばかりでなく、じぶんのこころにたいするいいわけでもあった。わたしはつよいてもなにかのじじょうをかていしてせんせいのたいどをべんごしなければふあんになった。わたしはときどきちちのびょうきをわすれた。いっそはやくとうきょうへでてしまおうかとおもったりした。そのちちじしんもおのれのびょうきをわすれることがあった. |
| 721 |
みらいをしんぱいしながら、みらいにたいするところおけはいっこうとらなかった。わたしはついにせんせいのちゅうこくとおりざいさんぶんぱいのことをちちにいいだすきかいをえずにすぎた。くがつはじめになって、わたしはいよいよまたとうきょうへでようとした。わたしはちちにむかってとうぶんいままでとおりがくしをおくってくれるようにとたのんだ. |
| 722 |
「ここにこうしていたって、あなたのおっしゃるとおりのちいがえられるものじゃないですから」わたしはちちのきぼうするちいをえるためにとうきょうへいくようなことをいった。「むろんくちのみつかるまででよいですから」ともいった。わたしはこころのうちで、そのくちはとうていわたしのあたまのうえにおちてこないとおもっていた. |
| 723 |
けれどもじじょうにうといちちはまたあくまでもそのはんたいをしんじていた。「そりゃわずかのあいだのことだろうから、どうにかつごうしてやろう。そのかわりながくはいけないよ。そうとうのちいをえしだいどくりつしなくっちゃ。がんらいがっこうをでたいじょう、でたあくるひからたのせわになんぞなるものじゃないんだから。ちちはこのそとにもまだいろいろのこごとをいった. |
| 724 |
そのなかには、「むかしのおやはこにくわせてもらったのに、いまのおやはこにくわれるだけだ」などということばがあった。それらをわたしはただだまってきいていた。こごとがひととおりすんだとおもったとき、わたしはしずかにせきをたとうとした。ちちはいついくかとわたしにたずねた。わたしにははやいだけがよかった。「おかあさんにひをみてもらいなさい」. |
| 725 |
「そうしましょう」そのときのわたしはちちのまえにぞんがいおとなしかった。わたしはなるべくちちのきげんにさからわずに、いなかをでようとした。ちちはまたわたしをひきとめた。「おまえがとうきょうへいくとたくはまたさびしくなる。なにしろおのれとおかあさんだけなんだからね。そのおれもからださえたっしゃならいいが、このようすじゃいつきゅうにどんなことがないともいえないよ」. |
| 726 |
わたしはできるだけちちをなぐさめて、じぶんのつくえをおいてあるところへかえった。わたしはとりちらしたしょもつのあいだにすわって、こころぼそそうなちちのたいどとことばとを、いくどかくりかえしながめた。わたしはそのときまたせみのこえをきいた。そのこえはこのあいだじゅうきいたのとちがって、つくつくぼうしのこえであった. |
| 727 |
わたしはなつきょうりにかえって、にえつくようなせみのこえのなかにじっとすわっていると、へんにかなしいこころもちになることがしばしばあった。わたしのあいしゅうはいつもこのむしのはげしいおととともに、こころのそこにしみこむようにかんぜられた。わたしはそんなときにはいつもうごかずに、ひとりでひとりをみつめていた。わたしのあいしゅうはこのなつきせいしたいごしだいにじょうちょうをかえてきた. |
| 728 |
あぶらぜみのこえがつくつくぼうしのこえにかわるごとくに、わたしをとりまくひとのうんめいが、おおきなりんねのうちに、そろそろうごいているようにおもわれた。わたしはさびしそうなちちのたいどとことばをくりかえしながら、てがみをだしてもへんじをよこさないせんせいのことをまたおもいうかべた。わたしはほとんどちちのすべてもしりつくしていた. |
| 729 |
もしちちをはなれるとすれば、じょうあいのうえにおやこのこころのこりがあるだけであった。せんせいのおおくはまだわたしにわかっていなかった。はなすとやくそくされたそのひとのかこもまだきくきかいをえずにいた。ようするにせんせいはわたしにとってうすぐらかった。わたしはぜひともそこをとおりこして、あかるいところまでいかなければきがすまなかった. |
| 730 |
せんせいとかんけいのたえるのはわたしにとっておおいなくつうであった。わたしはははにひをみてもらって、とうきょうへたつひどりをきわめた。わたしがいよいよたとうというまぎわになって、(たしかふつかまえのゆうがたのことであったとおもうが、)ちちはまたとつぜんひっくりかえった。わたしはそのときしょもつやいるいをつめたこうりをからげていた. |
| 731 |
ちちはふろへはいったところであった。ちちのせなかをながしにいったははがおおきなこえをだしてわたしをよんだ。わたしはらたいのままははにうしろからいだかれているちちをみた。それでもざしきへつれてもどったとき、ちちはもうだいじょうぶだといった。ねんのためにまくらもとにすわって、そおちてぬぐいでちちのあたまをひやしていたわたしは、くじころになってようやくかたちばかりのやしょくをすました. |
| 732 |
よくじつになるとちちはおもったよりげんきがよかった。とめるのもきかずにあるいてべんじょへいったりした。「もうだいじょうぶ」ちちはきょねんのくれたおれたときにわたしにむかっていったとおなじことばをまたくりかえした。そのときははたしてくちでいったとおりまあだいじょうぶであった。わたしはこんどもあるいはそうなるかもしれないとおもった. |
| 733 |
しかしいしゃはただようじんがかんようだとちゅういするだけで、ねんをおしてもはんぜんしたことをはなしてくれなかった。わたしはふあんのために、しゅったつのひがきてもついにとうきょうへたつきがおこらなかった。「もうすこしようすをみてからにしましょうか」とわたしはははにそうだんした。「そうしておくれ」とははがたのんだ. |
| 734 |
はははちちがにわへでたりせどへおりたりするげんきをみているあいだだけはへいきでいるくせに、こんなことがおこるとまたひつよういじょうにしんぱいしたりきをもんだりした。「おまえはきょうとうきょうへいくはずじゃなかったか」とちちがきいた。「ええ、すこしのばしました」とわたしがこたえた。「おれのためにかい」とちちがききかえした. |
| 735 |
わたしはちょっとちゅうちょした。そうだといえば、ちちのびょうきのおもいのをうらがきするようなものであった。わたしはちちのしんけいをかびんにしたくなかった。しかしちちはわたしのこころをよくみぬいているらしかった。「きのどくだね」といって、にわのほうをむいた。わたしはじぶんのへやにはいって、そこにほうりだされたこうりをながめた. |
| 736 |
こうりはいつもちだしてもさしつかえないように、かたくくくられたままであった。わたしはぼんやりそのまえにたって、またなわをとこうかとかんがえた。わたしはすわったままこしをうかしたときのおちつかないきぶんで、またさんよっかをすごした。するとちちがまたそっとうした。いしゃはぜったいにあんがをめいじた。「どうしたものだろうね」. |
| 737 |
とははがちちにきこえないようなちいさなこえでわたしにいった。ははのかおはいかにもこころぼそそうであった。わたしはあにといもうとにでんぽうをうつよういをした。けれどもねているちちにはほとんどなんのくもんもなかった。はなしをするところなどをみると、かぜでもひいたときとまったくおなじことであった。そのうえしょくよくはふだんよりもすすんだ. |
| 738 |
そばのものが、ちゅういしてもよういにいうことをきかなかった。「どうせしぬんだから、うまいものでもくってしななくっちゃ」わたしにはうまいものというちちのことばがこっけいにもひさんにもきこえた。ちちはうまいものをくちにいれられるみやこにはすんでいなかったのである。よるにはいってかきもちなどをやいてもらってぼりぼりかんだ. |
| 739 |
「どうしてこうかわくのかね。やっぱりこころにじょうぶのところがあるのかもしれないよ」はははしつぼうしていいところにかえってたのみをおいた。そのくせびょうきのときにしかつかわないかわくというむかしふうのことばを、なにでもたべたがるいみにもちいていた。おじがみまいにきたとき、ちちはいつまでもひきとめてかえさなかった. |
| 740 |
さびしいからもっといてくれというのがおもなりゆうであったが、ははやわたしが、たべたいだけものをたべさせないというふへいをうったえるのも、そのもくてきのひとつであったらしい。ちちのびょうきはおなじようなじょうたいでいちしゅうかんいじょうつづいた。わたしはそのあいだにながいてがみをきゅうしゅうにいるにいあてでだした. |
| 741 |
いもうとへはははからださせた。わたしははらのなかで、おそらくこれがちちのけんこうにかんしてふたりへやるさいごのおんしんだろうとおもった。それでりょうほうへいよいよというばあいにはでんぽうをうつからでてこいといういみをかきこめた。あにはいそがしいしょくにいた。いもうとはにんしんちゅうであった。だからちちのきけんがめのまえにせまらないうちによびよせるじゆうはきかなかった. |
| 742 |
といって、せっかくつごうしてきたにはきたが、まにあわなかったといわれるのもつらかった。わたしはでんぽうをかけるじきについて、ひとのしらないせきにんをかんじた。「そうはんぜんりしたことになるとわたしにもわかりません。しかしきけんはいつくるかわからないということだけはしょうちしていてください」ていしゃじょうのあるまちからむかえたいしゃはわたしにこういった. |
| 743 |
わたしはははとそうだんして、そのいしゃのしゅうせんで、まちのびょういんからかんごふをひとりたのむことにした。ちちはまくらもとへきてあいさつするしろいふくをきたおんなをみてへんなかおをした。ちちはしびょうにかかっていることをとうからじかくしていた。それでいて、がんぜんにせまりつつあるしそのものにはきがつかなかった. |
| 744 |
「いまになおったらもういっぺんとうきょうへあそびにいってみよう。にんげんはいつしぬかわからないからな。なにでもやりたいことは、いきてるうちにやっておくにかぎる」はははしかたなしに「そのときはわたしもいっしょにつれていっていただきましょう」などとちょうしをあわせていた。ときとするとまたひじょうにさびしがった. |
| 745 |
「おれがしんだら、どうかおかあさんをだいじにしてやってくれ」わたしはこの「おれがしんだら」ということばにいっしゅのきおくをもっていた。とうきょうをたつとき、せんせいがおくさんにむかってなんぺんもそれをくりかえしたのは、わたしがそつぎょうしたひのばんのことであった。わたしはわらいをおびたせんせいのかおと、えんきでもないとみみをふさいだおくさんのようすとをおもいだした. |
| 746 |
あのときの「おれがしんだら」はたんじゅんなかていであった。いまわたしがきくのはいつおこるかわからないじじつであった。わたしはせんせいにたいするおくさんのたいどをまなぶことができなかった。しかしくちのさきではなにとかちちをまぎらさなければならなかった。「そんなよわいことをおっしゃっちゃいけませんよ。いまになおったらとうきょうへあそびにいらっしゃるはずじゃありませんか. |
| 747 |
おかあさんといっしょに。こんどいらっしゃるときっとびっくりしますよ、かわっているんで。でんしゃのあたらしいせんろだけでもたいへんふえていますからね。でんしゃがとおるようになればしぜんまちなみもかわるし、そのうえにしくかいせいもあるし、とうきょうがじっとしているときは、まあにろくじちゅういちぷんもないといっていいくらいです」. |
| 748 |
わたしはしかたがないからいわないでいいことまでしゃべった。ちちはまた、まんぞくらしくそれをきいていた。びょうにんがあるのでしぜんかのでいりもおおくなった。きんじょにいるしんるいなどは、ふつかにひとりぐらいのわりでかわるがわるみまいにきた。なかにはひかくてきとおくにいてへいぜいそえんなものもあった。「どうかとおもったら、このようすじゃだいじょうぶだ. |
| 749 |
はなしもじゆうだし、だいちかおがちっともやせていないじゃないか」などといってかえるものがあった。わたしのかえったとうじはひっそりしすぎるほどしずかであったかていが、こんなことでだんだんざわざわしはじめた。そのなかにうごかずにいるちちのびょうきは、ただおもしろくないほうへうつっていくばかりであった。わたしはははやおじとそうだんして、とうとうあにといもうとにでんぽうをうった. |
| 750 |
あにからはすぐいくというへんじがきた。いもうとのおっとからもたつというほうちがあった。いもうとはこのまえかいにんしたときにりゅうざんしたので、こんどこそはくせにならないようにだいじをとらせるつもりだと、かねていいこしたそのおっとは、いもうとのかわりにじぶんででてくるかもしれなかった。こうしたおちつきのないあいだにも、わたしはまだしずかにすわるよゆうをもっていた. |
| 751 |
たまにはしょもつをあけてじっぺーじもつづけざまによむじかんさえでてきた。いったんかたくくくられたわたしのこうりは、いつのあいだにかとかれてしまった。わたしはいるにまかせて、そのなかからいろいろなものをとりだした。わたしはとうきょうをたつとき、こころのうちできわめた、このなつじゅうのにっかをかえりみた。わたしのやったことはこのにっかのさんがいちにもたらなかった. |
| 752 |
わたしはいままでもこういうふゆかいをなんどとなくかさねてきた。しかしこのなつほどおもったとおりしごとのはこばないれいもすくなかった。これがひとのよのつねだろうとおもいながらもわたしはいやなきもちにおさえつけられた。わたしはこのふかいのうらにすわりながら、いっぽうにちちのびょうきをかんがえた。ちちのしんだあとのことをそうぞうした. |
| 753 |
そうしてそれとどうじに、せんせいのことをいっぽうにおもいうかべた。わたしはこのふかいなこころもちのりょうたんにちい、きょういく、せいかくのぜんぜんことなったふたりのおもかげをながめた。わたしがちちのまくらもとをはなれて、ひとりとりみだしたしょもつのなかにうでぐみをしているところへははがかおをだした。「すこしひるねむりでもおしよ. |
| 754 |
おまえもさぞくたびれるだろう」はははわたしのきぶんをりょうかいしていなかった。わたしもははからそれをよきするほどのこどもでもなかった。わたしはたんかんにれいをのべた。はははまだへやのいりぐちにたっていた。「おとうさんは?」とわたしがきいた。「いまよくねておでだよ」とははがこたえた。はははとつぜんはいってきてわたしのそばにすわった. |
| 755 |
「せんせいからまだなんともいってこないかい」ときいた。はははそのときのわたしのことばをしんじていた。そのときのわたしはせんせいからきっとへんじがあるとははにほしょうした。しかしちちやははのきぼうするようなへんじがくるとは、そのときのわたしもまるできたいしなかった。わたしはこころえがあってははをあざむいたとおなじけっかにおちいった. |
| 756 |
「もういっぺんてがみをだしてごらんな」とははがいった。やくにたたないてがみをなんつうかこうと、それがははのいあんになるなら、てすうをいとうようなわたしではなかった。けれどもこういうようけんでせんせいにせまるのはわたしのくつうであった。わたしはちちにしかられたり、ははのきげんをそんじたりするよりも、せんせいからみさげられるのをはるかにおそれていた. |
| 757 |
あのいらいにたいしていままでへんじのもらえないのも、あるいはそうしたわけからじゃないかしらというじゃすいもあった。「てがみをかくのはわけはないですが、こういうことはゆうびんじゃとてもらちはあきませんよ。どうしてもじぶんでとうきょうへでて、じかにたのんでまわらなくっちゃ」「だっておとうさんがあのようすじゃ、おまえ、いつとうきょうへでられるかわからないじゃないか」. |
| 758 |
「だからでやしません。なおるともなおらないともかたづかないうちは、ちゃんとこうしているつもりです」「そりゃわかりきったはなしだね。いまにもむずかしいというだいびょうにんをはなちらかしておいて、だれがかってにとうきょうへなんかいけるものかね」わたしははじめこころのなかで、なにもしらないははをあわれんだ。そのとき「じつはね」. |
| 759 |
とははがいいだした。「じつはおとうさんのいきておでのうちに、おまえのくちがきまったらさぞあんしんなさるだろうとおもうんだがね。このようすじゃ、とてもまにあわないかもしれないけれども、それにしても、まだああやってくちもたしかならきもたしかなんだから、ああしておでのうちによろこばしてあげるようにおやこうこうをおしな」. |
| 760 |
あわれなわたしはおやこうこうのできないきょうぐうにいた。わたしはついにいっこうのてがみもせんせいにださなかった。あにがかえってきたとき、ちちはねながらしんぶんをよんでいた。ちちはへいぜいからなにをおいてもしんぶんだけにはめをとおすしゅうかんであったが、ゆかについてからは、たいくつのためなおさらそれをよみたがった. |
| 761 |
ははもわたしもつよいてははんたいせずに、なるべくびょうにんのおもいとおりにさせておいた。「そういうげんきならけっこうなものだ。よっぽどわるいかとおもってきたら、たいへんよいようじゃありませんか」あにはこんなことをいいながらちちとはなしをした。そのにぎやかすぎるちょうしがわたしにはかえってふちょうわにきこえた. |
| 762 |
それでもちちのまえをはずしてわたしとさしむかいになったときは、むしろしずんでいた。「しんぶんなんかよましちゃいけなかないか」「わたしもそうおもうんだけれども、よまないとしょうちしないんだから、しようがない」あにはわたしのべんかいをだまってきいていた。やがて、「よくわかるのかな」といった。「そりゃたしかです. |
| 763 |
わたしはさっきにじゅうぷんばかりまくらもとにすわっていろいろはなしてみたが、ちょうしのくるったところはすこしもないです。あのようすじゃことによるとまだなかなかもつかもしれませんよ」あにとぜんごしてついたいもうとのおっとのいけんは、われわれよりもよほどらっかんてきであった。ちちはかれにむかっていもうとのことをあれこれとたずねていた. |
| 764 |
「からだがからだだからむやみにきしゃになんぞのってゆれないほうがいい。むりをしてみまいにこられたりすると、かえってこっちがしんぱいだから」といっていた。「なにいまになおったらあかんぼうのかおでもみに、ひさしぶりにこっちからでかけるからさしつかえない」ともいっていた。のぎたいしょうのしんだときも、ちちはいちばんさきにしんぶんでそれをしった. |
| 765 |
「たいへんだたいへんだ」といった。なにごともしらないわたしたちはこのとつぜんなことばにおどろかされた。「あのときはいよいよあたまがへんになったのかとおもって、ひやりとした」とあとであにがわたしにいった。「わたしもじつはおどろきました」といもうとのおっともどうかんらしいことばつきであった。そのころのしんぶんはじっさいいなかものにはひごとにまちうけられるようなきじばかりあった. |
| 766 |
わたしはちちのまくらもとにすわってていやすしにそれをよんだ。よむじかんのないときは、そっとじぶんのへやへもってきて、のこらずめをとおした。わたしのめはながいあいだ、ぐんぷくをきたのぎたいしょうと、それからかんじょみたようなふくそうをしたそのふじんのすがたをわすれることができなかった。ようふくをきたひとをみるといぬがほえるようなところでは、いっつうのでんぽうすらだいじけんであった. |
| 767 |
それをうけとったははは、はたしておどろいたようなようすをして、わざわざわたしをひとのいないところへよびだした。「なにだい」といって、わたしのふうをひらくのをそばにたってまっていた。でんぽうにはちょっとあいたいがこられるかといういみがかんたんにかいてあった。わたしはくびをかたむけた。「きっとおたのもうしておいたくちのことだよ」. |
| 768 |
とははがすいだんしてくれた。わたしもあるいはそうかもしれないとおもった。しかしそれにしてはすこしへんだともかんがえた。とにかくあにやいもうとのおっとまでよびよせたわたしが、ちちのびょうきをうちつかって、とうきょうへいくわけにはいかなかった。わたしはははとそうだんして、いかれないというへんでんをうつことにした. |
| 769 |
できるだけかんりゃくなことばでちちのびょうきのきとくにおちいりつつあるむねもつけくわえたが、それでもきがすまなかったから、いさいてがみとして、こまかいじじょうをそのひのうちにみとめてゆうびんでだした。たのんだいちのこととばかりしんじきったははは、「ほんとうにまのわるいときはしかたのないものだね」といってざんねんそうなかおをした. |
| 770 |
わたしのかいたてがみはかなりながいものであった。ははもわたしもこんどこそせんせいからなにとかいってくるだろうとかんがえていた。するとてがみをだしてふつかめにまたでんぽうがわたしあてでとどいた。それにはこないでもよろしいというもんくだけしかなかった。わたしはそれをははにみせた。「おおかたてがみでなにとかいってきてくださるつもりだろうよ」. |
| 771 |
はははどこまでもせんせいがわたしのためにいしょくのくちをしゅうせんしてくれるものとばかりかいしゃくしているらしかった。わたしもあるいはそうかともかんがえたが、せんせいのへいぜいからおしてみると、どうもへんにおもわれた。「せんせいがくちをさがしてくれる」。これはありえべからざることのようにわたしにはみえた。わたしはははにむかってこんなわかりきったことをいった. |
| 772 |
はははまたもっともらしくしあんしながら「そうだね」とこたえた。わたしのてがみをよまないまえに、せんせいがこのでんぽうをうったということが、せんせいをかいしゃくするうえにおいて、なにのやくにもたたないのはしれているのに。そのひはちょうどしゅじいがまちからいんちょうをつれてくるはずになっていたので、ははとわたしはそれぎりこのじけんについてはなしをするきかいがなかった. |
| 773 |
ふたりのいしゃはたちあいのうえ、びょうにんにかんちょうなどをしてかえっていった。ちちはいしゃからあんがをめいぜられていらい、りょうべんともねたままほかのてでしまつしてもらっていた。けっぺきなちちは、さいしょのあいだこそはなはだしくそれをいみきらったが、からだがきかないので、やむをえずいやいやゆかのうえでようをたした. |
| 774 |
それがびょうきのかげんであたまがだんだんにぶくなるのかなにだか、ひをへるにしたがって、ぶしょうなはいせつをいとしないようになった。たまにはふとんやしきふをよごして、そばのものがまゆをよせるのに、とうにんはかえってへいきでいたりした。もっともにょうのりょうはびょうきのせいしつとして、きわめてすくなくなった。いしゃはそれをくにした. |
| 775 |
しょくよくもしだいにおとろえた。たまになんかほしがっても、したがほしがるだけで、のどからしたへはごくすくねしかとおらなかった。すきなしんぶんもてにとるきりょくがなくなった。まくらのそばにあるろうがんきょうは、いつまでもくろいさやにおさめられたままであった。といって、どんよりしためをつくるさんのほうにむけた。「つくるさんよくきてくれた. |
| 776 |
つくるさんはじょうぶでうらやましいね。おのれはもうだめだ」「そんなことはないよ。おまえなんかこどもはふたりともだいがくをそつぎょうするし、すこしぐらいびょうきになったって、もうしぶんはないんだ。おれをごらんよ。かかあにはしなれるしさ、こどもはなしさ。ただこうしていきているだけのことだよ。たっしゃだってなにのたのしみもないじゃないか」. |
| 777 |
かんちょうをしたのはつくるさんがきてからにさんにちあとのことであった。ちちはいしゃのおかげでたいへんらくになったといってよろこんだ。すこしじぶんのじゅみょうにたいするどきょうができたというふうにきげんがなおった。そばにいるわたしはむずがゆいこころもちがしたが、ははのことばをさえぎるわけにもゆかないので、だまってきいていた. |
| 778 |
びょうにんはうれしそうなかおをした。「そりゃけっこうです」といもうとのおっともいった。「なにのくちだかまだわからないのか」とあにがきいた。わたしはいまさらそれをひていするゆうきをうしなった。じぶんにもなにともわけのわからないあいまいなへんじをして、わざとせきをたった。ちちのびょうきはさいごのいちげきをまつまぎわまですすんできて、そこでしばらくちゅうちょするようにみえた. |
| 779 |
いえのものはうんめいのせんこくが、きょうくだるか、きょうくだるかとおもって、まいよゆかにはいった。ちちはそばのものをつらくするほどのくつうをどこにもかんじていなかった。そのてんになるとかんびょうはむしろらくであった。ようじんのために、だれかひとりぐらいずつかわるがわるおきてはいたが、あとのものはそうとうのじかんにかくじのねどこへひきとってさしつかえなかった. |
| 780 |
なにかのひょうしでねむれなかったとき、びょうにんのうなるようなこえをかすかにきいたとおもいあやまったわたしは、いっぺんはんやにゆかをぬけだして、ねんのためちちのまくらもとまでいってみたことがあった。そのよるはははがおきているばんにあたっていた。しかしそのはははちちのよこにひじをまげてまくらとしたなりねいっていた. |
| 781 |
ちちもふかいねむりのうらにそっとおかれたひとのようにしずかにしていた。わたしはしのびあしでまたじぶんのねどこへかえった。わたしはあにといっしょのかやのなかにねた。いもうとのおっとだけは、きゃくあつかいをうけているせいか、ひとりはなれたざしきにはいってやすんだ。「せきさんもきのどくだね。ああいくかもひっぱられてかえれなくっちゃあ」. |
| 782 |
せきというのはそのひとのみょうじであった。「しかしそんないそがしいからだでもないんだから、ああしてとまっていてくれるんでしょう。せきさんよりもにいさんのほうがこまるでしょう、こうながくなっちゃ」「こまってもしかたがない。そとのこととちがうからな」あにとゆかをならべてねるわたしは、こんなねものがたりをした。どうせたすからないものならばというかんがえもあった. |
| 783 |
われわれはことしておやのしぬのをまっているようなものであった。しかしことしてのわれわれはそれをことばのうえにあらわすのをはばかった。そうしておたがいにおたがいがどんなことをおもっているかをよくりかいしあっていた。「おとうさんは、まだなおるきでいるようだな」とあにがわたしにいった。じっさいあにのいうとおりにみえるところもないではなかった. |
| 784 |
きんじょのものがみまいにくると、ちちはかならずあうといってしょうちしなかった。あえばきっと、わたしのそつぎょういわいによぶことができなかったのをざんねんがった。そのかわりじぶんのびょうきがなおったらというようなこともときどきつけくわえた。「おまえのそつぎょういわいはやめになってけっこうだ。おれのときにはよわったからね」. |
| 785 |
とあにはわたしのきおくをつつッついた。わたしはアルコールにあおられたそのときのらんざつなありさまをおもいだしてくしょうした。のむものやくうものをしいてまわるちちのたいども、にがにがしくわたしのめにうつった。わたしたちはそれほどなかのよいきょうだいではなかった。ちいさいうちはよくけんかをして、としのすくないわたしのほうがいつでもなかされた. |
| 786 |
がっこうへはいってからのせんもんのそういも、まったくせいかくのそういからでていた。だいがくにいるじぶんのわたしは、ことにせんせいにせっしょくしたわたしは、とおくからあにをながめて、つねにどうぶつてきだとおもっていた。わたしはながくあににあわなかったので、またかけへだたったとおくにいたので、ときからいってもきょりからいっても、あにはいつでもわたしにはちかくなかったのである. |
| 787 |
それでもひさしぶりにこうおちあってみると、きょうだいのやさしいこころもちがどこからかしぜんにわいてでた。ばあいがばあいなのもそのおおきなみなもともとになっていた。ふたりにきょうつうなちち、そのちちのしのうとしているまくらもとで、あにとわたしはあくしゅしたのであった。「おまえこれからどうする」とあにはきいた。わたしはまたまったくけんとうのちがったしつもんをあににかけた. |
| 788 |
「いったいかのざいさんはどうなってるんだろう」「おれはしらない。おとうさんはまだなんともいわないから。しかしざいさんっていったところでかねとしてはたかのしれたものだろう」はははまたははでせんせいのへんじのくるのをくにしていた。「まだてがみはこないかい」とわたしをせめた。「せんせいせんせいというのはいったいだれのことだい」. |
| 789 |
とあにがきいた。「こないだはなしたじゃないか」とわたしはこたえた。わたしはじぶんでしつもんをしておきながら、すぐたのせつめいをわすれてしまうあににたいしてふかいのねんをおこした。「きいたことはきいたけれども」あにはひっきょうきいてもわからないというのであった。わたしからみればなにもむりにせんせいをあににりかいしてもらうひつようはなかった. |
| 790 |
けれどもはらはたった。またれいのあにらしいところがでてきたとおもった。せんせいせんせいとわたしがそんけいするいじょう、そのひとはかならずちょめいのしでなくてはならないようにあにはかんがえていた。すくなくともだいがくのきょうじゅぐらいだろうとすいさつしていた。めいもないひと、なにもしていないひと、それがどこにかちをもっているだろう. |
| 791 |
あにのはらはこのてんにおいて、ちちとまったくおなじものであった。けれどもちちがなにもできないからあそんでいるのだとそくだんするのにひきかえて、あにはなにかやれるのうりょくがあるのに、ぶらぶらしているのはなじらんにんげんにかぎるといったかぜのくちぶりをもらした。「イゴイストはいけないね。なにもしないでいきていようというのはおうちゃくなりょうけんだからね. |
| 792 |
ひとはじぶんのもっているさいのうをできるだけはたらかせなくっちゃうそだ」わたしはあににむかって、じぶんのつかっているイゴイストということばのいみがよくわかるかとききかえしてやりたかった。「それでもそのひとのおかげでちいができればまあけっこうだ。おとうさんもよろこんでるようじゃないか」あにはあとからこんなことをいった. |
| 793 |
せんせいからめいりょうなてがみのこないいじょう、わたしはそうしんずることもできず、またそうくちにだすゆうきもなかった。それをははのはやのみこみでみんなにそうふいちょうしてしまったいまとなってみると、わたしはきゅうにそれをうちけすわけにいかなくなった。わたしはははにさいそくされるまでもなく、せんせいのてがみをまちうけた. |
| 794 |
そうしてそのてがみに、どうかみんなのかんがえているようないしょくのくちのことがかいてあればいいがとねんじた。ちちがへんなきいろいものもえずいたとき、わたしはかつてせんせいとおくさんからきかされたきけんをおもいだした。「ああしてながくねているんだからいもわるくなるはずだね」といったははのかおをみて、なにもしらないそのひとのまえになみだぐんだ. |
| 795 |
あにとわたしがちゃのまでおちあったとき、あには「きいたか」といった。それはいしゃがかえりぎわにあににむかっていったことをきいたかといういみであった。わたしにはせつめいをまたないでもそのいみがよくわかっていた。「おまえここへかえってきて、たくのことをかんりするきがないか」とあにがわたしをかえりみた。わたしはなにともこたえなかった. |
| 796 |
「おかあさんひとりじゃ、どうすることもできないだろう」とあにがまたいった。あにはわたしをつちのにおいをかいでくちていってもおしくないようにみていた。「ほんをよむだけなら、いなかでもじゅうぶんできるし、それにはたらくひつようもなくなるし、ちょうどいいだろう」「にいさんがかえってくるのがじゅんですね」とわたしがいった. |
| 797 |
「おれにそんなことができるものか」とあにはひとくちにしりぞけた。あにのはらのなかには、よのなかでこれからしごとをしようというきがみちみちていた。「おまえがいやなら、まあおじさんにでもせわをたのむんだが、それにしてもおかあさんはどっちかでひきとらなくっちゃなるまい」「おかあさんがここをうごくかうごかないかがすでにおおきなぎもんですよ」. |
| 798 |
きょうだいはまだちちのしなないまえから、ちちのしんだあとについて、こんなふうにかたりあった。ちちはときどき囈語をいうようになった。「のぎたいしょうにすまない。じつにめんぼくしだいがない。いえわたしもすぐおあとから」こんなことばをひょいひょいだした。はははぎみをわるがった。なるべくみんなをまくらもとへあつめておきたがった. |
| 799 |
きのたしかなときはしきりにさびしがるびょうにんにもそれがきぼうらしくみえた。ことにへやのなかをみまわしてははのかげがみえないと、ちちはかならず「おひかりは」ときいた。きかないでも、めがそれをものがたっていた。わたしはよくおこってははをよびにいった。「なにかごようですか」そうかとおもうと、まるでかけはなれたはなしをした. |
| 800 |
とつぜん「おひかりおまえにもいろいろせわになったね」などとやさしいことばをだすときもあった。はははそういうことばのまえにきっとなみだぐんだ。そうしたあとではまたきっとじょうぶであったむかしのちちをそのたいしょうとしておもいだすらしかった。「あんなあわれっぽいことをおいいだがね、あれでもとはずいぶんひどかったんだよ」. |
| 801 |
はははちちのためにほうきでせなかをどやされたときのことなどをはなした。いままでなんぺんもそれをきかされたわたしとあには、いつもとはまるでちがったきぶんで、ははのことばをちちのきねんのようにみみへうけいれた。ちちはじぶんのめのまえにうすぐらくうつるしのかげをながめながら、まだゆいごんらしいものをくちにださなかった. |
| 802 |
「いまのうちなんかきいておくひつようはないかな」とあにがわたしのかおをみた。「そうだなあ」とわたしはこたえた。わたしはこちらからすすんでそんなことをもちだすのもびょうにんのためによしあしだとかんがえていた。ふたりはけっしかねてついにおじにそうだんをかけた。おじもくびをかたむけた。はなしはとうとうぐずぐずになってしまった. |
| 803 |
そのうちにこんすいがきた。れいのとおりなにもしらないははは、それをただのねむりとおもいちがえてかえってよろこんだ。「まあああしてらくにねられれば、そばにいるものもたすかります」といった。ちちはじじがんをあけて、だれはどうしたなどととつぜんきいた。そのだれはついせんこくまでそこにすわっていたひとのなにかぎられていた. |
| 804 |
ちちのいしきにはくらいところとあかるいところとできて、そのあかるいところだけが、やみをぬうしろいいとのように、あるきょりをおいてれんぞくするようにみえた。ははがこんすいじょうたいをふつうのねむりととりちがえたのもむりはなかった。そのうちしたがだんだんもつれてきた。なにかいいだしてもしりがふめいりょうにおわるために、ようりょうをえないでしまうことがおおくあった. |
| 805 |
そのくせはなしはじめるときは、きとくのびょうにんとはおもわれないほど、つよいこえをだした。われわれはもとよりふだんいじょうにちょうしをはりあげて、みみもとへくちをよせるようにしなければならなかった。「あたまをひやすとよいこころもちですか」「うん」わたしはかんごふをあいてに、ちちのみずまくらをとりかえて、それからあたらしいこおりをいれたひょうのうをあたまのうえへのせた. |
| 806 |
がさがさにわられてとがりきったこおりのはへんが、のうのなかでおちつくあいだ、わたしはちちのはげあがったがくのそとでそれをやわらかにおさえていた。そのときあにがろうかづたいにはいってきて、いっつうのゆうびんをむごんのままわたしのてにわたした。あいたほうのひだりてをだして、そのゆうびんをうけとったわたしはすぐふしんをおこした. |
| 807 |
それはふつうのてがみにくらべるとよほどめかたのおもいものであった。なみのじょうぶくろにもいれてなかった。またなみのじょうぶくろにいれられべきぶんりょうでもなかった。はんしでつつんで、ふうじめをていやすしにのりではりつけてあった。わたしはそれをあにのてからうけとったとき、すぐそのかきとめであることにきがついた. |
| 808 |
うらをかえしてみるとそこにせんせいのながつつしんだじでかいてあった。てのはなせないわたしは、すぐふうをきるわけにいかないので、ちょっとそれをふところにさしこんだ。そのひはびょうにんのできがことにわるいようにみえた。わたしがかわやへいこうとしてせきをたったとき、ろうかでいきあったあには「どこへいく」とばんぺいのようなくちょうですいかした. |
| 809 |
「どうもようすがすこしへんだからなるべくそばにいるようにしなくっちゃいけないよ」とちゅういした。わたしもそうおもっていた。かいちゅうしたてがみはそのままにしてまたびょうしつへかえった。ちちはめをあけて、そこにならんでいるひとのなまえをははにたずねた。ははがあれはだれ、これはだれといちいちせつめいしてやると、ちちはそのたびにうなずいた. |
| 810 |
うなずかないときは、ははがこえをはりあげて、なになにさんです、わかりましたかとねんをおした。「どうもいろいろおせわになります」ちちはこういった。そうしてまたこんすいじょうたいにおちいった。まくらべをとりまいているひとはむごんのまましばらくびょうにんのようすをみつめていた。やがてそのなかのひとりがたってつぎのまへでた. |
| 811 |
するとまたひとりたった。わたしもさんにんめにとうとうせきをはずして、じぶんのへやへきた。わたしにはせんこくふところへいれたゆうびんぶつのなかをあけてみようというもくてきがあった。それはびょうにんのまくらもとでもよういにできるしょさにはちがいなかった。しかしかかれたもののぶんりょうがあまりにおおすぎるので、ひといきにそこでよみとおすわけにはいかなかった. |
| 812 |
わたしはとくべつのじかんをぬすんでそれにあてた。わたしはせんいのつよいつつみがみをひきかくようにさきやぶった。なかからでたものは、じゅうおうにひいたけのなかへぎょうぎよくかいたげんこうさまのものであった。そうしてふうじるべんぎのために、よっつおりにたたまれてあった。わたしはくせのついたせいようしを、ぎゃくにおりかえしてよみやすいようにひらたくした. |
| 813 |
わたしのこころはこのたりょうのかみといんきが、わたしになにごとをかたるのだろうかとおもっておどろいた。わたしはどうじにびょうしつのことがきにかかった。わたしがこのかきものをよみはじめて、よみおわらないまえに、ちちはきっとどうかなる、すくなくとも、わたしはあにからかははからか、それでなければおじからか、よばれるにきまっているというよかくがあった. |
| 814 |
わたしはおちついてせんせいのかいたものをよむきになれなかった。わたしはそわそわしながらたださいしょのいちぺーじをよんだ。そのぺーじはしたのようにつづられていた。「あなたからかこをといただされたとき、こたえることのできなかったゆうきのないわたしは、いまあなたのまえに、それをめいはくにものがたるじゆうをえたとしんじます. |
| 815 |
しかしそのじゆうはあなたのじょうきょうをまっているうちにはまたうしなわれてしまうせけんてきのじゆうにすぎないのであります。したがって、それをりようできるときにりようしなければ、わたしのかこをあなたのあたまにかんせつのけいけんとしておしえてあげるきかいをえいきゅうにいっするようになります。そうすると、あのときあれほどかたくやくそくしたことばがまるでうそになります. |
| 816 |
わたしはやむをえず、くちでいうべきところを、ふででもうしあげることにしました」わたしはそこまでよんで、はじめてこのながいものがなにのためにかかれたのか、そのりゆうをあきらかにしることができた。わたしのいしょくのくち、そんなものについてせんせいがてがみをよこすきづかいはないと、わたしはしょてからしんじていた。せんせいはなぜわたしのじょうきょうするまでまっていられないだろう. |
| 817 |
「じゆうがきたからはなす。しかしそのじゆうはまたえいきゅうにうしなわれなければならない」わたしはこころのうちでこうくりかえしながら、そのいみをしるにくるしんだ。わたしはとつぜんふあんにおそわれた。わたしはつづいてあとをよもうとした。そのときびょうしつのほうから、わたしをよぶおおきなあにのこえがきこえた。わたしはまたおどろいてたちのぼった. |
| 818 |
ろうかをちけぬけるようにしてみんなのいるかたへいった。わたしはいよいよちちのうえにさいごのしゅんかんがきたのだとかくごした。びょうしつにはいつのあいだにかいしゃがきていた。なるべくびょうにんをらくにするというしゅいからまたかんちょうをこころみるところであった。かんごふはさくやのつかれをやすめるためにべっしつでねていた. |
| 819 |
なれないあにはおこってまごまごしていた。わたしのかおをみると、「ちょっとてをおかし」といったまま、じぶんはせきについた。わたしはあににかわって、あぶらがみをちちのしりのしたにあてがったりした。ちちのようすはすこしくつろいできた。さんじゅうぷんほどまくらもとにすわっていたいしゃは、かんちょうのけっかをみとめたうえ、またくるといって、かえっていった. |
| 820 |
かえりぎわに、もしものごとがあったらいつでもよんでくれるようにわざわざことわっていた。わたしはいまにもへんがありそうなびょうしつをしりぞいてまたせんせいのてがみをよもうとした。しかしわたしはすこしもかんくりしたきぶんになれなかった。つくえのまえにすわるやいなや、またあにからおおきなこえでよばれそうでならなかった. |
| 821 |
そうしてこんどよばれれば、それがさいごだといういふがわたしのてをふるわした。わたしはせんせいのてがみをただむいみにぺーじだけへげくっていった。わたしのめはきちょうめんにわくのなかにはめられたじかくをみた。けれどもそれをよむよゆうはなかった。ひろいよみにするよゆうすらおぼつかなかった。そのときふとけつまつにちかいいっくがわたしのめにはいった. |
| 822 |
「このてがみがあなたのてにおちるころには、わたしはもうこのよにはいないでしょう。とくにしんでいるでしょう」わたしははっとおもった。いままでざわざわとうごいていたわたしのむねがいちどにぎょうけつしたようにかんじた。わたしはまたぎゃくにぺーじをはぐりかえした。そうしていっまいにいっくぐらいずつのわりでとうによんでいった. |
| 823 |
わたしはとっさのあいだに、わたしのしらなければならないことをしろうとして、ちらちらするもじを、めでさしとおそうとこころみた。そのときわたしのしろうとするのは、ただせんせいのあんぴだけであった。せんせいのかこ、かつてせんせいがわたしにはなそうとやくそくしたうすぐらいそのかこ、そんなものはわたしにとって、まったくむようであった. |
| 824 |
わたしはとうまにぺーじをはぐりながら、わたしにひつようなちしきをよういにあたえてくれないこのながいてがみをじれったそうにたたんだ。わたしはまたちちのようすをみにびょうしつのとぐちまでいった。びょうにんのまくらべはぞんがいしずかであった。たよりなさそうにつかれたかおをしてそこにすわっているははをてまねきぎして、「どうですかようすは」. |
| 825 |
ときいた。ははは「いますこしもちあってるようだよ」とこたえた。わたしはちちのめのまえへかおをだして、「どうです、かんちょうしてすこしはこころもちがよくなりましたか」とたずねた。ちちはうなずいた。ちちははっきり「ありがとう」といった。ちちのせいしんはぞんがいもうろうとしていなかった。わたしはまたびょうしつをしりぞいてじぶんのへやにかえった. |
| 826 |
そこでとけいをみながら、きしゃのはっちゃくひょうをしらべた。わたしはとつぜんたっておびをしめなおして、たもとのなかへせんせいのてがみをなげこんだ。それからかってぐちからひょうへでた。わたしはむちゅうでいしゃのいえへかけこんだ。わたしはいしゃからちちがもうにさんにちたもつだろうか、そこのところをはんぜんきこうとした. |
| 827 |
ちゅうしゃでもなにでもして、たもたしてくれとたのもうとした。いしゃはあいにくるすであった。わたしにはじっとしてかれのかえるのをまちうけるじかんがなかった。こころのおちつきもなかった。わたしはすぐくるまをていしゃじょうへいそがせた。わたしはていしゃじょうのかべへしへんをあてがって、そのうえからえんぴつでははとあにあてでてがみをかいた. |
| 828 |
てがみはごくかんたんなものであったが、ことわらないではしるよりまだましだろうとおもって、それをいそいでたくへとどけるようにしゃふにたのんだ。そうしておもいきったいきおいでとうきょういきのきしゃにとびのってしまった。わたしはごうごうなるさんとうれっしゃのなかで、またたもとからせんせいのてがみをだして、ようやくはじめからしまいまでめをとおした. |
| 829 |
「....わたしはこのなつあなたからにさんどてがみをうけとりました。とうきょうでそうとうのちいをえたいからよろしくたのむとかいてあったのは、たしかにどめにてにはいったものときおくしています。わたしはそれをよんだときなんとかしたいとおもったのです。すくなくともへんじをあげなければすまんとはかんがえたのです。しかしそれはもんだいではありません. |
| 830 |
じつをいうと、わたしはこのじぶんをどうすればよいのかとおもいわずらっていたところなのです。このままにんげんのなかにとりのこされたミイラのようにそんざいしていこうか、それとも....そのじぶんのわたしは「それとも」ということばをこころのうちでくりかえすたびにぞっとしました。ちあしでぜっぺきのはしまできて、きゅうにそこのみえないたにをのぞきこんだひとのように. |
| 831 |
わたしはひきょうでした。そうしておおくのひきょうなひととおなじていどにおいてはんもんしたのです。いかんながら、そのときのわたしには、あなたというものがほとんどそんざいしていなかったといってもこちょうではありません。いっぽすすめていうと、あなたのちい、あなたのここうのし、そんなものはわたしにとってまるでむいみなのでした. |
| 832 |
どうでもかまわなかったのです。わたしはそれどころのさわぎでなかったのです。わたしはじょうさしへあなたのてがみをさしたなり、いぜんとしてうでぐみをしてかんがえこんでいました。たくにそうおうのざいさんがあるものが、なにをくるしんで、そつぎょうするかしないのに、ちいちいといってもがきまわるのか。わたしはむしろにがにがしいきぶんで、とおくにいるあなたにこんないちべつをあたえただけでした. |
| 833 |
わたしはへんじをあげなければすまないあなたにたいして、いいわけのためにこんなことをうちあけるのです。あなたをいからすためにわざとぶしつけなことばをろうするのではありません。わたしのほんいはあとをごらんになればよくわかることとしんじます。とにかくわたしはなにとかあいさつすべきところをだまっていたのですから、わたしはこのたいまんのつみをあなたのまえにしゃしたいとおもいます. |
| 834 |
そのあとわたしはあなたにでんぽうをうちました。ゆうたいにいえば、あのときわたしはちょっとあなたにあいたかったのです。それからあなたのきぼうとおりわたしのかこをあなたのためにものがたりたかったのです。あなたはへんでんをかけて、いまとうきょうへはでられないとことわってきましたが、わたしはしつぼうしてながらくあのでんぽうをながめていました. |
| 835 |
あなたもでんぽうだけではきがすまなかったとみえて、またあとからながいてがみをよこしてくれたので、あなたのしゅっきょうできないじじょうがよくわかりました。わたしはあなたをしつれいなおとこだともなにともおもうわけがありません。あなたのだいじなおとうさんのびょうきをそっちのけにして、なにであなたがたくをあけられるものですか. |
| 836 |
そのおとうさんのせいしをわすれているようなわたしのたいどこそふつごうです。――わたしはじっさいあのでんぽうをうつときに、あなたのおとうさんのことをわすれていたのです。そのくせあなたがとうきょうにいるころには、なんしょうだからよくちゅういしなくってはいけないと、あれほどちゅうこくしたのはわたしですのに。わたしはこういうむじゅんなにんげんなのです. |
| 837 |
あるいはわたしののうずいよりも、わたしのかこがわたしをあっぱくするけっかこんなむじゅんなにんげんにわたしをへんかさせるのかもしれません。わたしはこのてんにおいてもじゅうぶんわたしのわれをみとめています。あなたにゆるしてもらわなくてはなりません。あなたのてがみ、――あなたからきたさいごのてがみ――をよんだとき、わたしはわるいことをしたとおもいました. |
| 838 |
それでそのいみのへんじをだそうかとかんがえて、ふでをとりかけましたが、いっこうもかかずにやめました。どうせかくなら、このてがみをかいてあげたかったから、そうしてこのてがみをかくにはまだじきがすこしはやすぎたから、やめにしたのです。わたしがただくるにおよばないというかんたんなでんぽうをふたたびうったのは、それがためです. |
| 839 |
「わたしはそれからこのてがみをかきだしました。へいぜいひつをもちつけないわたしには、じぶんのおもうように、じけんなりしそうなりがはこばないのがおもいくつうでした。わたしはもうすこしで、あなたにたいするわたしのこのぎむをほうてきするところでした。しかしいくらよそうとおもってふでをおいても、なんにもなりませんでした. |
| 840 |
わたしはいちじかんたたないうちにまたかきたくなりました。あなたからみたら、これがぎむのすいこうをおもんずるわたしのせいかくのようにおもわれるかもしれません。わたしもそれはいなみません。わたしはあなたのしっているとおり、ほとんどせけんとこうしょうのないこどくなにんげんですから、ぎむというほどのぎむは、じぶんのさゆうぜんごをみまわしても、どのほうがくにもねをはっておりません. |
| 841 |
こいかしぜんか、わたしはそれをできるだけきりつめたせいかつをしていたのです。けれどもわたしはぎむにれいたんだからこうなったのではありません。むしろえいびんすぎてしげきにたえるだけのせいりょくがないから、ごらんのようにしょうきょくてきなつきひをおくることになったのです。だからいったんやくそくしたいじょう、それをはたさないのは、たいへんいやなこころもちです. |
| 842 |
わたしはあなたにたいしてこのいやなこころもちをさけるためにでも、おいたふでをまたとりあげなければならないのです。そのうえわたしはかきたいのです。ぎむはべつとしてわたしのかこをかきたいのです。わたしのかこはわたしだけのけいけんだから、わたしだけのしょゆうといってもさしつかえないでしょう。それをひとにあたえないでしぬのは、おしいともいわれるでしょう. |
| 843 |
わたしにもたしょうそんなこころもちがあります。ただしうけいれることのできないひとにあたえるくらいなら、わたしはむしろわたしのけいけんをわたしのせいめいとともにほうむったほうがいいとおもいます。じっさいここにあなたというひとりのおとこがそんざいしていないならば、わたしのかこはついにわたしのかこで、かんせつにもたにんのちしきにはならないですんだでしょう. |
| 844 |
わたしはなんぜんまんといるにほんじんのうちで、ただあなただけに、わたしのかこをものがたりたいのです。あなたはまじめだから。あなたはまじめにじんせいそのものからいきたきょうくんをえたいといったから。わたしはくらいじんせいのかげをえんりょなくあなたのあたまのうえになげかけてあげます。しかしおそれてはいけません。わたしのくらいというのは、もとよりりんりてきにくらいのです. |
| 845 |
わたしはりんりてきにうまれたおとこです。またりんりてきにそだてられたおとこです。そのりんりじょうのかんがえは、いまのわかいひととだいぶちがったところがあるかもしれません。しかしどうまちがっても、わたしじしんのものです。まにあわせにかりたそんりょうぎではありません。だからこれからはったつしようというあなたにはいくぶんかさんこうになるだろうとおもうのです. |
| 846 |
あなたはげんだいのしそうもんだいについて、よくわたしにぎろんをむけたことをきおくしているでしょう。わたしのそれにたいするたいどもよくわかっているでしょう。わたしはあなたのいけんをけいべつまでしなかったけれども、けっしてそんけいをはらいうるていどにはなれなかった。あなたのかんがえにはなにらのはいけいもなかったし、あなたはじぶんのかこをもつにはあまりにわかすぎたからです. |
| 847 |
わたしはときどきわらった。あなたはものたりなそうなかおをちょいちょいわたしにみせた。そのごくあなたはわたしのかこをえまきもののように、あなたのまえにてんかいしてくれとせまった。わたしはそのときこころのうちで、はじめてあなたをそんけいした。あなたがむえんりょにわたしのはらのなかから、あるいきたものをつかまえようというけっしんをみせたからです. |
| 848 |
わたしのしんぞうをたちわって、あたたかくながれるちしおをすすろうとしたからです。そのときわたしはまだいきていた。しぬのがいやであった。それでたじつをやくして、あなたのようきゅうをしりぞけてしまった。わたしはいまじぶんでじぶんのしんぞうをやぶって、そのちをあなたのかおにあびせかけようとしているのです。「わたしがりょうしんをなくしたのは、まだわたしのにじっさいにならないじぶんでした. |
| 849 |
いつかつまがあなたにはなしていたようにもきおくしていますが、ふたりはおなじびょうきでしんだのです。しかもつまがあなたにふしんをおこさせたとおり、ほとんどどうじといっていいくらいに、ぜんごしてしんだのです。じつをいうと、ちちのびょうきはおそるべきちょうちふすでした。それがそばにいてかんごをしたははにでんせんしたのです. |
| 850 |
わたしはふたりのあいだにできたたったひとりのおとこのこでした。たくにはそうとうのざいさんがあったので、むしろおうようにそだてられました。わたしはじぶんのかこをかえりみて、あのときりょうしんがしなずにいてくれたなら、すくなくともちちかははかどっちか、かたほうでよいからいきていてくれたなら、わたしはあのおうようなきぶんをいままでもちつづけることができたろうにとおもいます. |
| 851 |
わたしはふたりのあとにぼうぜんとしてとりのこされました。わたしにはちしきもなく、けいけんもなく、またぶんべつもありませんでした。ちちのしぬとき、はははそばにいることができませんでした。ははのしぬとき、ははにはちちのしんだことさえまだしらせてなかったのです。はははただおじにばんじをたのんでいました。そこにいあわせたわたしをゆびさすようにして、「このこをどうぞなんぷん」. |
| 852 |
といいました。わたしはそのまえからりょうしんのきょかをえて、とうきょうへでるはずになっていましたので、はははそれもついでにいうつもりらしかったのです。それで「とうきょうへ」とだけつけくわえましたら、おじがすぐあとをひきとって、「よろしいけっしてしんぱいしないがいい」とこたえました。はははつよいねつにこらえうるたいしつのおんななんでしたろうか、おじは「しっかりしたものだ」. |
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といって、わたしにむかってははのことをほめていました。しかしこれがはたしてははのゆいごんであったのかどうだか、いまかんがえるとわからないのです。はははむろんちちのかかったびょうきのおそるべきなまえをしっていたのです。そうして、じぶんがそれにでんせんしていたこともしょうちしていたのです。だから....しかしそんなことはもんだいではありません. |
| 854 |
ただこういうふうにものをときほどいてみたり、またぐるぐるまわしてながめたりするくせは、もうそのじぶんから、わたしにはちゃんとそなわっていたのです。それはあなたにもはじめからおことわりしておかなければならないとおもいますが、そのじつれいとしてはとうめんのもんだいにたいしたかんけいのないこんなきじゅつが、かえってやくにだちはしないかとかんがえます. |
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あなたのほうでもまあそのつもりでよんでください。このしょうぶんがりんりてきにこじんのこういやらどうさのうえにおよんで、わたしはこうらいますますほかのとくぎしんをうたがうようになったのだろうとおもうのです。それがわたしのはんもんやくのうにむかって、せっきょくてきにおおきなちからをそえているのはたしかですからおぼえていてください. |
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はなしがほんすじをはずれると、わかりわるくなりますからまたあとへひきかえしましょう。これでもわたしはこのながいてがみをかくのに、わたしとおなじちいにおかれたほかのひととくらべたら、あるいはたしょうおちついていやしないかとおもっているのです。よのなかがねむるときこえだすあのでんしゃのひびきももうとだえました。なにもしらないつまはつぎのへやでむじゃきにすやすやねいっています. |
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わたしがふでをとると、いちじいっかくができあがりつつペンのさきでなっています。わたしはむしろおちついたきぶんでかみにむかっているのです。ふなれのためにペンがよこへはずれるかもしれませんが、あたまがのうらんしてふでがしどろにはしるのではないようにおもいます。「とにかくたったひとりとりのこされたわたしは、ははのいいづけとおり、このおじをたよるよりそとにみちはなかったのです. |
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おじはまたいっさいをひきうけてすべてのせわをしてくれました。そうしてわたしをわたしのきぼうするとうきょうへでられるようにとりはからってくれました。わたしはとうきょうへきてこうとうがっこうへはいりました。そのときのこうとうがっこうのせいとはいまよりもよほどさつばつでそやでした。わたしのしったものに、よなかしょくにんとけんかをして、あいてのあたまへげたできずをおわせたのがありました. |
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それがさけをのんだあげくのことなので、むちゅうになぐりあいをしているあいだに、がっこうのせいぼうをとうとうむこうのものにとられてしまったのです。ところがそのぼうしのうらにはとうにんのなまえがちゃんと、ひしがたのしろいきれのうえにかいてあったのです。それでことがめんどうになって、そのおとこはもうすこしでけいさつからがっこうへしょうかいされるところでした. |
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しかしともだちがいろいろとほねをおって、ついにひょうさたにせずにすむようにしてやりました。こんならんぼうなこういを、じょうひんないまのくうきのなかにそだったあなたがたにきかせたら、さだめてばかばかしいかんじをおこすでしょう。わたしもじっさいばかばかしくおもいます。しかしかれらはいまのがくせいにないいっしゅしつぼくなてんをそのかわりにもっていたのです. |
| 861 |
とうじわたしのつきづきおじからもらっていたかねは、あなたがいま、おとうさんからおくってもらうがくしにくらべるとはるかにすくないものでした。(むろんぶっかもちがいましょうが)。それでいてわたしはすこしのぶそくもかんじませんでした。のみならずすうあるどうきゅうせいのうちで、けいざいのてんにかけては、けっしてひとをうらやましがるあわれなきょうぐうにいたわけではないのです. |
| 862 |
いまからかいこすると、むしろひとにうらやましがられるかただったのでしょう。というのは、わたしはつきづききまったそうきんのそとに、しょせきひ、(わたしはそのじぶんからしょもつをかうことがすきでした)、およびりんじのひようを、よくおじからせいきゅうして、ずんずんそれをじぶんのおもうようにしょうひすることができたのですから. |
| 863 |
なにもしらないわたしは、おじをしんじていたばかりでなく、つねにかんしゃのこころをもって、おじをありがたいもののようにそんけいしていました。おじはじぎょうかでした。けんかいぎいんにもなりました。そのかんけいからでもありましょう、せいとうにもえんこがあったようにきおくしています。ちちはせんぞからゆずられたいさんをだいじにまもっていくとくじついっぽうのおとこでした. |
| 864 |
たのしみには、ちゃだのはなだのをやりました。それからししゅうなどをよむこともすきでした。しょがこっとうといったかぜのものにも、おおくのしゅみをもっているようすでした。いえはいなかにありましたけれども、にりばかりへだたったし、――そのしにはおじがすんでいたのです、――そのしからときどきどうぐやがかけものだの、こうろだのをもって、わざわざちちにみせにきました. |
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ちちはひとくちにいうと、まあマン・オフ・ミーンズとでもひょうしたらよいのでしょう。ひかくてきじょうひんなしこうをもったいなかしんしだったのです。だからきしょうからいうと、かったつなおじとはよほどのけんかくがありました。それでいてふたりはまたみょうになかがよかったのです。ちちはよくおじをひょうして、じぶんよりもはるかにはたらきのあるたのもしいひとのようにいっていました. |
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じぶんのように、おやからざいさんをゆずられたものは、どうしてもこゆうのざいかんがにぶる、つまりよのなかとたたかうひつようがないからいけないのだともいっていました。このことばはははもききました。わたしもききました。ちちはむしろわたしのこころえになるつもりで、それをいったらしくおもわれます。「おまえもよくおぼえているがいい」. |
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とちちはそのときわざわざわたしのかおをみたのです。だからわたしはまだそれをわすれずにいます。このくらいわたしのちちからしんようされたり、ほめられたりしていたおじを、わたしがどうしてうたがうことができるでしょう。わたしにはただでさえほこりになるべきおじでした。ちちやははがなくなって、ばんじそのひとのせわにならなければならないわたしには、もうたんなるほこりではなかったのです. |
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わたしのそんざいにひつようなにんげんになっていたのです。「わたしがなつやすみをりようしてはじめてくにへかえったとき、りょうしんのしにことわえたわたしのじゅうきょには、あたらしいしゅじんとして、おじふうふがいれかわってすんでいました。これはわたしがとうきょうへでるまえからのやくそくでした。たったひとりとりのこされたわたしがいえにいないいじょう、そうでもするよりそとにしかたがなかったのです. |
| 869 |
おじはそのころしにあるいろいろなかいしゃにかんけいしていたようです。ぎょうむのつごうからいえば、いままでのきょたくにねおきするほうが、にりもへだたったわたしのいえにうつるよりはるかにべんりだといってわらいました。これはわたしのふぼがなくなったあと、どうやしきをしまつして、わたしがとうきょうへでるかというそうだんのとき、おじのくちをもれたことばであります. |
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やすみがくればかえらなくてはならないというきぶんは、いくらとうきょうをこいしがってでてきたわたしにも、ちからづよくあったのです。わたしはねっしんにべんきょうし、ゆかいにあそんだあと、やすみにはかえれるとおもうそのこきょうのいえをよくゆめにみました。わたしのるすのあいだ、おじはどんなふうにりょうほうのあいだをいききしていたかしりません. |
| 871 |
わたしのついたときは、かぞくのものが、みんなひとついえのうちにあつまっていました。がっこうへでるこどもなどはへいぜいおそらくしのほうにいたのでしょうが、これもきゅうかのためにいなかへあそびはんぶんといったかくでひきとられていました。みんなわたしのかおをみてよろこびました。わたしはまたちちやははのいたときより、かえってにぎやかでようきになったいえのようすをみてうれしがりました. |
| 872 |
おじはもとわたしのへやになっていたひとまをせんりょうしているいちばんめのおとこのこをおいだして、わたしをそこへいれました。ざしきのかずもすくなくないのだから、わたしはほかのへやでかまわないとじたいしたのですけれども、おじはおまえのたくだからといって、ききませんでした。それはぜんごでちょうどさんよんかいもくりかえされたでしょう. |
| 873 |
わたしもはじめはただそのとつぜんなのにおどろいただけでした。にどめにははんぜんことわりました。さんどめにはこっちからとうとうそのりゆうをはんもんしなければならなくなりました。かれらのしゅいはたんかんでした。はやくよめをもらってここのいえへかえってきて、なくなったちちのあとをそうぞくしろというだけなのです。ことにいなかのじじょうをしっているわたしには、よくわかります. |
| 874 |
わたしもぜったいにそれをきらってはいなかったのでしょう。しかしとうきょうへしゅぎょうにでたばかりのわたしには、それがとおめがねでものをみるように、はるかさきのきょりにのぞまれるだけでした。わたしはおじのきぼうにしょうだくをあたえないで、ついにまたわたしのいえをさりました。「わたしはえんだんのことをそれなりわすれてしまいました. |
| 875 |
わたしのしゅういをとりまいているせいねんのかおをみると、せたいじみたものはひとりもいません。みんなじゆうです、そうしてことごとくたんどくらしくおもわれたのです。こういうきらくなひとのなかにも、りめんにはいりこんだら、あるいはかていのじじょうによぎなくされて、すでにつまをむかえていたものがあったかもしれませんが、こどもらしいわたしはそこにきがつきませんでした. |
| 876 |
それからそういうとくべつのきょうぐうにおかれたひとのほうでも、しへんにきがねをして、なるべくはしょせいにえんのとおいそんなうちわのはなしはしないようにつつしんでいたのでしょう。あとからかんがえると、わたしじしんがすでにその体だったのですが、わたしはそれさえわからずに、ただこどもらしくゆかいにしゅうがくのみちをあるいていきました. |
| 877 |
がくねんのおわりに、わたしはまたこうりをからげて、おやのはかのあるいなかへかえってきました。そうしてきょねんとおなじように、ふぼのいたわがやのなかで、またおじふうふとそのこどものかわらないかおをみました。わたしはふたたびそこでこきょうのにおいをかぎました。そのにおいはわたしにとっていぜんとしてなつかしいものでありました. |
| 878 |
いちがくねんのたんちょうをやぶるへんかとしてもありがたいものにちがいなかったのです。しかしこのじぶんをそだてあげたとおなじようなにおいのなかで、わたしはまたとつぜんけっこんもんだいをおじからはなのさきへつきつけられました。おじのいうところは、きょねんのかんゆうをふたたびくりかえしたのみです。りゆうもきょねんとおなじでした. |
| 879 |
ただこのまえすすめられたときには、なにらのもくてきぶつがなかったのに、こんどはちゃんとかんじんのとうにんをつかまえていたので、わたしはなおこまらせられたのです。そのとうにんというのはおじのむすめすなわちわたしのじゅうまいにあたるおんなでした。そのおんなをもらってくれれば、おたがいのためにべんぎである、ちちもぞんじょうちゅうそんなことをはなしていた、とおじがいうのです. |
| 880 |
わたしもそうすればべんぎだとはおもいました。ちちがおじにそういうふうなはなしをしたというのもありえべきこととかんがえました。しかしそれはわたしがおじにいわれて、はじめてきがついたので、いわれないまえから、さとっていたことがらではないのです。だからわたしはおどろきました。おどろいたけれども、おじのきぼうにむりのないところも、それがためによくわかりました. |
| 881 |
わたしはうかつなのでしょうか。あるいはそうなのかもしれませんが、おそらくそのじゅうまいにむとんちゃくであったのが、おもなみなもともとになっているのでしょう。わたしはこどものうちからしにいるおじのいえへしじゅうあそびにいきました。ただいくばかりでなく、よくそこにとまりました。そうしてこのじゅうまいとはそのじぶんからしたしかったのです. |
| 882 |
あなたもごしょうちでしょう、きょうだいのあいだにこいのせいりつしたれいのないのを。わたしはこのこうにんされたじじつをかってにふえんしているかもしれないが、しじゅうせっしょくしてしたしくなりすぎただんじょのあいだには、こいにひつようなしげきのおこるせいしんなかんじがうしなわれてしまうようにかんがえています。わたしはどうかんがえなおしても、このじゅうまいをつまにするきにはなれませんでした. |
| 883 |
おじはもしわたしがしゅちょうするなら、わたしのそつぎょうまでけっこんをのばしてもいいといいました。けれどもぜんはいそげということわざもあるから、できるならいまのうちにしゅうげんのさかずきだけはすませておきたいともいいました。とうにんにのぞみのないわたしにはどっちにしたっておなじことです。わたしはまたことわりました. |
| 884 |
おじはいやなかおをしました。じゅうまいはなきました。わたしにそわれないからかなしいのではありません。けっこんのもうしこみをきょぜつされたのが、おんなとしてつらかったからです。わたしがじゅうまいをあいしていないごとく、じゅうまいもわたしをあいしていないことは、わたしによくしれていました。わたしはまたとうきょうへでました. |
| 885 |
「わたしがさんどめにきこくしたのは、それからまたいちねんたったなつのとりつけでした。わたしはいつでもがくねんしけんのすむのをまちかねてとうきょうをにげました。わたしにはこきょうがそれほどなつかしかったからです。あなたにもおぼえがあるでしょう、うまれたところはくうきのいろがちがいます、とちのにおいもかくべつです、ちちやははのきおくもこかにただよっています. |
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いちねんのうちで、しちはちのにがつをそのなかにつつまれて、あなにはいったへびのようにじっとしているのは、わたしにとってなによりもあたたかいよいこころもちだったのです。たんじゅんなわたしはじゅうまいとのけっこんもんだいについて、さほどあたまをいためるひつようがないとおもっていました。いやなものはことわる、ことわってさえしまえばあとにはなにものこらない、わたしはこうしんじていたのです. |
| 887 |
だからおじのきぼうとおりにいしをまげなかったにもかかわらず、わたしはむしろへいきでした。かこいちねんのあいだいまだかつてそんなことにくったくしたおぼえもなく、あいかわらずのげんきでくにへかえったのです。ところがかえってみるとおじのたいどがちがっています。もとのようによいかおをしてわたしをじぶんのふところにだこうとしません. |
| 888 |
それでもおうようにそだったわたしは、かえってよん、いつかのあいだはきがつかずにいました。ただなんかのきかいにふとへんにおもいだしたのです。するとみょうなのは、おじばかりではないのです。おばもみょうなのです。じゅうまいもみょうなのです。わたしのしょうぶんとしてかんがえずにはいられなくなりました。どうしてわたしのこころもちがこうかわったのだろう. |
| 889 |
いやどうしてむこうがこうかわったのだろう。わたしはとつぜんしんだちちやははが、にぶいわたしのめをあらって、きゅうによのなかがはんぜんみえるようにしてくれたのではないかとうたがいました。わたしはちちやははがこのよにいなくなったあとでも、いたときとおなじようにわたしをあいしてくれるものと、どこかこころのおくでしんじていたのです. |
| 890 |
もっともそのころでもわたしはけっしてりにくらいしつではありませんでした。しかしせんぞからゆずられためいしんのかたまりも、つよいちからでわたしのちのなかにひそんでいたのです。いまでもひそんでいるでしょう。わたしはたったひとりやまへいって、ふぼのはかのまえにひざまずきました。はんはあいとうのいみ、はんはかんしゃのこころもちでひざまずいたのです. |
| 891 |
そうしてわたしのみらいのこうふくが、このつめたいいしのしたによこたわるかれらのてにまだにぎられてでもいるようなきぶんで、わたしのうんめいをまもるべくかれらにいのりました。あなたはわらうかもしれない。わたしもわらわれてもしかたがないとおもいます。しかしわたしはそうしたにんげんだったのです。わたしのせかいはてのひらをひるがえすようにかわりました. |
| 892 |
もっともこれはわたしにとってはじめてのけいけんではなかったのです。わたしがじゅうろくしちのときでしたろう、はじめてよのなかにうつくしいものがあるというじじつをはっけんしたときには、いちどにはっとおどろきました。なんぺんもじぶんのめをうたがって、なんぺんもじぶんのめをすりました。そうしてこころのなかでああうつくしいとさけびました. |
| 893 |
じゅうろくしちといえば、おとこでもおんなでも、ぞくにいういろけのつくころです。いろけのついたわたしはよのなかにあるうつくしいもののだいひょうしゃとして、はじめておんなをみることができたのです。いままでそのそんざいにすこしもきのつかなかったいせいにたいして、もうもくのめがたちまちひらいたのです。それいらいわたしのてんちはまったくあたらしいものとなりました. |
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わたしがおじのたいどにこころづいたのも、まったくこれとおなじなんでしょう。がぜんとしてこころづいたのです。なにのよかんもじゅんびもなく、ふいにきたのです。ふいにかれとかれのかぞくが、いままでとはまるでべつもののようにわたしのめにうつったのです。わたしはおどろきました。そうしてこのままにしておいては、じぶんのいきさきがどうなるかわからないというきになりました. |
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「わたしはいままでおじまかせにしておいたいえのざいさんについて、くわしいちしきをえなければ、しんだふぼにたいしてすまないというきをおこしたのです。おじはいそがしいからだだとじしょうするごとく、まいばんおなじところにねとまりはしていませんでした。ふつかいえへかえるとみっかはしのほうでくらすといったふうに、りょうほうのあいだをおうらいして、そのひそのひをおちつきのないかおですごしていました. |
| 896 |
そうしていそがしいということばをくちぐせのようにつかいました。なにのうたがいもおこらないときは、わたしもじっさいにいそがしいのだろうとおもっていたのです。それから、いそがしがらなくてはとうせいりゅうでないのだろうと、ひにくにもかいしゃくしていたのです。わたしはよういにおじをつかまえるきかいをえませんでした。わたしはおじがしのほうにめかけをもっているといううわさをききました. |
| 897 |
わたしはそのうわさをむかしちゅうがくのどうきゅうせいであったあるともだちからきいたのです。めかけをおくぐらいのことは、このおじとしてすこしもあやしむにたらないのですが、ちちのいきているうちに、そんなひょうばんをみみにいれたおぼえのないわたしはおどろきました。ともだちはそのそとにもいろいろおじについてのうわさをかたってきかせました. |
| 898 |
いちじじぎょうでしっぱいしかかっていたようにほかからおもわれていたのに、このにさんねんらいまたきゅうにもりかえしてきたというのも、そのひとつでした。しかもわたしのぎわくをつよくぞめつけたもののひとつでした。わたしはとうとうおじとだんぱんをひらきました。おじはどこまでもわたしをこどもあつかいにしようとします。わたしはまたはじめからさいぎのめでおじにたいしています. |
| 899 |
おだやかにかいけつのつくはずはなかったのです。いかんながらわたしはいまそのだんぱんのてんまつをくわしくここにかくことのできないほどさきをいそいでいます。じつをいうと、わたしはこれよりいじょうに、もっとだいじなものをひかえているのです。わたしのペンははやくからそこへたどりつきたがっているのを、やっとのことでおさえつけているくらいです. |
| 900 |
あなたにあってしずかにはなすきかいをえいきゅうにうしなったわたしは、ふでをとるじゅつになれないばかりでなく、とうといじかんをおしむといういみからして、かきたいこともはぶかなければなりません。あなたはまだおぼえているでしょう、わたしがいつかあなたに、つくりつけのあくにんがよのなかにいるものではないといったことを。あのときあなたはわたしにこうふんしているとちゅういしてくれました. |
| 901 |
そうしてどんなばあいに、ぜんにんがあくにんにへんかするのかとたずねました。わたしがただひとくちきんとこたえたとき、あなたはふまんなかおをしました。わたしはあなたのふまんなかおをよくきおくしています。わたしはいまあなたのまえにうちあけるが、わたしはあのときこのおじのことをかんがえていたのです。けれどもわたしにはあれがいきたこたえでした. |
| 902 |
げんにわたしはこうふんしていたではありませんか。わたしはひややかなあたまであたらしいことをくちにするよりも、ねっしたしたでへいぼんなせつをのべるほうがいきているとしんじています。ちのちからでからだがうごくからです。ことばがくうきにはどうをつたえるばかりでなく、もっとつよいものにもっとつよくはたらきかけることができるからです. |
| 903 |
「ひとくちでいうと、おじはわたしのざいさんをごまかしたのです。ことはわたしがとうきょうへでているさんねんのあいだにたやすくおこなわれたのです。すべてをおじまかせにしてへいきでいたわたしは、せけんてきにいえばほんとうのばかでした。せけんてきいじょうのけんちからひょうすれば、あるいはじゅんなるとうといおとことでもいえましょうか. |
| 904 |
わたしはそのときのおのれをかえりみて、なぜもっとひとがわるくうまれてこなかったかとおもうと、しょうじきすぎたじぶんがくやしくってたまりません。しかしまたどうかして、もういちどああいううまれたままのすがたにたちかえっていきてみたいというこころもちもおこるのです。きおくしてください、あなたのしっているわたしはごみによごれたあとのわたしです. |
| 905 |
きたなくなったねんすうのおおいものをせんぱいとよぶならば、わたしはたしかにあなたよりせんぱいでしょう。もしわたしがおじのきぼうとおりおじのむすめとけっこんしたならば、そのけっかはぶっしつてきにわたしにとってゆうりなものでしたろうか。これはかんがえるまでもないこととおもいます。おじはさくりゃくでむすめをわたしにおしつけようとしたのです. |
| 906 |
こういてきにりょうけのべんぎをはかるというよりも、ずっとげびたりがいしんにかられて、けっこんもんだいをわたしにむけたのです。わたしはじゅうまいをあいしていないだけで、きらってはいなかったのですが、あとからかんがえてみると、それをことわったのがわたしにはたしょうのゆかいになるとおもいます。しかしそれはほとんどもんだいとするにたりないささいなことがらです. |
| 907 |
ことにかんけいのないあなたにいわせたら、さぞばかげたいじにみえるでしょう。わたしとおじのあいだにほかのしんせきのものがはいりました。そのしんせきのものもわたしはまるでしんようしていませんでした。しんようしないばかりでなく、むしろてきししていました。わたしはおじがわたしをあざむいたとさとるとともに、たのものもかならずじぶんをあざむくにちがいないとおもいつめました. |
| 908 |
ちちがあれだけほめぬいていたおじですらこうだから、たのものはというのがわたしのろんりでした。それでもかれらはわたしのために、わたしのしょゆうにかかるいっさいのものをまとめてくれました。それはきんがくにみつもると、わたしのよきよりはるかにすくないものでした。わたしとしてはだまってそれをうけとるか、でなければおじをあいてとってこうさたにするか、ふたつのほうほうしかなかったのです. |
| 909 |
わたしはいきどおりました。またまよいました。そしょうにするとらくちゃくまでにながいじかんのかかることもおそれました。わたしはしゅぎょうちゅうのからだですから、がくせいとしてたいせつなじかんをうばわれるのはひじょうのくつうだともかんがえました。わたしはしあんのけっか、しにおるちゅうがくのきゅうゆうにたのんで、わたしのうけとったものを、すべてかねのかたちにかえようとしました. |
| 910 |
きゅうゆうはよしたほうがとくだといってちゅうこくしてくれましたが、わたしはききませんでした。わたしはながくこきょうをはなれるけっしんをそのときにおこしたのです。おじのかおをみまいとこころのうちでちかったのです。わたしはくにをたつまえに、またちちとははのはかへまいりました。わたしはそれぎりそのはかをみたことがありません. |
| 911 |
もうえいきゅうにみるきかいもこないでしょう。わたしのきゅうゆうはわたしのことばとおりにとりはからってくれました。もっともそれはわたしがとうきょうへついてからよほどたったあとのことです。いなかではたちなどをうろうとしたってよういにはうれませんし、いざとなるとあしもとをみてふみたおされるおそれがあるので、わたしのうけとったきんがくは、じかにくらべるとよほどすくないものでした. |
| 912 |
じはくすると、わたしのざいさんはじぶんがふところにしていえをでたじゃっかんのこうさいと、あとからこのゆうじんにおくってもらったかねだけなのです。おやのいさんとしてはもとよりひじょうにへっていたにそういありません。しかもわたしがせっきょくてきにへらしたのでないから、なおこころもちがわるかったのです。けれどもがくせいとしてせいかつするにはそれでじゅうぶんいじょうでした. |
| 913 |
じつをいうとわたしはそれからでるりしのはんぶんもつかえませんでした。このよゆうあるわたしのがくせいせいかつがわたしをおもいもよらないきょうぐうにおとしいれたのです。「かねにふじゆうのないわたしは、そうぞうしいげしゅくをでて、あたらしくいちこをかまえてみようかというきになったのです。わたしはそのくさのなかにたって、なにごころなくむこうのがけをながめました. |
| 914 |
いまでもわるいけしきではありませんが、そのころはまたずっとあのにしがわのおもむきがちがっていました。みわたすかぎりみどりがいちめんにふかくしげっているだけでも、しんけいがやすまります。わたしはふとここいらにてきとうなたくはないだろうかとおもいました。それですぐそうげんをよこぎって、ほそいとおりをきたのほうへすすんでいきました. |
| 915 |
いまだによいまちになりきれないで、がたぴししているあのへんのいえなみは、そのじぶんのことですからずいぶんきたならしいものでした。わたしはろつぎをぬけたり、よこちょうをまがったり、ぐるぐるあるきまわりました。しまいにだかしやのかみさんに、ここいらにこぢんまりしたかしやはないかとたずねてみました。かみさんは「そうですね」. |
| 916 |
といって、しょうじくびをかしげていましたが、「かしかはちょいと....」とまったくおもいあたらないふうでした。わたしはのぞみのないものとあきらめてかえりかけました。するとかみさんがまた、「しろうとげしゅくじゃいけませんか」ときくのです。わたしはちょっときがかわりました。それからそのだかしやのみせにこしをかけて、かみさんにくわしいことをおしえてもらいました. |
| 917 |
それはあるぐんじんのかぞく、というよりもむしろいぞく、のすんでいるいえでした。しゅじんはなにでもにっしんせんそうのときかなにかにしんだのだとかみさんがいいました。わたしはかみさんから、そのいえにはみぼうじんとひとりむすめとげじょよりそとにいないのだということをたしかめました。わたしはかんせいでしごくよかろうとこころのなかにおもいました. |
| 918 |
けれどもそんなかぞくのうちに、わたしのようなものが、とつぜんいったところで、そせいのしれないしょせいさんというめいしょうのもとに、すぐきょぜつされはしまいかというがかりねんもありました。わたしはよそうかともかんがえました。しかしわたしはしょせいとしてそんなにみぐるしいふくそうはしていませんでした。それからだいがくのせいぼうをかぶっていました. |
| 919 |
あなたはわらうでしょう、だいがくのせいぼうがどうしたんだといって。けれどもそのころのだいがくせいはいまとちがって、だいぶせけんにしんようのあったものです。わたしはそのばあいこのしかくなぼうしにいっしゅのじしんをみいだしたくらいです。そうしてだかしやのかみさんにおそわったとおり、しょうかいもなにもなしにそのぐんじんのいぞくのいえをたずねました. |
| 920 |
わたしはみぼうじんにあってらいいをつげました。みぼうじんはわたしのみもとやらがっこうやらせんもんやらについていろいろしつもんしました。そうしてこれならだいじょうぶだというところをどこかににぎったのでしょう、いつでもひっこしてきてさしつかえないというあいさつをそくざにあたえてくれました。みぼうじんはただしいひとでした、またはんぜんしたひとでした. |
| 921 |
わたしはぐんじんのさいくんというものはみんなこんなものかとおもってかんぷくしました。かんぷくもしたが、おどろきもしました。このきしょうでどこがさびしいのだろうとうたがいもしました。「わたしはさっそくそのいえへひきうつりました。わたしはさいしょきたときにみぼうじんとはなしをしたざしきをかりたのです。そこはたくちゅうでいちばんよいへやでした. |
| 922 |
ほんごうへんにこうとうげしゅくといったかぜのいえがぽつぽつたてられたじぶんのことですから、わたしはしょせいとしてせんりょうしうるもっともよいあいだのようすをこころえていました。わたしのあたらしくしゅじんとなったへやは、それらよりもずっとりっぱでした。うつったとうざは、がくせいとしてのわたしにはすぎるくらいにおもわれたのです. |
| 923 |
へやのひろさははちじょうでした。ゆかのよこにちがいだながあって、えんとはんたいのがわにはひとまのおしいれがついていました。まどはひとつもなかったのですが、そのかわりみなみむきのえんにあかるいひがよくさしました。わたしはうつったひに、そのへやのゆかにいけられたはなと、そのよこにたてかけられたごとをみました。どっちもわたしのきにはいりませんでした. |
| 924 |
わたしはしやしょやせんちゃを嗜なむちちのかたわらでそだったので、とうめいたしゅみをこどものうちからもっていました。そのためでもありましょうか、こういうなまめかしいそうしょくをいつのあいだにかけいべつするくせがついていたのです。わたしのちちがぞんじょうちゅうにあつめたどうぐるいは、れいのおじのためにめちゃめちゃにされてしまったのですが、それでもたしょうはのこっていました. |
| 925 |
わたしはくにをたつときそれをちゅうがくのきゅうゆうにあずかってもらいました。それからそのなかでおもしろそうなものをしごぷくはだかにしてこうりのそこへいれてきました。わたしはうつるやいなや、それをとりだしてゆかへかけてたのしむつもりでいたのです。ところがいまいったごとといけばなをみたので、きゅうにゆうきがなくなってしまいました. |
| 926 |
あとからきいてはじめてこのはながわたしにたいするごちそうにいけられたのだということをしったとき、わたしはこころのうちでくしょうしました。もっともごとはまえからそこにあったのですから、これはおきどころがないため、やむをえずそのままにたてかけてあったのでしょう。こんなはなしをすると、しぜんそのうらにわかいおんなのかげがあなたのあたまをかすめてとおるでしょう. |
| 927 |
うつったわたしにも、うつらないはじめからそういうこうきしんがすでにうごいていたのです。こうしたじゃきがよびてきにわたしのしぜんをそこなったためか、またはわたしがまだひとなれなかったためか、わたしははじめてそこのおじょうさんにあったとき、へどもどしたあいさつをしました。そのかわりおじょうさんのほうでもあかいかおをしました. |
| 928 |
わたしはそれまでみぼうじんのふうさいやたいどからおして、このおじょうさんのすべてをそうぞうしていたのです。しかしそのそうぞうはおじょうさんにとってあまりゆうりなものではありませんでした。ぐんじんのさいくんだからああなのだろう、そのさいくんのむすめだからこうだろうといったじゅんじょで、わたしのすいそくはだんだんのびていきました. |
| 929 |
ところがそのすいそくが、おじょうさんのかおをみたしゅんかんに、ことごとくうちけされました。そうしてわたしのあたまのなかへいままでそうぞうもおよばなかったいせいのにおいがあたらしくはいってきました。わたしはそれからゆかのしょうめんにいけてあるはながいやでなくなりました。おなじゆかにたてかけてあるごともじゃまにならなくなりました. |
| 930 |
そのはなはまたきそくただしくしおれるころになるといけかえられるのです。ごともたびたびかぎのてにおれまがったすじかいのへやにはこびさられるのです。わたしはじぶんのいまでつくえのうえにほおづえをつきながら、そのごとのおとをきいていました。わたしにはそのごとがじょうずなのかへたなのかよくわからないのです。まあいけばなのていどぐらいなものだろうとおもいました. |
| 931 |
はなならわたしにもよくわかるのですが、おじょうさんはけっしてうまいほうではなかったのです。それでもおくめんなくいろいろのはながわたしのゆかをかざってくれました。もっともかつほうはいつみてもおなじことでした。それからかびんもついぞかわったれいがありませんでした。しかしかたほうのおんがくになるとはなよりももっとへんでした. |
| 932 |
ぽつんぽつんいとをならすだけで、いっこうにくせいをきかせないのです。うたわないのではありませんが、まるでないしょはなしでもするようにちいさなこえしかださないのです。しかもしかられるとまったくでなくなるのです。わたしはよろこんでこのへたないけばなをながめては、まずそうなごとのおとにみみをかたむけました。「わたしのきぶんはくにをたつときすでにえんせいてきになっていました. |
| 933 |
たはたよりにならないものだというかんねんが、そのときほねのなかまでしみこんでしまったようにおもわれたのです。わたしはわたしのてきしするおじだのおばだの、そのほかのしんせきだのを、あたかもじんるいのだいひょうしゃのごとくかんがえだしました。きしゃへのってさえとなりのもののようすを、それとなくちゅういしはじめました. |
| 934 |
たまにむこうからはなしかけられでもすると、なおのことけいかいをくわえたくなりました。わたしのこころはちんうつでした。なまりをのんだようにおもくるしくなることがときどきありました。それでいてわたしのしんけいは、いまいったごとくにするどくとがってしまったのです。わたしがとうきょうへきてげしゅくをでようとしたのも、これがおおきなみなもともとになっているようにおもわれます. |
| 935 |
かねにふじゆうがなければこそ、いちこをかまえてみるきにもなったのだといえばそれまでですが、もとのとおりのわたしならば、たといかいちゅうによゆうができても、このんでそんなめんどうなまねはしなかったでしょう。わたしはこいしかわへひきうつってからも、とうぶんこのきんちょうしたきぶんにくつろぎをあたえることができませんでした. |
| 936 |
わたしはじぶんでじぶんがはずかしいほど、きょときょとしゅういをみまわしていました。ふしぎにもよくはたらくのはあたまとめだけで、くちのほうはそれとはんたいに、だんだんうごかなくなってきました。わたしはいえのもののようすをねこのようによくかんさつしながら、だまってつくえのまえにすわっていました。あなたはさだめてへんにおもうでしょう. |
| 937 |
そのわたしがそこのおじょうさんをどうしてよくよゆうをもっているか。そのおじょうさんのへたないけばなを、どうしてうれしがってながめるよゆうがあるか。おなじくへたなそのひとのごとをどうしてよろこんできくよゆうがあるか。そうしつもんされたとき、わたしはただりょうほうともじじつであったのだから、じじつとしてあなたにおしえてあげるというよりそとにしかたがないのです. |
| 938 |
かいしゃくはあたまのあるあなたにまかせるとして、わたしはただひとことつけたしておきましょう。わたしはかねにたいしてじんるいをうたがったけれども、あいにたいしては、まだじんるいをうたがわなかったのです。だからほかからみるとへんなものでも、またじぶんでかんがえてみて、むじゅんしたものでも、わたしのむねのなかではへいきでりょうりつしていたのです. |
| 939 |
わたしはみぼうじんのことをつねにおくさんといっていましたから、これからみぼうじんとよばずにおくさんといいます。おくさんはわたしをしずかなひと、おとなしいおとことひょうしました。それからべんきょうかだともほめてくれました。けれどもわたしのふあんなめつきや、きょときょとしたようすについては、なにごともくちへだしませんでした. |
| 940 |
きがつかなかったのか、えんりょしていたのか、どっちだかよくわかりませんが、なにしろそこにはまるでちゅういをはらっていないらしくみえました。それのみならず、あるばあいにわたしをおうようなかただといって、さもそんけいしたらしいくちのききかたをしたことがあります。そのときしょうじきなわたしはすこしかおをあからめて、むこうのことばをひていしました. |
| 941 |
するとおくさんは「あなたはじぶんできがつかないから、そうおっしゃるんです」とまじめにせつめいしてくれました。おくさんははじめわたしのようなしょせいをたくへおくつもりではなかったらしいのです。どこかのやくしょへつとめるひとかなにかにましんましじきをかすりょうけんで、きんじょのものにしゅうせんをたのんでいたらしいのです. |
| 942 |
ほうきゅうがゆたかでなくって、やむをえずしろうとやにげしゅくするくらいのひとだからというかんがえが、それでまえかたからおくさんのあたまのどこかにはいっていたのでしょう。おくさんはじぶんのむねにえがいたそのそうぞうのおきゃくとわたしとをひかくして、こっちのほうをおうようだといってほめるのです。「おくさんのこのたいどがしぜんわたしのきぶんにえいきょうしてきました. |
| 943 |
しばらくするうちに、わたしのめはもとほどきょろつかなくなりました。じぶんのこころがじぶんのすわっているところに、ちゃんとおちついているようなきにもなれました。ようするにおくさんはじめやのものが、ひがんだわたしのめやうたがいぶかいわたしのようすに、てんからとりあわなかったのが、わたしにおおきなこうふくをあたえたのでしょう. |
| 944 |
わたしのしんけいはあいてからてりかえしてくるはんしゃのないためにだんだんしずまりました。おくさんはこころえのあるひとでしたから、わざとわたしをそんなふうにとりあつかってくれたものともおもわれますし、またじぶんでこうげんするごとく、じっさいわたしをおうようだとかんさつしていたのかもしれません。わたしのこころがしずまるとともに、わたしはだんだんかぞくのものとせっきんしてきました. |
| 945 |
おくさんともおじょうさんともしょうだんをいうようになりました。ちゃをいれたからといってむこうのへやへよばれるひもありました。またわたしのほうでかしをかってきて、ふたりをこっちへまねいたりするばんもありました。わたしはきゅうにこうさいのくいきがふえたようにかんじました。それがためにたいせつなべんきょうのじかんをつぶされることもなんどとなくありました. |
| 946 |
ふしぎにも、そのぼうがいがわたしにはいっこうじゃまにならなかったのです。おくさんはもとよりひまじんでした。おじょうさんはがっこうへいくうえに、はなだのごとだのをならっているんだから、さだめていそがしかろうとおもうと、それがまたあんがいなもので、いくらでもじかんによゆうをもっているようにみえました。それでさんにんはかおさえみるといっしょにあつまって、せけんはなしをしながらあそんだのです. |
| 947 |
わたしをよびにくるのは、たいていおじょうさんでした。おじょうさんはえんがわをちょっかくにまがって、わたしのへやのまえにたつこともありますし、ちゃのまをぬけて、つぎのへやのふすまのかげからすがたをみせることもありました。おじょうさんは、そこへきてちょっととまります。それからきっとわたしのなをよんで、「ごべんきょう?」. |
| 948 |
とききます。わたしはたいていむずかしいしょもつをつくえのまえにあけて、それをみつめていましたから、かたわらでみたらさぞべんきょうかのようにみえたのでしょう。しかしじっさいをいうと、それほどねっしんにしょもつをけんきゅうしてはいなかったのです。ぺーじのうえにめはつけていながら、おじょうさんのよびにくるのをまっているくらいなものでした. |
| 949 |
まっていてこないと、しかたがないからわたしのほうでたちあがるのです。そうしてむこうのへやのまえへいって、こっちから「ごべんきょうですか」ときくのです。おじょうさんのへやはちゃのまとつづいたろくじょうでした。おくさんはそのちゃのまにいることもあるし、またおじょうさんのへやにいることもありました。わたしがそとからこえをかけると、「おはいんなさい」. |
| 950 |
とこたえるのはきっとおくさんでした。おじょうさんはそこにいてもめったにへんじをしたことがありませんでした。ときたまおじょうさんひとりで、ようがあってわたしのへやへはいったついでに、そこにすわってはなしこむようなばあいもそのうちにでてきました。そういうときには、わたしのこころがみょうにふあんにおかされてくるのです. |
| 951 |
よくわかるようにふるまってみせるこんせきさえあきらかでした。そのなかにしったひとをひとりももたないわたしも、こういうにぎやかなけしきのなかに裹まれて、すなのうえにねそべってみたり、ひざがしらをなみにうたしてそこいらをはねまわるのはゆかいであった。わたしがそのがかりちゃやでせんせいをみたときは、せんせいがちょうどきものをぬいでこれからうみへはいろうとするところであった. |
| 952 |
わたしのしりをおろしたところはすこしこだかいおかのうえで、そのすぐそばがホテルのうらぐちになっていたので、わたしのじっとしているあいだに、おおいたおおくのおとこがしおをあびにでてきたが、いずれもどうとうでとまたはだしていなかった。そういうありさまをもくげきしたばかりのわたしのめには、さるまたひとつですましてみんなのまえにたっているこのせいようじんがいかにもめずらしくみえた. |
| 953 |
かれはやがてじぶんのそばをかえりみて、そこにこごんでいるにほんじんに、ひとことふたことなにかいった。そのにほんじんはすなのうえにおちたてぬぐいをひろいあげているところであったが、それをとりあげるやいなや、すぐあたまをつつんで、うみのほうへあるきだした。やどといってもふつうのりょかんとちがって、ひろいてらのけいだいにあるべっそうのようなたてものであった. |
| 954 |
せんせいはかれのふうがわりのところや、もうかまくらにいないことや、いろいろのはなしをしたすえ、にほんじんにさえあまりこうさいをもたないのに、そういうがいこくじんとちかづきになったのはふしぎだといったりした。そのじぶんのわたしはせんせいとよほどこんいになったつもりでいたので、せんせいからもうすこしこかなことばをよきしてかかったのである. |
| 955 |
にんげんをあいしうるひと、あいせずにはいられないひと、それでいてじぶんのふところにはいろうとするものを、てをひろげてだきしめることのできないひと、――これがせんせいであった。けれどもとしのわかいわたしのいままでけいかしてきたきょうぐうからいって、わたしはほとんどこうさいらしいこうさいをおんなにむすんだことがなかった. |
| 956 |
かていのいちいんとしてくらしたことのないわたしのことだから、ふかいしょうそくはむろんわからなかったけれども、ざしきでわたしとたいざしているとき、せんせいはなにかのついでに、げじょをよばないで、おくさんをよぶことがあった。だからせんせいのがくもんやしそうについては、せんせいとみつせつのかんけいをもっているわたしよりそとにけいいをはらうもののあるべきはずがなかった. |
| 957 |
だからおくさんがもしせんせいのしょせいじだいをしっているとすれば、きょうりのかんけいからでないことはあきらかであった。しかしうすあかいかおをしたおくさんはそれよりいじょうのはなしをしたくないようだったので、わたしのほうでもふかくはきかずにおいた。しかしこれからさきのあなたにおこるべきへんかをよそうしてみると、なおくるしくなります」. |
| 958 |
「かつてはそのひとのひざのまえにひざまずいたというきおくが、こんどはそのひとのあたまのうえにあしをのせさせようとするのです。わたしはせんせいのこのじんせいかんのきてんに、あるきょうれつなれんあいじけんをかていしてみた。せんせいのせいかつにちかづきつつありながら、ちかづくことのできないわたしは、せんせいのあたまのなかにあるいのちのだんぺんとして、そのはかをわたしのあたまのなかにもうけいれた. |
| 959 |
わたしのいったのはまだひのつくかつかないくれがたであったが、きちょうめんなせんせいはもうたくにいなかった。けれどもそれはなつかしいはるのくもをながめるようなこころもちで、ただばくぜんとゆめみていたにすぎなかった。うたがいのかたまりをそのひそのひのじょうあいでつつんで、そっとむねのおくにしまっておいたおくさんは、そのばんそのつつみのなかをわたしのまえであけてみせた. |
| 960 |
そのちょうしはいそがしいところをひまをつぶさせてきのどくだというよりも、せっかくきたのにどろぼうがはいらなくってきのどくだというじょうだんのようにきこえた。こどものないおくさんは、そういうせわをやくのがかえってたいくつしのぎになって、けっくしんたいのくすりだぐらいのことをいっていた。わたしはがっきのおわりまでまっていてもさしつかえあるまいとおもっていちにちふつかそのままにしておいた. |
| 961 |
するとそのいちにちふつかのあいだに、ちちのねているようすだの、ははのしんぱいしているかおだのがじじがんにうかんだ。それをははがはいのなかからみつけだして、ひばしではさみあげるというこっけいもあった。「ごだとばんがたかすぎるうえに、あしがついているから、こたつのうえではうてないが、そこへくるとしょうごばんはいいね、こうしてらくにさせるから. |
| 962 |
はじめのうちはめずらしいので、このいんきょじみたごらくがわたしにもそうとうのきょうみをあたえたが、すこしじじつがたつにつれて、わかいわたしのきりょくはそのくらいなしげきでまんぞくできなくなった。りょうほうともせけんからみれば、いきているかしんでいるかわからないほどおとなしいおとこであった。けれどももともとみについているものだから、だすまいとおもっても、いつかそれがちちやははのめにとまった. |
| 963 |
わたしのしったあるしかんは、とうとうそれでやられたが、まったくうそのようなしにかたをしたんですよ。わたしはいままでいくどかてをつけようとしてはてをひっこめたそつぎょうろんぶんを、いよいよほんしきにかきはじめなければならないとおもいだした。そのとしのろくがつにそつぎょうするはずのわたしは、ぜひともこのろんぶんをせいきどおりよんがついっぱいにかきあげてしまわなければならなかった. |
| 964 |
にさん、よんとゆびをおってあまるじじつをかんじょうしてみたとき、わたしはすこしじぶんのどきょうをうたがった。たのものはよほどまえからざいりょうをあつめたり、ノートをためたりして、よそめにもいそがしそうにみえるのに、わたしだけはまだなんにもてをつけずにいた。わたしはついによがつのげじゅんがきて、やっとよていとおりのものをかきあげるまで、せんせいのしきいをまたがなかった. |
| 965 |
わたしのじゆうになったのは、やえざくらのちったえだにいつしかあおいはがかすむようにのびはじめるしょかのきせつであった。わたしはかごをぬけだしたことりのこころをもって、ひろいてんちをひとめにみわたしながら、じゆうにはばたきをした。このときせんせいはおきあがって、えんだいのうえにあぐらをかいていたが、こういいおわると、たけのつえのさきでじめんのうえへえんのようなものをえがきはじめた. |
| 966 |
せんせいのだんわは、このいぬとこどものために、けつまつまでしんこうすることができなくなったので、わたしはついにそのようりょうをえないでしまった。わたしはせんせいのこうふんしたのをめったにみたことがないんですが、きょうはめずらしいところをはいけんしたようなきがします」わたしはいまわたしのまえにすわっているのが、ひとりのざいにんであって、ふだんからそんけいしているせんせいでないようなきがした. |
| 967 |
これはもしそつぎょうしたらそのひのばんさんはよそでくわずに、せんせいのしょくたくですますというまえからのやくそくであった。せいしんてきにかんしょうといういみは、ぞくにいうしんけいしつといういみか、またはりんりてきにけっぺきだといういみか、わたしにはわからなかった。けれどもせんせいのいいかたもけっしてわたしのうれしさをそそるうき々したちょうしをおびていなかった. |
| 968 |
わたしはせんせいといっしょに、こうがいのうえきやのひろいにわのおくではなした、あのつつじのさいているごがつのはじめをおもいだした。あのときかえりみちに、せんせいがこうふんしたごきで、わたしにものがたったつよいことばを、ふたたびみみのそこでくりかえした。「でもどのくらいあったらせんせいのようにしていられるか、たくへかえってひとつちちにだんぱんするときのさんこうにしますからきかしてください」. |
| 969 |
「どうせたすからないびょうきだそうですから、いくらしんぱいしたってしかたがありません」わたしがぐうぜんそのきのまえにたって、ふたたびこのたくのげんかんをまたぐべきつぎのあきにおもいをはせたとき、いままでこうしのあいだからしゃしていたげんかんのでんとうがふっときえた。てがみでちゅうもんをうけたときはなにでもないようにかんがえていたのが、いざとなるとたいへんおっくうにかんぜられた. |
| 970 |
わたしはでんしゃのなかであせをふきながら、たのじかんとてすうにきのどくというかんねんをまるでもっていないいなかものをにくらしくおもった。わたしにはくちでいわってくれながら、はらのそこでけなしているせんせいのほうが、それほどにもないものをめずらしそうにうれしがるちちよりも、かえってこうしょうにみえた。ちちはそのよるまたきをかえて、きゃくをよぶならなんにちにするかとわたしのつごうをきいた. |
| 971 |
つごうのよいもわるいもなしにただぶらぶらふるいいえのなかにねおきしているわたしに、こんなといをかけるのは、ちちのほうがおれてでたのとおなじことであった。ことににいさんとわたしとはせんもんもちがうし、じだいもちがうんだから、ふたりをおなじようにかんがえられちゃすこしこまります」そのせんせいはわたしにくにへかえったらちちのいきているうちにはやくざいさんをわけてもらえとすすめるひとであった. |
| 972 |
じぶんがしんだあと、このこどくなははを、たったひとりがらんどうのわがやにとりのこすのもまたはなはだしいふあんであった。いまのわかいものは、かねをつかうみちだけこころえていて、かねをとるほうはまったくかんがえていないようだね」せんせいとちちとは、まるではんたいのいんしょうをわたしにあたえるてんにおいて、ひかくのうえにも、れんそうのうえにも、いっしょにわたしのあたまにのぼりやすかった. |
| 973 |
しかしははがなぜこんなもんだいをこのざわざわしたさいにもちだしたのかりかいできなかった。わたしがちちのびょうきをよそに、しずかにすわったりしょけんしたりするよゆうのあるごとくに、ははもめのまえのびょうにんをわすれて、そとのことをかんがえるだけ、むねにくうちがあるのかしらとうたがった。あにはちちのりかいりょくがびょうきのために、へいぜいよりはよっぽどにぶっているようにかんさつしたらしい. |
| 974 |
ひつうなかぜがいなかのすみまでふいてきて、ねむたそうなきやくさをふるわせているさいちゅうに、とつぜんわたしはいっつうのでんぽうをせんせいからうけとった。「とにかくわたしのてがみはまだむこうへついていないはずだから、このでんぽうはそのまえにだしたものにちがいないですね」あにのあたまにもわたしのむねにも、ちちはどうせたすからないというかんがえがあった. |
| 975 |
わたしはしにひんしているちちのてまえ、そのちちにいくぶんでもあんしんさせてやりたいといのりつつあるははのてまえ、はたらかなければにんげんでないようにいうあにのてまえ、そのたいもうとのおっとだのおじだのおばだののてまえ、わたしのちっともとんちゃくしていないことに、しんけいをなやまさなければならなかった。しかしじはくすると、わたしはあなたのいらいにたいして、まるでどりょくをしなかったのです. |
| 976 |
ごしょうちのとおり、こうさいくいきのせまいというよりも、よのなかにたったひとりでくらしているといったほうがてきせつなくらいのわたしには、そういうどりょくをあえてするよちがまったくないのです。くらいものをじっとみつめて、そのなかからあなたのさんこうになるものをおつかみなさい。わたしのこどうがとまったとき、あなたのむねにあたらしいいのちがやどることができるならまんぞくです. |
| 977 |
はははそれをさとっていたか、またはそばのもののいうごとく、じっさいちちはかいふくきにむいつつあるものとしんじていたか、それはわかりません。けれどもじぶんはきっとこのびょうきでいのちをとられるとまでしんじていたかどうか、そこになるとうたがうよちはまだいくらでもあるだろうとおもわれるのです。いえはきゅうかになってかえりさえすれば、それでいいものとわたしはかんがえていました. |
| 978 |
ちちのあとをそうぞくする、それにはよめがひつようだからもらう、りょうほうともりくつとしてはひととおりきこえます。こうをかぎうるのは、こうをたきだしたしゅんかんにかぎるごとく、さけをあじわうのは、さけをのみはじめたせつなにあるごとく、こいのしょうどうにもこういうきわどいいちてんが、じかんのうえにそんざいしているとしかおもわれないのです. |
| 979 |
いちどへいきでそこをとおりぬけたら、なれればなれるほど、したしみがますだけで、こいのしんけいはだんだんまひしてくるだけです。ちゅうがっこうをでて、これからとうきょうのこうとうしょうぎょうへはいるつもりだといって、てがみでそのようすをききあわせたりしたおじのおとこのこまでみょうなのです。おおくのぜんにんがいざというばあいにとつぜんあくにんになるのだからゆだんしてはいけないといったことを. |
| 980 |
ふつうのものがかねをみてきゅうにあくにんになるれいとして、よのなかにしんようするにたるものがそんざいしえないれいとして、ぞうおとともにわたしはこのおじをかんがえていたのです。わたしのこたえは、しそうかいのおくへつきすすんでいこうとするあなたにとってものたりなかったかもしれません、ちんぷだったかもしれません。あにのあたまにもわたしのむねにも、ちちはどうせたすからないというかんがえがあった. |
| 981 |
わたしはしにひんしているちちのてまえ、そのちちにいくぶんでもあんしんさせてやりたいといのりつつあるははのてまえ、はたらかなければにんげんでないようにいうあにのてまえ、そのたいもうとのおっとだのおじだのおばだののてまえ、わたしのちっともとんちゃくしていないことに、しんけいをなやまさなければならなかった。しかしじはくすると、わたしはあなたのいらいにたいして、まるでどりょくをしなかったのです. |
| 982 |
ごしょうちのとおり、こうさいくいきのせまいというよりも、よのなかにたったひとりでくらしているといったほうがてきせつなくらいのわたしには、そういうどりょくをあえてするよちがまったくないのです。くらいものをじっとみつめて、そのなかからあなたのさんこうになるものをおつかみなさい。わたしのこどうがとまったとき、あなたのむねにあたらしいいのちがやどることができるならまんぞくです. |
| 983 |
はははそれをさとっていたか、またはそばのもののいうごとく、じっさいちちはかいふくきにむいつつあるものとしんじていたか、それはわかりません。けれどもじぶんはきっとこのびょうきでいのちをとられるとまでしんじていたかどうか、そこになるとうたがうよちはまだいくらでもあるだろうとおもわれるのです。いえはきゅうかになってかえりさえすれば、それでいいものとわたしはかんがえていました. |
| 984 |
ちちのあとをそうぞくする、それにはよめがひつようだからもらう、りょうほうともりくつとしてはひととおりきこえます。こうをかぎうるのは、こうをたきだしたしゅんかんにかぎるごとく、さけをあじわうのは、さけをのみはじめたせつなにあるごとく、こいのしょうどうにもこういうきわどいいちてんが、じかんのうえにそんざいしているとしかおもわれないのです. |
| 985 |
いちどへいきでそこをとおりぬけたら、なれればなれるほど、したしみがますだけで、こいのしんけいはだんだんまひしてくるだけです。ちゅうがっこうをでて、これからとうきょうのこうとうしょうぎょうへはいるつもりだといって、てがみでそのようすをききあわせたりしたおじのおとこのこまでみょうなのです。おおくのぜんにんがいざというばあいにとつぜんあくにんになるのだからゆだんしてはいけないといったことを。 |
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